GM.(経路)
[うちなーぐち]らくにすだちゅしや くるしゃしゅるむとぅい
[やまとぐち]楽に育つのは苦しみのはじめ
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思えばこの日の旅程が,次回の南部巡りの初手だったのかもしれません。 |
支出1500/収入1450
/負債 50
[前日累計]
/負債 370
§
→三月二十三日(六)
1156たから家
骨汁650
1426島ちゃん
マーボー豆腐(並,辛)500
1900ジョーギ チーズクリームロール250×1.5=375
[前日日計]
支出1500/収入1525
負債 25/
[前日累計]
/負債 345
§
→三月二十四日(天)
目録
9時までスタバでエスプレッソ
チェックアウトした足で,車道向かいの琉球政府立法院跡をまず見学(前頁参照)。その後,バイクを昨日開発した道から国際通りへ出したのが朝8時を回ってすぐでした。
なので,辻のMr.KINJOには今回初めて泊まるんだけど0817には着いてます。でも……ドアが開いてない!掲示されてる電話番組に連絡すると,9時以降じゃないとスタッフいないよ,荷物も預かれないよ,日本人っぽくない声でご案内。
那覇ってコインロッカーが見当たらんのだよなあ。9時を待つことにする。
小雨である。
昼には上がるらしい。これはレイト・スタートが吉と見た。
今回はお世話にならない沖映通りへ,久しぶりに行ってみよう。
国際通りのT字路のスタバでエスプレッソとする。
朝の国際通りは好い。難なく通れるし穏やかな風情がある。つまり,ここに充満してる観光客はこの時間にはまだ大抵おねむなんでしよう。
0915,荷物を宿に預けてやっと出発,という頃には雨はひとまず上がってました。
道脇に此方を見てる犬一匹
▲0945「武富の三叉路」と書いてる場所辺り。……実はどこだか分からない。
昨日の国帝君の北へ折れた国場交差点を,0927,今日は南へ曲がる。
0938,津嘉山南交差点を右折。八重瀬町です。南部の北側,豊見城辺りのような集落の少ない地帯へ入る。──南部とも中部とも少し違う,この東西ベルトって何なんだろう?
バイクには恐ろしい高架の道なれど,交通量は少なく車線も広い。
0945,武富の三叉路。セブンイレブン──ってメモってるけどこれが後からどうしても見つからない。
そろそろか。0949,左折して坂を登り,南へ向かう。
広がる土地の中,犬が一匹,吠えもせずにずっとこっちを見てる。
県道82。小城と地名表記。三叉路を左折。──これもどこがどこやら,今となっては……。
高台にぽつと立ち居るシン・ゴジラ
南向きの山裾にたどり着き,階段をひとしきり登った記憶がある。
高台に出た。
見晴らしはなかなかです。この辺りならここに城を築くのは有効だったでしょう。
東方向。遠方の高みは八重瀬岳でしょうか?
〔日本名〕沖縄県島尻郡八重瀬町字小城10
〔沖縄名〕こぐすくのにーせーいし
〔米軍名〕-
「ニーセー」は保険会社ではなく,沖縄語で「青年」を意味する。
つまりヤング石である。0954,高台の入口にぽつねんと彼がいた。
あまり表情豊かではなく,鼻の穴が目立つ。シン・ゴジラのモデルではないかという説もある,というのは思い付きで書いてみただけですごめんなさい。
そろそろ真面目に行きますけど,案内板に曰く──
「獅子の形をしていて名前のごとくニーセー(青年)を栄えさせるための守り神であるが,いつ誰が建てたか定かではない。
古老の話では,このニーセー石を建てて拝むようになってから,小城の青年達は栄えるようになったとのこと。火よけや魔よけの守り神がほとんどの沖縄シーサーの中にあって,青年繁栄の守り神であるこのニーセー石は特異な存在である。」
青年が栄えるとはどういうことで,それとヤング石の因果関係をどう確認したのか,とか呟こうものなら即,耳チリ坊主を送り込まれるという噂はないけど,その程度に地元の信仰は深そうです。
巡る道 南山だらけの藪の徑
シーサーが守護してるということは,この後ろの藪が神域でしょう。
他と同じく小山のような場所です。
シーサー後方に石2柱。左に「南山女神」,右に「桑木福嶽」と読める文字。
左手側面に「南山世按司」とある祭壇がある。
回り込んでみる。自然林かと思わせる風情で,他と同じく一応道がある。
真裏にあたる場所に「御先南山世」とある祭壇。
そこから先には回り込めない。つまりなぜか一周はできなくなってます。
御嶽最奥 ただ苔がむしている
おや?
右手にも南山世按司の祠?さらに最高所に少し上がると,そこにも祠。こちらには記名がなく,ただ苔がむしている。
その向こうには亀甲墓。──神域に付随してるという風ではなく,むしろこの墓こそ神体,と思える配置です。
ここは真に聖域である。道行きがそう言っている。
一礼して辞す。
「南山」という,ここの拝所に頻出するワードは,それにしても何なんだろう?
昨日昼の下森の拝所の対象は今帰仁とされていた。沖縄三国時代の南北王朝(南山・北山)がなぜこれほど長期かつ広範に,信仰対象になっているんでしょう?
▲1015。退去時に木陰から見えた下の集落。沖縄ではこれほど聖俗が近い。
■小レポ:未だに影を落とす沖縄三山の謎
沖縄に三国鼎立時代があり,15世紀初めに中山の尚王朝により南山・北山は滅ぼされ,統一政権ができました。
それは分かる。でも分からないのは──
①14世紀初になぜ突然三国が興ったのか?
どうも朝貢貿易の開始と時を同じくしてる。民間貿易が主体だった元に対し,官営貿易を主体とした明(1368年-1644年)の安定化と同時に,利権と朝貢主体としての「国」看板が必要になったということでしょう。
ただ,それにしても時期が揃い過ぎてる。各国王の出自も按司からばかりで,いずれも英祖の子孫を名乗り,と似かより過ぎてる。
朝貢主体の基準のようなものが,統一的に示されて,急いで各勢力が同じ体裁を整えたように見える。そんなものがあったのだろうか?
②中山が勝者となった理由
元々南山配下の佐敷按司・尚巴志が中山王国を乗っ取り,さらに南山・北山を滅ぼした,というのが通説です。
地域的にその一部だった南山ではなく,中山王国を乗っ取ったのは,それが最も弱小勢力だったからでしょうか?
だとしても,朝貢貿易による経済力が争奪の対象だったとすれば,本島の南入口である南山,沖縄諸島北域を沖永良部まで勢力下に置いた北山とは,地盤の規模が段違いに小さい。特に北山は信仰から考えると沖縄中部,それも中城,西原や那覇のラインまで勢力を拡張していた形跡がある。
なぜ中山が,間に挟まれた不利な状況下で統一政権たりえたのでしょうか?
朝貢貿易の本格化に従い,大型船の入港できる那覇港のパフォーマンスが,それだけ短期間に飛躍的に上昇した,というのが背景だと考えるなら,それほど画期的なインフラ整備がこの時期になされたのでしょうか?
③南山・北山信仰がなぜこれほど強く残るのか?
南北山王国の歴史は,せいぜい百年余です。中山統一政権の時代の方がずっと長いにも関わらず,小城でも見たように,現代に至るまで豊見城や今帰仁への拝みが継続されているのは,非常に不自然です。
※ 八重瀬町の「沖縄最古のシーサー」富盛のシーサー→画像
滅ぼした王国への憧憬又は残党勢力の跋扈,というようなものなら当然征服側の中山は抑圧するはずなのに,東廻り,北廻りという形で王国の公式行事として逆に信仰をオーソライズしてる。
内地で,例えば旧出雲勢力の神々のように,「祭ることによって呪う,封じる」という感覚かもしれないけれど,それにしても度が過ぎてる。
こんな風に三山時代は,現代の沖縄にもくっきりと影を落とすエポックです。なのに,それが何故なのかが定かでない。
淡く考えるのは,前掲の与那原の聞得大君のところで触れたように,三山時代=王権より祭権が強かった最後の時代と捉える感覚があり,王権上位となった15世紀以降も,祭権上位だったそれ以前の時代に対する憧憬──「神代は善かった」という感性が広く残存し続けた,というデッサンですけど……本当にそんな感性が数百年も維持され続けることがありうるのか,どうも疑念が残るのです。
※ wiki/南山王国
「首都
前期: 島添大里(現南城市)
後期: 島尻大里(現糸満市)
国王
1337年? – 1388年? 承察度
1388年 – 1402年? 汪英紫
1403年? – 1413年 汪応祖
1413年? – 1414年? 達勃期
1415年? – 1429年 他魯毎
変遷
建国 14世紀初め
滅亡 1429年」
「一説には1380年に王の承察度が中国(明)に朝貢したとあるが、『琉球国志略 巻四』には山南王として汪応祖が1385年(洪武18年)『琉球国山南王』の賜印を受けたとある。ともかく朝貢を通算22回行っている。
1429年、他魯毎の治世の時、中山王の尚巴志により滅ぼされた」
▲南山王朝のあったとされる豊見城方向へのウグァン(糸満ハーレー祭)
※ wiki/南山王国
「首都
前期: 島添大里(現南城市)
後期: 島尻大里(現糸満市)
国王
1337年? – 1388年? 承察度
1388年 – 1402年? 汪英紫
1403年? – 1413年 汪応祖
1413年? – 1414年? 達勃期
1415年? – 1429年 他魯毎
変遷
建国 14世紀初め
滅亡 1429年」
「一説には1380年に王の承察度が中国(明)に朝貢したとあるが、『琉球国志略 巻四』には山南王として汪応祖が1385年(洪武18年)『琉球国山南王』の賜印を受けたとある。ともかく朝貢を通算22回行っている。」
※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道 /南山王国の興亡
※ wiki/富盛のシーサー
※ BESTTIMES/沖縄県糸満市「糸満ハーレー」漁民の暮らしと信仰に基づく競漕
【関連:北山関係資料】
※ wiki/北山王国
「首都 今帰仁
国王
1322年? – 1395年? 帕尼芝
1396年? – 1400年 珉
1401年? – 1416年 攀安知
変遷
建国 14世紀初め
滅亡 1416年」
「現在鹿児島県に属する与論島と沖永良部島も北山王国の版図に含まれていた。」
「一説には1394年に王の珉が中国(明)に朝貢したとあるが、『琉球国志略 巻四』には1385年(洪武18年)に山北王として『琉球国山北王』の賜印を受けたとある。」
東御廻りと並んで、今帰仁城内外の拝所、旧跡を巡礼する行事。〈今帰仁御廻り〉ともいう。東御廻りは開闢神アマミキョにちなむ伝説、遺跡などを巡るが、アマミキョの一族が北山を開いたとされ、今帰仁城も信仰の対象となったものである。
※ 琉球新報/『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社発行/今帰仁上り (なきじんのぼり)
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