FASE62-2@deflag.utina3103#当銘のガジュマル,瀬長のアカサチ森\楽に育しは苦しやしゆる基ひ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

ほどけないほどもつれた根っこ

▲小城から当銘辺りの航空写真

城から南行し,当銘に向かいました。
 迂闊にもXとして見逃してました。この2つの集落の間に小山があり,テミグラグスクと呼ばれてる。デミグラスソースに似てる。
 この城は全くの謎らしい。
 一帯を治めた当銘蔵按司の居城とも伝わるけれど,デミグラスが好きだったどうかも不明なら,その後の顛末も諸説ある模様。
 当銘集落はこのグスクの山の南麓に当たる。
※ グスクみち/テミグラグスク

銘のガジュマル
〔日本名〕沖縄県島尻郡八重瀬町字当銘42
〔沖縄名〕とうめのがじゅまる
〔米軍名〕-

▲1025当銘のガジュマル

うして1021,小城入口バス停に着く。その脇に,目指す当銘のガジュマルを見つけました。
 石灰岩が露出した公園のような場所に大樹がそびえる。
 樹齢300歳とある。

▲1026ほどけないほどもつれた根っこ

絞め殺しの樹に妖怪の棲む

大さに圧倒されたか,上下二枚を撮ってます。
 身近なつもりでいたガジュマルについて一度掘っておく。──漢名は細葉榕,正榕,榕樹……というか「榕」rong2一字でそれの意。
 語源は「絡まる」からとも「風を守る」からとも。
 クワ科イチジク属という分類に似つかないその容貌は,垂れ下がる気根ゆえ。ガジュマルの幹そのものはごく細いけれど,この気根が垂れ下がりながら絡まることで,太い幹状になる。
 宿主植物に取り付いて絡まって最終的に殺してしまう「絞め殺しの樹」の一種。絞め殺しをやった場合は,宿主が朽ちた後が空洞化する。
 その辺りのえげつなさゆえか,沖縄では神聖視されてる。この樹の上にはキジムナーが住むとされる。→巻末参照
※ wiki/ガジュマル

▲1027上へ続く……ように見えて実は下へ垂れてるガジュマルの気根

城入口バス停から正面に,方形の拝所。その前,左右にそれぞれ祭壇と祠。
 いずれも文字があることは分かるけれど判読しにくい。

▲1029右手の岩の配列

くよく見ると……その左右のにも朽ちた岩が置いてある。これも古い古い祠でしょう。
「当銘」(とうめ)というこの独特の用字は,姓名にも使われてるようです。現在日本全国に19百人,うち16百人が沖縄在住。地名としても由緒あるもののはずですけれど──全く分かりません。
※ 日本姓名語源辞典/当銘

本日の骨汁定食は12時から

▲「夢工房」手作りみそ&シフォンケーキ??……GM.にもあるから結構有名らしい。

かん!11時の開店まで30分を切ってしまった!
 1040,賀数南交差点のファミマでトイレ&タバコ,そして何より地図で行程を詰め込む。
 よし,ここを右折北行じゃ。
 賀数北で左折。
 阿波根東を右折?いやここは直進して……1055,阿波根から右折北行して距離を稼ぐ。
 具志から左折してぐにゅぐにゅっと路地を掻き分けて……1109,着いたぞ!

▲1108貼り紙

日,骨汁定食は12:00からです」???
 そば処たから屋は開いてました。でもこの貼り紙……パン屋の焼き上がり時間じゃないんだから,メニュー限定で遅れるって,何が起こればそうなるのよ?
 いや,何がどう起こっても,こうなれば正午を待とう。
 ということで思ってもみない時間が出来てしまった──ならば!

長のアカサチ森
〔日本名〕沖縄県豊見城市字瀬長
〔沖縄名〕せながのあかさちむい
〔米軍名〕58高地(リトルシュガーローフ)南面(アカサチ壕:歩兵第22連隊第一大隊構築)

▲1117金網の中の拝所

波平も瀬長島では神扱い

嶺駅(ゆいレール)から南へ2km。
 西へは瀬長島海中道路,東へは小禄バイパス。これに南北への豊見城道路が交わる大規模な十字路。
 その南東角に当たります。
 少し高みの整地された方形の区画は,金網で乱暴に囲まれてます。南西西にこんもりと小山,これだけが唯一,自然状態です。
 1116瀬長のアカサチ森到着。

▲祠と金網の下はレンタカー屋

レイな宮です。こういう場所なんで,一見,中部域の御嶽に共通したおどろおどろしさは皆無です。
 正面社は「天御人之御神」。右に個別の祭壇が右端から「前ヌ御井」「按司御井」「知念御井(波平御井)」「御月御井」と並ぶ。

▲右手に並ぶ4柱の祭壇

する左には御殿のような祠。左端から「ミーサヤー 三様御井」「按司御墓」「御骨神」。これらは右手の4柱と完全に平行に並ばず,少し南を向いてる。後ろの森だろう。
 本殿の「天御人」は瀬長島に降臨したアマミクの子のことだとすれば,本尊と右手4柱が,元々の左手3柱の神域を間借りしてる形です。
 内地で道路工事などの際に道端の地蔵群を一ヶ所に集めるのと似た感じです。でもここの場合は道路工事ではありませんでした。→巻末参照

▲奥の祭壇

焼香跡がなければ駐車場

段,本殿裏手にも名のない小さな祠。焼香跡。森は完全に崖と柵で覆われ登れない。
 場は新しい。本殿の性格から考えると,これらは瀬長島を拝むものでしょう。秘神めいた場と感じました。

▲1126左手奥の小山を拝むような焼香跡

手90度にも小さな祠。これにも名はない。
 左手奥にも焼香壇のみの場所。どうもこのフェンスの向こうが壕だった場所らしい。
 この焼香跡がなければ駐車場のような,コンクリートの打ち付けのみの場所です。サミットの時に資材置場にしていたというのはこの辺りなのかもしれません。

▲本殿。「銭紙・線香は持ち帰りまよう」って……迷わずに持ち帰らせろ。

汁タイムまで30分を切った。バイクのエンジンをオンにし,東行。
 北の嶺がなだらかに伸び,北へ入る路地は見つからない。やはり車道まで出るしかなさそう。
 しかしこの嶺のライン,南面は亀甲墓だらけです。この嶺そのものが神域視されてる気配です。ただ御嶽らしきものは見当たらない。不思議に朧な聖域です。

▲キジムナーby出口富美子著・曽我舞画「キジムナーの約束」

■小レポ:キジムナーを掘り下げてみる

「耳チリ坊主」とともに今やポップな沖縄妖怪と言えば「キジムナー」でして,琉神マブヤーの相談役としても活躍中ですけど,一度これもよく考えてみましょう。

①ガジュマルの樹に棲む聖霊

 ガジュマルの語源がよく分からないのは本文で触れました。ここでは音に注目してみます。
ガジュマル
 Ga Ju Maru
 ≒ ≒ ≒
 Ki Gi Muna
キジムナー
 両者にはアナグラムのような相関が窺えます。ひょっとしたらわざとズラしてる,例えばガジュマルの隠語だったキジムナーという語が,独立して聖霊を指し,次第に擬人化されていったのかもしれません。
 印象的にも,うちなんちゅにとって「キジムナーがガジュマルに棲む」という主体-客体の関係はあまり意味がなく,彼らがガジュマルに感じる「聖性」,露骨に言えば「得体の知れなさ」そのものがキジムナーなのではないかと捉えてます。

②キジムナーの象徴論的な正体

 キジムナーと類似のイメージの「妖怪」が,奄美地方の「ケンムン」,八重山地方の「マジムン」(マジムヌ)だというのが通説です。
 群島毎の用字の変化とは言え,同じイメージが多岐化するときでも,そのイメージの本質は残ると考えるなら,3語に共通する「ムン」がその本質を表現してる。
「ムン」は──なかなか的確に書かれたものがなかったけれど──日本語の「妖怪」や「神」よりもっと「X」に近い概念らしい。記号論的に言えば,言語に対応しないコトの総称のような,つまり言語と非対称のもの,理解の領域を根元的に逸しているもの全て,という意味みたい。
 神とも悪魔とも言語化されない,それ以前のコト全部。
 そういう言葉があること自体,うちなんちゅがないちゃーはおろか他民族よりずっと言語領域から離脱しやすい心性を有する証です。
 沖縄本島域の呼称「キジムナー」は先述のようにガジュマルの類似音と見たわけですけど,八重山の「マジ」は八重山方言独特の──ワシの捉えでは「雑種」という感じの──語感があるらしい。言語のネットで捕まえにくい,という意味では「ムン」に近い。奄美の「ケン」は,全く分かりませんでした。

 沖繩には、沢山の妖怪と神々が存在している。この妖怪のことを沖縄ではマジムンと呼ぷ。マジムンの語源は、ムンであり、その意味は「ムン、ムヌ=モノ。得体の知れない、煙のようにつかみどころのない、何か」である。だから厳密にはマジムンを妖怪と訳すのは間違いなのかしれない。もともと神様もこのムンであった。
 だから沖縄では、神隠しにあうことをムヌマヨイなどと呼ぷ。神にそうされても、マジムンにそうされても、ムヌマヨイなのである。ムンに迷わされる、ということである。

小原猛「琉球奇譚 キリキザワイの怪」竹書房,2017

『マジムン』の語源についてですが。『マジ』には、混ざりもの、不純な、又は呪いという意味があるようですが、ハッキリしたことは分かっていないそうです。『ムン』はモノですね。
 なので、何かよく分からないけど、でも確かにそこにいるもの、怪異、妖怪、神様、そういったものを全てひっくるめて『マジムン』と呼ぶのだそうですよ。
※ TIDA/マジムンは本当にいた・・・のかも!? @わかさ妖怪さんぽ ~前編~

③キジムナーの属性(ストーリー)

 うちなんちゅの精神生活に登場するキジムナーは,主に民話のストーリー上と単発の風習上との2タイプがあるらしい。
 前者の民話は多種あるけれど,類型が似通っているとする研究があり,ワシ自身読んでそう感じます。それは
①かつて頼りになる助言者だった。
②でも利益を得た人間側がキジムナーを裏切った。
③だからキジムナーは悪霊化しその人間を攻撃した。
という経緯を概ね辿ります。
「浦島太郎」を連想しますけど,もっと近いのが「猿蟹合戦」です。日本民話にも類型があるのは面白い。

原題:キジムナーを騙して盲になった男 (中頭郡嘉手納町嘉手納・男)
一 昔、仲里間切、真謝村のうすくちゃという家の青年が、家の後にある老樹の根本に巣を作っていた木の精と友達になった。
二 キジムンは雨の日も風の日も休むことなく、夜ごと海にいさりに行ったが、必ず親友の青年と話するといって、一緒に連れて行った。時々なら我慢も出来るが、毎晩、しかも雨や台風の時でもとなると誰でも飽きる。断ったらどんなに大変なことになるかわからないので(青年は)仕方がないので後から追って行った。青年の妻が夫より飽きていた。夫婦で話し合う暇もない。
三 そこで、何とかキジムンとの縁を切った末「キジムンの家を焼けば、キジムンは他のところにうつるかもしれない」と思いつき、青年も、他に考えがなかったので、早くも翌日から、青年は仕事帰りには、茅をかって、老樹の根本に重ねた。こんなにたくさんの茅、どうするのと言って珍しがるキジムンに「冬になったらあんたが寒がるはずと思って」と言って、騙した。何もわからないキジムンは、青年の友達思いに心から喜んで、前よりも青年を海に誘った。その間にも茅は日に日に高くなっていった。
四 ある夜、青年は、家から遠いシーガミと呼ばれている珊瑚礁の先までキジムンといさりに行った。二人が出ている間に、茅に火をつけて、キジムンの巣を焼き払っておくと言って、妻と話してあった。一生懸命に、貝や魚を捕っていたキジムンが、突然、「焦げるにおいがする。これは私の家の焼ける臭い。帰ろう、すぐ帰るとしよう」と言って、青年は思いながら、生返事して、いさりに夢中になっている真似をして、時間を延ばした。二人が家に帰って行ってみたら、思っていたとおり、キジムンの巣は、跡形もなく焼き払われていた。「私の家がなくなって、ここには いられなくなった。那覇に行ったら安里八幡の庭に双葉の古い木がある、あの木には、まだ主が居ないから、あそこに行ってあの木の主になる。あんた、那覇に来るときには、必ず訪ねてよ」、キジムンはぼんやりして心苦しそうに言った。
五 それから何年か経って、青年は用事があって那覇に行った。来たついでにキジムンの話がうそかほんとか確かめるために安里八幡宮を訪ねた。近くで様子を聞くためにある家に行ってことのいきさつを話した。そしたら、今までおもしろく聞いていた家の主人が突然恐ろしい姿になって立って、囲炉裏に置いてあった燃えさしの細い薪を取ると、すぐ青年の目に突き刺した。わざわざ那覇まで行って思いもつかぬ盲にされた青年の子孫は、目の病気にかかる人が多くなった。

 ひとたび『沖縄民俗』などにおいてキジムナーの項をひもとくならば「心優しい妖怪」であるキジムンの印象は一変するだろう。キジムナーから富を与えてもらっていたにもかかわらず、それを裏切ってしまった人間たちは、キジムナーによって目玉をつぶされたり、妻子を焼き殺されたり、あるいは命を奪われる。そこから立ち上がってくるキジムナーのイメージは、自分を裏切った人間に対して激怒し、目をつぶして盲目にし、子孫 に呪いを与え、その妻子を焼き殺し、ときに人の命を奪うという「悪霊」そのものである。 そもそもキジムンの「ムン」は、魔物、すなわち「マジムン」の「ムン」であり、その 「ムン」は、酒井の言に従えば「人を病気にしたり、不幸に導いたり、死をもたらしたりする」、「暗の霊魂」である。

※ (著者不明)キジムナー – 説話と由来を巡る考察

④キジムナーの属性(単発風習)

 次に,単発の風習の中のキジムナーは,物凄い数の特性を呈してる。でも「目」「睡眠」「火」に関するものにうっすらとイメージが重なってる。それが何を意味するかは定かではないけれど──重なりがあるからには何かを象徴してる。少なくとも好き放題に伝承が分岐化してるわけではなさそうです。
[風貌]
・赤色の子供
・女か男かわからない。
・真っ赤なちぢれ毛を垂らしている。
・猿に似ている。
[嗜好]
・いたずら好き
(「目」関係)
・キジムナーと友達になると毎晩海に連れて行かれ、必ず大漁になるが,どの魚も片目は取られている。
・魚の左目が好物

[行動]
・夜中の十二時から一時頃よくあらわれる。
・キジムナーが来るときはウ ーとかすかな音がする。
・キジムナーを招く策は
①「砂糖をあげよう」と唱える。
②(越来村)夕方口笛を吹く。
・キジムナーを退ける策は
① 住む木を焼く。
② 家の入り口に蛸をつるす。
③ 鶏の鳴き真似をする。
④ 目の前で放屁
⑤(山原地方)南無阿弥陀仏を唱える。
(「睡眠」関係)
・睡眠中にうなされるのはキジムンに襲はれているから。
→ススキでサンを結んでこれを胸に乗せておけばうなされない。
・大の字形になって寝るとキジムナーに二,三分ぐらい圧迫され、意識はあるが、身動きすることができなくなる。
・男の人を襲うのは女のキジムナーで,大きな乳房で押さえつける。
(「火」関係)
・山から火を盗みに下りてくる。
 ・ 夜灯りを持って歩いていると、その火をとって逃げる。
→夜燈灯(ママ)の火を,予め跨いでおけば盗られない。
 ・原因の分からない火が夜見える。=「キジムンの火」(キジムナビ)
[その他]
・爪に円い黒い傷が出来るのは,キジムンにお灸を据えられたため(キジムナヌヤーキュー)
・大雨の時など流水の中に立つ変な泡は,キジムナの唾

⑤「M」への展望

 ここからはやや綱渡りの推論になりますけど,立論の可能性としてメモ代わりに。
「ムン」の語源的拡がりについてです。
 この一年後に拘り抜くことになる媽祖(Mazu),それから対馬・和多都美wadatuMiや阿麻氐留aMateru,更に当然に内地の天照aMaterasuを射的に据えて──ひょっとしたら専門の方には駄洒落に近い暴論かもしれませんが,書いてみます。
「ムン」の音から中学生でも思い付くのは英語の「ムーン」,月です。それで一応,Moonの語源を当たってみました。

「月」 moonと「精神」 mindの語源はともに印欧語の manas、 mana、あるいはmenであった。マナは、女性の中にある 「太母神」の「知恵の血」を表し、その血は月に支配されていた。

 mana、あるいはmen
 manaあるいはmenは、古代ローマ以前の時代の女神メンルウァ(ミネルウァ)の名のもととなった。さらにmentality(知恵)、 menstrual(月経の)、 menology(月別聖人伝)、 menage(家政、母系の家庭)、 omen(前兆、月からの啓示)、 amen(アーメン。再生をした月)などの語を派生した。
 「呆然となる、気が狂う」 moon-touched、 moon-struckことは女神によって選ばれたことを意味した。「精神薄弱者」 mooncalfは、女神に愛され連れ去られた者のことであった。父権制l社会の思想家が女神を矮小化したとき、これらの語は単に狂気を指すだけとなったのである。月に打たれた(moon-struck)者は「愚か」 (silly)と言われたが、sillyも以前は「祝福される」(blessed)ことを意味し、おそらくセレネーSelene(月)から派生した語と思われる。

 ギリシア人にとって、 menosは「月」と「カ」をともに意味した。ローマ人にとって、「月母神」の徳性は「太陽神」のそれより優位におかれた。プルータルコスは述べている。「月の影響は理性と知恵のもたらす影響に等しい。一方、太陽の影響は体力や暴力によって引き起こされる影響と同じように思われる」。

※ kyoto-inet/M/Moon(月)

 列記してみます。
沖縄語 Mun :妖怪
印欧語 Manas:太母神の知恵の血,月
英語 Moon  :月
ギリシャ語 Menos:月
中国語 媽祖 Mazu:海上の守護神
 そしてギリシャ語でMenosに近い音には,中澤新一がレンマ的な知恵と位置づけるメティス metisがあります。

分析能力の高い古代ギリシャ人は、タコやイカのような海洋生物に備わっている知性を、言語的ロゴスと区別して「メティス(metis)」の知性と呼んで関心を持っていた。メティスは海の女神である。

※ 中澤新一「レンマ学」講談社,2019→関連抄(本サイト/ことばぐすい)

 つまり,書いておきたい暴論は大小2つ。
「ムン」が月に通じ,それが「太母神の知恵の血」→レンマ的な知性に通ずるのなら,月から①目,②睡眠,③火という連想は自然にありうるのではないか,ということ。キジムナー伝承に頻出する3イメージは,「月」なのではないかという仮説です。──付け加えるなら,Metisを体現する動物としてギリシャ人がタコを挙げているのも,キジムナーを退ける道具の一つと共通します。
 もう一つは,沖縄語「ムン」-中国語「媽祖」-日本語「天照」-ギリシャ語「Metis」-英語「Moon」の共通の大背景として,印欧語「mana」あるいはそのさらに原景である未知の「M」音の,何らかの神性を表す象徴が在るのではないか,ということ。
 ……ですけど,ここまで来ると流石に暴論過ぎてクタクタになってきたので,やはり一旦筆を置きます。

2019アメリカ映画「Ma」(監督∶テイト・テイラー,日本名「マー サイコパスの狂気の地下室」)。見てないので知らないけど,とにかくホラーらしい。

*置くけれど,この点を指摘してきた人は折口信夫ほか相当数あるらしい。民族学伝承ひろいあげ辞典の「マナ Mana 真名・本質を表す世界共通語」(URL:http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253897.html)による例示には他に──

マナ(サンスクリット・オーストロネシア語)=真実、誠、霊力、呪力、宗教の原初的機能、心
マナス(サンスクリット)=思い量ること→マナ識。自分の得に なること、自分を大切に思い量る心が末那識・マナ識
マナスル【Manaslu】=サンスクリットで霊魂の土地。ネパール中北部、ヒマラヤ山脈の高峰。標高8156メートル。
マンナ(イスラエル)=イスラエル民族が、荒野で神から与えられた食べ物。「旧約聖書出エジプト記」
まな(日本語)=愛・学ぶ・心・真・可愛いもの・いとしいもの・食べ物・調理・生命の根源
真名井(日本語)=アメノマナイ=水の湧く泉。食べ物が生まれ出る井戸。調理することも「まな」。道具はまな板。
マーナ(mana)=我慢
マナイズム=超自然的な力、「マナ」を信奉する原始宗教。
日本、ネィティヴ・アメリカン、オーストラリアのアボリジニ、タイのピー信仰や鳳凰(インドではハムサ、タイではスワンナホーン、即ち、ブラフマ,創造神の乗り物)、ヒンドゥー教、チベットのボン教、マレーシア、インドネシアの精霊信仰にも見られる。
真奈賀(マナカ)=日本の香道に於いて用いられる香木の一種。マレーシアのマラッカに由来すると言われている。
マナカ(日本語)=真ん中。芯。物事の中心となる、最も大切な部分のことを言う。
末那識(マナ識)=仏教用語で、サンスクリット語の「マナス」から生じた。諸感覚や意識を統括して、自己(真我、     アートマン)と言う意識を生み出す心(マインド)の働きの事を言う。ヒンドゥー教でも最も大切な部分の一つ。仏教に於いては、唯識思想の一つとされ注目されている。
マンナス(北欧古代ルーン語)=自己
真奈霊(マナビ・日本語)=スピリット、霊に問う事、伺いをたてる事、転じて「学び」。
マン(英語)=人間
マナー(英語)=心得
真名(日本語)=仮名に対しての漢字

■小レポ:瀬長島砲台の6月6日 その戦績と顛末

 アカサチの交差点から西,瀬長島には迂闊にも行ってません。
 今はリゾート地として売り出し中の場所。海上を南北に伸びる那覇空港滑走路の南に当たります。沖縄では珍しい「竜神の湯」という温泉があるんだけど,「りっかりっか」以上にバカ高いみたい。そういう場所なのでどうも足が向かなかったんですけど──
 以下調べ切った今は,一度行きたくて堪りません。まさに沖縄,という島です。

①瀬長島は西の久高島か?

 アマミクの子が開いた,というのは久高島への降臨と矛盾するから「子」を登場させて整合させただけで,南山サイドでは瀬長こそアマミク降臨地としていたと思われます。
「鶏(とい)鳴かん島」の謂いも,キジムナーに関する沖縄伝承にもあるように,本来はハブがいるからではなく聖域だからなのでしょう。
 聖域としての格は相当高い。
 18世紀まで無人島だったのは,藪地島に似てます。元々の格の高さから,聖地ではありながら敗者側の伝承であるために祭祀の後継が途絶えたのでしょう。
 竜神の祠や陶磁器等の出土の多さは,大型船が主流になる以前には海上交通の拠点だった気配もあります。
※ wiki/瀬長島
「『中山伝信録』には『砂嶽』、1890年(明治23年)発行の『沖縄県全図』に『砂長島』とある。またハブが鶏を捕食し、丘から下って来る為、昔から鶏は飼育せず、『鶏(とい)鳴かん島』とも言われていた。」
「瀬長島は豊見城の発祥の地とされ、アマミキョが豊見城に降臨した際、瀬長島に最初に降り立ったとされる。」「瀬長島に瀬長グスクが形成され、『琉球国由来記』には瀬長按司の居住跡と記されている。グスク内では青磁と土器が出土し、また島南斜面には陶磁器や鉄滓も発見されている。『琉球国由来記』によると、グスク周辺にはいくつかの御嶽が存在していたとされ、干潮の際には干潟を徒歩で、満潮時には小舟を使用して渡った。」
「19世紀頃から近隣の我那覇村から移住者が出始め、1903年(明治36年)当時の島内人口は91人、戦前期には約40世帯の集落が形成され、半農半漁の生活を送った。」
「島南東部に位置する『子宝岩』に、戦前まで子供を授かるために参拝したという。」

※ 豊見城市/瀬長島(瀬長グスク)
「瀬長(せなが、方言名 アンジナ・シナガ)」
「太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まった」
「復元された子宝岩」

※ TIDA/瀬長島いまむかし
「戦前はウミガメが産卵したといわれる綺麗な砂浜がありました。
 また、戦前までグスクの石積みがあったそうです。」
「拝所には按司墓、三様御殿(ミサマウドゥン)、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、竜宮継宮(リュウグチング)、ウタキなどがあります。ウマンチューはアマミキヨを祀ったもの。」
「※『豊見城市史 民俗編』豊見城市役所、2008に充実した情報があった」

▲瀬長島から見た具志稜線

②沖縄戦末期の短い奮闘

 ここに砲台を置いた意図はおろか,どういう部隊が管轄していたのかも記録が見つからない。アカサチ壕を掘った歩兵第22連隊第一大隊の一部隊だったのでしょうか。
 それはどうあれ,彼らと瀬長島の砲台は,既に首里を陥とし掃討戦に移っていたつもりの米軍を一時的ではあれ恐怖させました。
 1945年6月4日,小禄の海軍司令部へ北から攻めかかった米軍は,赤嶺付近で激しい抵抗を受ける。そこで西岸から南に回り込んで挟撃しようとしたところ,この部隊も瀬長島からの砲撃に阻まれ,米軍名・58高地で日本軍に撃退されています。
 アカサチの北側,たから屋の東に連なるあの嶺です。
 米軍がここを「リトル・シュガーローフ」と呼んだほどの激しい抵抗を,日本軍はここで示しています。
 日本側もこれほど瀬長島が重要な位置を占めるとは考えてなかったでしょう。米軍はかなり慌てて,6日午前に瀬長島を艦砲で叩いてます。7日に再度攻撃してるから,その徹底ぶりは如何にここから米軍背面への砲撃を恐れたかを物語っています。
 13日に米軍がやっと瀬長島に上陸した時,そこには遺体しかなかった。つまりここの砲兵部隊は本当の意味で全滅したらしい。
 そもそもこの小禄戦闘がこれほどマイナーなのは,ほとんど生存者がいないからではないか?
「沖縄戦史」は,陸軍側(八原参謀)は「海軍部隊は短時間で壊滅するであろうと考えていた」とする。
 けれど,小禄北部へ米軍が上陸した6月4日から海軍指令部陥落の11日まで,組織的とは言えない戦闘を含むと13日までの10日間も,小禄の戦線は維持された。
「首里陥落後,日本軍は南部に壊走し」とか軽く書いてる記述を見ると,とにかくこの小禄戦線や,さらにこの後に続く糸満や八重瀬での戦闘を読んでほしいと切に思う。
▲瀬長島から見た具志稜線への米軍進撃路イメージ
※ 沖縄戦史/小禄の戦闘(小禄海軍部隊の戦闘)
「6月6日
 早朝から天候が回復し、0600頃から米軍機の行動は活発となり、艦砲射撃も激烈を加えた。小禄西側、金城、赤嶺付近では激戦が続いた。赤嶺付近の陣地(大田司令官所在)は米軍の馬乗り攻撃を受ける状況となり戦況は切迫した。6日夕刻小禄部落西側高地は米軍の侵入を受け、一度は逆襲奪回したが再び占領された。瀬長島の海軍砲台は米軍を背射して主力の戦闘に協力した。」
「第4連隊第1大隊は『リトルシュガーローフ』の惨状を呈した。戦車の援護射撃は得られず、第4連隊第1大隊の左翼(B中隊)赤嶺郊外で停止状態となっていた。右のA中隊はあらゆる火器を使用して敵の翼端を奪取しようと試みた。1個小隊が6時間にわたり身動きできない状況の後、105mm自走砲の直接射撃の支援下にリトルシュガーローフ上に到達した。」
「敵の稜線(具志北側方面)に航空攻撃を行った後、第3大隊はI中隊とL中隊を攻撃に投入した。右のI中隊は瀬長島からの20mm砲や重機関銃の激しい攻撃を受けた。これには戦車・砲兵・対地支援航空機からの反撃で直ちに応戦し沈黙させた。第4連隊第3大隊は南へ前進し、ついには昼前に小禄飛行場を完全に占領するに至った。」
「6月7日 
 米軍を背射して健闘していた瀬長島砲台は0930米軍艦砲射撃によって破壊された」
「13日には瀬長島の掃討が実施されたが、島内には日本軍の遺体のみが残されており、交戦の記録はない」

※ ガイドブックに載らない戦跡/アカサチ森軍構築壕跡
「2000年の沖縄サミットのときに資材置き場として利用するために丘の東側半分が削り取られてしまいました。
 削られた岩肌に2箇所の壕の入り口があります。幅3m、高さ2mの壕でありましたが、十分な調査もなされないまま業者によって埋められてしまいました。
北側に1箇所壕の入り口が確認できます。
 南側(瀬長島方向)にコンクリートの構築物の一部が露出しています。トーチカなのか、それとも古墓なのかは不明です。」

③アカサチ森:移動できる神と移動できないカミ

 瀬長島は戦後すぐ米軍が接収し,1977年の返還まで40年近く弾薬庫等として使用され,かつての聖地の風貌は見る影もないという。
 他の米軍基地と同列に非難を込めてる記述があるけれど,②までの状況を踏まえれば──それほど米軍がこの島の戦略的重要度に戦慄し,要地として独占しようとしたということ。つまりそれほど,日本軍がここで激闘したからです。
 さて,その結果,聖地としての瀬長島は他にない歪な形をとるに至りました。それがアカサチ森の「集合団地」状態です。
 ここで注目したいのは,移転しなかった神域です。
 島の南側にある子宝岩は,現在は夕陽スポットとして有名という。これは名前といい形状といい,ビジュルだろうと思う。持ち運びできるサイズじゃないから,移転できないまま信仰としては廃れた,ということでしょう。
 でももう一つ,竜神群がある。アカサチ森にこれだけはなかった。海人の歴史が途絶えていたとは言え,代替の神体が設けられなかったというのは,どういうことだろう?──「御井」つまり井戸の神は移動できているのに?
 つまり,これらの竜神は移動できない,という概念で捉えられていたことになる。
 ヤマトの天照や住吉,中国の天后や竜王は,いずれも抽象神で,当然移動しうる。でもうちなんちゅにとっての竜神・竜宮・竜王はその海域,あるいは海底に固着した,属地的な「海の土地公」のような存在だと捉えられているのではないだろうか?
 アカサチ森──それからこの前日の読谷の状況は,極めて特異です。どう考えていいのか分からない事象が多すぎる。けれどだからこそこれらの土地の人々の信仰や感性を浮き彫りにしているように思えます。

[おまけ]▲「琉神マブヤーでーじ読本」
グローカリズムのまぶい(魂)を読み解く……という無謀な一冊らしい。

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