FASE62-3@deflag.utina3103#田頭のシーサー,具志宮城西公園,同南公園\楽に育しは苦しやしゆる基ひ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

じじむいのシーサーA&B

に丘を見ながらアカサチ森から東行する。
 航空写真で見ると下のような場所です。東西に連なる高地の森は数珠森(じじむい)と呼ばれる。
 その南側の路地に乗り入れ,バイクを停めます。
 先述のように,たから屋の骨までの時間潰しでした。だから極めて迂闊に立ち寄ってしまってた。

▲田頭周辺の航空写真

頭のシーサー ※A
〔日本名〕沖縄県豊見城市字田頭
〔沖縄名〕たがみのしーさー
〔米軍名〕58高地直下

※ 豊見城市/シーサー[田頭]
※ ameba/軍曹さん/伝説の田頭のシーサーと森
※ aneba/沖縄の裏探検/数珠森(じじむい)

▲頭だけのシーサー

136,田頭(たがみ)のシーサー。
 マップには「A」と書かれてます。おそらく文化財の名称でしょう。ということは俗称すらない。
 呆気にとられました。口の部分が分からなくもないけど,単なる岩に近い。
 案内板あり。
「戦車は途中にあったこのシーサー像に車体の底を乗り上げてしまい立ち往生,何度か踏み越えようとするがその度に阻まれ,前進できなくなった戦車はやむなく向きを変え,人々は難を逃れたという。」

▲1143背後の森

内板には「シジ(霊力)高い場所だという字与根の数珠森」ともあります。
 上の写真の森でしょう。
 単体の森に見えますけど,前掲の航空写真で見ると丘全体にまたがってます。ただ開発で幾つかに分断されてる。
「数珠森」サイトではその中にまで踏み込んでます。けど,ワシは道をどうしても見つけられませんでした。
 なので,ここは基本,完敗です。

▲1145,田頭のシーサー(B)を通りがかりに撮影だけする。

第三のシーサー出現!

かしこの場所にこんな古物と聖域が,ほとんど地元からも忘れられかけて,普通にこうして見れるというのは──
 沖縄というのは恐ろしい土地です。
 瀬長島との関係で言えば,プロト・豊見城の勢力が本島のこの辺りに前進基地を構えて,南部一円を狙っていたんでしょうか?
 その謎を解く第三のシーサーが……これだ!

▲1153らくだちゃんと亀甲墓

礼,らくだちゃんの間違いでした。
 たから屋前にバイクを停めると,鼻がきくようになったのか,この対面の小さな公園の茂みにも何やら気配を感じ,ふらりと近寄ると──
 え?亀甲墓?
 沖縄には公園に墓があっても違法ではない,というか割と当たり前にある,というか古墓の法的シールドに公園の看板を使ってる感じなんだけど──にしてもそこにらくだちゃん置くか,らくだちゃんを?
 具志宮城西公園という場所でした。

はなかなか雲が去らず,それどころ小雨が落ちてきた。いくら沖縄でもこれは震えが来る。
 そんなあなたにお勧めなのが……汁物!そして沖縄で汁物と言えば──

▲骨!

え~出汁だしてまんなあ!

いった強引な流れで始まってしまいましたけど……
1156たから家
骨汁650
 次郎で迂闊に増し増しとか頼んだ並みに,もやしが多い!肉を取り出せないぞ!
 ここのは骨に肉がしっかり付いてる。かぶり付かないと噛みきれない。なのにもやしが絡み付いてきて,食べにくいことこの上ない。

▲スープどアップ

もそんな苦言は,ここの骨のスープを啜ると全く霧散してしまう。
 え~出汁だしてまんなあ!
 フレンチを豪語するだけある。淡くなめらか,なのにしっかりとした輪郭のコンソメぶぽい出汁が舌上に踊る。
 汁の底がまた凄い!あのトロミを帯びた,肉片が液状化しかけたような状態の旨さって…今まであったっけ?
 取材でもあったんだろうか?出た時には玄関に待ち人がわんさかでした。

▲完食!

登る気になれない階段

3時になった。バイクで再び出走。
 らくだちゃんの居る西公園の,東の道を南へ。
 東西に伸びてた田頭の丘の北側に当たります。でもここでは高みは南北に続く。つまりT字を成す。どういう地形なのか?
 しかしこれは……名もない森にも全部祭壇がある感じです。この高所はそれほど神聖なのか?

志宮城南公園
〔日本名〕沖縄県那覇市具志3丁目37−35番1
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕58高地東麓

▲南公園の真ん中の登り道

の道が東西の丘に突き当たった場所が南公園でした。1309。
 丘が窪地のように取り巻く地勢です。滑り台のように,3本の坂が東にかけ上る。
 大きくは幾何学的な配置です。でも細かくはそれぞれ個性がある。

▲右手の墓建物,柵の中を覗く。

本ずつ登る。
 全部亀甲墓へ通じる。正確には破風墓の家屋様式でしょうか。だとすれば相当由緒あるものの可能性もある。
 それぞれ別納家のものらしい。横の道は全くない。

▲左手の墓建築と背後の森

は,写真でも伝わると思う,恐い暗がりです。
 この時はもう時間はあったんだけれど,墓建物のラインより奥へ行く気にならなかった。
 ただ,今見るに,樹相は意外に若そうです。下の写真の雨どいのように,基本構造に手がかかってる。つまり,古さはないんである。

▲下部をつなぐ雨どい

志というこの集落は,古い栄光と新しい苦難を経ている。
 おそらくこの森もこの公園域も,58高地の攻防戦闘でほぼ完全に破壊されてしまってる。
 この墓群も,一時破壊されかかったものを辛うじて集合させたものではないでしょうか。

▲公園南部には森へ入る階段が見えたけれど……写真で見ても明らかに恐い。

■資料:具志の土地収用

 ここの歴史は読谷に酷似しています。wikiの年表のこの部分が胆です。

1933年 那覇空港の前身となる小禄飛行場が海軍によって建設される。
戦後、大嶺・当間など海沿いの西部が米軍に接収され、住民は集団移転する。
1954年9月1日 首里市とともに那覇市に編入され、小禄村は廃止される。

※ wiki/小禄

 つまり,読谷よりもっと酷い。天久と同様,ほぼ完全に収用されて,ごく最近返還された土地です。
 ただ──具体の地図が見つからないけれど,おそらくこのたから屋周辺も返還地の匂いがするのに,なぜか人間臭さがあるのはどうしたわけだろう?

米軍が行った小禄村(現那覇市)具志での軍用地接収問題。1953年12月5日、米軍による小禄航空隊関連の工事開始に、住民が中止を申し入れ抵抗。米軍は退去を命令し、武装兵が銃剣を突き付け工事を続けた。

※ 琉球新報/具志土地接収問題 (ぐしとちせっしゅうもんだい)
※ レキオ・島唄アッチャー/小禄の具志を歩く、その3
「具志は、戦前まで肥沃な土地で豊かなところだった。サトウキビをはじめ、特産品のスイカなど作り、農産物を那覇や糸満その他に出荷し安定した生活をしていた。ところが戦後、米軍によって全耕地の90%が軍用地としてとられた。さらに米軍は、1953年11月、区民1500余人に残された田畑からも農作物を取り除き明け渡せと命じてきた。」

※ 沖縄県/琉球政府の時代/布告・布令・指令等(3)土地接収
「総務局渉外広報部 文書課『布告・布令・指令等に関する書類』から、土地接収に関する資料を紹介します。」→布告等の原本が閲覧できます。

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