FASE63-4@deflag.utina3103#北森,城岳\美ら瘡ぬうとぅじ 遊ぶ嬉しや

清酒菊露を龍神に供えん


〔日本名〕沖縄県那覇市首里末吉町1丁目付近
〔沖縄名〕にしむいうたき
〔米軍名〕-(本殿弁財天は沖縄戦で焼失)

====安謝川=== ┃石
 祭壇──┐井戸 看板┃峰
     ├─────┨本
  龍神─┘     ┃通
        儀保交差点

西森」とついつい誤記しそうになるけど「北森」と書いてニイムイです。実は誤記とも言い切れないのですけど。
 入口には少し迷いました。
 1338。儀保交番横の大きな道は末吉宮本体へ行くらしい。川の手前の道は途切れてる。
 となると消去法で,やはり両者の間にあるこの,行き先表示の無くなってる標札(前章巻末写真)の野道か。黄金豊饒神の祠左隣でした。

▲1344少し行くときっちりした石畳が。

右手に井戸らしき祭壇が現れた。1345。燃え尽きた線香一束。
 前庭(カーヌナー)らしきものがない造りからして,生活のための井戸ではなく祭祀のためのそれでしょう。

▲1346祭壇のある井戸

れ道。とりあえず左へ。
 幽然たる自然林です。道だけが綺麗に整えられてるのがむしろ畏れを誘います。

▲1347左手への藪の道

。石畳の道続く。
 祠。菊露が供えてある。左手に龍神と掘った岩。
 道はそこで途切れてる。
 右の道をたどり直す。

▲1354龍神の祠

国頭王子,弁財天を以て光久公の洪福を祈る

道。
 最初,勘で左手を選んだのも理解できる。右手の道はいつ途切れてもおかしくないほどくねくねとくねり,前途を見渡せない。
 入るのを拒むような道です。

▲1355右手への野道

森に関する一次史料は驚くほど少ないらしい。
 史料を挙げてるサイトの記述は,ほぼ以下の琉球国旧記のものに限られてます。おそらくこの漢文しかないのでしょう。巻末で推定します。

西森威部 在首里下儀保邑
順治十四年丁酉之夏 馬氏国頭王子正則創建拝殿供奉 辨財天女以祈大守光久公之洪福

※ 神話伝説ふしぎ草紙/沖縄首里の御嶽巡り その十一:西森

▲1356右手への道,最終コーナー辺り

突に現れました。
 1357,儀保町土地地盤・守護神・火の神とある祠です。
正面に焼香段3,左に2。奥に岩2つ。その手前に十数個の岩が輪になってる。

▲1400右手奥の祠

首里城北,黙して語らぬ闇

,この三つの祭壇について後に調べてると──

手前三基の香炉には左から「今世」「中世」と刻まれている。右端は欠損して解らなかったが、調べたところ「先世」であることが判明。
今世(イマユー)は、現代で
中世(ナカユー)は、舜天王あたりからの王国時代、
先世(サチユー)は、琉球開闢の神々の時代。を指すと思われる。

※ 沖縄写真/北森御嶽
 つまり,全四次元空間を指す石らしい。
 それが過去→現在→未来ではないのである。今を超越した過去→今みたいな過去→今。
 何も分からない。でも間違いなくここは途方もない聖地です。

▲1402御神体

森は首里城の北。
「北」が沖縄でどんな意味を持つのか,ピンとは来てない。でも中国的な風水にクロスする発想なら,鬼門又は死を意味するのではないか。
 末吉の森に手触りは似てる。黙して語らない闇。
 帰路に気付いたこの窪みのこれは井戸だろうか?気を付ければもっと霊地だらけの場所だと思う。

▲1405井戸跡らしき窪み

15年,これからも県民を乗せて

保駅からゆいレールに乗る。1417。
 何とまあ,死ぬほど疲れてる。首里周りは予想以上にXだらけです。認識不能な事物への接触というのは,意味と象徴の世界に順応した人間には刺激的な,つまり脳髄の疲れる体験な訳で。──言葉や象徴というのは,認識不能な本来の世界から我々の知性が自己を防衛するための「必要愚」のようなものなのでしょう。
 車内のゆいレール広告。「沖縄都市モノレール15th 愛されて15年,これからも県民を乗せて」
 首里から石嶺,経塚,裏添前田,てだこ浦西と4駅を2019年,さらに追加するらしい。
 これからも,観光客も乗せてね。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(壺川~:経路)

川駅から再び自転車にまたがる。
 1509。
 ファミマから右折,すぐ左折,さらにすぐ右折。緩やかに登ってく。住所表示は泉崎二丁目23から楚辺一丁目10へ。


〔日本名〕那覇市楚辺1-4
〔沖縄名〕ぐすくだけ。「城嶽」とも表記(これが本来らしい)
〔米軍名〕テレグラフヒル(城岳35高地:日本軍の山部隊の那覇守備隊陣地壕)

大正期には、城嶽周辺に、沖縄県立第二中学校(現那覇高校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、住宅が建ち並ぶようになり、かつての城嶽の鬱蒼(うっそう)とした林は、昭和初期には、宅地や畑地になっていたという。

※ 那覇市歴史博物館/城嶽(グスクダケ)

交易港→御嶽→霊泉→戦場→遊園地

真は一枚しか撮ってません。
 おそらくもう一度行っても,そう絵になる光景はないと思う。
 でもここの歴史は,那覇の激動を雄弁に語るものでした。
 1513,城岳公園。

▲1517城岳の拝所

きなり巨大な,朽ちかけた亀甲墓の間を歩く。
 公園入口に円庭のある社。北面。燈籠2,右手に大きめの小屋,中に3つ拝段。
 案内板に曰く「古波蔵村の拝所があり,3月・6月・9月の祭祀のほか,旱魃時には雨乞いの祈願が行われた。」「1945年(昭和20)の沖縄戦中は,山部隊の那覇守備隊陣地壕として使われ,5月には城嶽周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。」

上を含めこの場所の歴史を時系列で並べると,こういう感じになる。
紀元前 交易地と推定
←昭和初までの発掘で明刀銭(燕国(BC409-36年)貨幣)や黒曜石(沖縄で産しない古代の貴重鉱石)出土。「城」岳の名前通りの城郭があったことは確認できていない。
 ~上記繁栄期の記憶からと推測されるが,御嶽として崇拝対象となる。
江戸期 景勝地だった模様
←1756年来琉の清冊封副使周煌「琉球国志略」内「球陽八景図」に「城嶽霊泉」絵有。これを土台にした北斎画も(→巻末)。
1945年 沖縄戦時に激戦地
1951-61年 遊園地「新世界」稼働
1962年 城嶽御宮再興

「至高」食い疝気に倒る春の暮

▲至高のゴーヤチャンプルー!

岳東側の小路に少し入る。太平商店街辺りにもあるこの櫛の目のような細道群って何なんだろう?
 1534,那覇第一地方合庁に出た。左折北行,那覇高校東を通過。
 きっぱんは閉まってた。らさに松尾交差点を越える。「むつみ」の新店を目指しニューパラダイス通りを通ると…あれ?ここ,まだやってるの?ダメ元で聞いてみると…え?まだあるの?
1548大東そば
ゴーヤチャンプルー450

▲大東そばのお膳

お~!やっぱり凄い!
 ゴーヤと卵と苦菜のほかに,小さな断片で柔らかい芋とはんぺんが紛れてる。どうやらこれが味に微妙なアクセントをつけてる。
 ここのそばも──店名からはもちろんこちらが先なんだろけど──これは最高の歯ごたえです。汁も素晴らしい。
 4時がリミットだったらしく,ギリギリで滑り込めた一食でした。出る頃には無人になってました。
 なぜかこの翌年には,この至高のゴーヤチャンプルーはメニューから消滅。よって,これが「至高」最後の一食となりました。

の日は朝から経験のない調子の悪さでした。大まかには腹にキてるんだけど何なんだかさっぱり分からない。
 整腸剤と朝鮮人参とヘバリーゼの錠剤を飲んで,可能な限りの水分を取りまして,即席の腹巻きにと腹に部屋備え付けのバスタオルをぐるぐる巻きにした状態で少し横に……と夕方5時過ぎに布団を被ってましたら,そのまま朝を迎えてしまいました。
 やっぱり霊地をこれだけ回るとインパクトが強すぎるんでしょうか?
 ただ,これは「祟り」とかで説明しなくても理解はできます。「認識不能」への接触は,精神をこれ位には疲れさせるわけです。

■小レポ:北森の最近のトレンド

 本文で散々持ち上げたので,ここの俗の話をしてもバチは当たるまい。
 北森にはどうやら,近世以降の新しい顔とそれより前の古い顔がありそう,という話です。
 北森についてのほぼ唯一の史料記述として紹介した琉球国旧記の漢文を,まずは読んでいきます。
西森威部
在首里下儀保邑

「西森」はここではニシムイの音訳でしょう。とすれば「威部」も「イベ」(御嶽の中心)でしょう。
──北森イベは首里の儀保村にある。
順治十四年丁酉之夏
※「順治」は沖縄元号で元年が1644年。「丁酉」は六十干支法による。
──1657年丁酉の年の夏
馬氏国頭王子正則創建拝殿供奉
※「国頭王子正則」は,「国頭御殿」(→wiki/国頭御殿)という本島最北の貴族の七代目。他代の者は国頭按司ですけど,江戸上り(慶賀使)の正使を務めたことから王朝から王子位を賜っている。唐名・馬国隆。なお,その先代の六世・正弥は「薩摩滞在中に大坂夏の陣が起こり,島津家久より国頭左馬頭の名と太刀を賜り従軍」した根っからの薩摩党。
──馬氏の国頭王子正則が拝殿を創建し供え奉った。
辨財天女以祈大守光久公之洪福
※「光久」は島津光久(1616-1695)。島津氏19代当主,薩摩藩第2代藩主。琉球侵攻(1609)を行った初代藩主・島津忠恒(家久)の子,島津貴久の孫。
──弁財天をもって大守光久公の洪福(大いなる幸せ)を祈った。
※ 神話伝説ふしぎ草紙/沖縄首里の御嶽巡り その十一:西森

1 球陽の記述:宇賀弁財天

 つまり,北森に弁財天が祀られるに至った経緯を記す史料です。この弁財天の祠は,今はない。沖縄戦で破壊されたと書かれてる記述が多く,そのまま坡却されたらしい。
 類似する記述が球陽にもあるようです(木村淳也「琉球の守護神・航海神としての『弁財天』-その重奏と変容を薩摩関係からよむ-」より。以下「木村論文」という。)。

【資料12】「球陽」附巻一 尚質王10年(一六五七)
馬国隆(国頭王子正則),西森厳部の前に於て,拝殿を創建し,弁財天女(中国の斗姥又は宇賀神将と祢し,又は斗母君と叫ぶ)を供奉す。而して昼夜,此に至り,焚行祭酒,以て太守光久公の洪福を祈る。

 木村論文はこれを次のように解説している。

 まず注目されるのは,一六五七年に国頭正則(馬国隆)が西森厳部に拝殿を創建し,「弁才天女」を供奉したという記事である。国頭正則は,一六四三年に尚賢王即位の謝恩使,一六五三年に将軍徳川家網襲封の慶賀使を務めた琉球王府の重臣であり,島津氏に年頭を寿ぐ使者などもしばしば務めた事で知られる。この間に島津家当主・光久の信を得たようで,三司官の証入制度の免除など,王府の訴えを認めさせる功をあげているという。その正則が将来した「弁財天女」であるが,これは宇賀弁財天であったことが冒頭のー文で明白となる。そして,最後のー文では,この弁財の供奉は,島津光久の洪福を折るためである,とされている。また正則の妻は金武王子朝貞の娘で,のち(『傳姓池城家家譜』等によると康煕初(一六六一~頃)に聞得大君になった人物である点は興昧深い。

 斗姥または斗母君とは,中国の道教の古神です。首4つ,目が3つ,腕8本で7頭の豚?に載る異形の神です。なぜか太陽と月を含む数多の武器を手に持つ。地理的な来歴は不詳ながら,現在は台湾での信仰が盛ん。
※ wiki/斗母元君
「斗母元君(とぼげんくん)は、中国神話に登場する道教の女神で、仏教の神・摩利支天(まりしてん)が道教に取り入れている女神でもある。創造主・プラジャーパティの一人であり、『陽炎』・『日の光』を意味することばである。衆生の運命を左右し、寿命を司る女神である。『斗姆元君』、『斗母娘娘』、『斗母洪恩天后円明道姥天尊』、『中天梵气斗母元君』などともいう。」
「4つの顔を持ち、6本から8本の臂を持つ異形」

※ 維基百科/斗姥元君(中国語)
「形象为四首、三目、八臂,乘七豕所拉之车,手里分别拿着太阳、月亮、宝铃、金印、弯弓、矛、戟等兵器或法器。」
「她的诞辰为旧历九月初九的重阳节。斗姥主宰着天上星辰,台湾道教、台湾民间信仰中,祭拜太岁星君等诸星辰者,多半先礼拜斗姥。」

 また「宇賀神将」については,木村論文は「宇賀弁財天」としている。これは中世の異形の弁財天で,とぐろを巻いた蛇の頭がお爺ちゃん,という誰が考えたんだ?と首を捻る造形。
▲こんな感じ
 蛇身は中国の斗姥元君の「腕が8本」というのからの連想でしょうか。
 弁財天とは元々の宇賀神が習合したものらしく,元を辿ると『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみby古事記。日本書紀では倉稲魂命(うかのみたまのみこと))。
 やはりよく分からない神ながら,女神とされる。御倉神(みくらのかみ)としては伊勢神宮に祀られるし,伏見稲荷神社ではいわゆるお稲荷さんとなり,これはご存知の通り全国にある。
 つまり,れっきとした日本神道の神様。しかもかなり古く,名前の知名度の割に原日本的と言っていい由緒がある。
※ wiki/弁才天
※ wiki/宇賀神
※ wiki/ウカノミタマ
「伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。」「『御鎮座伝記』では内宮について、『御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女(とうめ)とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。』と記される。
 外宮についても、『調御倉神(つきのみくらのかみ)は、ウカノミタマ神におわす。これイザナギ・イザナミ 2柱の尊の生みし所の神なり。また、オオゲツヒメとも号す。また、保食神(うけもちのかみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳神(みけつかみ)とはこれなるなり。また、神服機殿に祝い祭る三狐神とは同座の神なり。故にまた専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊もウカノミタマ神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。』」

2 征服者の海神を被征服者が祀るということ

「テンペスト」第一話では高岡早紀扮する聞得大君が拝む神様として,異形の宇賀弁財天が登場します。
※ 目からウロコの琉球・沖縄史/【ネタバレ】テンペスト解説(2)
 見ていく限り,沖縄の弁財天というのはほぼこの宇賀神系みたいです。
 不思議です。前述の「原日本」イメージからは,琉球ノロのトップの主神には似つかわしくない。──それとも,琉球の信仰と原日本のそれが交差していた証査だろうか?
 ……というのはどうやら的外れで,要するに17世紀以降,つまり薩摩による侵略以後に「流行」したのが宇賀弁財天らしいのであります。
 次節で木村論文の論考に触れますけど,結論を先に書く。元々,海神信仰としてのあった琉球の弁財天信仰は,薩摩とそのシンパ側によって「征服者側の守護神」たる色彩を上塗りされた。それが宇賀神だったらしいのです。
 ただこう書くと,薩摩によって「押し付けられた」ように聞こえるけれど,感触からして琉球側も弁財天信仰の「薩摩化」に自発的に迎合していったように感じられます。
 本格的に征服されたことのないナイチャーがそれを責める立場には,到底ないんですけど。

3 琉球を見捨て薩摩に与した弁財天

 ワシもそう思ってたしテンペストもそんな猛々しい描写ですけど,薩摩支配下でも琉球王朝は割と以前と同じだった,という言説が多い。でも,以下を読むと,独立国としての琉球は信仰,さらに自尊心の点で,薩摩支配下でかなり変容したように思えます。

『三国名勝図絵』巻之三・鹿児島之二『弁財天廟』項には,島津氏の琉球侵略に際し,武将·樺山久高のもとヘ護国寺の弁財天が示現し,「我を供養せぱ,汝を擁護すぺし」と言った,という伝承が見える。この伝承は,宝永一二年(一七〇六ーに,弁才天女廟を移建した際の梁文に記されている,と当該本文中に指摘があることから,一七世紀末には薩摩においてすでに語られていたものと想像される。琉球を守護する神がこれを見捨て,薩摩にカを貸したというこのような語りは,薩摩の琉球支配の正当性を物語る文脈で形成されたものとみて疑い得ない。

 この「薩摩についた弁財天」に,琉球宗教界トップの聞得大君が「主神の乗替え」を行ったように見えます。現在も琉球各地に残る弁財天は,この「転向」の結果と言えなくもない。

一六〇九年の島津侵入によって異国のまま幕藩体制に細み込まれ,王国としての主体性を見失い,半世紀近くも混迷した時代を送った琉球は,近世琉球期ヘと大きな政治・文化的転換をおこなうなかで,新しいアイデンテイテイーを摸索した。その動きと連関するのが,琉球の守護神の,弁財天ヘの同化・置換ではなかったか。聞得大君らをはじめとする神女の地位低下と,この時代の弁財天信仰の興隆,および積極的な受容・意義付けとは,相対的なものと提えるぺきであろう。先に指摘したように,国頭正則の妻が,これらの羽地の改革と軌をーにして聞得大君に就任していることなども踏まえれば,このような薩摩と関連をもった政治家・士族の媒介をもって,聞得大君と弁財天との繋がりが形成された可能性は否定できない。

4 薩摩についたのは神様だけではない

 さらに見えてくるのは,国頭御殿と記される馬氏の異様な政治的位置です。
 この貴族の由来として,第一代が尚円王の駆け出し時代のパトロンの親族だとある。……嘘っぽい。第三代は病身となった王の身代わりに死んだから按司になった。……絶対嘘。
 どうやらこの馬氏は,なぜ第二尚氏の第二勢力にまで有力化したのか,あまり語りたくない本当の理由を持っていそうです。
※ wiki/国頭御殿
「馬氏国頭御殿は、第二尚氏の分家以外では、唯一の御殿であった」
「一世・正胤は、尚円王がまだ無官だった頃に、王を助けた奥間カンジャーの次男と言われる。三世・正格は、尚元王が大島遠征の途上病気になった際、その治癒を祈って身代わりとなり病死したとされ、その大功により按司を贈位され、子孫も代々按司を賜るという破格の待遇を受けた。国頭御殿は第二尚氏の血統以外では唯一の御殿である。」

 六代目は,何と薩摩に住み,大阪夏の陣に出陣してる(これ自体は薩摩のポーズだったのでしょう,戦闘には間に合ってない)。要するに,この勢力はほぼ薩摩に臣従してます。
 この次の七代目が,西森に宇賀弁財天を建てたと史料に残る正則です。だから島津の殿様の洪福を祈るというのは,おべんちゃらでなく臣下としての義務でしょう。
 こういう勢力が,沖縄本島最北にあったということは──16世紀の琉球と薩摩は,貿易国として競い合っていた,というよりも,徐々に薩摩が優勢化したか,あるいはその調略が王朝各地域に相当進んでいたと予想できます。はっきり書くと──まず間違いなく,国頭馬氏は薩摩の琉球侵攻を補佐してる。もしかすると主導してる。
 薩摩の貿易実態は謎が多いし秘められてるから,何が誘因なのかは想像しにくいけれど……薩摩についた琉球人の勢力は国頭馬氏だけではなかったでしょう。
 つまり,薩摩の琉球侵攻は琉球側が招き入れたという部分が,少なくともゼロではない。

5 宇賀神降臨前の西森

 さて本論です。かくのごとき変容に見舞われ,それのみが史料に記されることとなった西森は,それより前は何だったのでしょう?
 ここまで掘っておいて何ですけど……それでも朧気にしか手がかりはありません。
 まず一つは,中国の影響を受ける以前の時代に出来てること。
 北森を,前掲2史料(琉球国旧記,球陽)はともに「西森」と記述します。沖縄語では「北」と「西」をともに「ニシ」と発音するので,音訳としては「どっちでもよい」。
 ちなみに「森」(むい)も同じで,沖縄語では「丘」「山」「盛」字も「むい」と読み,盛り上がった地勢を意味する。漢字より先に音がある。だから例えば,樹木が多いから,という含意は考えても意味がない。
 それはつまり,「ニシムイ」が充てる漢字が何だろうと「どっちでもよい」時代,つまり中国と関係なかった頃に形成された霊地だということを推測させます。
 第二に,北森は末吉宮の森よりも古い。おそらく琉球八社より古い。
▲北側に北森が描かれる。末吉宮は書かれてしない。
首里の古道
 出典がはっきりしないけれど,上記地図には北森(左上)が書かれてて,末吉宮はない。
「森」表記の霊地は,少なくともこの周辺ではあと一ヶ所しかない。沖縄で最も神聖な御嶽の一つとされる首里森御嶽(すいむいうたき)です。同じくらい古く,かつては格式が高かったと推測されます。
※ 那覇市観光資源データベース/(首里城跡)首里森御嶽
 さて三点目に,ここに薩摩寄りの勢力が宇賀弁財天を祀ったということは,それだけ沖縄の信仰上の要地だったという証拠だということ。
▲GM.検索結果
 GM.にて「弁財天_那覇」ワードで検索すると,この三ヶ所がヒットします。天久(天久台),沖宮(奥武山),天女橋(弁財天堂。首里)です。北森と同じように沖縄戦で焼失したものが,この他にどれだけあったかは分からないけれど,北森は,これら書き換えターゲットとして有効と考えられた既存信仰の核心地の一つに選定されてたわけです。
 ただ,他のこれら新興・弁財天信仰とは異なる経緯を,北森は辿ってもいる。沖縄戦で喪失した後,建て替えられなかった,ということです。──首里の天女橋の弁財天堂は,同じく沖縄戦で焼失したけれど,戦後建て替えられている。
 当時訪れた際には,そこには弁財天の痕跡はおろか色彩すら残ってませんでした。
 火の神だろうと思いますけど,既存の信仰を奉じる者が薩摩系の神殿の「参入」を疎ましく思っていて,その思いが350年近く伝えられ,弁財天を消えたままにしているのだとすれば……それだけの執念を持って信仰を維持している一定規模の集団が,現存しているということになります。

6 弁財天ニューウェーヴへの足跡

 最後に,以上を通して現れた宇賀弁財天への流れをまとめてみます。
[記紀]
宇迦之御魂神(うかのみたま@古事記)
(別名)倉稲魂命(くらいねのみたま@日本書紀)
[伊勢神宮合祀]
 御倉神(みくらのかみ)
[中世]
宇賀弁財天(弁財天信仰に習合)
[室町期]
 稲荷大明神
 三狐神
 御食津神
[江戸期・島津琉球侵攻以降]
琉球弁財天
 これだけの変転を経,次々と常に新しい姿と名に乗り替えながら継続し続けられる信仰,これは普通にあるものなのだろうか?
 しかもその形象は常に斬新でグロテスクです。
 この信仰が象徴するものは何だろうか?全く想像だにできない。
 ただぼんやりと見えるのは,弁財天の性格でもあるけれど,「海」の色彩が強いこと。薩摩→国頭按司への伝承も,これが海上交易の守護神として祀られていたからだとは創造できる。
 あと,伊勢神宮への合祀,稲荷信仰への発展まで含めると,この「宇賀系信仰群」は凄い裾野を持っているということです。これは何を意味するんでしょうか?

▲葛飾北斎/琉球八景「城嶽霊泉」
※ 琉球八景(3)城嶽霊泉

■小レポ:テレグラフヒル(城岳)での戦闘についての資料

▲1945.5.29城岳周辺戦況図

 陥落を目前に首里が最後の死闘にのたうっていた頃,那覇市街を掃討した米軍は首里南面に回りこもうとしていた。──本島中部の戦闘で米軍が繰り返し行ってきた包囲戦術です。
 那覇市街から運河(現在のゆいレール直下)を越えて来た米軍3個大隊の東への進撃を,首里陥落まで妨害したのが城岳に籠った特設第六連隊(市歴博資料等には「山部隊」とあり,どちらが正しいか不明)だったようです。
 現・城岳公園に日本軍が籠った壕の坑口が10箇所以上存在した,と書かれた1992年記載のプログがあった。この段階で,この著者が確認できたのはうち2箇所だったという。
※ 沖縄県のガマと地下壕:城岳公園の壕 No.44;那覇市楚辺1丁目
 
▲城岳の戦時写真

 日本軍側の史料はほぼない。記録者がほぼ死んだからでしょう。次のものは米軍側のものです。

 37ミリ対戦車砲が国場川北岸に配置され、この背後に海兵隊員が待機するとともに水陸両用戦車が海岸部を警戒した。
 5月28日未明までに工兵部隊は運河に3つの徒歩橋を架設、夜明け前に第22海兵師団第1大隊が渡河完了して那覇市東部にある「テレグラフヒル」(城岳)に進撃、終日戦闘を行ったが激しい抵抗の前に際立った戦果は得ることが出来なかった。5月30日には第22海兵連隊第2大隊と第3大隊が運河を渡り、第1大隊を超越して攻撃を開始した。那覇市東側の27高地は墓を機関銃陣地として、度々海兵隊の進撃を妨害した。この日は戦車部隊は追従できなかったが、午後には3両だけが27高地の北側に到着、直接射撃を実施して海兵隊の27高地攻略を支援した。

※ 米陸軍公刊戦史/The Occupation of Naha

▲同5.30図
※ 沖縄戦史/首里西部戦線(那覇地区の戦闘)

 市歴博HPの記述では「終戦後,城嶽の山頂部は削り取られ」たとある。これも米軍が神経症的に繰り返してることですけど,抵抗の激しかった場所を占領後,軍事的に無害化した可能性が高い。
 逆に言えば,現在の我々が目にするよりもっと,城岳は強力な防御地形でした。

○ 御嶽の戻ってきた城岳

 戦後の遊園地だった時期を挟んで,廃園になった翌年すぐ,御嶽の拝所が再建されてます。
 この後しばらくは,どうやら治安が悪い地区で「危険だから行かない方がいい」と言われていた,という記述もある。
 御嶽の森はなくなったけれど,現在ようやく城岳は一応の平穏を取り戻したように見えます。
 それにしても,かつてここにあった,現在の県庁までを含む樹林──その壮大な幻影を脳裏に浮かべながら,いつかこのエリアを歩いてみたい。

「FASE63-4@deflag.utina3103#北森,城岳\美ら瘡ぬうとぅじ 遊ぶ嬉しや」への2件のフィードバック

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