FASE64-1@deflag.utina3103#世持神社,沖宮,後原ヒージャー小\赤い珊瑚の波散る島を

※mojin歌詞/花風の港

最終日,森口公園に再チャレンジ。すると,初回とは全く違う光景が広がりました。
[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
     /負債 245
§
→三月二十五日(一)
0958A&W
ハムエッグサラダサンドセット370
1115すば家うるかそば
軟骨煮付定食550
1145最強食堂
フーチキナー550(1470)
2100アガラサー(ミックス)250
[前日日計]
支出1500/収入1720
負債 220/
[前日累計]
     /負債 25
§
→三月二十六日(二)


沖縄セルラースタジアムと陸上競技場の間

走は早かった。
 0724。病み上がりながらペダルを踏めば,国場川にかかる明治橋はすぐ越えた。対岸すぐに沖縄県縣護国神社の鳥居。
 でもここからじゃ入れないらしい。一本戻ってファミマ手前,河岸の緑地に左折。
 壺川駅からの歩道橋の対面を右折,ここから奥武山公園に入りました。
 陸上競技場を反時計に回り込む。すると,そこまでの健康的な光景とは全く異質な不気味な池が現れる。
 この後ろの丘らしい。自転車を停める。0738,世持神社。

持神社
〔日本名〕沖縄県那覇市奥武山町
〔沖縄名〕同(よもちじんじゃ)
〔米軍名〕-

▲エリアマップ(神社は赤点の場所)
※ 奥武山総合運動場/エリアマップ

非,地図を広げてみて下さい。
 この場所の相は異形です。
 空港方面へ往来する車両やゆいレールからは,内地のどこにでもある運動施設にしか見えない。その中,というか中心部に,忽然とこの原初の自然が残ってる。
 これも内地で見慣れたタッチの公園マップを,次に掲げます。この南が,この後向かった琉球八社にして,人によっては最恐の心霊スポットと称する沖宮です。

「みなと村」前の時代

▲0738池と丘

覇市街から南,漫湖への水路をまたいだこの広がりが何だったのかと言えば,前述の「みなと村」の跡です。本体部だったと言ってもいい。
→前述小レポ:戦後の松尾一丁目
 けれど,世持神社の一角に残る「野生」は,そのもう一つ前の時代のものらしい。戦後の沖縄の喧騒の中,この森はそれでも残されたものと思われます。

奥武山はその昔、旧那覇の南端を切る国場川河口に浮かぶ中州(島)であった。そこは鬱蒼とした森に覆われ、軽々しく人を寄せつけない神聖な地とみられていた。

世持神社物語
世持神社

▲0742登る

り切った丘の上には,御嶽の風景がありました。
 中央に赤屋根。神体の鏡が光る。屋続きに左手にも社。右手に赤い鳥居のある祠。それぞれ白いビラビラの垂れる綱。これは嫌に和風です。
 中央の鏡の左右にはエビス石像が見える。

▲0746拝殿

振り替えればゆいレール

の神体も鏡らしい。ちゃぶ台に扇風機と居間みたい。
 右手には祭壇2つ。右に,右から恵比寿大明神,金比羅大明神,大国大明神とある。
 何となく和風です。
 前掲サイトその他複数に,世持神社の建物は沖縄戦で破壊された後,個人が神体を保管していたのが突如発見され,波之上宮に祀られたという記述がある。その神体というのは沖縄の偉人3名様らしく,それからするとここの神社は「ニセモノ」らしいんだけど──御嶽の場の空気だけはここが未だに本体だろうと信じられます。その証拠に──

▲0751奥手の祠

後方に回ると大木が立つ。
 周囲は半円の石垣で囲まれてる。この半円そのものが本来の神域に思えます。
 右90度の石垣上に「地頭火神」とある小さな祠。
 振り返ると,ビル街のただ中をゆいレールが走ってる。ネオンまで光ってるのが嘘のようです。

▲0747ゆいレールの走る(撮り損ねてるけど)壺川の町

沖宮サポーター専用ライヴ!

上競技場の反対側,つまり南側へとペダルをひとこぎ。
 0801,沖宮に着く。御嶽という感じじゃなく「施設」という風情です。


〔日本名〕沖縄県那覇市奥武山町44
〔沖縄名〕おきのぐう
〔米軍名〕-

沖宮公式HP
「明治四十一年那覇港築港の為・字安里に遷座。昭和十年国宝に指定されるも第二次大戦で焼失・戦後・沖宮創始の御祭神、即ち霊木の根は奥武山天燈山御嶽と神示を受け御神慮により昭和三十六年に通堂町に仮遷座。昭和五十年八月現在地に御遷座。」

▲0759沖宮サポーター

成31.4.26(金),沖宮サポーターと称するここの奉賛会が,今や沖縄屈指のミュージシャン日出克のスペシャルライブを敢行!
※ 公式HP/沖宮奉賛会へのご案内
「最恐スポット」との噂にビビッてまして,ここへ来るのはまだ二度目だったんだけど……なかなかポップな努力もされてるようです。

▲0801建物の奥へ

計回りに歩くと,八坂神社に到る。
 何というか,建物がわやわやと建ってて全体の構成が捉え難い感じです。本殿が本殿らしくなくて,妙な迷路感がある。

てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ

▲0803提灯の願掛け「全員合格」

高所に3体。右が「天照大御神/天受久女龍宮王/御先女天神代」,左に「恵比寿大明神/底臣幸乙女王/参天龍宮底母神世」
 真ん中の石には名がない!この辺りがどうにも怖い。

▲0807最高所の石3柱

の公式HPの「御祭神」には次のようにある。
天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ。)
天智門女龍宮王御神(あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ)
天受賀女龍宮王御神(てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ)
以上の御三神のまたの名を天照大御神と称える。
天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)
天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)
天芳子乙女王御神(てんぽうしおとめおうおんかみ)
天仁子乙女王御神(てんじんしおとめおうおんかみ)
天来子乙女王御神(てんらいしおとめおうおんかみ)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
速玉男尊(はやたまをのみこと) 熊野三神
事解男尊(ことさかをのみこと)

 ……とまあほとんど早口言葉ですけど,和神を除いて考えると,「龍宮」と「女神」の姿が朧に見える。沖宮が本来,那覇港に置かれていたことを合わせれば,宗像神や媽祖系の航海女神とおぼしいけれど──付加物が多過ぎてよく分からない。

 三石の左手には「筆の碑」。「筆司の功績を称えまつる」とある。
 さらに左には「琉球/うるま世界平和の島/沖縄」という新しい石碑。歌碑になってて「ききみあぐむが節 東方の大王/明けもどろ見れば/へに鳥の舞ゆへ見物/又 てだが穴の大王 おもろさうし十三巻八二五」。
 おおっ?さらに「すべての人の心に花を」が石碑になって建ってるぞ?

▲0818社右手へ

の最高部からなぜか右手へは降りれない。ぐるりを回る気でいたけど,どうやら「U」字状の道になってます。なぜじゃ?
 なので少し下から右手へ。「包丁司」とある碑。その先に「春日大神/天照皇大神/八幡大神」と和神が並ぶ碑。これも大岩の下にあって不思議な位置です。
 本殿右手に住吉神社の別社。その社基部の下に,潜り込むように「水神」の祠がある。最高所との関連でいうと,これも主神のように思えるけれど──ホントにここは分からない。
 やはりここは怖い,と感じる。Xの中でも,ここは理解のよすがが全くない。

▲0820ひっそりと「水神」

字小禄財産管理運営会

恐の後は「最強」で朝ごはんを……というプランでした。
 公園と沖宮のブロックを南に抜ける。
 ええっ?最強食堂は10時オープン???24時間営業じゃなくなったのかあ!
 仕方ない。ならばこの機会に──といういわば時間潰しで,小禄方面へは向かったのでした。

原ヒージャー小
〔日本名〕沖縄県那覇市小禄381付近後原共同住宅の北
〔沖縄名〕クシバルヒージャーグヮー
〔米軍名〕-

※ 那覇市観光資源データベース/ヒーザーガー跡
※ 沖縄テレビ/OKINAWA MONDE WALKER/2017年4月8日放送

▲0838ゆいレール下にガー

を登るペダルを停める。
 0837,「後原ヒージャー小」とある看板に目が止まった。
 眼鏡市場の隣に半円の井戸。大きさは直径60cmほどで,とても実用にたえる井戸には見えない。
 左手に小さなサイコロ状の祠。上に尖った小石が中にある。
 内地の水郷にありそうな綺麗なガー(井戸)です。立て札にある「字小禄財産管理運営会」が管理してるのか?そちらの方が気になったけれど──後に上記サイト群で見る限り,ここは水はほぼ欠けてて,もっぱら拝所として使われてるらしい。
 なぜだ?
 0842,小禄北交差点。西にも大きな亀甲墓。でも曲がったのは東でした。

■ささやかな補足:で?奥武山って何?

※ 沖縄戦史/小禄の戦闘(小禄海軍部隊の戦闘)
 今回立ち寄った奥武山の二ヶ所,世持神社と沖宮は,いずれも奥武山そのものとは縁がありません。世持神社は偉人の祠(の以前の設置場所)だし,沖宮は那覇港から何度目かに移されたもの。
 なのにこの風情,この「最恐」度ということは,むしろこの土地の素の神聖さ,はっきり言えば禍々しさを物語ってます。
 結論として……やっぱりよく分かりません。
 でもそれで終わっちゃ「何やそれ!」なので,少しだけ分かりかけたことを以下メモします。
「奥武」なる地名について,研究者は次のような見解を示してるそうです。

(略)いずれも沖縄県にある島である。かつて死者を弔った場所であったと云われており、いずれも崇められている。
 かつての沖縄では、人が死ぬと海岸のすぐ沖の小さな島に船で遺体を運んで、洞窟へと安置する葬送の習慣があった。洞窟の中が黄色い光に満たされていたことから、この島を「青(オウ)の島」(黄色のことを「青」とよぶ場合があった)とよんでいたとされ、そこから「奥武(オウ)の島」と書かれるようになったとされる[1]。

 事例としては,那覇市の奥武山を含む次の5つを挙げてます。
①奥武島 (沖縄県名護市)
②奥武島 (沖縄県南城市)
③奥武島 (沖縄県久米島町)
④奥武島 (沖縄県座間味村)
⑤沖縄県営奥武山公園(那覇市国場川河口)
※ wiki/奥武島
※※原典[1] 谷川健一「日本の神々」岩波書店,1999年
p161-162

 つまり「奥武」←青(おう)(←黄)←洞窟←葬送とするアナロジーです。
 洞窟を持ち出さなくても,五行思想に基づけば「青」は「春」「樹木」をイメージするのだから,風水の支配的だった沖縄で「御嶽」の島を「青」と隠喩するのは不思議ではないと思います。「死」との距離感は,沖縄では内地ほど遠くないから,御嶽であることは即,墓場を意味していい。
 もう一つ注目されるのは,陸に近い小島を「丸ごと墓場の島」にしてしまう発想が一般的にあった,という指摘です。
 思い出すのは,勝連半島の先に今回訪れた「藪地島」です。
 前述の①奥武島 (沖縄県名護市)の解説にこうありました。

本島と屋我地島の間にありいずれも橋で結ばれているが無人島。

「屋我島」(やがちじま)≒「藪地島」という連想です。
 極めてシンプルに考えると,「やー」は沖縄語で「あなた」の意味です。つまり「あなたの島」。
 死者の専住する島を,畏敬を込めてそう呼んでも自然に思えます。
 さて話を戻して「奥武島」≒「青島」です。
「青島」なら内地の宮崎県,佐賀県,愛媛県にあります。いずれも陸からすぐの小島です。
 さらに想像を逞しくすれば,中国・青州との関連まで考えてもいいですけど──
 奥武とは,そのように人間界の隣合わせの異界を指す隠語だったのでは……と,やはり漠然とした連想で本稿は筆を置きたいと思います。

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