/※5441’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:西遊記の町

淮安?誰も知らない町です。ワシも知らなかった。西遊記の町だと知ったのも前日です。
[前日日計]
支出1500/収入1450
     /負債 50
[前日累計]
     /負債1208
§
→四月三十日(二)
1408金中老鴨粉丝
金家福老鴨粉丝湯300
1536府市口小吃
青椒肉丝盖浇飯500
1605欧麦客
桂花酒酿150
1630麻油茶馓150
1720味東椰中式快餐
骨だらけ鶏肉煮物
小骨だらけ白身魚煮物
白菜と椎茸の水煮
白米飯550
[前日日計]
支出1500/収入1850
     /負債 350
[前日累計]
     /負債 858
§
→五月一日(三)


めぞん八点一刻

7時ジャスト,バス停・蘇北医院にスタンバイ。終点・汽車東站行きの19路を待つ。
 目前にお世話になった維也納酒店と85℃。いや好い滞在だった。
 ただここからは未知の町です。特に今日の淮安は得体が知れない。
 昨夜,予約した淮安の宿の近くをチェックしてたら呉承恩という人の旧家があった。──呉承恩?聞いたことあるぞ?──と思ったら西遊記の作者でした。
 なお,通説ではこの人は「西遊記に最後に加筆した人」ということになってて,作者だという点は相当疑われてるらしいけど……本稿ではその点で誰かを攻撃することはやりません。桃太郎やらラーマーヤナやらからの「盗作」説に基づく攻撃もしません。
 本稿元題は「ダイエット遊記」,西遊記はほとんどワシには神話に近い。史実として作者が誰でもそれは変わらんのです。

712 ,19路乗車。
 南通西路へ東行,育才小学,渡江路。
 0719,七二三所。何だその七五三みたいな名は?
 東に回って濠を渡る。跃进橋東というバス停名。
 ロータリー。武警医院という物騒なバス停。周囲は新市街の寂しい町並みが淡々と続く。路地にも深みは感じない。
 ここまで来て誰も席を立たない?……どころか,もっと客が増えてるぞ?通勤客にしてもこっちにそんなに人が動くのか?ここからは揚州大橋名が2つ,運河東路名が2つで終点です。
 橋を渡ると場末めいてきた。東区と言われる一帯らしい。ただ往来はほどほどにあるけれどぐちゃぐちゃになってる建物がちらほら。
 満員のまま東站へ。みんなここが目的か?0736。所要25分というところ。
 着いたところが市内バスのたまり場で焦ったけど,少し離れた場所の大きな建物が東站でした。

▲0803バス乗り場にて

点一刻!」とカウンターで告げられる。
 忘れてた中国語表現でした。あ,0815(八点一刻)か!
 ともかく割と早目の便のが買えた。淮安東站にも行くと確認済み。
──前の客は,南通行きを求め,空いてるのは最速で10時だと言われてた。そっちの経済圏との繋がりがやはり強いのか。
 荷物検査への列がえらく長かった。でも中国ではこれはやむを得ない。0802,ようやく15番站台前に着く。
 施設規模は大きいけれど,運用システムは古い,中国の典型的なバスターミナルです。需要の増に追いついてない感じ。
 同じ站台から0805鄭州行きも出てました。0810東台も。さらに隣からは0810济南?そうだ,少し遠いけど山東も北に隣接するわけです。途中駅に泰安とある。
 ところで現在時刻は既に0810,5分前なのにまだ表示が出ません。大丈夫か?

爆走!京泸高速

車2分前,0813にやっとずるりと車体が入ってきた。
 心持ち駆け込んで座席へ。珍しくも最後部の端っこ。この席は身動きとれないけど,実はかなり気に入ってる席です。最前列に次いで見晴らしはいいのに加え,車内の様子が見渡せる。
 前方TVモニターで,安全帯(シートベルト)着用の啓発ビデオが繰り返し流れるうちに,0819,出発となった。
 曇天。
 周囲はやはりビルは建ってるけど人通りはかなり寂しい。その中に,なぜかマイクロソフトのビルがありました。──金盾王国の中国に?
 まず南に出た。すぐ高速に乗れるらしい。江都7kmと表示。
 東の大きな河を渡る。
 0836新市街だらけの町。大きい!これが揚州の江都区という地区みたい。西の揚州駅のエリアだけでなく,東にもこういう地区を作ってるわけです。今見る限り工場がメインだけど,やはり数年のうちには──。
 0844,江都の高速入口。右に上海,左に北京と表示。感覚デカ過ぎ。
 0932,ぐっすりイッてしまった。起きて見回せば,左右とも一面の畑地。揚州近くの起伏は消え,全く平坦。水路や池は依然多い。百度を開くともう中間地点は過ぎてる。
 えらく速いな。
「京泸高速」という名のこの高速は相当高機能です。

▲0931バス車内にて

時を回った。もう20kmもないはずだけど……まだ左右とも緑野が続いてる。
 そんなに小さな町か?──淮安市の人口は490万,福岡県より僅かに少ない規模です。
 1009,おっ?高速を降りるらしい。北から西に進路を買えた。淮安東という木目調をあしらった高速ゲート。
 やはり町並みが薄いな。あと3kmほどのはず。淮安経済開発区と柱が立つ。
 1020,風景は閑散としたまま東汽車站に到着。所要2時間余。

~~~~~(m–)m淮安編~~~~~(m–)m


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※警告:疲れます!
こんなルート歩かないように!

宇宙へ翔ぶ大いなる道

▲1057淮安バスターミナル南道路

散としてるのはともかく,土地勘がまるで働かない。
 宿まで2km強のはず。町の様子が計りかねる。歩いてみるか。──という思いつきが運の尽きでした。
 BT前の華西路を西行。1034,梁紅玉路に交わる。商店は多い。酒の香。北行に転ず。
 1040,鎮海路。どの道も似たようにだだっ広い。そのまま北行。
 1048,翔宇大道を左折西行。何と……まだビルだらけのままの光景です。
 1057,南北の楚州大道。
 1100,古末口站と表示。「有軌電車」という交通機関のものらしい。バスではなさそうです。宿最寄りの礼字坝站からこの駅経由で華西路站まで2駅。
 一駅だけ,偵察がてら乗ってみるか?

▲1114翔宇大道。都会やがな……。

宇大道からの階段は,地下へ潜って…また昇る?
 中央分離帯に出ました。こりゃBRTだな。一駅で予約してた宿・J1のまさに目の前に着いたから,かなりラッキーな展開となりました。
 天は,いつのまにか晴天に転じてた。

ど…これまた!
 礼字坝站の交差点の北西角で煙草を吹かしつつ,呆然とする。
 交差点南東角に大潤発,北東に蘇寧易購。モールだらけです。うーん,老街はどこよ?
 1124,J1投宿。柱が部屋の真ん中にあるけどまあいい部屋で,こちらは問題なし。問題は……どう歩くべきか,この町は?攻め口がまるで頭に浮かびません。
 やむを得ん。とりあえず,今のところ一番確からしい呉承恩故居と河下古鎮を目指すしかないじゃろ?
 大道を南へ越えて歩きだす。

ご観覧し続けてください

▲1156,本日のお宿,じゃなくて呉承恩先生の故居

下古鎮とあるゲートをくぐったのが1143。道は城河街。南行。
 まっすぐに楼閣が見えてます。それが呉承恩博物館でした。

▲「ご観覧し続けてください。」お願い,少し休ませてくれえ。

西遊記関係文書館としては,ここに比する場所はないでしょう。
 呉承恩時代の文筆から近年の西遊記出版物までかなりな分量と多彩さです。

衛生にこだわる 文明に入る

▲「近寄り用便 近寄り文明」……どこの文明のことじゃ?

承恩先生の設定では,孫悟空生誕の花果山も淮安府海州(連雲港市?)に想定されてるらしい。今は大都会です。
 あと,市内に大聖橋というのが残ってる,というか出来てるらしい。もちろん孫悟空の官職「斉天大聖」にあやかる。
 中国では西遊記というのは,あの猿のヒーロー伝説です。

▲東の壁には変なお面,そして「衛生にこだわる 文明に入る」……だからどこの文明だよ?

雑記を幾種も著し 一時その名を震わした

色々有意義で,かつ笑えもした博物館ではあるので恐縮ですけど……
全般的にパチもん臭い
 やはりここが呉承恩の旧宅で,彼が作者だ,というのが博物館がここにある理由だから,そこのところが怪しい以上,ある種の遊園地として楽しむしかないでしょう。

▲呉承恩先生の銅像らしいけど,何の踊りだ?

西遊記を編んだ無数の作者の最後の人」として,この明末の偏屈な田舎の天才を偏向せずに受け入れるべきなのでしょう,我々後世の西遊記ファンは。1506年(正徳元年)頃から1582年(万暦10年)頃の生。字は汝忠,号は射陽山人。

性は敏にして智慧は多し、博く多くの書物を極めた。詩文をなし、筆を下ろしては清雅流麗を立成し、秦少游の風があった。また諧謔を善くし、ところに雑記を幾種も著しては、一時、その名を震わした

※ wiki/呉承恩による『天啓淮安府志』(天啓年間1621-27年)引用文

文明の衛生が自分から始まった

▲1222「文明の衛生が自分から始まった」とこんな端正な庭園に書かれると……「そうか,始まったのかあ」と相槌打ってしまいそう。

いうわけで,ひと呼吸つけてよかったけど,淮安の町にはほとんど近づけてません。
 腹も減ってきた。河下古鎮に向かおう。西へ。

▲「猴(猿)王小吃」

■メモ:西遊記のヒットと四遊記

 今回調べてて驚いたのは,西遊記には姉妹編があって,「四遊記」という総称で呼ばれてることでした。
【東】東遊記:八仙が東海を渡って妖魔と戦う物語
【南】南遊記:五顕霊官大帝・華光天王が天界を騒がせる物語
【北】北遊記:北方真武上将玄天上帝の出身と武当山の祖師が天地の神魔を退治する物語
 これは秘密でも大陸中国ローカルな話でも何でもなく,1987年(昭和62年)にエリート出版社から東西南北「遊記」が翻訳・出版されている。テレビドラマ「西遊記」の放送初年1978年の9年後です。
※ wiki/四遊記
 姉妹編は,明らかに西遊記の人気にあやかっての二番煎じでもう一儲けしようとしたものみたいなので,つまりそれほど西遊記の人気が高かったことは明らかです。それは明末から清初にかけての時代で,そのブームの火付け役の一人が呉承恩だった,あるいは結果的にそうなったということなのでしょう。

■レポ:西遊記という価値観のるつぼ

 では呉承恩を離れて,西遊記がどう形成されたのか。この情報はwikiに相当量がまとめられてます。
※ wiki/西遊記の成立史
 史実としての玄奘のインド往来は,629(貞観3)年の出国から645(貞観19)年の帰国までの16年間。
 元ネタ本が「大唐西域記」であることは明確な史実とされてる。ただし,玄奘はそんな自慢話を積極的に遺すほど自己顕示欲もなければ暇でもなかったでしょう。これは太宗の要請で,玄奘のメモや口述を旅の経緯を弟子の辯機がまとめたもの。

① 捲簾大将・沙悟浄参上

 この「大唐西域記」12巻は,西域往復の旅程は首巻と最終巻にのみ書かれており,他10巻はインド滞在中の記録で,つまり紀行文ですらない。
 だから,玄奘西遊の伝説化が認められるのは,いわゆる「慈恩伝」(正式名:大慈恩寺三蔵法師伝,玄奘の弟子の慧立の初稿,彦悰が補稿)から。ただしこの中には,玄奘の母親の夢に現れた法師が西天取経の運命を告げる話や,蜀の病人に化した観音菩薩から般若心経を受ける話などの創作はあるけれど,お供の猿・豚・カッパのキャラは出てこない。
 では三キャラの初発は誰かというと,何とカッパです。というかカッパは中国にはいないから,南宋代以降の沙和尚ですけど──これは日僧・覚禅(1143年生,没年不明)の図像集「覚禅抄」が9世紀末の説話として,玄奘の前世7度に渡る取経失敗を示す七髑髏を示し,帰国せよと脅した悪役として登場する。つまり仏教僧に試練を与える,仏教説話タイプのストーリーです。

② 斉天大聖・孫悟空参上

 唐末以降の華北の混乱を避け,玄奘の頂骨は10~11世紀(通説では1027(天聖5)年,寺伝では988(端拱元)年)に江南の天禧寺へ移される。この段階から南部での玄奘西遊伝説の形成が始まり,南宋代に「大唐三蔵取経詩話」が作られたらしい。ただ正解な年代も著者も不明,のみならず中国の原本はなく,日本に持ち帰られた高山寺保管版が半分だけ残る。
 この「詩話」中に,白衣を着るサルの「猴行者」というキャラが,17巻中4巻で玄奘のピンチに現れる。まだお供はしていないのである。

③ 天蓬元帥・猪八戒参上

 三人の弟子キャラが揃うのは,元朝代に流布したと推測される「元本西遊記」から(これも原本は存在せず,写しや別記録からの内容推定しかない)。この段階では,①主人公が玄奘から斉天大聖「孫吾空」(孫行者とも表記)に代わり,②常設の一番弟子になり,③二番弟子に沙和尚が座った上で,④三番第弟子として「朱八戒」が初登場する。
「豚」キャラは,密教系の摩利支天菩薩が乗る車を引く豚をモデルに生まれたらしい。これを含め,新登場の妖怪たちは元朝支配層側のモンゴル人やチベット人が信仰する密教イメージのものが多い。
 権力者側の価値観にウケの良い形に変化したわけです。この変化は,西遊記が前代までの玄奘の神格化という仏教説話の域を脱し,物語として独立したことを意味します。その過程で,元々サブキャラだった猿,悪役だったカッパ,さらには関係なかった豚までもが,常時出演の弟子役としてメインキャラに収まっていく。
 ここまで物語として自由になれば,明清代の完成期まではただ熟すのを待つだけになります。
 中国人の奔放な言語活動においても,玄奘西遊説話が現在の西遊記ほど解き放たれたストーリーに展開するには,無数の書き直し,書き足しと,観客側からのフィードバック,価値観の根本的な転倒を経なければならなかったわけです。そういう意味では,半分が異民族支配下にあった激動の中国史下でこそ編まれた物語が西遊記だったと信ずるのです。

A 私見:盗作議論を笑う

「西遊記_桃太郎」でググると無数の「パクり?」説がヒットしますけど,冒頭でも書いたとおりです。
 そういう発想は,あまりに貧困で真面目過ぎる。以上書いてきた西遊記形成の長い,ダイナミックな過程からすると偏狭過ぎます。
「盗作」と言えば盗作だけど,それは各国神話が類似してるのと同じく,イメージが影響し合ったり,原型イメージとして繋がってたりする,というレベルのものです。
 例えば,本当に呉承恩か他の一個人が机の上で一から捻り出した創作なら,桃太郎とかラーマーヤナが盗作元,などという単純な言い方もできようけれど,事はもっと大多数かつ長期間に巷説で磨かれてきた,遥かにダイナミックな創造物です。
 恥ずかしいからそういう議論は止めましょう。

B 猿を登場させたバックボーン:ラーマーヤナ

 もう少し建設的な方向として,なぜ猿と豚が登場したのか,もう一度考えてみます。
 沙悟浄は,仏教説話内から生まれ,本来動物や妖怪でない僧侶だった。つまり,唐代以降に登場する猿・豚よりはっきりと人間的で,その分現実的な存在です。
 猿は,宋代「詩話」のサブキャラ「猴行者」が主人公を食ってメインキャラ化したわけです。ではなぜ人気を博したのか?
 前掲wikiに曰く

限定的な登場とはいえ猴行者の人気は高く、特に泉州開元寺では西塔(正式には仁寿塔。1237年建造)の第4層に、三蔵と猴行者のレリーフが彫り込まれるほどであった。なお泉州は当時から国際港で滞留外国人も多く、東南アジアでよく見られる『ラーマーヤナ』(古代インドの長篇叙事詩)を題材とする影絵芝居なども上演されていたと思われ、泉州に多数存在したヒンドゥー教寺院には『ラーマーヤナ』で活躍する猿将ハヌマーンの浮彫も多く、寺院が無くなった現在でもハヌマーン像のみ他の寺院などで現存している。

 おそらくラーマーヤナのイメージは明らかに受けてます。ただしそれは,密教のルートだったり,東南アジアで咀嚼された二次的なものだったり,さらに福建で根付いてた猿信仰のような三次的なものなど,複数のルートでのイメージが再結合した形でのハヌマーンのイメージだと思います。

C 豚を登場させたバックボーン:密教摩利支天

 より謎が深いのは,豚です。カッパ・猿のようなサブキャラ段階もなく,なぜ突然に豚が来るのか?
※ wiki/猪八戒
「元々は、天界で天の川を管理し水軍を指揮する天蓬元帥(てんぽうげんすい)だった。西遊記よりも古い西遊雑劇などの設定では摩利支天の配下・御車将軍であったともされる。」
「ある日、天竺に経典を取りに行く人物を探していた観音菩薩と恵岸に出会い、(略)菩薩は猪悟能(ちょごのう)という名を与えて、取経者の弟子となるように諭した。」「西域より帰還の後、未来世に浄壇使者(じょうだんししゃ)となることを釈迦如来より約束される。(略)釈迦如来曰く、法事の祭壇を清める(つまり供物の残りを好きなだけ食べられる)役という事で、猪八戒の大食に配慮しての事であった。」

 一つには,弟子が2人いるなら3人目もいたほうが,というキャストの安定性から求められたのでしょう。でも,しつこいけどそれがなぜ豚なのか?
 定説は──というより神仙としての豚はこれしかないからでしょう──「密教系の摩利支天菩薩が乗る車を引く豚をモデルに生まれた」(前掲wiki,原典は磯部彰「旅行く孫悟空 東アジアの西遊記」塙書房,2011)とする。
 この摩利支天がまたとらえどころがない。ヒンドゥー神で読みは梵語でMarīcī, 漢語訳で「陽炎」「威光」。日本の武士の一部に崇拝され,例えば毛利元就はこの神を旗印にしたという。
 像形は元来は女神。後世には男神像としても造られている。で,本論に戻るけど月と「猪」に乗る。

▲wikiより:摩利支天(女神像,ギメ東洋美術館所属)

 あまり乗り心地はよさそうにない。さらに,その割に
スピードとか機能的でも期待できそうにない。
 そもそも豚が中国で吉承扱いされるのは,子沢山だから家が栄えそう,というイメージからです。乗り物には不適合です。
 そして同じ疑問に帰ってきます。おお摩利支天,あなたはなぜそうも豚に乗りたがるのか?

▲同(男像,
法雲寺所蔵)

 従って西遊記への豚登場に係る摩利支天黒幕説も,どうも説得力を欠くように思えます。
 個人的な結論としては,豚は元代以前に単独神として崇められてたから,たまたま空席になった三番弟子席に座った,という可能性です。
 台湾では猪八戒を単独で神として崇める。「豬哥神」(語感:豚のお兄さん神さま)と呼ばれることもある。──台湾は福建の古信仰の「生きた化石」を遺すことが多い。
 文献に残らない,庶民レベルのそういう神が崇められていたのではないか。
 さらにしつこく調べてくと,yahoo!中国語版にこんな記述がありました。

台北市迪化街就有了:
台北霞海城隍廟:台北市迪化街一段61號 供奉之神明有:城隍爺、城隍夫人、月下老人和被稱為公關神的豬八戒 (副神)

※ yahoo!/知識/請問台北那裡有豬八戒廟
 台北霞海城隍廟GM.の副神の列に連なってる。GM.に祭壇の写真があり,他の神が控え目な方々なのですぐ見当がついた。こいつでしょう。
▲台北霞海城隍廟の猪八戒?
 この神体の列に西遊記のメンバーはいないし,そもそも仏教寺院でもない。城隍廟は城,つまり都市のもといとなる廟で,権力側公認の土着信仰の宗教施設です。
 そういう所に祀られる猪八戒は,ではどういう性格の神か?なぜ文献に記述されないのか?その点に関し,これは高雄旗山の祠についての記述ですけど,同サイトにこうありました。

高雄縣旗山鎮南路旁有一座八路財神廟(略)廟內還供奉俗稱天蓬元帥的「豬哥神」,信徒以特種行業居多,求「豬哥神」比起求財神還多;(略)廟殿上還貼滿來參拜的特種行業業者名片,使得神聖的廟堂有如「攬客交誼廳」。
 旗山鎮八路財神廟供奉的神明,除了黑面財神外,廟內還有月下老人、韓信爺、文昌帝君,其中最引人注目還有俗稱天蓬元帥的「豬八戒」 有在上班的小姐要工作前一定會把自己打扮的光彩亮麗.就是想能夠遇上好客人也能夠讓自己能比別的小姐多賺一點辛苦錢.來參拜~天蓬元帥又稱為(豬哥元帥)就是想要祈求豬哥元帥娛樂場所祖師爺能暗中保佑.上班時男性客人多多來捧場給予的小費多多入袋(天蓬豬哥元帥)就是掌管娛樂場所的祖師爺.來拜一拜有關自己工作的(豬哥元帥祖師爺)或許會對妳上班的心情與收入有所改變

「特種行業」は日本語の水商売,狭義には売春業を指します。
 猪八戒神像前に特殊行業者の名刺が置かれる。「娯楽場」にもこの神像は祀られる。「小姐」(お姉さん)は化粧をして良客を祈るのだという。
 つまり,猪八戒は特殊行業専門神の色彩を濃く持ち,過去も長くそうだった可能性があります。──そうすると,猪八戒の「女好き」という属性の連想元も理解できてきます。
 ──変な暴露話をしようとしてるのではありません。台北霞海城隍廟は迪化街の北端,この辺りは艋舺を凌ぐ貿易港だった場所です。貿易港には必ず女街があった。
 猪八戒の単独神としての性格について列記してみると
① ヒンドゥー神の摩利支天(本来は女神)を運ぶ役で密教の造形に登場
② 官位・天蓬元帥は天界の海軍艦隊長官
③ 売春業の専属神としての霊験あり。交易港の民間信仰だったとも推測
④ 台北や高雄の海辺に,町の創始に関わる神として祀られる。
「運搬」「海水路」「女性」のイメージが折り重なります。
 連想されてならないのは,戦後の食糧難の沖縄にハワイから送られた豚です(※FASE60-4@deflag.utina3103/海から豚が来た日)。豚肉食の民族の移住時には,繁殖力旺盛な豚を新生活の必須財産として連れ航海したのではないでしょうか。
 ぼんやりとした焦点ですけど,結論として,海外移住者集団の卑俗な信仰として豚神の原型がまずあった,と推定されうると考えます。それが単独では信仰として発展させにくかったので,密教との混淆で女神・摩利支天の乗り物になった。さらに西遊記の元代再編時に猪八戒になった。

 西遊記に流れ込んでいったイメージや価値観の多様性は,圧倒的なものがあります。純然たる取経仏僧の史実に,チベット仏教の影響を受けた沙和尚,ハヌマーンのイメージを何層にも重ねた猴行者(孫悟空),そして航海民のあまり公にしにくい信仰から立ち上がってきた豬哥神(猪八戒)が重なる。
 西域への偉大な旅行に比するほどの,多重に重ねられたイメージの変遷を各キャラがそれぞれ経ている。西遊記の物語としての逞しさの所以はここにあると思われるのですけど,どうお感じになりますか?

「/※5441’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:西遊記の町」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です