GM.(経路)
目録
西の方,古鎮へ遊ぶ
呉承恩博物館での休憩を終え,1229,竹巷街へ西行する。
人気はない。街並みは古びてきたけれど生活の気配がない。これは征収区(立退地区)の空気です。
曲がってみる。通り名の表示は贾大門街とある。
最近まで老街があったんだろう。廃屋の屋根の甍がかなり古めかしい。
1238,T字。南北の道に湖嘴街とある。左折南行。
散髪屋は営業中
片時,息を飲む。
寂しい文化街です。観光用の手を入れてしまってるけれど,それが半端で商店も話題のカフェもないから人も来ない。観光地としては失敗してる文化街です。
にも関わらず,空気と,道の震えと,それだけで枯れた重低音を響かせる。土地としては本物の古鎮です。
散髪屋がある。これは観光用とは思えない。
ジャカルタやシンガポールの中華街で見たような,何も現代に合わせる気がない,変える気もなく経営してる散髪屋の風情です。
そんな感覚で普通に生活もしてるらしい。
GM.ではこの辺りは完全な空白で古鎮の文字するないけれど,百度地図ではいくつかポイントが落ちてます。
これを見ると──
この散髪屋が地図中の「玖瑰理发」だったとすればですけど──この裏手には三条巷という裏路地が伸び,カフェやレストランが並んでる。こういう設計図を書いてたけれども,ということでしょうか?
三条巷に中国夢
三条巷という京都めいた呼び名が面白いので,この時途中で迷いこんだ裏道をそう決め付けて呼んじゃいましょう。
そこはこんな感じでした。
危険を感じるほどのノーマンズランド状態です。
ただこれは,この道のくねり方や家並みの基盤の豪勢さは,ここが往時の活況を経ていることの微かに匂わせます。
この古鎮の表通りが活況に満ちてた時代には,当然この裏通りに生活者の往来が溢れてたでしょう。
▲1242電飾の痕跡もある曲がり角
でもこの道は行き止まりでした。
というか,住む者の感じられない家の間を抜ければ向こうに行けそうですけど,その向こうにもあまり人家の気配はない。
202人の役人の郷
古称「北辰镇」。春秋戦国から始まる25百年の歴史を有す。明清代に二百人余の官吏を産した「進士の郷」。
河下古镇,曾名“北辰镇”,(略)古镇形于春秋末期,距今已有约2500年历史,明清两代这里曾出过67名进士、123名举人、12名翰林,素有“进士之乡”之称。
※ 百度百科/河下古镇
富む人多し,食客もまた多し
河下志という明清代らしき文献によれば,路地108,橋梁44,庭園102,門構え63,祠55。
据《河下志》载:当年河下有108条街巷,44座桥梁、102处园林、63座牌坊,55座祠庙。
河下が重きを成したのは文化・軍事・塩商い・中国医学・食文化・仏教研究の6点。
河下有六大特色:文化重镇,军事重镇,盐商重镇,中医重镇(山阳医学的发源地),美食重镇(淮扬菜的发源地)还有佛学文化。
中医では山陽医学の発祥地とされる。全く分からんけど「温病学」という分野の第一人者・吴鞠通という人が清代にこの土地で開業,「温病条辨」なる中医四大経典の一つを著しているという。
※ 百度百科/吴鞠通中医馆
あと食文化では「淮扬菜的发源地」(淮揚料理の発源地)と紹介されてる。歴代「富人多,食客多」(金持ちと美食家が一杯)だったからだというけど,眉唾かも知れないけどそれだけ景気は良かったんでしょう。
河下古鎮南端のゆんぽくん
という訳でいや良い処でしたなあ。1255,河下古鎮南入口の階段を上がると──河。
やはり周囲は閑散としてます。西には豪華絢爛な禅寺が見えたけど,もうげんなりしてきたのでバス停を探し初めてます。
──この寺が,河下仏教の根拠・聞思禅寺でした。原名「通源寺」あるいは「大悲庵」という唐末に始まる寺院でした。何度も洪水で破壊され現在の建物は新しいけれど,それでも清朝康熙帝時代の建。
1306,蕭湖景区のバス停の路線図から遊2路を選ぶ。とにかく街中へ入ろう。うーん,下車は淮安府署あるいは周恩来記念館南門かな?
バス待ちの空いた時間,対面の河が何かよいので上の写真撮ってると,バス停にやってきたおばちゃんが「ユンホユンホ運!」と怒鳴ってくる。
──ゆんぽくん?(by西原理恵子)
いや?語気が強いし訛ってるけど「運河運河」と言ってるらしかった。
それから「この運河は黄河から淮水を結んで……」とバスが来るまで誇らしげに長々と講釈を聴かされたのが記憶に残る。当時は「はいはい静かにしてようね」状態だったけど──確かにオバハンの誇るのも無理はなかった。
この運河こそ──
京杭大運河,掘り初めの一本!
▲淮安河下を通る邗溝の位置
(1)〜(4)が大運河。青は文帝が建設した大運河、赤は煬帝が建設した大運河。
(1)=永済渠 (2)=通済渠 (3)=山陽瀆(邗溝) (4)=江南河
※ 百度百科/京杭大運河
京杭大運河中,最初に造られた邗溝だったのでした!
赤壁の戦いなど北中国の勢力がなかなか南中国を征し得ず,漢滅亡後,長きに渡り南北に分断されていたのは,淮水・長江流域に北から兵員を容易に展開できないことに要因がありました。隋建国者のした楊堅(文帝)は,南の陳を完全征服する前に,この問題を淮水-長江間を直結する水路を開鑿することで解決しようとします。
587年,邗溝(かんこう)完成。その僅か2年後の589年,陳を滅ぼし4百年ぶりの南北統一を実現。──この後に続く煬帝の亡国的な運河延長工事から,暴挙という印象の強い京杭大運河ですけど,これがなければ随唐より前の状態のまま中国は南北に分断され続けていたかもしれません。
そして河下とは,邗溝北端,淮水から長江への運河の北入口に当たる要地です。
オバハンの誇らしげな声色にも無理はなかったのでした。
■小レポ:もう少し正確に「邗溝」のことを語る
中国,いやひょっとしたら人類最初の人口運河:邗溝は,本文に簡単に書いたいわば教科書的解釈より,実際はさらに複雑な歴史を経ている,というのが通説です。
まずは──
① 随・文帝は運河を最後に掘った人である。
何か西遊記における呉承恩みたいな言いぶりになりますけど,つまりは邗溝を掘り始めた人じゃない。
では掘り始めたのはいつの誰か?というのは,BC486年の(春秋戦国)呉だというのが通説になってる。次の記述が「左伝」にあるからです。
《左传》记载:“哀九年,吴城邗沟,通江淮。”杜预注云:“于邗江筑城穿,东北通射阳湖,西北至末口入淮。”
※ 每日头条/古末口,淮安城市的起源
ただそうなると,そもそもの大運河の目的,兵力展開のためというのが分からなくなる。運河が秦による中国統一以前からあったのなら,漢代以降の兵力展開は容易だったはずで,赤壁の戦いその他で北中国勢力が難渋した理由が分からないし,呉の千年も後に随・文帝が掘削したのも謎になる。
だから,呉の運河は,朽ちたか,あるいはまだ細かったのを,随代に太く連結されたものにした,というのが通説的な解釈になってるようです。
とすれば,最初の大運河・邗溝は千年かけて「ゆっくり」掘られたことになる。
なのに,その延長の何倍も長い京杭大運河を,第二代煬帝が一気に掘り抜いた──というのがまた分からない。一度太い,実用的な運河が出来て,その有用性が認知されたから,ということなのでしょうか?
② 邗溝北端「末口」はどこにあったのか?
この後何度か触れるけれど,徐州と淮安の間には廃黄河という途切れ途切れの水流がある。
清代まで黄河が通っていた水域で,今は北へ移ってしまったからその跡だ,という風にあちこちに書かれてる。
淮水も,今は淮安の西の洪泽湖を東端にしていて,淮安を通ってるのは正確にはこの湖と黄海を結ぶ「淮河入海水道」という現代の人工河川です。
つまり,邗溝が淮水と長江を結んでいたと言っても,淮水も黄河も何度も流れを変えてしまってる。だから,邗溝北端入口が河下古鎮だった,というのもいつどんな流域時になのかで大幅に状況が変わってくる。少なくとも,河下古鎮が25百年間,常に運河の北端だったわけではない。
ただ,清代まで現・廃黄河のラインに黄河があったのだと単純に考えると,その一時期にはこの淮安,おそらくは河下古鎮が,黄河-淮水-長江の三大河川の結節点にある,という状況が起こったのかもしれません。
そう考えると,この交易都市は,河川流域の変化によって,栄えたり滅びかけたりを何度か繰り返してきた……と考えるのが妥当なのかもしれません。
という辺りが,前掲每日头条記事にはかなり掘り込んで書かれてて,例えばこの時の宿の最寄り駅名「礼字坝」という不思議な地名も,「五坝」(「坝」は「ダム」の意味)という淮水を治水する五基のダムが築かれ,個称としては「仁义礼智信」の五字を付けていたことから来るらしい。細かく分析してるんですけど……すみません,ここは語学力的に無理でしたけど,どうも本当に断片的な事実しか分かってないみたいです。
③ 25百年の古都・淮安は存在するか?
漢滅亡後,随が運河を開削(又は修築)するまでの4百年,淮水と長江の間は「赤地千里」と表現される戦場だったらしい。この間,南北の諸王朝がここを舞台に押しては返したわけですけど,舞台の方は堪らない。
この頃に戸数百個の「淮安県」という名前が記録されてる。これが淮安の最古の用字という。
魏晋南北朝时期,市境长期处于战争和对峙的前沿,建置紊乱,隶属多变,今市区码头镇、淮城镇其时均为军事要塞,多设州郡治所,为边帅驻节之地。长年战乱带来的是“江淮之间,赤地千里”的凄惨景象,经济和文化遭到严重破坏。南齐永明七年(489),割直渎破釜以东,淮阴镇下流杂100户置淮安县,“淮安”之名始见。
その後,淮安の用字が見られるのは元代の「淮安路」のみです。それは現在の「淮城镇」にあったという。これがまさに今回宿に選んだ一帯でした。→淮城鎮:GM.
この元と金が対峙した時代にも,この流域は戦場になり,荒れている。
南宋和金、元对峙时期,市境再度成为前线,为双方反复争夺,建置亦复紊乱多变。元代,境内先后置淮东安抚司、淮东总管府、淮安路(治今淮安区淮城镇)。淮安路辖境包括今苏北地区大部和皖北一部。
それから明清まで「淮安」用字は道の名に僅かに出る程度。それが,明の「淮安府」として表看板になる。だから実質的な「淮安」用字は明以降と捉えるのが妥当です。
淮安府の主な行政機能は「漕运总督」。おそらく明初には前期倭寇からの河川網を利用した縦深陣地地帯の
防衛軍だったでしょう。
明代淮安府辖山阳、清河、安东、盐城、桃源、宿迁、沭阳、睢宁、赣榆、邳州、海州,计9县2州,范围包括今苏北五市绝大部分地域。其间,还有漕运总督、南河总督驻节淮安。漕运总督还经常兼巡抚江淮,节制淮(安)、扬(州)、庐(州)、凤(阳)四府及徐(州)、滁(州)、和(州)三州,管辖范围包括今江苏、安徽二省的长江以北广大地区。
そういう因習ある王朝支配側の名称なので,解放後は使用されてません。行政区域名が「淮安」になったのは実に今世紀に入ってからです。
2001年,江苏省政府实施“三淮一体”战略,地级淮阴市更名为淮安市
※ 百度百科/淮安
何が言いたいのか?
淮安のこの中心性や輪郭のなさ,その所以は,この「町」が時空間に占める蜃気楼のようなとりとめのない在り方に起因してるようなのです。
淮安25百年の歴史というのは,日本のような幸せな島国のそれではない。少なくとも漢末~随初と元初の二度,ここはノーマンズランドでした。それを挟んだ時期にも大都市が栄えた形跡はなく,水路の結節点として軍司令部が置かれた,という正確にはそういう記録があるだけです。
そうすると──明清に河下古鎮が栄えたのは事実としても,それ以前の歴史は,少なくとも継続的に営まれたものではない。
淮安という町は,そのように,歴史と水流が焦点を結んだ極めて稀な時期にだけ,まさに蜃気楼のように存在した。他の時期には事実上存在しなかった町かもしれないのです。
以上,長々と書いたのは,そういう「町」の存在形態が,我々日本人には想像の及ばないものだからです。中国の「町」にはこういう形で「存在」してきたところが幾つもある。そうでない,脈々と営みを継続できた町の方が少ないくらいです。
④ 明初・淮安城はどこにあったのか?
こうしてようやく時代が絞られました。──淮安が明確に繁栄した唯一の時代は,明初。揚州・蘇州・杭州と並ぶ四大都市と呼ばれた時代です。
ではこの時代,淮安城はどこに存在したか?
やはり根拠史料が明確でないけれど,wikiから拾うと──
明および清の時代、水運(漕運)は復興し、街はふたたび繁栄の時期を迎えた。特に明以降海禁が行われ海商が規制されると、国内物流は海運から内陸運河輸送へと重心が移り、一帯は運送や商業で栄え、河川や運河の管理と警備を行う漕運総督が置かれた淮安府(淮安区)は行政の中心ともなった。
(略)東晋の祖逖が建設して以来の1600m四方の古い城郭都市は老城と呼ばれた。北宋代に老城の北1000mの位置に、1000m四方の新たな城郭都市・新城が建設されている。明代には倭寇から街を守るため、二つの城郭都市をつなぐように長さ700mの城壁が二つ並行するように建設され、その中の町は連城(聯城)と呼ばれるようになった。こうして、老城・連城・新城の三つの城郭都市が連なる独特の構造の街が築かれ、(略)新城の西門外には淮北の沿海部で生産される塩を集積・検査し長江流域や淮河流域各地へ送る「綱塩」(綱鹽)があった。
※ wiki/淮安区
※ BTG大陸西遊記/江蘇省淮安市
まず,位置情報以外の要点は,淮安の強みだった水運拠点としての発展が①海禁に伴う内陸水運への急激な転換を背景にしているとある。
さて位置ですけど,なぜか既存の図面がヒットしない。考古学的に確証が薄いからと思われるけれど,ここは素人の強みで,強引に線を引いてみます。
まず,全体の構造は②老城(東晋)-聯城(明)-新城(北魏)の三連の城の連なりだったこと。──それまでの歴史上建設された防衛資源を総動員する形で明代に連ねた訳で,その理由は揚州と同様に対倭寇防衛とされてます。
では次に個別の三城の位置です。③老城は1.6km四方。──市内の鎮淮楼が中心と仮定すると,一応位置が特定できます。
④新城は1.0km四方。──これだけでは座標がとれませんけど,日本語wikiが参照してるらしい中国語維基(日本語になぜないのかは不明)には,河下が西門外にあるという記述があります。これを西外壁中央と取れば,やはり一応位置特定できます。
明清期間新城西門外的河下,還是綱鹽的屯積之所,淮北沿海所產的鹽都在這裡經過校驗後運銷長江、淮河流域的湖北、湖南、江西、安徽、河南以及江蘇六省,統稱為「淮鹽」。
※ 維基百科/淮安區
⑤聯城は老城と新城を結ぶ0.7kmの壁を有した。──つまり前代の2つの城が特定できてれば,位置は特定できます。
と,考古学や史料に基づかずに単純に幾何学的的に描くのは可能です。そうして落としたのが次の図です。
▲明初の淮安府三連城の推定位置図
政治の中心として淮安府の置かれた老城と,水運の重要港湾・河下を無理矢理に接続する形で,南北に歪に長大な城が築かれたわけです。
発想は揚州小秦淮河と同じですけど,規模と構想が段違いです。明初にこれを対外交易から内陸水面水運への転換の核として築き,その対外姿勢が変わらなかった清代まで機能させた。
色々なことを考えさせます。倭寇の勢力がそこまで強大だったのか?明以降の海禁は内陸水運の興隆という攻めの面を持つ政策だったのではないか?そして,河下や揚州での塩商の興隆は,対外交易以上の国内経済統制の中での現象だったのではないか?
ただ,長くなりすぎました。一度筆を置き,冷ましてから最考を重ねたいと思います。