/※5444’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:楚州中学育才路

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※南へ潜った道は行程取れず。

淮安の根本的な想定外

▲毛毛虫绁品屋(スイーツショップ)。なぜあえてそのネーミングに?

察しの通り,淮安では勘ピューターがハズしまくってます。
 淮安は一泊しか取ってない。この日は十中八九が空振りで,それほどこの町が地歴的に想定外だったとは言え,遮二無二歩き回ってただけでした。
 けれどこういう大振りの結果で,所詮よすがのない中国歩きは,何とか身になるものが見つかってる訳で──さてどうなりますか,請うご期待!

▲1353やっと見つけた南への路地

へ潜りたい。でもなかなか道が現れません。
 市内中心らしい鎮淮楼を過ぎる。他の町での鐘楼とか鼓楼に当たる場所でしょう。それを過ぎた辺りまで進んで──
 あった。1351,バス停中国銀行の南の路地へ。振り返ると,この北にも老街臭い道が続いてる模様。

金湯,岳廟は淮安の華?

▲1354金湯浴室(撮影方向は北)

湯という銭湯。道は岳廟西街。
 上海だったら間違いなく老街ど真ん中の事物です。
 この「岳廟」は,後で調べても未だ何か分かりません。BRT(有軌電車)の駅にも「東岳廟」というのがあり,東西の地名になるほどのランドスケープだったはずなのですが……。→巻末小レポ参照。金湯については次章同小レポ参照

▲1356岳廟西街。土蒸した路地

折東行。1356。名は岳廟西街のままです。
 入る路地がない。──と未だ揚州を引きずってます。淮安の城下東部は,都市計画が先にあったのでしょう,揚州のような自然発生的な迷路はあまりありません。

▲1358家門の奥へはいい道が続くのに

時を回った。淮安区実験小学。ガキどもの昼飯御用達の店舗がこういうところには──と期待したけど,ええ~こんなところにすら飯屋がないのか!
 東長街に出る。

涙が出そうな鴨スープ

▲1401東長街。夫婦肺片?──ともう昼飯の事で頭がいっぱい。

淮楼東路に戻る。東行かなあ。見た感じはあまり期待が持てないけど,東門辺りの道がくねってる界隈に期待してました。
 でもとにかく飯!道沿いの店をようやく見つけてビバーグします。この時間でもパラパラと客の入ってる店内,悪くはなさそう。
1408金中老鴨粉丝
金家福老鴨粉丝湯300

▲1412ようやくありついた鴨血

かった…。
 涙出そうなほどでした。
 出汁が深すぎる。技巧的にコントロールして出した出汁じゃなく,内臓から軟骨から血から複合的に出しまくってるんじゃないか?
 でもってこの鴨肉,特に肝が旨すぎる。ざらりととろけるような歯触りと肉肉しさ。
シェンツァイも効いてるけどもう脇役です。
 重いけれど軽妙さは失ってない。そんな奇妙な美味です。

▲1441育才路入口辺り

僕らはちびっ子党員

に満たされて店を出て,足を迷わせる。
 うーん,結局ないなあ。南へ戻ってどっかの路地へ入ってみるか。いや?
 育才路という嫌な名前の道を北行してみる。うーん,いい感じなんだがなあ。水路も綺麗に蛇行してるのに──

▲1443育才路突き当たり近く

州中学という学校の門前町でした。──春秋の楚の国名をまだ意識してるとは──とその時は思いましたけど,これは少し違ってました。→巻末小レポ参照

▲1444学校に押し寄せる迎えのバイクと,廃棄されかけた古家屋

な感慨にふける間もなかった。下校時間らしく,出迎えの親子さんが押し寄せてきてる。
 西へ逃げる。

▲表彰されたちびっ子共産党員

長街へ再び出た。この辺はやや落ち着いた町並み。北行。
 1454。さて……何事もなく東門大街に出てしまった。ここもどーもぴんと来ない。こうなったら…。

▲1451惜しい家並みは単発では多いのに……

■小レポ:東岳廟にヒーロー大集合

 最初に見た地名「岳廟」に惑わされました。「西岳廟」は市内にありません。ここでの「東丘」が淮安から北北西5百km,泰山を指すからです。──道教の五岳,东岳泰山・西岳华山・南岳衡山・北岳恒山・中岳嵩山の東岳です。
 つまり道教寺院。東門前のロータリーめいた場所なのでこの時の行程でも見えたはずですけど……
 清同治代の著「重修山阳县志」に「东岳庙始建于唐贞观年间 相传为程知节所建」とあり,唐貞観が627~649年なので創建14百年です。
 ただし,13百年を越えたところで破壊されます。例の如く文革です。1958年に淮安県人民政府が織物工場にしてしまい,神仙像の悉くが壊されてしまう。今あるのは,2006年までに行政によって改築されたもの。
 だから,元の神仙が揃ってるかどうか怪しいですけど,「十帅」と称される像が並んでるそうです。この面子が凄い。地方ゆかりのヒーローが勢揃いです。
①东为秦武安君白起
②汉淮阴侯韩信
③蜀丞相诸葛亮
④唐尚书右仆射卫国公李靖
⑤司空英国公李绩
⑥西为汉太子少傅张良
⑦齐大司马田穰苴
⑧吴将军孙武
⑨魏西河守吴起
⑩燕昌国君乐毅
 そりゃ文革でヤられるはずです。
 余談ながら,ここにはかつての「鬼子」への呪いの話も残ります。──日本軍の淮安占領時,軍の偉い人が神馬に跨がり鞭を入れてドヤ顔。それから間もなく,日本軍の馬が次々と病死していきましたとさ,めでたしめでたし。

抗日战争期间,日军占领淮安,一度占据东岳庙,日军军官用马鞭打掉了马神的鞭子,很为得意。不久,日军的马相继病死了不少。当时人们都说:“这是遭神惩罚的。”这个传说反映了人民对日寇的憎恨。

※ 百度百科/东岳庙

■小レポ:21世紀にも復活したしぶとすぎる地名「楚州」

 変に感じたのは当然で,春秋の楚は湖南を中心にしたはずだからです。
 けれど,この春秋の楚は広大で強大な国でした。

① 楚の東遷

 BC7C頃の版土は次の通り。

 中国南部の内陸のほとんどです。現代の目でみると最強ですけど,当時の南部は辺境で,楚そのものが苗族系の王統だったとするのが定説のようです。
 この国が,下流の呉越を滅ぼして中原を窺おうとした矢先,西から秦の圧迫を受けて元の本拠・湖南域を失い,東へ遷都。BC260頃の斜陽時代には次のようになります。

 指差しの位置が最後の首都・寿春です。現在の淮南市,洪泽湖を挟んで淮安から2百km強の淮水上流です。
 つまり,楚は春秋戦国最末期には淮水域にありました。
 秦による統一後,楚の再興を建前に陳勝が興した張楚の都・陳はやはり寿春。その後に項羽が建てた西楚の都・彭城は現徐州市西北,もう淮安から2百km余まで近づいてきてます。

② 漢代「楚王」域と繰り返し復活する「楚州」名

 漢代初期のまだ郡県制が徹底していない時期に,主要郡国の連合が「呉楚七国の乱」を起こします。BC154。
 この時の反乱側第二勢力の楚とは,劉邦の兄弟・「楚元王」劉交の孫・劉戊です。その本拠は寿春と言われています。
 つまりこの漢初には,郡国の名称としての「楚」が淮水域を指すものになっています。春秋戦国末期の楚の領域名(あるいは建国時のライバル・項羽の西楚の国名)が継承されたものでしょう。
 しかし,この後がよく分からない。郡県制の徹底後に「楚」地名がこの地域の名称として定着したのかと言えば,次のように消えては現れを繰り返します。
(南梁)「北兗州」
(東魏)「淮州」に改称
(随) 「楚州」★に改称。ただし,592年山陽県に,さらに揚州に吸収
(唐) 山陽県に「東楚州」★設置。さらに625年「楚州」★に改称。742年に「淮陰郡」に改称されるも758年に「楚州」★に復号
(宋) 「楚州」★は淮南東路に属し山陽・塩城・淮陰・宝応4県を管轄。しかし1228年山陽県が昇格し淮安軍になりここに吸収
 雑感としては,王朝初期に復活してる。権力側にとってはかつての内乱勢力を連想させる国号として抹消したいものだったけれど,民の側は逆にかつての反中央の最大勢力名として憧憬され続けた名称だったように見えます。

③ 2001年「三淮一体」戦略下での楚州名の復活

 さて,話はようやく楚州中学に戻ります。
 略称「楚中」。「由淮安市教育局举办的江苏省重点中学、江苏省四星级普通高中」,淮安市が省の重点中学に挙げる普通科高校,地域のトップ進学校です。
 この高校の名前に「楚州」が冠されたのは2001年。

1957年9月,学校前身——淮安县淮城镇民办初级中学办学成立。(略)2001年,因“三淮一体”规划,校名变更为“淮安市楚州第二中学”。2002年,再次更名为“淮安市楚州中学”。

※ 百度百科/淮安市楚州中学 以下特記しない限り同じ
 楚州第二中学が翌年に「楚州中学」というモロの名称に再変更されてます。
 ここで「三淮一体」とは,周恩来の故郷に,それまでの淮阴市・淮安市・淮阴県(=三淮)を統合し,江蘇省にもう一つ最新の大都市を建設しようという構想です。

以周总理故乡闻名中外的淮安市将快速推进“三淮一体”的大城市建设,使之成为江苏省最新崛起的又一经济文化重镇。2001年江苏省地级市淮阴市政府实施“三淮一体”战略(即原地级淮阴市、原县级淮安市、原淮阴县“三淮一体”)

※ 百度百科/三淮一体
 この洪泽湖北東域に大都市圏が成立すれば,確かに上海広域と南京都市圏と三角形を形成し,江蘇省の都市圏域が北に大きく拡大します。現・淮安市もこの時に成立しています。
 同時に,ややこしいですけど元・淮安市は「楚州区」に改称。何度目かの楚州名復活です。
 その苦闘にはエールを贈りたい。ただ本論の文脈で注目したいのは,この戦略発動後10年を経て,淮安市楚州区が突然,「淮安区」に改称されてる点です。

2001年2月,原地级淮阴市更名为淮安市,原县级淮安市撤市建区,更名为楚州区。
(略)
2012年1月31日,楚州复名淮安,更名为淮安区。

※ 百度百科/淮安区
 そしてこの改称には,公式にはともかくネット市民は猛烈に反発してる。「好象楚州是黒種人」(楚州は犯罪人だと言うのか!)とか,とにかく感情的です。──内容からして地元民です。ネットが監視されてると身をもって知ってるのに,ここまで書いてる。ここだけでなく同種のヒットが相当数あります。

 2千年経ってこうなら,まず間違いなく過去もこうだったのでしょう。「楚州」名は地元感覚でははっきりとアイデンティティの源になってる呼称です。
 そういう意味では,本文に書いたのもあながち間違いではない。春秋の楚国と直結された自己認識を持った人々が,今も淮安に生きてます。

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