/※5445’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:南門大街の白い道

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※鎮淮楼東路からの北行路は,実際には韓信路の東だがGM.では道がない。

黒犬のパーマネントの影を追う

▲1503「風剪云」大仰な名だけど散髪屋か美容室らしい。夯轮寺巷。

湯浴室(→巻末参照)の路地から北に見えた道まで引き返してきた。北行してみる。1501。
 漕運菜場,市場らしいけどもちろん休み。
 道の名は夯轮寺巷というらしい。

▲1505えらくキレイにパーマネントされた犬が我が物顔に路地を行く。

夯轮寺巷は青龍橋の東北に接す

の音はする。井戸も見つけた。
 こういう「点」の老街は幾つか残ってるのです。ここなどはほぼ「線」にまでなってる。
 でも不思議なほど「面」がない。

▲1508不動産屋の並ぶ道

轮寺巷の記録として書いたり撮ったりしてますけど,僅かにヒットした情報からは,どうやらメジャーな呼び名は「金画士巷」らしい。夯轮寺巷と金画士巷の境に「青竜橋」という箇所が書かれるけれど,どこのことかは分からない。
──夯轮寺巷は青龙桥の东北に接す。金画士巷は南に。俗に金华寺。百姓巷は金画士巷の南に接し,俗に白线巷。锅铁巷は同入口の南に接す。

夯轮寺巷,青龙桥东北转。金画士巷,青龙桥南,俗讹金华寺。百姓巷,金画士巷南转,俗讹白线巷。锅铁巷,金画士巷头南转。

※ 文史淮安/金画士巷 乾隆《山阳县志》卷四“建置志·街巷”中の記載として引用

府市口名物?青椒肉丝は淮揚料理か?

分,滅入ってきました。
 1518,苑外園というところの商業区を通る。うーん。北行。中国漕運博物館。これは観光地そのもの。
 1524,その西へ。ああ,最初の老街。やはりこの辺りなのか。
 町が期待できないなら,せめて淮味が期待できる店がないか?と西門大街から東門大街を覗いて歩く。北門大街側に味東椰という中式快餐(ファーストフード中華)を見つけたけれど閉まってるらしい。それでもう一軒,明らかに人気店ではあるらしきこちらを見つける。もういい,入ろう。
1536府市口小吃
青椒肉丝盖浇飯500

▲1538え?それって淮揚料理?府市口小吃の青椒肉丝

題はメニューでした。
 どうも皆さんが頼んでるのは唐揚げみたいな奴なんですけど,それは淮味も何もないだろ?
 でも……メニューには他に料理っぽいものがない。仕方なくこちらを頼んでみたわけです。
 ところが!これがとんでもなく旨かった!

椒です!ピーマンがものすごく味わい深い。
 肉汁とか調味料がどうこうというのではなくて,ピーマンがピーマンらしいのである。
──ここのところが,何度もじっくり味わってみたんだけど,物凄く美味い,という以外に仕組みにも技巧にもどうしても理解が至らない。→巻末小レポ参照
 さてさて一応二食食えた。さらに食後のお飲み物などを──とその並びの街角にて。
1605欧麦客
桂花酒酿150

脂少なめ糖分低め 大層旨いが太らない!

▲謎の欧麦客。oh!my cupを文字ってるらしい。

れまた謎の多い味覚でした。シャーベットの中に溶け込んでるのは決して重苦しい味じゃない。果実っぽい旨味が強かったんだけど…結局何が何やら,という感じの味。でも確かに旨い。
 マンゴーにこの「桂花」を混ぜてるらしいんだけど,甘くないようで甘い。絶妙というか,普通のスイーツとは別のところから来る甘味なのです。
 後でHPを見つけたけど,その辺の秘密は何も触れてない。ただ「低脂低糖好喝不胖」の音にはハマった!
※ 餐饮资讯/欧麦客奶茶好喝吗?低脂低糖好喝不胖

▲1623とりあえず南行

真の傾きは心の捻れを表す,とは聞いたことがないけど,この写真程にはヘバってました。
 1621,南門大街を南行してる。意外に好い雰囲気の下町です。ただそれ以上がないから揚州で驕った目は失望してたんでしょう。
 それでもこんなんはちゃんと見つけてる。我ながら流石の食い意地です。
1630呉記茶馓
麻油茶馓150
 だけどこいつに驚いたのは少なくとも宿で食べてからのこと。なので詳細は巻末にて!

漁師の血がたぎる白い道

▲1646白い路地 仲良く歩く背が二つ

魚市口東街。漁師なら血がたぎりそうな道名表示に,1645,ふらりと入ってみる。左折東行。
 なかなか……かなあ。
 白昼。白い道,という印象が強く残ってます。

▲1648白い道。洗濯ものの影から二人乗りバイク

鱼市口という道も,この時は見つけれてないけれどあったらしい。
 大小揃えばここに魚市場があったのは確かです。そう思ってネットを当たると,こんな変なのがヒットしてきました。


※ 每日头条/淮安老照片:美国人拍摄的清末淮安城

代ははっきりしないけれど,清末の淮安をある米国人が撮ったものらしい。カメラに向ける頭にはまだ弁髪が巻かれてます。
 このイメージは,後になっては翌日の光景と重なります。宜しければ写真を頭の隅に置いといてやってください。

当たりはないのに色気はある

▲1650夕日に向かうバイクの背

651,T字に当たる。右折南行。楚州中学校西門。
──え?と今思って調べると,この時突き当たった東長街の向こうは,北にあった楚州中学本校の南校区という飛び地がありました。
 1658,南門到達。かなり大きい。──百度地図には古城墙遺跡公園とあり,楚州大道西に逆L字に濠が残る。城域のイメージがつかめた今考えると,老城南東角だったのでしょう。

▲1655南門通り(南巽路)

時を回ってしまった。
 1706,南門市場のバス停で不安だった帰路のバスを探すと,ちょうどいいのがある。──礼字坝付近には,62か69路で竹巷街,63路で新安医院。
 どうも淮安は空振りだったらしい。いやはや,捉えどころのない町だった。
 南門付近は奇妙にざわつく賑わいを呈す。当たりはないのに色気だけはあるから,ついもう少し,と歩きたくなる不思議な町。
 でも疲れた。69路バスに乗る。

▲1700妙に猥雑な界隈です。

■小レポ:金湯浴室と「鬼子の謀略」

 金湯浴室について,金画士巷の記述内に触れられてたので,二点だけ紹介しておきたい。
 まずこの銭湯の由緒ですけど,名称は巷の一字をもらった「清咸丰十二年」つまり1861年に創建。160年続く銭湯でした。
 ちなみに松山の道後温泉本館落成は1894年,別府の建替前の竹瓦温泉は1879年。
 前章の段で見つけれてないけど,「金湯」という額縁も宣统三(1910)年のもの。「宣统」帝とはもちろん最後の皇帝・愛新覚羅溥儀のことです。

据记载,金汤浴室建于清咸丰十二年,是淮安老城之中仍在营业的百年老字号澡堂之一。“金汤”澡堂石匾额由清末淮安秀才邵元寿题于宣统三年,碑高37厘米,宽94厘米,至今保存完整。

※前掲 文史淮安/金画士巷
 もう一つ,客観的には事後の噂話かもとは思うけれど,同サイトに記述されてる,ということは淮安では信じられてる小話を,記述のタッチも含めご紹介。
 どうも淮水付近は日中戦争の被害の大きさからか,日帝の暴虐伝承に事欠かない。ただ戦略的には,水運の中核たるこの町は確かにターゲットにはされたはずですから説得力はあります。
──1938年6月15日午後5時,「日本侵略者」の第三次市内爆撃。金湯浴室の北は重点爆撃され3丈の穴が開き,死者は数十名に及んだ。
 なぜこの回に城東部を爆撃したかというと,この午後,国民党33師団の師団長「贾韫山」ら幹部が金湯浴室向かいのレストラン「万来園」で軍事会議をしており,「日本鬼子」がこの情報を得て連雲港から出撃,「城东一带狂轰滥炸,杀害我同胞,烧毁我民房,给城东居民带来深重的灾难」したのである。

1938年6月15日(农历五月十八)下午5时左右,6架日机突然从东北方向窜入淮城上空,淮安城遭受到了日本侵略者的第3次轰炸。(略)金华寺巷金汤浴室的北边,落下一颗重磅炸弹,弹坑3丈多深;金华寺巷南边也都遭遇了轰炸,死伤好几十人。(略)日机这次为什么突然袭击城东一带呢?事后得知:这天下午,国民党三十三师师长贾韫山同一些高级军官,正在金汤浴室对门的一家著名菜馆“万来园”召开军事会议,日本鬼子得到情报后,从连云港出动6架轰炸机对城东一带狂轰滥炸,杀害我同胞,烧毁我民房,给城东居民带来深重的灾难。

▲神栖市ゆるキャラ「うぐぴー」:市鳥ウグイスの頭蓋を食い破り生えてきたピーマン(市特産)にもめげず笑顔を崩さないところが……ちょっと怖い。

■小レポ:ピーマンはアジアにどう上陸したか

 思い至ったのは,なぜここで青椒を頼みたくなったか,です。そう……揚州の蒋の店で,面に加え青椒を頼んでる男がいた。
 淮揚料理としての青椒肉絲??──でもこれは,調べてみても全くそんな事言ってる人はいない。単にあの男の好物だったのか?

① 中国共産党と青椒肉絲

 だけれど,この日,同じ疑問にとりつかれて調べてるうちに変な毛沢東の言述にたどり着いてます。──この料理,一般には川菜(四川料理)とされるけれど,なぜか湘菜(湖南料理)としても有名らしい。事実,青椒肉絲のふるさととしては,湖南と貴州が名乗りをあげてます。
 意外と出所のはっきりしない料理なのです。

吃饭时,毛泽东风趣地说:“啊,江西的辣子和湖南的一样辣,好下饭,炒得不错,色香味俱全。”

※百度百科/青椒肉丝
 毛沢東も青椒肉絲好きだった……のか?
 属人要素以外の記述はないか?と当たっていくと,何と共産党が出てきました。国共内戦で苦しい戦いをしていた,というか客観的には逃げ惑ってた頃の共産党です。
※ そば切り かはほり/細切り豚肉と青唐辛子の炒め~武漢料理(武漢市)の辛い味付けのバリエーション/青椒肉絲(チンジャオロウスー) 「この料理は、清末に裕福な家庭で食べられていたと言う記録があります。また国共内戦時(1927~1931年)に、追い詰められ、物資が不足していた共産党陣営で、好んで食べられていたそうです。」
 でも物資が不足したらなぜ青椒肉絲なのか?──これは少し置きます。

② 青椒肉絲 福建起源説

 もう一つ見つかったのは,青椒肉絲は四川広域料理圏で有名になったけれど,その大元は福建だったという説です。

青椒肉絲の起源は古くから豚肉を調理した福建料理に端を発するともいわれる。四川料理とされることも多いが、現代においては辛みよりも旨みを重視する広東風のものがポピュラーであり、オイスターソース(カキ油)、酒(紹興酒など)、砂糖などを使って甘辛く調味される。一方、四川風のものでは豆板醤や醤油などを使って辛味を効かせて仕上げられる。

wiki(日本語)/青椒肉絲
 これが最新の学説らしい。百度百科は紹介してない言説です。
 この観点に立つと,青椒肉絲はおそらく15C頃にまず福建で生まれ,同時に当時入植者の多かった(∵明末に清がジェノサイドをやったから)四川と,もう一系統,広東で普及した。

中国だけでなく、北米、ヨーロッパ、日本などの華僑により伝えられ世界中でポピュラーな中華料理として定着している。(略)多くの日本のものはアメリカスタイルの影響を受けているといえる。

※ 同wiki
 注目したいのは,では福建がなぜ初手だったのか,という点です。wikiは「古くから豚肉を調理した福建料理」だからというけれど,当然ながら青椒肉絲の特徴は「肉」(豚肉)じゃなくて「青椒」です。
▲唐辛子の伝播ルート

③ 唐辛子系食品の終着駅としての海域アジア

 ピーマンは中米を起源とする。唐辛子と一群の食物として,新大陸から15Cにヨーロッパ経由で旧大陸に広まった。
 その終着駅がアジアでした。
 韓国の唐辛子文化は,秀吉の朝鮮出兵時に伝わった,とするのは時代の一致からもう定説です。ただ,秀吉軍そのものでなく,(後期)倭寇が伝えた,という説もある。──これは韓国側からしたら同じ事です。大倭寇か小倭寇かの違いですから。
 唐辛子系の新大陸の食物は,当然海を渡ってきた。広義の倭寇,つまり海域アジアがその最終の受け手だったと考えるのが自然です。
 この観点に立てば,「倭寇」の事実上の本拠地・福建が中国への最初の上陸地点だったこと,その後に華僑ルートで広まったことは,ごく当然のものと理解できます。
 さて淮揚の地域に話を戻します。
 揚州,そしておそらくそれ以上に淮安府は,水上海運の要として,闇ルート,あるいは中間者を介しては海域アジアと結ばれていたでしょう。
 福建から華僑が海外に伝えたのと同様に,淮揚料理に唐辛子系新食材が溶け込んで行くのはむしろ自然な成り行きに思えます。
 そして広東,淮水流域,湖南,これらの地域は,共産党が創早期に逃げ回った,あるいは長征を敢行したルートそのものです。どちらかと言えば全うな中華食材とは見なされなかった唐辛子やその系のピーマンなどが,「物資が不足した」軍旅での食生活に取り込まれていった,ということではないでしょうか。
 以上はもちろん作業仮説です。でも,(大小倭寇を含む)海域アジアや共産党の長征のような人間集団の広域・長距離移動が,食文化に与えるであろうダイナミックな影響については,もっと重視してよいように思います。

④[資料]アジアへの唐辛子伝来時期と華商活動期

コセウノタネ尊識房ヨリ来。茄子タネフエル時分ニ植トアル間、今日植了。茄子種ノ様ニ少ク平キ也、惚ノ皮アカキ袋也。其内ニタネ数多在也。赤皮ノカラサ消肝了。コセウノ味ニテモ無之、辛事無類。

※ wiki/唐辛子 奈良興福寺塔頭 多聞院(長実房英俊)住職日誌『多聞院日記』文禄2年(1593年)記事として引用

1567年ごろ,中国海商が漳州海澄県から東南アジア各地へ渡航することが許されてから,1656年に清朝が鄭氏勢力の海上貿易を封じ込めるため「遷海令」を発令するまでの約90年間が,華人海商貿易の繁栄期であった。

※ 中島楽章・桃木至朗「第10章『交易の時代』の東・東南アジア」2(4)華人ネットワークの拡大 桃木至朗編「海域アジア研究入門」

■小レポ::「馓」──揚げ麺はスナックじゃねえ!

 宿で食べた。
 店頭で確認した通り,見かけはベビースターの巨大版なんだけど,食べると麻花の皮だけみたいな味。カリカリした味しかしないというのか,辛くも甘くもない。では不味いのかというと,なぜか食べれる。
 美味いのかどうか分からない。なのに止まらない,みたいな味。
 ボロボロになるから食べにくくもある。なのにポロポロこぼしながら食べてしまう。

 最近,讃岐うどんが「うどんかりんとう」としてスナック化してる。日本で近いものを食べたいなら,アレです。
 いかにも体に悪そう……。正直,街頭で見かけた時は身を引いたんだけど,南門大街にはあまりにこの店が多かったんで,いわば研究材料的な気持ちで買ったんである。
「茶馓」は「ca sa」あるいは「san」と読む。「茶」は材料じゃないし「馓」は油で揚げたものの意味,つまり音の方が先にあって漢字がコレのために出来てる。
 なのに知られる歴史は清代以降のみ(百度には「戦国時期」からと記述があるけど根拠は不明)。対外では「淮安茶馓」として名を馳せ,地元では「岳家茶馓」や「鼓楼茶馓」の銘柄が有名。地元での別称に「细环饼」というのもある。

▲こんな感じでえげつなく作ってる。

 作り方は街頭で見かけた通り。でも組成の複雑さには驚かされました。──赤砂糖(ブラウンシュガー),蜂蜜,花椒,赤玉葱(レッドオニオン)の皮などの原料を,水,卵(鶏),油,小麦粉と混ぜ,何度も揉み潰し,切って団子にした後に細切りにし,丸く油に投入,黄色くなるまで揚げる。
──組成と,最後の油揚げ以外の作り方は,うどんに似てます。

茶馓是用红糖、蜂蜜、花椒、红葱皮等原料熬成的水和适量的鸡蛋、清油和面,然后反复揉压,搓成粗条,捻成面团,搓成或抻成由粗细匀称、盘连有序的圆条构成环状物放入油锅炸至棕黄色即成

※ 百度百科/茶馓

▲上品に料理にするとこうなる。

 そのまま食べる以外に,水気を与えてふやかせる食法も一般的。消化によく病人にも向く,と書かれるけど,それなら元々揚げなきゃいいじゃん,とは食べたことがないから自信持っては言えない。

茶馓既可干吃,也可用水泡着吃。干吃时大多作佐酒小菜,而用水泡着吃时,只需用开水冲泡数分钟,待其全部泡开以后,便可食用。茶馓泡着吃,柔韧香软,易消化,尤其适合产妇和体弱多病者食。

※(写真)每日头条/家乡记忆:淮安麻油茶馓
※ 百度百科/淮安茶馓

 で?結局何なのか?
「餃」子や「麺」(面)も茶「馓」と同じくその加工法を指すためだけの漢字です。かつてはそれらと並列する小麦粉の二次加工法ではなかったか?というか,どうもローカルには大げさに言えば主食に近い位置を占めてもいるわけで。
 揚げ面は主食なのである。
 ワシ自身,揚げ麺というのは麺の二次形態として発展したものだと思ってました。でも淮安茶馓を見て考えてくと,例えば長崎皿うどんの細麺(揚麺)というのは太麺と並立した主食だと考えるようになりました。
 そうすると,これまで新奇をてらったものと思ってた,バンコクの中華麺やチェンマイのカオソーイの,揚麺と太麺の重なった料理群も解けてきます。あれは,麺における混ぜ御飯みたいなものなのでしょう。

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