/※5453’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:東長街西屈曲点

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※行程が取れなかったけど
県東街関天培祠からは南行,
路地をぐるりと回りました。

県前街の東半分

▲0951県東街を東行。位置と名前を言わきゃ気付かないゴミゴミした路地です。

字に折れた東西水路を追うと,鎮淮楼東南裏手,昨日気になってた裏道と同じ方向へ伸びてるらしい。0949,この道に入り東行。
 これが県東街,前章の県西街と合わせ「県前街」と呼ばれた古道の東半分でした。

川への路地に仔犬2匹

▲0954県東街。商店は減るけど甍の描く線が微妙に美しい。右手から睨む監視カメラが玉に傷。

西水路はこの県東街の北側を,概ね家屋3棟分奥を流れてるらしかった。
 気紛れに現れる枝道から水面の気配があります。その中の一本が次の写真。

▲0956県東街から水路への枝道に仔犬が2匹じゃれる。

0958関天培祠。対面の道を南行してみる。関帝巷」とは当時のメモ。
 帰国後しばらく経つまて完全に関羽の尊称「関帝」と勘違いしてました。
「関」違いだったのです。──真相は巻末レポ参照。

関帝巷の英才補導

▲0959関帝巷へ南行。右手の煉瓦壁がかつての風情を残してます。

天巷は,入口と出口の湾曲部以外は普通にまっすぐでした。
 この,外部との接触を拒むような造りは何だろう。
 まず真っ直ぐな通りが出来て,後に南北の通りに接続させた,そういう配置に見えます。

▲1001こんな路地裏にも「英才補導」塾

戸あり。
 この巷が何かの事情で独立性のある区画だったとすれば,ここがその中心だったことになります。
 南行。T字に出る。右折北行したけれどすぐ道は東に折れた。小さな市場。南は社区らしい。戻ろうか。

▲1002関帝巷最奥,井戸のある小さなパティオ

古城の新婚夫妻,大喜の日に

がありそうです。
 小麒麟巷?右折北行。
 関帝巷の西を並行して伸びる南北の道,ということになりそうです。

▲1003小麒麟巷。木漏れ日が慶ばしい。

の小麒麟巷は,関帝巷とは違い,綴れ折りの道です。
 昔から,新婚さんが「大喜」(出産・結婚などの慶事)の日に必ず寄る場所だった,という記述がありました。
「吉祥的街巷,是昔日古城新婚夫妇大喜之日必经之处。」
※後掲 淮安街巷 | 县东街—县西街

▲1010小麒麟巷。家が先に建った感じです。

けれた。県東街に戻りました。
 関天培祠の前を再度通過して東へ。
 時たま道にある「毒餌站」というのはネズミ用でしょうか。

▲1017毒餌站。「毒餌置場」という意味合いでしょうか。

このさりげなさ,伝わりますか?

です。
 1017,BTから2時間半。昨日は金湯から南へ出た場所ですけど,侵入路が違うからか既視感がない。
 水路は東長街の手前で南へ屈曲してるらしい。

▲1025橋を南から。このさりげなさはあまりない,というのが伝わりますか?

の脇で一服しました。
 いい川辺です。日本だとかなり過疎地の山裾とかの空気です。
 居れば居るほど,奇跡のように感じられてきた。こんなんが町のど真ん中を流れてる町って……どうなってるんだろう?
 1026,県東街は橋のすぐ先でT字になりました。左手,表通りの鎮淮路へ夢から覚めたように出る。

▲1023東県街と河との交差点

面妖な三日月

の川や橋は,どの地図にも記されない。
 ただ,百度地図の航空写真を見ると,ここに三日月のような緑地帯が浮かんできます。

▲百度地図航空写真:川の屈曲部の橋付近

淮楼付近の凹状の屈曲部を見てたので,てっきりあんなものと思い込んでましたけど,これはかなりの大地形です。
 老城の濠跡,というのが順当な推測ですけど,ここに,西から来て南に曲がる濠があるなら城の北東角になる。そんな城域は考えにくい。
 内城を巡る内濠,のようなものにも見えます。
 歴史の中に霞んだ面妖な事々が,ありそうなのにやはり朧気にしか見えない。淮安はそんな町でした。

■レポ:関帝でない関天培を色んな角度から見る

 当時は完全に関羽と思い込んでますけど,読めば読むほど何とも考えることの多い人物でした。──歳をとると恥ずかしさを失うもので,以下堂々と書きます。
 関天培(かんてんばい,中国語:guan1tian1pei2,1781年-1841年2月26日)は清末の武将。漢族,江蘇省淮安府山陽県(淮安市淮安区)出身。一兵卒から江南提督,広東水師提督となった実力派軍人。
 虎門要塞を拡充整備。アヘン戦争では主戦論を唱え,1841年2月6日英軍と戦闘,20日間の激戦の末,玉砕。
 百度百科にのみある主な記述は以下のとおり。

关天培(略)清朝著名爱国名将,民族英雄

──清代の有名な愛国的将軍で民族の英雄
▲「关提督血战虎门」──関提督,虎門にて血戦す

关天培以身殉职时,双目紧闭,挺立不倒。英军见“关天培挺立如生,反骇而仆”,个个吓得目瞪口呆。最后,守卫炮台的400多名将士,全部壮烈殉国。

──関天培は殉職したとき,瞼をきつく閉じ倒れず立っていた。英軍は「関天培は生きているかの如く立ったままだ,倒れようともしない」と目を見張り口を開けて恐怖した。最後には砲台を守る四百余の将士ともども皆国に殉じた。

关天培墓,建在城东乡南窑九村,墓旁流水潺潺,松柏参天。它与关忠节公祠一起,成为淮安市重要的爱国主义教育基地。

──関天培の墓は川の滔々と流れ松が天を仰ぐ城東・南窑九村に建つ。関忠節公祠と合わせ淮安市の重要な「愛国主義教育基地」※※である。
※※愛国教育を国民に発信する施設。天安門事件後に鄧小平が創設。総数は不明だが,百度百科/全国爱国主义教育示范基地(同基地中模範的な施設)は2019年9月段階で473箇所に達している。中国共産党成立に関わるもののほか,関天培のような対外戦争関係,特に抗日戦争関係の事物が多数。
[参考1]Takahiko Shirai Blog/中国共産党 「愛国主義教育実施綱要」

※ wiki(日本語)/関天培
※ 百度百科/关天培

 阿片戦争では関天培の他にも陳化成(呉松要塞で爆死)や葛云飞(舟山定海で刀死)など多くの武将が落命しているけれど,扱いを見る限り関天培が一番英雄視されてるようです。
 なお,淮安で通った関天培祠の南面「関帝巷」は,ならば「関天巷」のメモり間違いではないか?と当たってみると,これは関帝巷で正しいらしい。次の写真がありました。ということは,淮安では他の地方では関羽を指す「関帝」が関天培を意味することになる。だとすればそれほど神格化されてるということです。

※ 淮安街巷 | 县东街—县西街

① 広東の軍事拠点・虎門要塞

 関天培が寄って最後を遂げた虎門要塞(中国語:虎门炮台)は広東省東莞市(一部広州市番禺区・南沙区)にある。現中国成立後の塘沽とよく比較され「南に虎門あり 北に塘沽あり」との成語がある。
 名の由来は明末に鄭芝虎(鄭成功の叔父,鄭芝龍の弟)の根拠地だったことから。建設開始は康熙帝年間ですが,本格整備は関天培と林則徐(欽差大臣・)による。11箇所の砲台を設置。
※ wiki(日本語)/虎門要塞
 まず純軍事的にですけど,戦意はともかく,関天培ら主戦派はなぜ一点防衛で英国に対抗できると考えたのかが分からない。
 英国の公式な開戦理由は広東在留同国人の保護だったけれど,非公式には広義の中国侵略だったのは明白なわけで,自分たちが広東に要塞を築いたからといってそこを攻めてくれる保証はない。
 実際,英国軍は広東を素通りして長江,天津を攻め,これを恐れた北京政府との間で1841年1月に川鼻条約が結ばれてしまった。ここで既に香港割譲は約されている。
 実際に虎門を攻めてくれたのはその翌月です。
 11門の砲台という戦備はともかく,戦略面で英国に翻弄されてる。もしくは,英国の意図を読み違えてる。
 そういうのが虎門抵抗戦のインプットだったとすれば,関天培とその将兵の全滅というアウトプットを一旦置き,アウトカムに注目すると──大変気の毒で,彼らの奮戦を貶める意図はないんですけど──英軍の死者数ゼロ。2日間攻めたというのは,英軍にとっては当方の被害を皆無に抑える距離からののんびりした砲撃戦だった,と考えざるを得ない。当然,英兵に恐怖に戦いた者はなかったろう。
 中国における薩英戦争や下関戦争のようなもの,と捉えるのが事実に近いのでしょう。

※ 万象历史/关天培小传:60岁老将拼死一战,为国捐躯,杀死英军0人

② 阿片戦争の泥沼化の要素と三元里事件

 ただ,では阿片戦争が日本の教科書で書かれるほど一方的な英国の勝利だったのかというと,そうではないようです。
 強気の英国は,この百年後に日帝が陥ったような泥沼化に足を踏み入れかけていたとも捉えられます。
 それは清正規軍ではない民衆一揆的なものでした。戦備のほとんどない一般民が一時英国軍を圧倒してる。

1841年5月(略)一部のイギリス軍は郊外の三元里で略奪や暴行事件を起こし民衆の怒りを買っていた。このため三元里並びに周辺郷村の民衆1万余が決起して水勇統領林福祥らの指揮の元「平英団」を名乗り、ヒュー・ゴフ少将が率いるイギリス軍を包囲して攻撃した。

※ wiki(日本語)/三元里事件

三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。

※ wiki(日本語)/阿片戦争
 英国側が中国側を各個撃破していった,というのは,海洋側に立脚していた作戦段階では英国側に有利だったわけです。ただし,一度陸上がりして領域支配しようとすると立ち行かない状況を,英国側に示唆する事実でもありました。だから,英国は香港割譲など,海側に退いて戦争を終結させてる。
 百年後の戦争と比べ,相当にクレバーな収め方です。
 英国はグルカ戦争(1814-6年)や英緬戦争(1824-6年)の実績があった。どれも2年前後,この時期の英国の戦争は,まるで投資と利益を冷徹に帳面につけてるようなビジネスライクな感覚です。

③ 大英帝国は阿片戦争を勝利と見たか?

 侵略戦争の代表例として教科書に記されるこの戦争を,帝国主義を輝ける国是と自認してた大英帝国側は果たして堂々と戦ったのか?──この点に以前から興味がありました。
 この点は「中国実感」が詳しかった。まず,なぜ戦ったのがイギリスだったのか,というと,彼らが最も「悪どいビジネスマン」だったかららしい。

林則徐が広州に到着したのは、1839年1月25日のことだった。(略)
林則徐は、期限内に阿片供出と誓約書を提出しなかったのを理由に、外国船の封鎖、外国商人との売買の禁止、貨物の積み卸しの禁止などを命じた。(略)
怒ったチャールズ・エリオットは抗議するために英国人を一斉に退去させた。関税の収入が減れば清朝も困るに違いないとの判断であった。しかし、清政府は税収をそれほどあてにしてなかった。広州に残った米国商人は清との貿易を独占し、巨額の利益を得た。米国商人は阿片を持ち込まないという誓約書を提出していたのだ。

 何とアメリカは阿片を諦めてる。彼らは温和で善良な,ピューリタン的なビジネスマンであろうとした。それに比べると,英国,というか東インド会社はクレバーに見返りを増やそうと中国側と交渉しようとした。
 それが,現地政府が阿片を追放しようとする過程で,特に露骨に現れた──ということであって,阿片→絹→銀の循環というのはシンプルな模式に過ぎないように思えます。
 さて英国側が,この戦争の結果をどう見たか,ですけど,2年もかけた戦果としては意外なほど冷淡らしい。

現在でも、英国帝国戦争博物館にはこの阿片戦争の展示は一切ないし、博物館内のネットで阿片戦争を検索しても、何もヒットしない。英国民も忘れたいほど不名誉な戦争であったことは間違いがない。

※ 中国実感/【09-009】阿片戦争と林則徐
 この時,英国本国ではどういう議論があったのか?──戦争慣れした英国ですから,対国家の戦争を会社の暴走や陰謀で起こすことはあり得ない。相手が中国ほどの大国であればなおさらでしょう。
 このときの議論は粗くwiki
に(注釈部ですけど)出てました。

[注釈 1] グラッドストンは議会で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説して阿片戦争に反対した[14]。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた[15]。

[14]世界史の遺風(91)ディズレーリ 「帝国主義者」の社会改革”. 産経新聞. (2014年1月9日) 2014年8月21日閲覧。
[15]尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈清水新書016〉、1984年。 p.72-73

※ 前掲wik/阿片戦争
 やはり正義か不義か,文明か野蛮かという議論がなされてます。
 ただ,どうもこの種の倫理観は後世からの視点で,当時は露骨な「投資に見合う利益の回収が見込めるか」という見方で英国は判断をしていたと思われます。麻薬販売ルートを確保しようと戦争するのが不正義だ,野蛮だというのは,現代の英国人が初めて持った見方で,グラッドストンのような「アメリカ的」な理念派もいた,というマイナーな現象に見えます。
 英国は,米国に対中国貿易が独占されかけて焦った。そこで香港の領有という形で投資を回収した。──現代の米国のような行動類型をイメージすると間違った読み方になると思う。

④ 関天培と阿片戦争から日本が学んだことと学ばなかったこと

 さて阿片戦争が1840-1年,日本へのペリー来航が1853年。その間わずか13年です。
 里見八犬伝完結,つまり1842年直前が設定の映画「駆け込み女と駆け出し男」中で,鳥居耀蔵が「日本は大清国の二の舞になっちまう!」と戦く一言があります。
 同年,1842(天保13)年に「天保の薪水給与令」を発令。遭難船に限って補給を認める内容ですけど,36年前の1806(文化3)年に1年で撤回した「文化の薪水給与令」を再発動させてます。
 魏源「海国図志」の原書が長崎に持ち込まれたのは、1851(嘉永4)年。
 魏源は,底本(英国人ヒュー・マレー著「世界地理大全」とも阿片戦争後にイリに左遷された林則徐から託された「四洲志」とも言われる)があったとはいえ,わずか一年後の1843年に初版を揚州で出版している。1847~8年増補され60巻本に,1852年には100巻本となっている。その完成前に日本には入ったわけです。
 10年で100巻です。日本のみならず東アジア全体が戦慄したのである。
 岸田秀の「唯幻論」ではないけれど人間集団が外部に脅えると,圧倒されずに現実的に外部の優越に学ぶか,圧倒されたまま非現実的に外部を拒絶するかの両極端な,ともに神経質的な反応を示す。
 日本での後者が攘夷論なら,中国でのそれは関天培崇拝に代表される英雄伝説だったのでしょう。
 そういえば,薩英戦や下関戦での日本側英雄はあまり語り継がれた人がいない。──当時は関天培的な人がいたのでしょうか。中国の場合,対外戦を戦い抜いて共産国成立に到りその国が今存立してる。それに対し日本は,80年の模倣の末に戦って,敗れた後の国が存立する。絶望的な対外戦を語り継ぐべき時代の断絶があったか否かの違いなのでしょうか。
 虎門陥落からほぼ百年後,最終的に日帝は太平洋を舞台にしたはるかに大がかりな関天培を演じたとも言えます。

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