/※5452’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:水路を行け

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

県西街二階 紅白グラデーション

▲0856迷い込んだアパートの駐輪場はコンセントだらけ

西門街の南の水路から,さらに南に分け行ってます。先の老西門街の市場が鎮淮楼からの港道,という地勢を全然読みきれてません。
──この南にも何かあるんじゃないか?
 0854,県西街。道は曲がりくねる。──ということは,この辺りにも昔の道の配置だけは残ってるのでしょう。
 けれど,この道は結局,完全に社区に入ってしまうだけでした。コンセントだらけの駐輪場──中国を走りまくってる電動自転車用でしょう。
 引き返す。

▲0859「県西街」の路地。二階の家門の紅白のグラデーションは,意匠かそれとも日晒しのせい?

メモしてるのだから,そこからの折り返しの上記からの4枚も県西街のものなんですけど──今調べてヒットする県西街は,県東街と合わせ「県前街」と呼ばれた東西の道のはず。でも北に向かっていたのだから……よく分からない。
 ただ,好い道で迷ってます。
※ 捜狐/淮安街巷|县东街—县西街

▲0900「県西街」のZ折れの向こうからふいに人!(向こうにとっても……)

老淮安 初めに东西道のあり

前街については,前章で掲げた山陽県誌には「県※前街 東至東長街 西抵城隅」(県前街 東は東長街,西は城壁まで)と記述される。
※ 原文「縣」。これは現在では繁体字とされ,現大陸中国で使う簡体字では「县」
 前掲・捜狐サイトにはこんな記述もある。

三思桥居于交通要道口,桥东为县东街,桥西为县西街。(略)
有人说,县东街、县西街是老淮安最早的东西走向的街道,这不无道理。淮安老城中,南北三条,东西三条干道,把古城分成了棋盘式的街道布局。

▲0901「県西街」を走り去る自転車。(どういう状態だったのか)傾く影がカッコいい。

からここが県西街だとすれば,清代まで老城を東西に走っていた三本の主要街路の一つ,「老淮安最早的东西走向的街道」かつて淮安で最初に出来た東西道路,のはずなんですけど……。
 全く分からない。でも好い道です。

▲0902「県西街」家門前の鉢植え……の左隣の洗濯機状の出っ張りって何だろう?

やかな街路に出た。車道のL字屈曲点でした。
──このL字も含め,どこを歩いていたのか見当がつきません。
 0904,東行。さっきの水路の南岸に沿う格好。

水路の名は知らない

▲0907川辺の暮らしが今もあるらしい。路地,赤門,階段,濁水,路地と門を映す水面。

い川辺でした。
 南岸は車道になっています。けれど北側,市場の裏に当たるエリアには古い家並みが連なってる。水辺へ降りる階段もまだ残ってます。
 残念ながら北側には川辺に沿った道はないけれど,逆に南岸からずっと見て歩けました。

▲0908河南をゆく。木漏れ日と左右の対比が面白い道。

故かこの東西の水路のことはどの地図にも,プログにも触れられてません。
 だから名も分かりません。
 でも配置,形状いずれからも自然河川とは思えない。
 老西街の西端,おそらくかつての港界隈から城の中央部たる鎮淮楼へ続く水路ですから,清代より前,少なくとも老城しかなかった元代には重要な交通水路だったように思えます。それ以後,河下が交通の中心になって老城が政治に特化した時代には,造る有益性が想定しにくいからです。

扉があるのになぜ閉めない?

▲0912文房具店「不二家」。撮影のタイミングに苦労するほど客はひっきりなしの店でしたけど……何故?

西長街へ帰って来た。0918。さて?
 少し南行してみるか。
 人民政府の向こうにやっと公厠。──ここより西には見かけなかった。つまり整備度が低いのである。それはそうと……なぜ扉があるのに閉めずにウンコする?
 九板橋街に交わる。やはり南西角で古いのはここより北側のエリアだけと見た。

▲0935兴文街。柳の枝のように空を這う電線

鎮淮楼を避ける水路の凹字

927左折,東行に転ず。
 兴文街。胯下橋とある門があった。市の文物保护単位のプレート(→巻末メモ参照)。左折北行。

▲0937兴文街から覗きこんだ短い路地。なぜか淮安は印象的な理髪店に出会う。

に文化街めいた石畳道。
──地図に「明清商業歩行街」とある一角でしょう。文化街でした。もうここの写真は一枚も撮ってません。
 脇道を探したけれど,見つけれないまま,さっき見えてた裏道に出てしまう。
──この裏道というのが県東街。先の県西街の東延長です。
 まっすぐに東西に延びてた水路がここで屈曲,南行してさっきの裏道沿いに東行してる。なるほど,鎮淮楼を避けて凹型に東行しせてるのか。これを東行してみよう。
──とようやくここで県前街ラインに戻って進み初めたわけでした。

■メモ:淮安,そして「胯下」

……という二語を聞いてソレを連想できるなら,余程の歴史マニアだと思います。
 ワシも全く思いつかなかった。
 漢を建てた劉邦の将軍・韓信の故里として,淮安は知られる。その青年時代の説話として名高い「韓信の胯下り」の現地とされる橋だったのでした。
 橋自体は新しい。ただその説話ゆえの文化財です。
 伝承だろ?と思いきや,この話を「史記」の淮陰侯列伝に記して後世に伝えた司馬遷が,一度は「将軍橋」と改名してた橋を原名に再改名させた,という話もセットで伝わるというからもっともらしくなってくる。
 韓信は淮安の道名にもなり,墓もある。高名を博しながら,若い頃のこういう恥辱話と末期の凋落,浮き沈みの激しい波乱の生きざまが二千年も愛されてきたことの方に興味を惹かれます。日本的な「咲いて散る」姿の賛美は中国センスじゃない。なぜなんでしょう?
※ 第二部 江蘇省の歴史を歩く
10.淮安、「韓信の胯下り橋」

○ 韓信はセリーグか?

「韓信」のピンインはhan2xin4です。道の名前にもなってるから,この日には往復二度バスのアナウンスを聴きました。
 特に帰路は疲れてたからか,この音がどこかの球団名に聴こえて妙にハマりました。→発音:百度百科/韩信→イヤホンマークを押すと聴こえます。
 ──阪神!
 いや,それだけですけど?

■小レポ:東西水路の起点はどこか?

 これは書かれたものが全くないけれど,単純に考えるとそうなると思う。
 名前のない東西水路は,ほぼ唯一老城内を走る重要な交通路。幅も船のそれに合わせてあると見える。
 だから老城中心部の鎮淮楼に通じていると仮定して本文では綴ったけれど,凹型の屈曲を見て違うのではないかと思えてきた。
 鎮淮楼が起点なら,なぜ「避けて」屈曲するのか?そこで途切れていてしかるべきではないか?
 そうすると,県前街の左右非対称も気になってくる。「東至東長街 西抵城隅」──次章以降で見るとおり,東西水路も東長街辺りで途切れてます。地形あるいは水脈など自然地理の都合という可能性は捨てきれないけれど──
 ここまで見たとおり,人為的な水路とすれば……自然に考えて東長街辺りが起点で,鎮淮楼は水路の途中に「後から」建てられ,その時に凹字に「避けて」通された,ということにならないか?
 ならば,始点には何があったんでしょう?
 今回の短い見聞からすると,それは東岳廟か,その前身だったように思えます。
(参照:/※5444’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:楚州中学育才路/■小レポ:東岳廟にヒーロー大集合)

 東岳廟開闢は唐初,第二代太宗李世民代。白居易が「淮水东南第一州」と詠んだ時代です。老城の出来た元代より古い。そして唐代と元代の間には,南宋代,淮水域が再び前線となった150年を挟みます。
 唐代に東岳廟が出来た頃,現・老城東部に何かの,しかし運河から水路を敷設するほどの力はある政治権力と城市が存在したのではないか?

楚州更被白居易誉为“淮水东南第一州”。

~~~~~(m–)m

南宋和金、元对峙时期,市境再度成为前线,为双方反复争夺,建置亦复紊乱多变。

※ 前掲百度百科/淮安
 凹字以外何の根拠もないんですけど……あえて言えば,今朝バスターミナル西でチラ見した濠のようなものの位置とは,あれが東濠だったとすれば整合します。

▲(再掲)0727バスターミナル西手前の城堀の痕跡らしきもの

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