/※5454’※/Range(淮安→徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:廃黄河は西へ

不動産,配偶者その他何でも紹介所

▲1027金湯浴室の通りの露店果物売り

てここは昨日の道か?
 10時半が近づいた頃,県前街のラインを後に北へ。
 雰囲気のある路地……そうだ金湯浴室に出た。→初日:Phaze:楚州中学育才路/金湯,岳廟は淮安の華?
 ただ,この通りの名前がなぜ岳廟西街なのか,最後まで分かりませんでした。

▲1036不動産屋の連なる夯轮寺巷

轮寺巷へ,鎮淮楼東路をまたいでそのまま北行。1030。昨日も歩いた道です。→Phaze:南門大街の白い道/黒犬のパーマネントの影を追う
 やはり淮安の中では魅力的な道です。
 やはり印象としては……不動産屋だらけ!なんですけど,あと,紹介業だからでしょうか,これらの店はなぜか結婚仲介業者も兼ねてて,どうも客層からはそういう人も多そうでした。──日本ではあり得ない兼業形態。情報流通が不自由な社会体制とは言え,ネット上にデータベースを作るならむしろ中国の方がアクセスは多い気もしますけど……当局の許可が下りないんでしょうか?

公安の後ろに立つな。でもって撮るな。

▲1112小淮娘

門大街に出た。1041,西行してたら通りがかりに見つけました。
1049小淮娘鴨血粉丝湯
三件套400
 初めて見た──はずですけど,昨日は見逃したんでしょうか?
 名前からしても掲示物を読んでも淮菜のポップ店。鴨血の食べ納めかもしれないので,鴨血粉丝のセットに鴨肉の鍋貼と酸菜が付いてた三点セットを,試しに頼んでみます。
 鴨血はこれまでの中ではほどほど。でも十分にポイントは押さえてる。まあ納得の味。
 ただここは──

▲店のキャラMiss Huai

貼が意外な旨さ。掲示を見ると南京のイメージらしいけど,あそこまでの肉肉しさは薄くやはり鴨の軽妙さがいい作用をしてる。
 さらに何より酸菜──これはどうなってるのか?高菜漬としては最高の味わいです。名前の通りの酸味がピンと効いてる。
 シルクロード伝来というのが定説の高菜漬って,中国の一部ではこういう定着をしてるんだろか?

▲1121公安後ろ姿。向こうに見えてる塔は鎮淮楼。

度目の今日は,最初から野菜を狙うことに決めてました。
1122東来椰
インゲン豆辛煮
ピーマンの炒め
西柿西和鶏蛋
白米飯550
 昼が主体なんでしょう,この時間にはまさに席が埋まりかけてました。帰る頃には相席になったほどの人気ぶり!

▲1127再び自助!

ピーマンに絡む白い糸

ンゲン豆には豚肉の角煮に近いものが少量入ってて,これが一番分かりやすくはあった。
 つまり典型的な淮安菜ということですけど,典型的なだけに絶品。
 八角の煮出しで真っ黒になった汁が,角煮にはもちろんインゲン豆に絡み付いてる。八角は半分割のが汁の底から出てきました。角煮はまさにあの旨味ですけど,インゲン豆のクセのある豆臭さにもこれが旨く作用するらしい。これは济南でも感じた味覚ですけど,あの味覚よりもう少し強く,かつ八角の甘さが重視されてる気がします。

▲ピーマン炒めのどアップ

日の意外なヒット・青椒肉絲を引きずって,ピーマンを選んでしまいました。
 驚いたのは──昨日の別の店の味と物凄く似ていたこと。いや,それだけなら驚くことじゃないけれど,こちらのピーマンの間に入ってたのは白い糸。鶏卵です。ひょっとしたら白身だけかもしれませんけど……これが絡むと素晴らしい苦甘さが生まれます。
──卵にピーマン入れるなんて,学生の弁当によくあるメニューみたいに聞こえますけど,ここでは明らかにピーマンが主体。その味付けに絶妙のバランスで鶏蛋が使ってある。正確には調味料として,辣子鶏の唐辛子のように,です。
 昨日と同じく青椒が素晴らしく苦みを立ててくる,その苦味の角に後光のように白身の甘みがまとわりついてくる。

▲ピーマンと卵どアップ

定番中華:トマト入りスクランブルエッグ

西紅柿和鶏蛋──と留学時代(’90)には言われてたトマト・スクランブルエッグは,今は西紅柿炒鶏蛋,西紅柿炒蛋,番茄炒蛋と段々短い語に変化してるらしい。ただまだ落ち着きを見ないとこを見ると,未だ進化中かもしれません。──だから強情に,ワシ的には古いシンプルな言い方を通していきたい。
 ただこういう分かり良い味覚だけに,その土地の料理の感性を非常に的確に反映し,故に理解しやすい料理です。今回の上海初食のほか,青島の教会東の小店の旨さが記憶に残りますが──
 トマトというこの新大陸由来の野菜の扱いにも,淮菜は長けてるんでしょうか?

西紅柿(トマト)のこの独特の臭みが1.5倍増に感じられます。
「1.5倍」で倍増ではないのです。つまり,八角その他淮菜の魔力による味覚の強め方が,このトマトについてはやや抑えてあるように感じられます。
 卵に合わせてあるのは明確ですけど,トマトの比の多いここの西紅柿和鶏蛋です。むしろトマトの酸味,苦味,臭みにあまり八角を強くしては共倒れになる,という加減のコントロールが働かせてあり,それが絶妙なようなのです。
 これだけは技巧的に上手い!という旨さでした。淮揚菜的なような,そうでないような,悩ましい絶味だったのです。

謎のおばちゃん文書をパスポートに添えて

西門大街の上坂巷バス停から65路に乗車。時計はぴったり正午。
 西から大回りするバスルートを選んでました。西長街,バス停は周恩来故居。──やはり好い道です。
 左折。バス停は昨日は戸惑いの中にいた驸馬巷。鎮淮楼北を通ってバス停・鎮淮楼。そのまま鎮淮楼東路を東行。韓信南路。
 ここからは,もう来た時の道です。
 いい歩きになった。やはり難しい町だったけど,今日はそれなりに渡り合えたと思う。
 南湖の南道。楚州大道を越える。
「大排当」とある店は「弁当」だろう。あの類の店で淮安料理が食べれるのかもしれない。
 1216,淮安汽車東站。いい時間です。
 今朝この道を歩く時は「この町に来るのは遅すぎた」とか考えてた。確かにそうとも言えるけど,時間を作ってもらったお陰で,そうでない表情も見れました。
 東站の西の池前でタバコを一服しようとすると,ライターのガスが尽きた。白昼。ガマガエルの鳴く声。

行!」(ダメだ!)
 1222,パスポートをかざして待合室に入ろうとすると,入口の若い軍服に遮られる。臨時身分証の発行場所を指差される。
 これは初めてです。
 とにかく行くと,また行列。一人おばちゃんがいるだけの窓口で,どうも一人ずつの処理がえらく長い。それでも待つしかない。やっと順番が来たので,90年代さながらの困り果てた表情を装いまして……
「あそこの特警のお兄ちゃんがパスポートじゃダメだって言うんだけど」
 おばちゃん,呆れたような顔で「パスポートは身分証だよ?」
「我也想。但是他説」(ワシもそう思うけど,彼はそう言うんだよ)
とさらに困った表情を被る。するとおばちゃん,何やら一筆書き始めた。その紙をワシに突き出す。
「垆照可以钩票(おばちゃん署名)」──パスポートでチケットはチェック可
 入口に戻って,この紙をパスポートと一緒に丁重に軍服に差し出す。それでも兄ちゃん,上司らしき爺さんにくどくど御確認。で,一言──
「走!」(行け!)
 もちろん詫びはない。これはもう慣れたけど。
 中国カフカ世界は人で動いてる。

バスチケットは座席数以内で売りましょう


号検票口にたどり着いたのは1243,30分を切った時間でした。待機。今,13時発の便の呼び出しがあった。
 ここのターミナルは,待合室もさらに混沌。行き先表示すら出てない。
 18分前,1252。13時5分の南京呼び出し。まだです。
 1254,13時の上海?戻ったがな。
 1308──2分前!呼び出しがあったのは12点半発南京?無茶苦茶やがな!
 1312──発車時刻の2分後,やっと「13点10分徐州」とアナウンス。乗客どっと押し寄せ……たバスには,まだ運転手がおらんぞ?でもターミナル改札のおばはんは「上車!」と怒鳴る。なので駆け込むと,座席番号がない。適当に座る。案の定,最後の辺りの客が「没有番号!」「没位座!」と大騒ぎしてる。運転手が電話で問い合わせる声。「○人だよな?」
──怖~!大丈夫かこの会社?
 最終的に,待合室やっぱり席が2席足らんらしい。補助席もない。なので通路にスーツケースを出して座らせやがった。
 最近あれほどやかましいシートベルトって……このバスは言わないのかな?と,自分の座席のベルトを引きだそうとすると,出てこない。やっと座席の下から引っ張り出せたのをよく見ると……錆びて腐ってる。
 1230,開車。着けるのか?徐州は遠いぞ?

雎寧県 廃黄河 残照

車するや,もちろん一寝入りしました。
 目覚めると1554──夕方やがな。バスが止まってざわついて起きたらしい。中間休み?…かと思ったら雎寧県というところの下車客を降ろすためだったらしい。ここそんなに利用の多い町なの?
──金朝創始の県で現人口130万人強。もう徐州内でした。
※ wiki(日本語)/スイ寧県
 ほぼ2/3地点。今3時間半ということは…5時間かかるのか?18時を回るのか?
 広い。認識してた以上に広いぞこの地域は。
──雎寧県付近の光景は,町の規模以上にも,平面の広がりに圧倒されるものがありました。
 洪泽湖の北岸を西北西へ。そういう感覚でいました。なので,琵琶湖の北側のような山裾を勝手にイメージしてたんだけど……全然違う。
 惑いの強さから百度地図を開く。すると,見たことのない文字が浮かんできました。
「廃黄河」
 この荘厳で,かつある種の不吉な語感を帯びたこの語が意味する地勢の来歴は,帰国後しばらくしてようやく少し理解できたところです。→巻末小レポ参照
 なお後日談ながら,徐州市内では「黄河故道」とも表示されました。

▲1737徐州まであと一歩の高速脇

州空港近くに至った時,17時が近づいてました。あと50kmほど。つまり既に徐州都市圏域です。
 けれど──1740。なぜなんだ?意味もなく高速に止まってる。このバスのする事はどーも分からん。あと20km足らずのはずなんだけど?
 高速路面を焼く残照。
 1759,今度は本格的なラッシュにハマりやがった。さっきから歩いた方が速いスピードになっとる。でも右側には小型車がどんどん追い抜いていきますけど?
 もう15km。何とかしてくれい!

臭いなき徐州中心部へ

834,到着。でも着いたのは……徐州南站やないか!
 南站は新設らしく,小さい。まだ建築中らしく店舗を工場中。
 とにかく徐州站(火車站)を目指そう。バス路線から「専1路」を選択,乗車。車内はあっという間に満員御礼となりました。
 北へ約5kmの爆走。
 この感じ,貴陽にバスで着いた時に似てるなあ。
 西に小山が連なってる。分水嶺の土地です。道沿いには官製らしき施設しかない。道路のインフラは整ってて,今何かの下をトンネルでくぐったところ。
 あれ右折?淮塔南路。いやすぐに北向きに曲がった。漢橋。長い橋で巨大な石灯籠あり。東にアパート群。
 と見てるうち,やっとこさ町らしくなってきた。商店増す。ここの信号は「行人禁止通行」の6字が出る紹興タイプ。
 右手に大きな吊り橋。その橋桁をくぐる。道は复兴南路。
 道の中央を工場中。地鉄の文字あり。
 だいぶビルが増えた。ただまだ駅の匂いがないけど?
 いや?地図ではもう1kmほどのはずだぞ?ということは……この町の賑わいはこんな感じなのか?
 1856,臭いを嗅がせないまま俄に到着。所要6時間にして徐州火車站。

▲徐州火車站(鉄道駅)

■メモ:長々とした車内時間を充てた徐州の予習

 バスの車内時間にチェックした百度百科の徐州の記述です。なかなか不思議な文章が多い。当時の驚きそのままに,意訳だけ付して以下転載しときます。
※ 百度百科/徐州
「简称徐,古称彭城」
──古くは「彭城」
「京杭大运河从中穿过,陇海、京沪两大铁路干线在徐州交汇,素有“五省通衢”之称。」
──京杭大運河中も京沪両大鉄道上も「五省通衝」(五省の結節点,といった語感か?)と称される。
「帝尧时彭祖建大彭氏国,是江苏境内最早出现的城邑。徐州历史上为华夏九州之一,自古便是北国锁钥、南国门户、兵家必争之地和商贾云集中心,一直是淮海地区的政治、经济、文化中心」
──堯(簡体字・尧)帝の時代建国の「大彭氏国」は江苏地域で最も古い町。歴史上,華夏の九州の一つで,古くより北国の鍵,南国の入口として便が良く,度々戦場となり(兵家必争之地),かつ商業の中心(商贾云集中心)となるなど,まさに淮海地区の政治・経済・文化の中心地。
【引用者注】大陸西遊記によると,殷代以前には地方の中心だったというよりも,殷の協力的隣国だったようなニュアンスの記述になってます。その方が実状に近いように感じる。いや,黄帝の建国だったならば,むしろこちらが中国の本流だったとも捉えうる。
 8百年,つまり前後漢帝国の倍の長期間に渡り存続した国がここにあったことになる。

 伝説によれば、三皇五帝時代の黄帝が最初に王城を構えた地が、この徐州の地とされる。
 堯王の治世時代(紀元前2000年ごろ)、五帝の一人であった顓頊の子孫である籛鏗(彭祖。中国の神話の中で長寿の仙人と比喩される)が当地に封じられ、大彭氏国を建国させる。その王城が今の市中心部に開設され、後に徐州市が彭城と別称される背景ともなっている。
 大彭氏国は、夏王朝の時代も生き延び、東方で強大な勢力を誇り、時に夏王朝を助けて西河の反乱を鎮圧するなどの功績を挙げた。
 また、続く殷王朝の建国にも尽力し、その前期まで同王国内で強大な影響力を有し、邳族や姺族らの反乱鎮圧に尽力するなど大いに貢献したとされる。
 しかし、ついに殷代後期の紀元前1208年、大彭国は殷(商)王朝の武丁により攻め滅ぼされてしまう。実に、800年もの間、君臨した巨大封国であった。

※ BTG『大陸西遊記』~江蘇省徐州市

「徐州是两汉文化的发源地,有“彭祖故国、刘邦故里、项羽故都”之称」
──南北中国文化(两汉文化)の発源地で「彭祖の故郷」(彭祖故国),劉邦と項羽の出身地と呼ばれる。
「徐州地处古淮河的支流沂、沭、泗诸水的下游,以黄河故道为分水岭,形成北部的沂、沭、泗水系和南部的濉、安河水系。」
──古・淮河の支流,沂・沭・泗诸水が通る,廃黄河(黄河故道)の分水嶺。これが北への沂・沭・泗,南への濉・安河の水系を形成する。
「徐州地区断裂较为发育,按其规模大小和地质发展历史上所起的作用,最主要的是北、东向的断裂分布较广。徐州主要断裂带有:郯城-庐江断裂带,丰县-邳州断裂带,故黄河断裂带」
──徐州地区の断層はやや拡大傾向を示す。その規模の大きさと地質は歴史に色々な作用を与えてきた。最も大きなのは北と東向きの断層で,徐州はそれらの断層中にある。「郯城-庐江」「丰县-邳州」「丰县-邳州」「故黄河」の4つの断層帯である。
「2016年7月,徐州新一轮地铁线网规划修编和建设规划正式启动。」
──2016年7月,徐州は地下鉄計画を策定,建設に向け正式に動き始めた。
「“楚韵汉风、南秀北雄”是徐州最为鲜明的地域文化特质。」
──「楚韵汉风 南秀北雄」(楚の韻と漢の空気 南は優れ,北は男らしい?)とは徐州の明瞭な文化的特質です。
「“佳处未易识,当有来者知”,“两汉看徐州,秦唐看西安,明清看北京”,徐州的两汉文化遗存,如狮子山楚王陵、龟山汉墓、戏马台、泗水亭、霸王楼、歌风台、拔剑泉、子房祠、王陵母墓、羊鬼山展亭、汉兵马俑等。」
──「佳处未易识,当有来者知」(……理解できず),「両漢は徐州を,秦唐は西安を,明清は北京で見よ」と言われるように,徐州の両漢文化遺跡は多い。(以下例示)
「徐州为“曲艺之乡”。流行于徐州的剧种有柳琴戏、(略)等。其中,柳琴戏约有200年的历史,江苏梆子戏已有300年的历史。」
──徐州は曲芸の郷で,「柳琴劇」は2百年,「江蘇梆子現代」3百年の歴史を有す。
「徐州的民间艺术有着悠久的历史,是中国民间工艺美术的兴盛地之一。(略)邳州市被文化部命名为中国现代民间绘画乡、中国民间剪纸艺术之乡,沛县敬安镇被文化部命名为中国民间剪纸艺术之乡,贾汪大吴镇被江苏省文化厅命名为农民书画之乡,睢宁被命名为儿童画之乡。」
──民間芸術が長い歴史を持つ。特に工芸は盛んな地である。文化部等の命名したものでは,
邳州市:絵画の郷
沛县敬安鎮:剪纸芸術の郷
贾汪大吴鎮:農民書画の郷
睢宁:児童画の郷 がある。
「建国以来,徐州籍运动员有7人13次获得世界武术冠军。
2014年2月,徐州市被国家体育总局授予地市级全国武术之乡称号。」
──共産中国成立後,徐州出身の世界武術チャンピオン(世界武术冠军)は7人・のべ13回。2014年2月,国は徐州市に武術の郷の号を授けた。
「诗名/作者/内容
大风歌/刘邦/
大风起兮云飞扬
威加海内兮归故乡
安得猛士兮守四方
垓下歌/项羽/
力拔山兮气盖势
时不利兮骓不逝
追不逝兮可奈何
虞姬虞姬奈若何
江城子·别徐州/苏轼/
天涯流落思无穷
既相逢,却匆匆
携手佳人,和泪折残红
为问东风馀几许?
春纵在,与谁同! 
隋堤三月水溶溶
背归鸿,去吴中
回首彭城,清泗与淮通
欲寄相思千点泪
流不到,楚江东」
「地域/种类/内容
市区/菜肴/
徐州地锅鸡、易牙五味鸡、
霸王别姬、鸳鸯鸡、
葱烧孤雁、乐天鸭子、
徐州三鲤、四孔鲤鱼、
梁王鱼、彭城鱼丸、愈灸鱼、
开阳炒苔菜、金蟾戏珠、
鱼汁羊肉、冬瓜四灵、
西楚贡菜、油炸金蝉、
东坡回赠肉、羊方藏鱼、
金丝缠葫芦、太极山药泥、
羊肉滑脊
同/主食/
徐州烙馍、锅贴饺、
八股油条、窝窝头
同/汤点/
啥汤、徐州辣汤、
丸子汤、雉羹」

■小レポ:試論・淮水中心中国史観

←Phaze:首頁/■別添 淮水(淮河)の位置付け
 淮水域を旅行してるつもりでいたとこで「廃黄河」あるいは「黄河故道」に出会ったので戸惑いました。
 黄河という河は誠に奇妙です。古くは低地の淮水に流れこんでたのに,自前で堤防を作ってしまって天井川に戻ってしまう。人口密集地でこんな身勝手な振る舞いをするなんて,これは真の意味での暴君的な河です。
 この日に動いた徐州西側,洪沢湖北岸の広大な平地は,この黄河が淮水域に流入した複数の経路が形成したものでした。
 ただ,それが短期の災厄としてでなく,長期の中国史にどういう影響を与えたのか,どうも見えて来なかった……ところで以下の河野論文を見つけました。

①基礎:黄河大改道

 淮水は,黄河と長江の間を両者に並行して流れている──というのは

春秋時代の紀元前602年には第1回の河道改変があり、
王莽の新の時の紀元11年には決壊したため第2回の大改道が行われた。
1048年の第3回で河道が北流となり、
1194年の第4回で南北分流とされ、
1494年の第5回では南流だけとなって、
1855年の第6回で再び北流となった。

※ 世界史の窓/黄河 改行位置のみ引用者設定
 なかなかこれを二次元に落としたものが見つからなかった。細かくは考古学的裏付けがないのだろうからやむを得ないけれど──中国版wikiにありました。
▲黄河历次改道示意图(黄河の歴代の改道イメージ図)
※ 維基百科/黄河改道
 黄河の流域が動くことを「黄河改道」と称するらしい。性格上,この河はしょっちゅう流域を変えてるので,河口が動くほどの大きな改道を「大改道」とも呼んでて,それは有史上確認できるものが最低7回ある。
 そして,うち2回,南宋~元と明・清の「故道」(旧流域)が淮水に流れこんでます。これを「黃河奪淮」(黄河が淮水の流れを奪う)と言って,中国語wikiにも項目があるとおり通称になってる。
※ 維基百科/黃河奪淮
 1194~1854年の660年間,黄河は開封など河南の中原域から旧・淮水流域を経て,浙江を通って東シナ海へ流れ出た。淮水と長江は邗溝──随初代・楊堅(文帝)が陳を滅す前に掘った京杭大運河の第一工程部分です──で繋がってるから,黄河・淮水・長江の三大水域が内陸部で繋がったことを,それは意味します。
 以上,長くなったけど河野論文を読むための事前知識の整理でした。さて本題です。
▲wiki/淮河:淮河水系の地図。英語表記だけど黄河から櫛のように淮水へ伸びた枝川の形状が分かる。

②河野論文:黄河奪准を得策とす

 皆さんが中国史を総覧されていて,断絶というか,途中から「面白く」なくなる印象をお持ちになった方はいないでしょうか。個人的には,高校世界史を勉強してる中で,宋・元以降がそれ以前に比べて面白くないなあ,と感じてました。
 黄河奪准の成された1194~1854年の660年間とは,中国史上では元・明・清の南北統一王朝の時代です。

 華北の平原は殆ど起伏が認められない。鄭州から開封にかけて時に一連の低い砂丘を見るが,これも黄河乱流のあとに生じた自然堤防にすぎない。土質は極めて軟い次成黄土の深い層である。准水支流と黄河との連絡は一度黄河大堤に破綻を生じれば,極めて容易に行われ得るのである。しかし宋代以前に於ては,黄河の平常の河道は現在の流路よりも更に北方に存在したため准河水系に河水の流入を見たことは異例に属することであつた。
 所が金宋対立の時代,金世宗大定六年より,章宗明暦五年の間に黄河は遂に南に徒り,陽武に決して封邸·延津·長垣·蘭陽·東明·曹州を経て梁山濼に達し,ここで二派に分れ南の分派は河水故道に従つて徐州·宿遷を過ぎ,准に入るに至つた。これが黄河奪准のはじめであつて,以后宋と対立していた金は黄河の南洗を得策として北に遷らしめず,元も亦これにならい,賈魯は闘封より徐州に殆ど直行する河道を作つて河患の一掃に大功をあげた。しかし元代末期治安に意の用いられること少く,修治の放棄せられるうちに賈魯の故道は淤塞し始め,黄河は更に上流部に於て南に向う新しい排水口を求めるに至つた。

※ 河野通博「准河水災覺書」
 要点を抽出すると──
①金以降の王朝にとって,南中国を攻撃・支配する上で,黄河奪准は得策だった。
②そのため賈魯などによる人為的な土木工事により黄河奪准の状況は維持された。
 つまり,水利目的もあろうけれど,随代に京杭大運河を造って繋げた南北の内陸水運は,中国大陸全土を支配し,かつマーケットとして経済圏を維持する上で不可欠だったわけです。
 長江流域の政治経済規模が小さかった春秋戦国にはまだ可能だった全土支配は,漢末以降には,この南北水路抜きには不可能だった。黄河奪淮という自然の変動が偶然あって,中国は元以降の統一政体を維持できた,と考えることができる。
 このイメージをさらに進めてみましょう。

③倭寇的状況が元代以降に発生したこととの関係

 中原:黄河→淮水→南中国:長江の内陸水運が繋がったことは,その先に既に形成されていた,浙江→福建→日本・東南アジアの海域水運圏との接続も意味する。そう思います。
 すなわち,黄河奪淮により,中国の統一王朝が海域アジアを支配圏に収めることが可能になった。逆に,海域アジアは中国統一王朝という大きなステイクホルダーを顧客とすることが可能になった。
 14世紀前後のいわゆる前期倭寇とは,中国内陸水運と東ア海域水運の連結が本格化した,あるいは本格稼働直前の混乱を経たという状況をいうのではないでしょうか。

黄河○━○北京  ○日本
  内陸  海域┃
  水運  水運┃
淮水○━○長江○━○福建

 揚州と淮安を回った段階までの感想として,明清の内陸水運の拡大とその影響力の大きさがあります。明清各初期の熾烈な海禁とその間の管理交易の時代に,並行してこの内需拡大が行われている。
 海域アジア研究はその強みである国際性に立脚しがちですけど,逆にそれは国家概念に捕らわれてることでもある。本当に国境を越えた見方をするなら,各国内水運もまたひと繋がりの水域と捉えるのが,現実の海民の視点に近しいと思います。

④黄河奪淮はどこまで人為的だったか?

 全く理解できないのは,どの記述にもこの大変動がある程度人為的に維持されたと書かれてることです。
 河野論文にも書かれる賈魯という元代の土木建築家は,人為的な決壊や堤防で南流した黄河を制御したらしい。河野論文にも,第6回目の大改道は賈魯のような人為的維持が怠られたために起こったとある。でもそんなことが可能なんだろうか?ワシが土木の専門家ではないので,どうも実感が持てない。
 100%人為ではあるまい。それならばそもそも,随代の大運河は開封-徐州ラインに造ればよかったわけで。それに,中日戦争時に蒋介石が開封でやって失敗してるように,人為的な決壊だけだと現代でも結果は保証できない。
 ということで,黄河奪淮の660年間がどこまで自然現象で,どこまでが人為的になされたのかは,詳しい方是非評価してくだされば幸いです。

「/※5454’※/Range(淮安→徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:廃黄河は西へ」への2件のフィードバック

  1. Your article gave me a lot of inspiration, I hope you can explain your point of view in more detail, because I have some doubts, thank you.

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