/※5461’※/Range(徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:快哉亭の城壁

~~~~~(m–)m徐州編~~~~~(m–)m
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※宿(ibis:地点A)経由,翌朝の快哉亭東まで

旅程の決した徐州初日

▲「行人禁止通行」(歩行者は止まりなさい)の信号機。右端のカップルのラブラブにも留意。

時過ぎ,徐州火車站售票処(徐州駅チケット売場)。
 結構な行列です。あと15人というところ…一昔前なら短いと感じたでしょうけど,今は济南と同じ位長いか。
 労働節の影響は,時期とメジャー度から考えて次に目指す合肥までのはず。ここさえ買えればもう危険は小さいと思う…とこの時点では予想してました。
 本日の宿はIBIS。火車站から歩いて15分というところ。最寄りバス停は東に「万虹橋電子市場」,西に「供销大厦」。完全に繁華街……と予想してました。
 さてあと5人。

えた……。
 徐州東発で合肥南行きと面倒な組み合わせだけど,カウンターの端末に表示された検索結果──最近の中国の鉄道駅窓口では購入端末のミラー画面が客向けに表示されてることが多い──を見るとその前後はパンパンに塞がってる。危なかったわけです。
 さあこれで,ほぼ今回の行程は決まりました。──実は,徐州から上海までに二ヶ所ほど立ち寄る時間はあるけれど,これをどこにするかさっきまで悩んでた。決めたのは,合肥と蕪湖。前者は初回に地下鉄工事中で空振った町,後者は,これは上海以降に浮上して来た選択肢でしまけど,鉄画で有名な町です。
 今夜,合肥と蕪湖のホテルを予約すれば最終泊まで宿は確定する。

徐州・常家豆腐に涙す

▲1641喜年来美食花園で徐州駅飯

宿までは徐州駅から1km余。
 駅前はきらびやかじゃないけれど幾つか店はあり,当面,藍天商業広場というモール一階に24h営業の快餐(ファーストフード)を見つけてた。
 駅前の角地。時間が遅かったからか品数は少なく見えるけれど──宿近くに店がなければ出直すのも億劫な時間です。徐州のお味をまず確認しとこう。
1937喜年来美食花園
うずらの卵入り角煮
硬い豆腐の小エビうま煮
白米飯550
 角煮にうずらの卵は,最初口に入った時には驚いたけれど,結構イケる味です。
 角煮そのものはこれまでのものと似たり寄ったり。ただこれまでになく,直球的な味覚を感じました。技巧をあえて感じさせない自然さというのか。
 それは豆腐のうま煮で明確になりました。

▲豆腐のうま煮どアップ

縄豆腐の煮付けを思い出す味覚です!
 一見中華らしくない中華で,しかし本当の意味では中華の王道であるような中華。時折,「常家豆腐」などと出される一品が近い。
 硬い。本当に硬い豆腐が,小エビからたっぷり味が出た汁に沈んでる。
 鈍く輝く黄色じみた色は香油でしょうか?
 素材の味をまっすぐ調理したものばかりなのに,がっちりと美味い。合肥で初めて感じたあの自然体の武骨な中華の味わいです。

▲2016廃黄河にかかる橋のネオン

谷町筋のような雄大な起伏

州駅から西への道は,少し下って橋となる。
 回りの道も緩い下り。面白い。東京ほどじゃないけれど大阪ほどには緩い丘陵地の中にある。
 それもそのはず,前章巻末で見たとおり,黄河から淮水への櫛状の川の中でも最も最近のもの,つまり今橋で渡った廃黄河──165年前まで黄河だった旧河川沿いの町です。この時足下に感じた傾斜とは,かつての河が堆積せしめた黄土の丘だったわけで。
 だから,橋の向こうは再び緩い登りに転じます。
 公園のある場所まで登っていく。ここでこの道,淮海路はY字に別れており,その分岐西側が公園になってる。
 そこが丘の最高地点で,公園対面の本日のお宿・ibisの辺りで,下りに転ずる。
 大阪の谷町筋辺りのような雄大な起伏を作ってます。

▲2028淮海路のファッション店

としては,宿の辺りはかなりシックな佇まい。
 洒落こんだファッション店が並び,雑貨や小店はない。コンビニもないから駅で食べてきて正解でした。
 翌日の後日談ですけど,2百mもそのまま西行すれば多少繁華街っぽくなってます。宿の位置としては的確な選択でした。

時はけれど,老城の位置も廃黄河の意味も把握しきれないまま,宿の床に身を投げたはいいけれど,この地勢の不思議に頭を捻り,地図をこねくりまわしてました。
 百度地図でも画面右枠の「图层」アイコンから入った「地图类型」ウィンドウ内で「卫星图」を選べば衛星写真が見れる!これで沖縄X手法を試せる!──と興奮してメモしてます。もう数日前,いや昨夜気付いてれば!
 これで「ドット状エリア」を探すと,確かにあまり多くはないけれど,東側の一部と北の鼓楼区に幾つかありそう。──と当たりをつけてから眠りについてます。
 かく見つけたXの場所は次章以下をご期待のこと。けれど……後日少しは把んだ徐州の全貌,その片鱗すら当時は想定してません。認識は「???」だらけのまま感覚で,ひたすら歩いてます。
 無理もない。実は徐州老城は,他に例を見ない三角形の姿だったのですから。

中国最古の町,かもしれない徐州。空振り続きで,闇雲に,東へ北へと歩いてます。
[前日日計]
支出1500/収入1500
     /負債 0
[前日累計]
     /負債 858
§
→五月二日(四)
0837马市街[食它]湯 二部
马市街[食它]湯
牛肉鍋貼餃370
1113蘇記丸子湯300
1139徐州名吃 怪味魚把子肉
把子肉としいたけ,湯葉,白米飯370
1239祝福記糕点
蛋糕(古早味)250
1916欣客来快餐
空豆の肉丝の辛炒
ホルモンと青唐辛子のさらに辛炒
白米飯550
[前日日計]
支出1500/収入1840
負債 340/
[前日累計]
     /負債 518
§
→五月三日(五)

ATMの導く西斜辺の路地へ

の出掛け,宿のフロントで最寄りのATMを訊く。
 0823。宿の南,真裏へ行くとICBCのATMでした。手元現金引出しと,ついでに預金の補給もしておく。予想通りもう尽きかけてました。
 ボックスから出て辺りを見回してみたら──南への小径に「后井涯」と表示が出てる。これが道の名前なのか?hou jing yaとピンインがふってある。
 好し。
 これも縁です。この大同街から南の路地に入ってみることに。
 0827南行。

▲0833宿裏・大同街から后井涯へ
※後日ここの大同街へ到る道に「钟鼓楼」があったという記述を見つけました。本当だとすればここが老城の中核だった時代があったことになるけれど──

穿过大巷口,就到大同街了,钟鼓楼在那里

←毎日头条/这条路装满100万徐州人的记忆:城隍庙、教堂、四中

い散る埃のようなものを,この時,初めてメモしてます。ここからの旅行の道中,これにずっと付きまとわれました。──街路樹の花粉か何かか?
 微妙な下り道。わずかに雰囲気はある。
 0834,青年路を渡りさらに対面の路地へ……と入りかけたけど,どうやらこれは抜けれそうにない。少し東から南行を続ける。

シャースープ快きかな馬市街

▲謎の朝飯屋街頭

市街と呼ばれる道だったことは分かります。ただGM.には「開明街」(开明街)と書かれてる。
 ここで朝飯を食べてます。
0837马市街[食它]湯 二部
马市街[食它]湯
牛肉鍋貼餃370
「[食它]」の漢字は上記写真のとおりなんですけど,久しぶりに中国語アプリでも漢字がどうしても出ない字でした。→巻末参照
 食べてる間,30席ほどが常に満席でした。
 鍋貼は南京のものそっくりの肉肉しいハム系のもの。かなり上質,というか完成された下品な味です。胡椒もよく効いてる。朝からガツンという味でした。
 それで店名になってる湯(スープ)なんですけど──

▲0844謎のスープ朝飯

く分からない。
 乳黒色の液体です。とろみは強いけれど,底に行くまで粒を感じない滑らかな食感。胡椒が効いてるけれど,出汁と豆臭い穀物っぽさを感じる。
 美味い。
 まさに朝飯スープとして最高です。
 底に残ってきたのは,魚の脂っこい感じの白身。ハム状になっているように感じる。それとグリーンピースの一回り小さいような豆。
 完全に謎の味でした。けど,無茶苦茶な満足感でした。

▲0910馬市街(開明街)の下町らしい雑踏

喫できる朝飯にありつき煙草を一服。好い朝です。
 しばし町並みを見る。好い下町です。このまま進むべきでしょう。
 0909,南行。道には開明街と表示。
 西側に50mほど城壁。妙な湾曲を帯びてる。位置的に作り物とは見えないけど?
 快哉亭公園という緑地の東縁に出た。城壁跡らしきものも見え,これもどうやら作り物っぽくない。
 ここで開明街は尽きる。

▲0916馬市街(開明街)の南端

■メモ:徐州公共自行车のシステム記録

 徐州でも結局,自転車は借りませんでした。百度地図の検索機能が使えてくると,バス網の複雑さの方が面白い。
 だから消去しかけたけれど,当時の市規模のシェアサイクルの状況記録として残しときます。以下,手元に落としてたレンタル情報一連です。
※百度/徐州/公共自行车
「徐州公共自行车借车卡每天使用不限次数,每次一小时内免费,单次超时按1元/小时收取超时费。」
※百度/徐州公共自行车
「租车卡
办卡(略)
外地居民凭二代身份证原件或军官证、学生证、台胞证、护照任一原件至指定办卡点办理租车卡,办理租车卡时需缴纳200元保证金及20元消费充值和10元办卡费(略)
办卡地点:
铜山电信局北侧
云龙区民富园环岛东南角
泉山区矿大科技园停车场
云龙湖风景区滨湖公园东门(★)
中心区白云大厦4楼
中心区古彭大厦5楼
便民服务中心大厅
鼓楼区奔腾大道公交首末站
金山桥世纪华联超市服务台」

■レポ:快哉亭は三角城の東南角

 以下は全て,帰国後に得た情報でして,これで当時の「???」がやっと解消されてます。
 すなわち,馬市街とは老城のどこだったのか?快哉亭の城壁とは何だったのか?これらの点です。

① 快哉亭は北斗七星を祀る城壁角だった。

 手がかりとして一番とっつき易かったのは,古勝・快哉亭でした。

快哉亭取名苏轼的《快哉此风赋》。北宋熙宁十年(1077年),苏轼调任徐州知州后,常约宾朋来此避暑。一天,苏轼登城步入新改建的亭内,李邦直请他命名。苏轼挥毫作赋:“贤者之乐,快哉此风(略)”

──快哉亭はその名を苏轼の「快哉此风赋」から取っている。1077年に徐州知事に就任した際,ここへ避暑に来て新築の建物に登り,こう詠んで建物の名前とした。「ワシのような賢い人間の快楽というのは,この風さえも心地よいということなのさ,ふふん」
…………建物は11世紀末にはあった。でも名前そのものはどうでもよさそうです。
 ただこの蘇軾(簡体字:苏轼。1037-1101)という文人の名はしばしご記憶ください。

《同治徐州府志》记载:“在城东南,旧志宋熙宁末李邦直持节徐州,即唐薛能阳春亭故址构建。郡守苏轼名曰快哉,后明奎楼,俗名拐角楼。”

──「同治徐州府志」に曰く,「城の東南。(以下ほぼ同上につき略)後の名を明奎楼,俗名を拐角楼。」
…………「拐角」は角を折れるの意味だから,要するに城の東南角に当たったことからの命名でしょう。「奎」は二十八宿の一つ,北斗七星を含む西方白虎七宿の第1宿。下記にあるようにこの星々を祀る祭壇でもあったらしい。

昔日的快哉亭,建筑在古城墙的角上,被称为奎楼,为徐州古城的五楼之一,与彭祖楼、霸王楼、黄楼、燕子楼、布于古城周围。奎楼祀奎星,为文人崇祀之神。古时每年五月十六日有庙会,香火甚盛。因楼建在古城东南处,有成拐角楼。

…………あと,徐州古城は1928年,日中戦争下で壊されてる。その中で快哉亭とその城壁だけが修復されたという。「修復」ということは,ここは何かの理由で完全破壊されなかったのか?

徐州的古城墙在历史上享有盛名,1928年被当时的驻军扒砖卖钱拆除。今快哉亭下的城墙已修復

※百度百科/快哉亭
 ともあれ当面の問題は老城の場所。快哉亭の場所はその東南角。
 しかしここが東南角なら,今文化街になってる南の戯馬台(戏马台)(→Phaze:徐州の中心で)の辺りは老城外になる。それは変だろう?

② 徐州老城壁の描く三角形

 徐州の歴史の分厚さから,全く別の時期の城がダブルイメージになっていたのが,混乱の原因でした。
 まず宋代以降の老城の位置はこうなる。
▲徐州老城位置図
※ BTG『大陸西遊記』~江蘇省徐州市

 三角形です。
 なぜこの形かは明確です。北側頂点から東側頂点への傾斜は,廃黄河と平行してます。人間の敵でなくこの河に対抗する堤防が築かれ,それが城壁にもなった,という推移が想像できます。
 東側頂点が,ここまで触れた快哉亭の位置です。
 それに対し,北側頂点には黄楼という建物がある。これを建てたのは,快哉亭と同じく北宋・蘇軾です。

北宋の詩人であり政治家であった蘇軾(1037-1101年)が徐州府の知事だった1077年に黄河が決壊して、氾濫した河水が彭城(徐州)を襲った。翌年に実施された防洪対策は陰陽五行思想にある「土克水」(土は水に克つ)の考え方に基づいて進められ、黄が土を代表する色なので、黄河の河畔に黄色く塗った楼閣を築いて洪水に立ちむかう象徴としたのである。この顛末は、蘇軾やその弟子の秦観、蘇轍(蘇軾の兄)らが撰した『黄楼賦』によって現在に伝えられている。黄楼は黄河が決壊した翌年の1078年、防洪対策の一環として黄河河畔に建立された。

※ 廃黄河を行く/徐州──廃黄河と項羽の故郷
 黄河改道史(→前章/①基礎:黄河大改道)を思い出してください。蘇軾と徐州が「黄河の決壊」に遭ったのが1077年,これは4次改道による黄河南遷の1194年の65年前。
 説明してくれる地学的な知見がありませんけど──まず間違いなく,黄河は本格的な南遷以前から時折,淮水方面に「決壊」していた。黄土の堆積が改道の原因ですから,北側の自然堤防が完成仕切る前にも,そういうことはありえます。叙述的に書けば,将来の南遷の道ならしをしながら,虎視眈々と淮水域を狙っていたわけです。
 人間側,なかんずく治世者側からすれば未曾有の天変地異だったでしょう。国で一番の大河が,突然関係のない地域に流れ出てくるんですから。
 黄楼は,「土克水」の風水思想にのっとりこの水魔を呪う呪術的装置でした。現代の土木知識のある人間は,マジかよ?と疑いたくなるかもしれないけれど,当時そんなことしか対抗方法は思い付かなかったのも道理の天変地異だったのです。
 開明街,おそらくは文革前の馬市街は,この堤防あるいは城壁の東斜辺の内側の道。つまり,北宋代以降,南遷黄河の港町だった界隈だったと推測できます。

③ 西側斜辺と戯馬台の位置

 さて,まだ三角形の一辺しか推論してません。
 けれど,この老城壁が対災目的の設備を基にするかもしれない,という発想に立てば,北側頂点から西側頂点への斜辺にも,そういう時代があり,堤防が築かれた可能性は窺えます。
 北宋・蘇軾が詩人だったのはたまたまです。詩人でない政治家の時代に黄河の暴虐がなされれば,特に記録には残らなかったでしょう。
 ただそれは推論とは言えないから……第二点。西斜辺のラインと推定できる位置に「夹河街」(→GM.)という道があります。「夹」とは挟む,抱えるの意味,そして「河」は本来的に黄河を指します。
 第三点,次の,年代不詳の絵図目をご覧下さい。

▲廃黄河が黄河だった時代の絵図(出典:同上大陸西遊記)

 右手が概ね北方向です。
 描かれる川幅から,黄河が徐州を流れていた頃の絵図でしょう。
 老城三角形域は,岩質が異なるのでしょうか?この一帯だけが黄河に向かってぐいと突出していたようです。
 つまり,東側斜辺だけでなく,元々は西側斜辺も黄河に洗われていたのではないか?
 ただ,黄河は北西側から流れてくるわけですから,西側には東側より多量の黄土が堆積したでしょう。黄河が南遷していた660年間の早い時期に,水域は西側斜辺から遠ざかっていった。そう推測できます。
 それと,残る項羽の戯馬台ですけれど──南側の少し高台にあります。
 このBC2C時期の水域は予想し辛い。でも同じく黄河の決壊による淮水域流入が時折あったと推測するなら,この土地の出身だった項羽がやや高台に城を構えたのも頷けます。
 徐州の町域は,戯馬台エリアから始まり,黄河の北遷の続いた時代に徐々に北側へ拡がった。そこへ再びの南遷が襲い,鏃型のような堤防を築いて町を守ってきた。その鏃型が,黄河南遷流域の安定化とともに城壁に姿を転じて,明清の異様な三角形城が出来上がった。
 そして19世紀半ば,再び黄河は北遷。紀元前の城域と南遷時代の城域が「・>」のような形で残された徐州市街が形成された。
 それが概ねの,徐州と黄河の戦いの歴史だと捉えています。

④ 試論:重慶との地形の類似

 大河の中へ突出する丘陵──というとどうしても思い浮かぶのが,重慶の地形でした。
 徐州老城域の地勢は,思いっきりデフォルメすると重慶になる。そんな気がするのです。
 この後,快哉亭の南を歩いていった際,こんなメモを残してます。「家並みの向こうを観察する限り,重慶ほどじゃないけど,西側に見える市街地はやや高台になってるようです。」
 この高みは地図ではほとんど分からない。でも,徐州の三角形は完全に人口で作った突出ではなく,元の自然地形を生かしたと考える方が妥当でしょう。
▲徐州大地形
 徐州南南西6kmには泉山森林公園という丘陵がある。そこから南北に峰が伸びてます。
 ここから徐州への途中にある湖・雲龍湖は明確に南遷時代の黄河が作ったものです。それだけの圧力を受けても泉山から南北の丘陵は存立し続けた。
 この丘陵そのものは,黄土の堆積ではない。それが北へ伸びた切っ先が徐州老城の三角形です。
 さらに言えば,その手前の戯馬台,これは重慶で言えば七星崗に当たる位置です。もし徐州老城が今よりもっと川に突出していた時代があったなら,戯馬台は徐州への攻撃を一手に受ける南側の要衝たりえた……のかもしれませんけど,残念ながらそこまでの地学的知見はありません。
▲重慶城を東から見たレプリカ

■小レポ:シャー・スープの深みへ

 漢字が書けないからググれもしない,と悪戦苦闘した末,検索ワードを「食它湯 徐州」とすればヒットすることが分かりました。
 発音は「sha」。
 単純そうな漢字ですけど,どうやら中国でも台湾・香港でも,つまり現行漢字文化圏ではもう使われてない「漢字」らしいのです。
 ──そんな漢字がありうるのか?
 まずそれが不思議でした。漢字成立以前の単語を音訳で漢字にしているものには幾つか出会ってますけど,この場合は漢字がある。しかもそれは,当然意味が分からない。
 前章で拾ってた百度百科「徐州」の紹介でいう「啥汤」に当たることは分かりました。「啥」(発音:sha)とは「什么」(what?)の俗語表現文字です。だから──

到了清代,乾隆皇帝下江南,到过徐州,品尝此汤,很是惬意。便问厨师:“是啥汤?”。答曰:“就是饣它汤”。

※ 每日头条/徐州一绝—饣它汤
──清朝の乾隆帝が徐州に来てコックに訊きました。
「是啥汤?」(これって何のスープなのじゃ?)
 コックさん,答えて曰く
「就是饣它汤」(よく分かったべ,仰る通り『シャー』スープだべ)
 ……まあ駄洒落ですけど,そういう謎の漢字ってことです。──推測できるのは,ローカルな食文化が漢字発祥のお膝元にあり,ローカルにだけ通ずる漢字が出来てしまった。それ故の黄帝出身地独自の属地的な漢字。
 徐州が原(プロト)中国文化の発源地たることを窺わせる一例,と見るのは推測し過ぎでしょうか?
「この『シャー湯』は徐州人の『土語』で,百姓,コックらが(この料理のために)特に作った一語である。」

这个饣它汤是徐州人的土语,老百姓、厨师特地造的这么一个字。

※ 毎日头条/徐州一绝—饣它汤

① レシピ……については挫折

 ではこのシャー湯,一体何で,何が他と違うスープなのか?という点は諦めざるを得ませんでした。
 複雑過ぎる!それにどうも相当な種類がある。料理というより,一つの料理群と見たほうがいいです。
 その上であえて言えば……台湾でマイッた四神湯というのがある。鳩麦など麦の香りと淡い肉汁の混成,あの不思議な発想に似てる……ような気がする。
 そっからは専門の料理研究家の方にお任せし申す。

以鸡汤为基础,伴以麦片、面筋、胡椒粉、绿豆等原料(略)“啥汤”是用整鸡、大麦长时间煨煮出来的。鸡子要煮得散架,麦仁要煮得稀烂,汤要熬得浓稠。

※ 前掲每日头条/来徐州早起不喝碗啥汤怎么行?

② シャー湯は徐州早飯の核心

 シャー湯についてはなぜか「毎日头条」が何本も特集してました。とにかくシャー湯は,徐州人の朝飯になくてはならないものらしい。
 徐州の早飯文化は,この後も見るように相当独特です。かつ,食文化の重点が早飯に,偏ってるとも見えるほどに置かれてる。
 その中でもシャー湯は,徐州早飯の中核にある存在らしいのです。

说到徐州的小吃可是有很多滴,其中数“头牌”的就是马市街饣它汤啦!(略)徐州饣它汤的历史,要从4300多年以前彭祖的雉羹说起。

※ 前掲毎日头条/徐州一绝—饣它汤

徐州人的第一反应必定是每天早上都离不开的啥汤了。

※ 同
每日头条/来徐州早起不喝碗啥汤怎么行?
※ 同每日头条/徐州这10样昔日里的早点,有些快绝迹了,想吃都找不到地方

③ 彭祖は一つの文化である。

 これは俄には信じがたいけれど,神話では──要するに,徐州があって独特の食文化がある,のではなく,徐州の始めには独特の食文化ありき,ということになってる。
 すなわち,徐州に大彭氏国を立てた彭祖は元々はコックだった。堯(尧)帝が病の際,その供した「野鸡配些药材和稷米」(野良鶏の肉に漢方薬とキビ米を混ぜた)スープで帝が回復した。その功により彭祖は大彭氏国に封じられた。かくして「雉羹之道」(雉肉とろみスープの道)を掲げた彭祖は今に至る全コックの神となり,その料理「雉羹」は「中华第一羹」(中華料理最高のとろみスープ)と評された。この雉羹がシャー湯の前身なのである,と。

彭祖用野鸡配些药材和稷米制作出了味道鲜美的野鸡汤,也叫雉羹,献给生病的尧帝,尧帝喝了以后很快恢复了健康,于是把彭祖加封在了大彭氏国,大彭氏国就是今天的徐州市。彭铿因为他的“雉羹之道”,被尊为“彭祖”。彭祖是我国第一位著名的职业厨师,被厨师们尊称为祖师爷。雉羹是我国典籍中记载最早的名馔,被誉为“中华第一羹”。雉羹是饦汤的前身,可谓中华民族最早的汤羹。

※ 前掲毎日头条/徐州一绝—饣它汤
 それで当たってみると,この彭祖という神話上の人物は,道教世界では神格化が半端じゃないらしい。
 百度百科には「彭祖文化」というページまである。これによると,料理以外にも養生学,武術,音楽で現実に多大な影響力を持ってきた。アングラっぽいとこでは房中術の祖ともされるようです。
 かくも広範囲に,かくも長期にインパクトを持ち続ける大彭氏国。それはどうも,中国文化にとっては,昔話などでは毛頭なくて,民間文化の何割かを確実に包含するサブカルチャーのようなものらしいのです。
──こうなると,大彭氏国が中原の朝廷に封じられたもの,という明確なでっち上げの理由も分かります。そうだでもしないと,この大彭氏国文化の影響圏は強大過ぎて国家から危険視される。
 文革で狙い撃ちされたのも,同等の理由でしょう。表から見えるより,この徐州=彭城=大彭氏国文化圏は中国文化に決定的なインパクトを持ってるらしい。
 というか,そもそも道教って大彭氏国文化を体系化したものなんじゃないか,と暴論を吐きたくなるほどです。
▲伝・彭祖図。とにかくオデコがデカかったらしい。

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