/※5471’※/Range(徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:南関基督教堂到

午前:徐州最終歩き
午後:合肥再訪歩き
各3時間ほどなれど
各々濃ゆい時間でした。
[前日日計]
支出1500/収入1840
負債 340/
[前日累計]
     /負債 518
§
→五月三日(五)
0830徐州市放心早餐示範店 王老虎 老虎早餐連鎖 戸部山店
老虎辣湯
狗不理包子
豆ジャン370
1414安泰宾館
ジャコとピーマンの辛味炒め
茄子とインゲン豆のラー油煮
白米飯550
1816宮廷桃酥王 銅陵路店
半月形のあれみたいなの200
1920斗米楽大食堂
川魚を八角とニンニクとで辛味煮しました
長インゲン豆を秘密の豚肉とちょい唐辛子で炒めました
白米飯550
[前日日計]
支出1500/収入1670
負債 170/
[前日累計]
     /負債 348
§
→五月四日(六)


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.※~文治巷
[文治巷~状元巷は地図上では繋がっていないが実際は階段有]
GM.※状元巷~
[実際は状元巷から教会へのルートはなく,一旦彭城路に出て崔家巷から南行]
(経路)

解放・和平は「」と読め

▲0720曙光の青年路

国で「解放」とか「和平」の道名は注意すべきです。それらによって上書きされる元の名前があったということです。その元の名前(X)は分からなくても「」であること自体が過去の痕跡です。
 0715,解放路を南行。
 青年路。これも「」の類いです。この通りの街路の覆う穏やかさよ。

▲0724解放路と交差点

解放路「藍天保衛」決戦中

724,解放路の南の屈曲部。この西側に斜めに盛り上がってる奇妙な傾斜は何だろう。西側の建物の古さからして,最近道路を敷き直した訳ではなさそう。
 地鉄工事をやってて分かりにくいけれど,斜めの道路は四隅にある。おそらくここに南門のような構造物があって,かつてはロータリー形状だったものを撤去したのではないか?──と当時書いてますけど,今は別の考えに至ってます(巻末参照)。

▲0731工事原場

放路の建国路南側は物凄い工事で,広い車道のほとんどが占拠されてます。
 工事の標語に「発揚淮海戦役精神 堅決打赢藍天保衛戦」──「淮海戦役精神」で青い空を守る戦いをやり抜こう!
 徐州戦役での戦闘精神を持ち出してきてる。地下鉄工事を「エコ」と言わずにそこまでのものに例える大袈裟さが……なかなかに中国です。

ス停中国人寿站?
 0734。住所は解放路71,いかん,工事で距離感を失ってるのか行き過ぎかけてた。
 西を向くと高台。戯馬台のほぼ真東です。正面に文治巷の入口が見えてる。ここから反時計回りに戯馬山を登ってみよう。
 あれ?石畳の登り道しかない?──確かに地図上はここに道はない。でも山の上側への通路がないはずがない。やむを得ず石段を登る。
 石を打ってる露店の通りへ出ました。状元巷らしい。

状元巷の何でもあり市

▲0750朝の山バザール。漫画から古文書まで見境なしの古本屋。

回の買い物競争ネタ,ネクタイは「領帯」でいいらしい。
 いやそれはともかく……ここ何売ってるんだ?鍬とか植木とか犬夜叉のマンガ本とか,ホントに何でもありのガラクタ市ですけど?

▲0757朝の山植木市

考えると──この南にあった花鳥市場,その郊外移転後,一部がここに移って市内にとどまったんじゃないだろうか?
 市場に沿って行くと,丁度戯馬山の西まで回って来た。けれどそこで南への入口は壁で塞がれてる。つまり労働路側へは抜けれない。
 なぜこういう道の配置なんだろう?
 やむを得ず彭城路に出てから崔家巷へ。ダメ元での東行でした。

▲0804路地の入口はここか?

るほど。ここはもう,見た目は古びた石畳だけど,よく見れば作り物の文化街。ここを一般地域から隔絶するための壁だったか。
 0803,大樹の立つ南への入り口を見つけた。ここからまっすぐの方向のはず。南行して入る。

南关基督教堂 あと15m

▲0806いい路地だけどやはり昨日の辺りに?

关基督教堂」という場所を目指してたのです。百度地図では労働街のすぐ北にあるはずでした。
 0805。つづれおりの道の住所表示はやはり昨日見た户南巷です。
 道は東に折れて……昨日の道,労働街に出てしまう。おかしい。

▲0810家門。「征収二組」とあるのは立ち退きの第二グループということか?ならばなぜそんな立派な看板?

には出ず戯馬山から南に進んだ場所に教会はあるはずだけど?
 再度入口を,今度は南の労働街側から探す。
 ──あった!
 何で昨日は見逃してたんだろう?「南关基督教堂 向内15米」とまで出てるのに。
 路地を入るとほどなく,小さな家屋が現れました。集落に埋もれたような教会です。

▲0817脇道も細く続く

ドライヤー吹かすオバンの歌唱力

当に北からの道はなかったのか?
 集落が生きてるなら,こんなに袋小路が多いはずがない。まして信仰の中心に道がないなんて?
 そんな疑念から,さらに北の奥へ。けれど道自体は,どれをたどっても確かに行き止まったる。
 一本は,犬に吠えられてるところを後ろから来たオヤジに怪訝な目で見られるという,一種の挟み撃ち状態で退散してます。

▲0818北はやはり行き止まり

る一本に入ると──顔だけ見るとややビビるオバハンがドライヤーかけながら歌う,意外な美声。その音色が響く角の鶏のいるZ字は……やはり行き止まり。
 0822。

▲0818完全な行き止まり

■小レポ:青年路~建国路×解放路付近はかつて何だったのか?

 すっきりした史料はない。でも毎日头条には,極めて懐古調の文章が幾つかある。
 まずこれから,極力ドライに情報を抽出してみる。

① 史料:旧世紀の当該エリアの情報

[A1]青年路=(西)文亭街东段+城隍庙街+治平路+三马路(東)

青年路约2公里长,原是由四段路组成的,东端旧称三马路 ,往西旧称治平路,后改称青年中路;再向西有座城隍庙,所以这段称为城隍庙街,后来,当时徐州把警察局设在城隍庙里,期冀社会公共安全,遂把城隍庙街改为公安街。1945年抗战胜利后,因为这条街上有几所中小学,青年人多,遂把公安街改为青年路。最西端为原文亭街东段。1965年,这四段路并称青年路,沿用至今。

▲解放後,城隍庙大殿を接収した直後のものと思われる写真
[A2](現)市公安局=(元)城隍庙大殿 →徐州市公安局:GM.

解放初期,徐州市公安局礼堂就是城隍庙的大殿。
徐州的城隍爷,是汉代的纪信。
纪信是四川阆中县人,舍身救了当时还是汉王的刘邦。

[A3](旧)钟鼓楼=大同街×青年路

穿过大巷口,就到大同街了,钟鼓楼在那里。

※ 毎日头条/这条路装满100万徐州人的记忆:城隍庙、教堂、四中
[A4]花鸟市场は
 ①90年代創建。
 ②東に開明市場,西に解放路と回龙窝あり

花鸟市场建于90年代后期,与徐州最早的公园人民公园(现在叫快哉亭公园)连为一体,东边紧靠开明市场,西边是解放路、回龙窝。

[A5]付近の住民の楽しみ=「老澡堂泡个澡」(老澡堂に入浴)+「去逛花鸟市场」(花鸟市场をさ迷う)

这是我记忆的欢乐所在,乃至现在,工作之外我仍然有三个爱好,一是打羽毛球,二是去传统老澡堂泡个澡,三就是去逛花鸟市场。

▲旧花鳥市場
[A6](現快哉亭)公园と花鸟市场を結ぶ城門あり

小时候觉得连接公园和花鸟市场的城门好高大,感觉那就是穿越的通道,通往我所流连的世界。

※ 毎日头条/别了,二中!再见,花鸟市场!徐州老城的青春,太多讲不完的故事

[B1]花鳥市場が移った後,その裏に隠れていた城壁が初めて露出した。(それまでは意識されなかった?)

城牆外面就是存在了幾十年的建國路花鳥市場,花鳥市場搬遷後,這裡能看到露出的一段城牆。

[B2]古代城壁は洪水や戦争(?)で地下に埋もれ,市中心部で極めて完全な状態で発掘されることがある。

徐州城為半圓形狀,四周的城牆就如一張弓,弓內都是徐州繁華地段,古代城牆因洪水或戰爭被埋入了地下,卻保存了下來,這些年,市中心在城建中挖地基經常發現保存完好的街道、房屋等,就是常說的城下城傳說。

※ 毎日头条/行走在徐州市快哉亭公園、回龍窩古民居,尋找昔日古城牆
▲建国路×解放路の交差点付近(百度地図航空写真)

②観察:地図上の各通りの特色

 全体として,見れば見るほど「汚い」交差点です。
 まず東西の建国路ですけど,縁が異様にぶよぶよしてる。このラインは徐州三角城の底辺を成した城壁を撤去したものです。北京などのように現役で綺麗に続いてた城壁ではなく,既にあちこちを侵食された残骸のような城壁だったのではないでしょうか。しかも撤去後,十分に整備されずにそのまま道として供用されていった。
 南北の解放路は,交差点の南北で微妙に食い違ってる。つまり,この太さの道が昔からついていたわけではない。建国路の北では,今の解放路の西半分ほどの道で,東は市場が占領していたところを,この市場を退かせて道幅を拡げたのではないか。
 上記写真の北縁外だけど,現・青年路は快哉亭公園北で僅かに曲がる。これが,他でいう東西大街のような計画道路でない印象を与えるけれど,徐州の黄河との戦いの歴史の中で許された東西大街だったと思われます。
 

③推定:各通りのかつての位置づけ

 これらを一応事実として繋げると,こういうことになります。
建国路:城壁を撤去した後の間隙をそのまま道にしたもの。
解放路:元々は中央政治エリアと東の市場エリアの間の細い道だったものが,市場の撤去で今世紀初めに片側二車線程度に拡張。──この日に見た西側の段差は,旧道部分が城壁残骸を乗り越える地点で,土木技術がしっかりした最近拡張した東側はそれを平坦に施工できている。その結果出来た段差と推測できます。
 だから,この2つの道はいずれも最近,早くとも前世紀に出来た道で,歴史的なものではない。
青年路:これがかつての老城東西大街。ただし他の町のように都市計画的に設置されてるのは四段中の城隍街──彭城路~解放路の2百m程度──のみで,ここに漢代創建される城隍廟や鼓鐘楼があった。
 三角城域の中でも底辺より一本北の,頂点からはかなり低い位置です。黄河を恐れてというより,現実にここまで北へ下がらないと危険だったのでしょう。現在「城下城」が発掘されているというのは淮海路付近でしょう,この辺りになると南遷黄河の気紛れで何度も水に飲み込まれた地域だったと思われます。
 ただ,現在の青年路には,この滞在中に感じてるように微かな匂いがあるだけで,かつてを偲ばせるようなものは一切ない。
 推測ですけど,ここの2千年歴史を持つ城隍廟というのは相当根強い信仰対象だったのではないでしょうか。共産中国が「牛鬼蛇神」と呼んだそのものであるような。その本殿を公安局にするような露骨な示威行為までしなければならないような。
 この時代の徐州・青年路の破壊を物語る史料は,ついに無かった。

■小レポ:南关基督教堂小史

 一度目は通り過ぎ,二度目にも写真すら撮ってない,入口だけ見ると民家のようだった南関教会です。
 中に入るとこんな由緒ある建物らしい。ワシみたいな仮目標としてじゃなく,ちゃんとした信徒の方は,堂々と中に入ってご覧下さい。
 ご多分に漏れず,この教会も険しい現代中国を潜り抜けてます。
▲南关基督教堂内部:「徐州市南关基督教堂举行复堂20周年庆祝活动」と題する写真

① 解放まで

 イギリス系のパプテスト教会が最初に徐州に入ってきた。5人が洗礼を受けたのが1887年。

英国浸礼会最早来到徐州传播基督教(新教)。当时英浸礼会传教的中心在山东青州、济南一带,英籍传教士仲均安于1887年到徐传教,期间共为5位信徒施洗。

 市内には8箇所の教会がある。うち最も大きいのが淮海西路礼拜堂で1904年創建,信徒6百人。これに次ぐ古さと規模を持つのが南关教会で,1907年創建,信徒2百人。

市内建有8所教堂,信徒1500余人。1、淮海西路礼拜堂。西门(今和平街)教堂于1904年改建,为徐州市第一所砖结构的西式教堂(略)信徒600余人。2、劳动巷礼拜堂。1907年,美籍传教士白秀生在劳动巷购置民房开办南关教会,进堂教友200余人,其中受洗120人。

※ 徐州史志网/基督教在徐州地区的传播与发展

② 解放~文革

 南关教会は「唯一现存的具有一百多年历史的基督教堂」,現存する唯一の百年以上の歴史を持つ教会と書かれる。
 写真に「复堂」とあるのは,文革期の1959年以降,長く南关教会は「联合礼拜」,別の場所に集められて礼拝を強いられ,1994年にやっと復活したものだということらしい。──ということは,より古い淮海西路礼拜堂の方は,一時壊されたか改築したかで新しい建物みたいです。

南关基督教堂是目前徐州市区唯一现存的具有一百多年历史的基督教堂。1959年,徐州市区八处基督教堂实行联合礼拜,南关教堂停止聚会活动。此后不久,南关教堂即被徐州市残疾人联合会占用。1994年4月28日,在上帝的恩光普照下,南关教堂复堂

 では文革期に何が起こっていたのか?
「联合礼拜」が認められていたということは,全面的に排除されたわけではない。
 一時「洋教」帽子を被らされるような酷い時代があったことが,ポロリと書いてあります。しかし──

 1950年,为了改变中国人对基督教的观感,摘掉戴在中国基督徒头上的“洋教”帽子,一批有远见的中国基督徒发起了以“自治、自养、自传”为原则的三自革新运动,迅速得到全国众多基督徒的积极响应。1954年在北京召开了中国基督教第一次全国会议,成立了“中国基督教三自爱国运动委员会”。其基本宗旨是:团结和引导全国广大基督徒,热爱祖国,遵纪守法,积极拥护和参加社会主义建设,坚持独立自主,努力办好中国基督教会。三自爱国运动不仅促进了中国教会实现自治、自养、自传,让中国教会实现真正的自我,并且努力让教会实现“三好”(治好、养好、传好)!

 1954年に北京で「中国基督教第一次全国会议」という会議が開かれ,「中国基督教三自爱国运动委员会」なる共産党に従順な姿勢を示す組織が結成される。つまりこの組織内の活動である限りにおいて,キリスト教は文革下においても活動できてたようです。──それがどのくらいの制約を課されたものだったのか不鮮明ですけれど,この組織に加わらなかった教会もあるような書き方なので,相当酷いものではあったのでしょう。

③ 文革後

「“文革”之幽谷」という表現が生々しい。1979年に「恢复礼拜」とあるのは,やはりこの頃までは礼拝行為そのものは禁じられたのでしょうか?
 1980年に「中国基督教协会」への再編がなされた後も旧「三自爱国运动委员会」の趣旨は原則的に引き継がれる形をとったようです。

 1979年春,经历了“文革”之幽谷的中国教会重新恢复礼拜。1980年,为回应教会百端待举之需,中国基督教第三次全国会议上,成立了中国基督教协会。其宗旨是:按照圣经教导,团结全国基督徒,根据“三自”原则,积极开展教务活动,努力办好中国教会。

 面白いのは,文革後のキリスト教の拡大についてです。多少の誇張はあるでしょうけれど,現存の7割の教会は新たにできたものとある。文革で破壊・閉鎖されたものが多かったと見るべきかもしれませんけれど,これに続く現信徒の7割が農村在住であるというのは──文革以降に増えた部分と見るべきなのか,それとも文革期に抑圧された同じ「7割」と重複していた,つまりキリスト教が曲がりなりにも継続を許されたのは都市部のみで,農村ではより徹底的な抑圧があったとみるべきなのか?

 之后,在基督教全国两会积极鼓励、引导和精心服务下,中国基督教各项事工蓬勃开展。与中国的改革开放同步,这30年中,全国现已开放了堂点近53000多座,其中70%是新建的。信徒人数近2000万,其中70%的信徒在农村。

※ 中国基督教网/徐州市南关基督教堂举行复堂20周年庆祝活动 – 教会事工 – 2014-10-10

「/※5471’※/Range(徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:南関基督教堂到」への1件のフィードバック

  1. Thank you very much for sharing. Your article was very helpful for me to build a paper on gate.io. After reading your article, I think the idea is very good and the creative techniques are also very innovative. However, I have some different opinions, and I will continue to follow your reply.

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