/※5483’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:蕪湖大潤発

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

征収地なるも華あり三山里

343,ついにT字に達し迎秀路尽きる。正面に石垣,段差あり。正面右手に征収地域があるからこれも整地された後でしょう。
 左折西行──をしかけたら勘が囁く。
 いや?正面の社区への道には,かなり人の流れがあるように見えます。少し入ってみよう。
 北行。

▲1349蔦の中に家門

ってすぐは,とりたてて,という道には見えませんでした。社区の入口として賑わってる,地形の隙間の道なのかな?
 ここにも征収地の看板。三山里社区という場所らしい。→巻末関連記事

ボコボコに荷物満載バイク

▲1354丸い家門

坡路という古い住所表示もある。
「扦」という難しい漢字は挿す,方言で剥くという語義,「坡」は斜面。東の斜面を削り取ったエリア,という地形通りの意味だろうか。増水期に形成された古い地区かもしれません。
 丸い入口(洞門)が連なるのも由緒を感じさせるけれど……資料は見つかりません。

▲1354ボコボコに荷物満載のバイク

手法──航空写真ではノーチェックの,偶然に入り込んだ場所でした。後で見ても確かにドット状の地区が僅かに残るけれど,周囲は整然とした社区にしか見えない。

▲迎秀路と北京路のT字路北方付近(百度地図航空写真)

今はまだ街路樹広がる三山里

▲1357覗きこんだ脇道

も,さりげなく,何かの偶然で残った地区らしい自然な風情があります。
 ちょっと手が入ればなくなってしまうエリアでしょう。そういう散る前の桜のような危うさも,美しさを際立たせて見えたのでしょう。

▲1358街路樹の伸び広がる下に

401には花園(マンション)の脇道に出てました。
 南行する。
 道の真ん中でスゴい音立ててるのは,どうやら地下鉄工事らしい。

蕪湖は広電中心?

▲1401小さなレストランの前にて

なくバスから見えたモール・大潤発に着きました。
 その東入口脇に,快餐じゃないけど一番定食っぽい店を見つける。この時間でもちらほらと客足が絶えない様子です。疲れた。食おう。
1414永禾
雪菜焖肉園木桶飯500
 木桶飯は抜群に米が立ってました。甘味というより旨味が素晴らしい。これだけで食べるのが最高と思わせるような旨さです。
 雪菜もいい。日本の高菜に近いものなのでしょうか。この野菜の淡く発酵している旨味が飯に絡み付いてくる。

▲1424昼御飯


こにさらに肉団子です。
「焖肉」というものが何なのか理解してませんけど,ハムでも単なるミンチでもない,ぐちゅっとした,ぬめりのある状態の肉の細切れです。やはり醤が香りだけ芳醇になったような旨味。これが高菜飯に最高にマッチする。
 濃厚です。シンプルな濃厚さなのに,塩辛くも唐辛子辛くもない。「あじくーたー」というのともまた違う芳醇さ。

▲バス停「広電中心」──蕪湖広播電視中心の略らしい。他地の人には「だから?」だけど広島市民には堪らない。

電中心というバス停が大潤発西にあった。1516,32路に乗車,宿の北,公路局まで。
 高い歩道橋のある交差点を直進。芜湖站。やはり南東方面からは入れない模様。バス停・長途汽車站。これは火車站じゃない。
 店舗は多い。バス停・梅蓮路。T字路を右折。
 1523公路局バス停に下車。

宗教の都:蕪都

絶寝したのが1630頃だったと思う。
 猛烈な眠気がヌオッと襲ってきて,思わず横になったらそのまま終了になってしまった。パスポートベルトも何もそのままに,目が覚めたら夜12時が近づいてた。
 昨夜が遅くて今朝が早かったのに加えて風邪気味だったのがたたって,でも気力は屈していないところで,体力の方がストライキを起こした感じ。労働節に相応しいエピソードでした。
 その後で,なぜか次のメモをしてる。何に噛りつくつもりだったのかは分からないけれど,気力だけはまだこの町に噛りつくつもりだったらしい。

ントに忘れてしまってるけど,蕪湖の宗教世界を調べてます。
※ 百度百科/芜湖

据统计,芜湖现有信仰佛教、道教、伊斯兰教、天主教、基督教的信教群众约10万人,占总人口的5%,市级爱国宗教团体4个(芜湖市佛教协会、芜湖市天主教爱国会、芜湖市基督教三自爱国运动委员会、芜湖市基督教协会),县级爱国宗教团体6个,教职人员总计有100多人。依法登记的宗教活动场所279处,其中基督教227处,佛教46处,道教3处,天主教2处,伊斯兰教1处。

──中国には珍しく宗教人口が多い。特にキリスト教が盛んらしい。この翌日には教会にも立ち寄ってます。
 もう一つ,仏教の方は──

时间:每年农历七月三十(农历七月三十为地藏菩萨诞辰日,月小为廿九)
  地点:广济寺
  主要内容:民间传统习俗,四方信徒、香客云集进香朝拜,民间艺人献艺,寺庙举行隆重仪式,诵《地藏菩萨本愿经》、守地藏肉身塔, 历时七天。

──広済寺,この時の宿のすぐ西にある赭山公園という山陵の南麓にあるお寺が有名,かつ活動も盛ん。

芜湖山水相应,有半城山半城水之称。代表景色有芜湖十景

──「半城山半城水」という称号がピンと来ないけれど,山あり水ありで美しい,というところか。
 ただ,翌日もそういう幽玄には浸る間はありませんでした。ひたすら街中を,色々ぶつなりながらさ迷っております。

■事例レポ:真っ赤なお鼻の「棚改」さん

Q:尊敬的地区领导,在此想了解一下2019年已列入镜湖区棚改计划中唯一留下的三山里周边2400户的棚改问题,想知道是否2020年能够继续执行下去?
A:经调查,您所咨询的三山里周边棚改地块涉及被征收户约2400户。现因征收补偿资金、安置房源未明确,区存量安置房数量不足等因素,暂未启动该项目实施。区相关部门结合该地块实际情况,正在拟定拆改并举等措施逐步实施该地块拆迁工作。

※ We芜湖网/三山里周边棚改地块 2020-03-13
──という記述に,この日に迷いこんだ「三山里」をググってたら出会いました。
「地区领导」,地区の責任者への公開質問状みたいなものでしょうか?中国の指導層もハードな状況みたいです。
 それはともかく,内容は──【問】2019年の「棚改」計画で唯一保留になっている三山里は,2020年もそのままなのか?
──【答】三山里の2400戸のことですね,補償金と移転先の確保がままならなくて,いやその,鋭意努力しとりますんで,まあもうちょっとかかりそう,かな?
 いや,中国の自治会も大変ですな。まあ一杯。
 それはさておき「棚改」とは何なのか?表題は無論ダジャレでトナカイではない。ピンイン(発音)はpeng2gai3だからむしろ弁慶に近い。(近くないか……)
 で調べると──これはまた!土地バブルの頃の悪徳不動産転がしに近いぞ?

都市部の貧困バラック地区の住居改善プロジェクトを請け負い、その関連で、国家開発銀行や農業発展銀行などの政府系政策銀行から融資を受けるスキーム。具体的には、地方政府は融資で得た資金を移転住民への補助金を含むプロジェクト費用に充て、住民が立ち退いた後の土地売却代金、各種収益や税収を財源にして融資を返済する。

▲棚改スキーム
(注)PSLは担保付き補完貸出。「征収事務所」は地方政府の委託を受け、土地接収や住民移転等に伴う業務を遂行する機関。
(出所)興行証券経済与金融研究院

※ 幻冬舎ゴールドオンライン/中国の地方政府「隠れ債務」の実態【中編】中国当局は「地方の隠れ債務」にどんな手を打っているのか?
金森 俊樹2019.1.30

 地元自治体がそんな投機的なビジネスをやっとるのか?つまり,土地転がしを国立銀行が金融支援する仕組みが「棚改」で,実際の立ち退きと開発は民間に委託する,極めて効率的なスキームが常態化してる。──単なる行政のゴリ押し収用じゃなく,国と不動産業界が自治体の前後で旗を降ってるとは!
 ただこれがうまく行かなくなってきて,三山里はその一例でもあるらしい。そりゃそうだ,大規模開発は当たるとは限らない。一種の博打です。実際,バブル日本はそれで潰れかけたんだから。
 財政的リスクがどれ程のものになってるか分からないところも怖い。中国にあまたある自治体がやってるこんな投機が,ある時期に一気に,あるいは連鎖的に破綻したら……確かに怖いシナリオです。

■レポ:ニッコリ笑って人を斬る 徽商

 立て続けで申し訳ないけれど,上記は微笑三太郎である。徽商とは何の関係もないが,懐かしいのでつい,ね。
 さて蕪湖に着いてから何度も見かけた銀行名の「徽商」とは,徽州,すなわち現・安徽省の徽州府・歙県を中心とする商人集団。旧称から新安商人と呼ぶのはまだいいけど,またの名を「徽幇」。
※ wiki(日本語)/新安商人
 こう呼ぶと秘密結社,あるいはギルドっぽく聞こえます。
 まず気になった記述を2つ挙げます。

① No “BISHO” No Town revitalization

「无徽不成镇」──徽商なくして町は興らず,という不思議な成語があるらしい。
 その由来について書いたプログがありました。「华夏徽商网」というサイトなので自賛めいてますけど,詳しかった。
※ 华夏徽商网/“无徽不成镇”的由来

一个地方如果没有徽州人,那这个地方就只是个村落。徽州人住进来了,他们就开始设立店铺;然后逐渐扩张,就把小村落变成小市镇了。

──ある地方にもし徽州人がいなければ,そこに村落はなかった。徽州人が移住してくるや,彼らはたちまち店舗を構え,みるみる拡大し,村落は町へと変貌を遂げる。
 今日の外資系の企業活動のように見えますけど,少しニュアンスが違う動きです。次の引用はやや長いですけど,その違いとインパクトの大きさをやや熱く表現します。

杭州是徽人东出经商的枢纽,苏州是徽人北上东进的要道,徽商的聚散也关系到苏浙市镇的兴衰。徽商往来于大江之上,奔走于川、楚、吴,越之间,溯江入川者众,还有沿长江各支流,入云贵,上陕豫,走湘赣者。沿江城镇,徽商称雄。芜湖是徽商从事大江贸易的理想基地。(略)淮安、临清、东阿等商业枢纽,都是徽商最活跃的网点。

──杭州は徽人の東の経済拠点,蘇州は北と東への進出拠点。徽商の集散は蘇杭の盛衰に関わった。徽商は長江を上り,四川・楚・呉・越の川をつたって各支流に入り,雲南・貴州・陝西・河南・湖南に広がり,長江沿いの町々に徽商の名をあげた。蕪湖は徽商の長江貿易上の理想的な基地だった。淮安・臨清・東阿などの商業拠点もみな徽商の活動の結節点だった。
 徽州は安徽南部の山中,現・黄山市のエリアを出自とします。そこからまっすぐ北,長江に出る場所が蕪湖。つまり蕪湖は徽商の一次拠点として,明清期に興隆した可能性がある。
 北への運河沿いの拠点として淮安も名を連ねてます。
「成镇」(町おこし)の典型例が武漢三鎮の一角,漢口らしい。

如武汉三镇的汉口是楚之重地,徽商在汉口业贾人特多,影响也颇大,清康熙年间,汉口就有“新安会馆”、“专祀徽国文公,栋宇宏敞”。“新安巷”随之出现。清雍正年间,歙人许登瀛“倡首捐输”,得一万五千金,开辟新安码头,兼建“奎星楼”一座,“为汉镇巨观

 もう一つ,揚州に多数残っている庭園は,その多くが徽人の創建。淮安河下の庭園は,母数の取り方が不鮮明だけどその1/3が徽人のものとされる(李元庚「山阳河下园亭记」)。

如扬州,其园林名扬世界,然扬州园林多为徽人所建,淮安河下的园亭,据李元庚《山阳河下园亭记》记其有65例,而仅徽商程氏所建的就占约三分之一。

 南から蕪湖へ出て,長江とその支流に沿って西へ。京杭大運河を通って北へ。それだけの拡張を果たした徽商が,東へは向かわなかったのか?
 杭州の箇所にある「东出」,蘇州の「东进」とは何のことか?

② 徽商は東の海で何だったか?

「新安」は徽州の旧称という。下記wikiの「新安商人」記述は,出典が明記されない箇所はあるけれど,幾つかの知見を示してくれます。
※ wiki(日本語)/新安商人

明代には、山西商人(晋商)と新安商人の二つの商人集団が勢力を均衡させてせめぎあっていた。ただし明代後期より清代の嘉慶道光時期までの間に、両淮地方の塩業において、山西商人の勢力が減退し、新安商人が急速に発展した。

 徽商の市場独占状態は,明末から清初に,短期間で成されたわけです。
 それと,この争奪戦でポイントとなった商品は,揚州・淮安と繰り返し登場してきた「塩」です。
 それが淮水流域を中心とする内陸経済戦でした。では対外域はどうだったか?

海外との交易では伝統的に沿海部の福建、広東、寧波などの沿海部の商人が優勢であったが、海禁令の統制が強く海外との交易がもっぱら密貿易であった後期倭寇の一時期においては、日本や東南アジアで需要がある陶磁器や手工業製品を押さえた新安商人が貿易の主導権を握った。

 ここがよく分からなかった。内陸水系を独占したからと言って,なぜ徽商が対外交易に食い込めるのか?朝貢が密貿易になることで,なぜそんな交替が起こるのか?
 ただ実際に──

この時期の新安商人の中から、許棟や王直、徐海といった倭寇の頭目になる者も現れた。イギリス向けに茶葉の輸出が盛んになると、新安商人は広州で取引を行った。

 許棟→王直→徐海は徽州出身の,どうやら任侠的なグループの親分子分関係にあるらしい。
 うち王直は,後期倭寇の頭目として最も有名な人物です。前半生には舟山諸島を,後半生は松浦家の客分として五島列島を本拠としてる。
※ wiki(ともに日本語)/王直
/徐海

 知らなかったけれど──この王直は,舟山時代には「徽王」を号しています、
 徽商の「幇」としての性格からも,貿易を行えば「密貿易」にならざるを得ない状況で,法治の視点からは海賊と見えるような分派を生んだとしても不自然ではないように思えるのです。
 つまり,wikiの記述は原因と結果を取り違えてないか。徽商が優勢になったから王直らの後期倭寇が跋扈したのではなく,徽商の半・軍事力化がその興隆の基盤となったのではないか。
 海禁の海における徽商が,すなわち後期倭寇だった。
 王直が海賊たろうとして海賊だったわけではないのは,次の行動でもよく分かる。

1556年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。胡宗憲が総督に就任すると、王直は上疏(じょうそ)して自らはもはや倭寇ではないので恩赦を得たいと訴え、海禁解除を主張し、自らの管理下での貿易を願い出た。

 この後,捕縛・処刑された王直の後継者・徐海はもう海賊そのものに見えるけれど,それは王直の殺害によるものでしょう。

③ 明末の海外交易からの鮮やかな撤退

 ただそうなるとさらに分からくなる。
 明末清初に台湾に侵攻し三代の王朝を築いた鄭成功は,紛れもなく福建人です。徽商は寧波や福建の旧海上勢力を除いて東シナを制海圏を有したわけで,なぜその後に福建人の時代が来たのでしょうか。
 徽商の勢力圏の縮小について書かれた記述を探すと,こちらは意外に少ない。

明代徽商也在浙江、福建、广东从事海上贸易(184:ママ),入清后衰落,由福建和广东商人掌握海外贸易[6]。

※ 百度百科/徽商
6)藤井宏:〈新安商人的研究〉,页189。

──明代に徽商は浙江や福建,広東にまで海上貿易を拡大していた。しかし清代に入ると没落し,福建と広東の商人が海外貿易を掌握した。
 つまり海上交易からの撤退期は,清初(17C半ば)です。時代的に福建,特に鄭一族の活動期と重なる。
 けれど,徽商自体の活動縮小は以下のとおり清末(18C末)らしい。

明代中叶以后至清乾隆末年的300余年,是徽商发展的黄金时代(略)清乾隆末年,封建统治日趋没落,课税、捐输日益加重,徽商处境愈来愈困难。1831年,两江总督兼管两淮盐政陶澍革除淮盐积弊,改行“票法”,靠盐业专利发迹的徽商开始衰败典当业也因左宗棠垄断及外国银行的侵入而中落。茶、木两商则由于鸦片战争和太平天国运动的影响,连年亏损。尤其是随着提帝国主义入侵,外资渗入,国外商品倾销,徽商经营的行业大多被其所替代。只掌握传统商业知识、技能的徽商,在商业领域逐渐失去其操纵、垄断和独占的地位,开始走下坡路。

※ 捜狐網/中国四大商帮,究竟谁的势力最大?
 ここで言う「票法」とは,塩の専売制・独占制を規定した「綱法」に対する自由化政策らしい。商業権益を独占していた徽商は,塩価の低減により利益源を失い,続く太平天国による戦禍も重なって勢力を削がれた。
佐伯富「<論説>明代の票法 : 明代塩政の一齣」
 徽商と福建商帮以外の第三者が関係するのだろうか?
 その線を一応当たる。中国には十大商帮という数え方があるらしい。

其实自古以来中国各地涌现出许多商帮,其中较为出名的有十大商帮。具体是广东粤商(分潮汕商帮、广府民系)、山西晋商、安徽徽州徽商、陕西(秦商/关陕商人)、福建闽商(分闽南商帮和闽东商帮)、江西赣商、江苏苏商、浙江(宁波/龙游)浙商、湘商、山东鲁商等。但今天我们只谈势力较大影响最深的四大商帮,分别是晋商、徽商、潮商、浙商四个商帮。※前掲捜狐記事

 そのうち今日にも影響を及ぼす……ということは通史的な存在なのは4組織。晋・徽・潮・浙で,関係しそうなのは潮・浙。でも潮商の本格的勃興は清代康熙年間に海禁が解かれてからだし,浙商はアヘン戦争後です。
※ 百度百科/潮商
※ 同/浙商

 つまり,明末の海禁強化で徽商はあっさりと内陸水運へ専念する形態にマーケットを手仕舞してる。その間隙に,福建商が専ら非合法な形に躍り出て活躍したことになる。
 このあっさりさが疑問なのです。一時は後期倭寇の主体を成した,とも見れる徽商が,他の商帮にマーケットを明け渡して,なぜこれほど鮮やかな方向転換を実現できたのでしょうか?

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