/※5491’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:花園路堀端

残り10時間。(無駄に)自信があるのは,蕪湖をこんな歩き方した奴はほぼおらんってことじゃね。


[前日日計]
支出1500/収入1450
     /負債 50
[前日累計]
     /負債 398
§
→五月五日(天)
0807吃吃瞧中式快餐
ピータン鶏ミンチ粥
鍋貼
小菜370
1059老来牛肉面 特色芜湖伝統小吃
牛肉面400
2040仙豆糕
6種類全部入300
2049耿記面館
特色辣椒面400
[前日日計]
支出1500/収入1470
     /負債 30
[前日累計]
     /負債 428
§
→五月六日(一)


かくも超越した水準には

▲0011。日の変わる頃のやけ食いカステラぞ!

ましい。
 一日目はかくして身も心も勘もブッ倒れたわけだけど,二日目があるのである。
 深夜の禁断カステラを食みつつ考える。10時間をどう使うのか?
 幾つか情報を漁ってます。まずは──

黄浒赛龙舟
时间:每年
地点:繁昌孙村镇黄浒社区
主题内容:从春秋战国时期以来一直至今,赛龙舟、吃粽子等等,以此来纪念屈原。

※ ※百度百科/芜湖
※ 捜狐/繁昌举办非物质文化遗产黄浒河龙舟赛 共迎共庆端午佳节

 無形文化遺産になってるボートレースがあるらしい。戦国時代に端緒あり,ということは呉越時代を彷彿とさせる。端午の節句といえば丁度この時期,運がよければ練習くらいは見れるかも?と思ったけれど,バスが見つからなかった。

▲黄浒赛龙舟

一つ,蕪湖は東山魁夷が惚れ込んだ画法・鉄画の発祥地だという。

铁画制作起源于宋代,盛行于北宋。清代康熙年间,安徽芜湖铁画才自成一体,并逐渐享誉四海,至今已有340多年历史,是中国工艺美术百花园中的一朵奇葩。芜湖铁画以锤为笔,以铁为墨,以砧为纸,锻铁为画,鬼斧神工,气韵天成。

▲芜湖铁画

かに!凄そうな筆致です!
 どこかで見れないか?専門美術館は?レプリカでも買えないか?と探したけど……これも見つからなかった。

日本著名的风景画家东山魁夷1981年在芜湖参观铁画后惊奇地说: “把铁打成画,这是中国艺人的伟大创造。我是画家,但是无法达到这种高超的艺术水平。” 

※百度百科/芜湖铁画
※毎日头条/芜湖铁画~~工艺百花园中的一朵奇葩!

 止めた。愚直に当たろう。まだ残したX地点はある。初日と同じ玉砕(でもなかったけれど)してでも,自分の手法の方を信じよう。
 てことで朝を迎えまして──

小件寄存での尋問

▲0723再び蕪湖駅

時,リュックを担いで公路局バス停へ。0707には10路バスに乗車してます。
 トンネルをくぐってから高架下の向こうをさらに左折。バス停・站南路口。ここから何とか園(ここからも火車站へ行くという客が乗ってきた)というバス停を過ぎて,かなり北へ走ってから南へ折り返す。それでやっと芜湖站東広場。何ちゅー遠回りの路線じゃ。工事が完成したらマトモになるのか?
 にしても,この駅正面の波打つようなモチーフは何だろう?

定通り,小件寄存(手荷物預り所)へリュックを預ける。
「身分証!」──おい,そんなん要るのかよ?
「手机号码!」(携帯番号)──だからさあ…。
「里面是衣服?」(中身は服か?)──衣服だよ衣服,面倒だからそれでいーよ。
「几点来?」(何時までだ?)──はいはい17点(時)にしといてや。
「下午5点?」(午後5時か?)──いや……それ以外あるか?
「20元!」──高~!そしてお役所~!

真っ黒ハンペン卤味風

▲0759聯盛広場辺りの都会風景

広場のバス停は仮設扱いで,今は「芜湖汽車站東広場分站」という名前でした。これも工事後にはまともに変わる……のかね?
 0747。「特4」という仮設っぽい路線に乗ってみる。站南路から戈江路へ右折南行。万達広場前を,やはり右折西行,トンネルをくぐる。聯盛広場で下車。
 あ,やっぱりここか。昨日バスで通った豪勢な構造の歩道橋の交差点。
 大気に満ちた綿毛のせいか,喉にキテる。のどぬーるスプレー大活躍中です。
 ところで,この駅南の町には朝ご飯にやってきてます。昨夜試みに「快餐」で検索したら何軒か連なってるこの場所がヒットしたんだけど……あ?あそこか?

▲0807早飯

807吃吃瞧中式快餐
ピータン鶏ミンチ粥
鍋貼
小菜370
 今の時間は早点メニューだけですけど,それでもかなり客は入ってるここにしました。
 朝5時半開店とある。設備から見て昼には自助をやるみたいです。
 粥は「白粥?」と聞かれてウンウンと言ったのにこれを取ったから2元追加を取られました。チェック厳しい。
 けど……おお?いい味です。ピータンの臭みは軽やかで,どうも鶏のミンチ状のものにハムのような加工がしてあってそこから良い出汁が出てるらしい。
 この辺りは餃子もメジャーなんでしょうか。考えてみれば南京の南上流,おかしくはない。味は普通に旨かった。
 しかし!一口で目を見張ったのは小菜。
 豆干,あるいはハンペンの外側が真っ黒になってるような外観でした。底に大ぶりの唐辛子と生ニンニクがたまってて,一緒に酢漬けか何かにしてあるらしい。胡麻油の香りもある。

▲豆腐のどアップ

題はこの豆干の黒い外側で──しばらく連想できませんでしたけど,先見に捕らわれずに言えばハムというより臭豆腐の味です。豆干の外側だけをそういう風に発酵させてる。──って,どうやって?
 という疑問も他所に,一口ずつ,粥で舌を洗いつつじっくり食べ進める幸福な朝食となりました。

ゴーストタウンモール

▲0856芜湖市新四軍歴史研究会

がけに便所の場所を訊くと「エレベーターで3階に上がって左」?──確かにあったけど小便器6つが全部閉鎖されてました。
 改めて見直すと……ここ,人の姿がまるで無い。西口が塞がれた駅前だけあって,すごいゴーストタウン化したモール,の一階通り側だけが食堂街化してる,という界隈だったのです。
 外へ出る。芜湖市新四軍歴史研究会?何を研究するのじゃ?→巻末メモ参照
 ICBCがあったのでJCBで引出しして3百ほど預金追加。微信を頻用するようになると結構減る。──うーん,昨年からすると贅沢な悩みです。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

蕪湖 好い人の家

907,聯盛広場西バス停から19路で緑影新村まで6駅。五一広場の2つ北です。
 21路が3台連なってきた?目的地は違うから運行上は別路線なんだろうけど…利用者目線で考えろよ!
 0914乗車。ゴーストな駅西口を過ぎ,お馴染みの正面商店街から梅蓮路バス停。「不忘初心」の標語が増えた。政治的な揺れ戻しは何度も来てるらしい。
 右折。地鉄工事中の道。紅梅新村バス停,次のはず。
 0924,下車。

湖市文化館に「芜湖好人館」(蕪湖 好い人の家)と掲げてある文字は愛称か?
 とか心中ツッコみながら,その前の歩道橋を西へ渡ってから北行。
 0931。高架下をくぐる。とりあえず左手西方の工事現場は絶え,商店が連なりはじめました。
 0934。西に花園路という道が開けた。これでしょう。左折。

軍隊離休退休幹部第二休養所

▲0938花園路。勇壮な三輪車!

園路の入口南西の角地には逸銘軒佬俵食品というパン屋さん。これだけでも中国には珍しい光景なのに,何と自家製食パンが目玉らしい。
 バス停は複梅家具西。北には芜湖市林業局。
 0940,水路を渡る。水辺に生活感はない。古くもない。ただ……すぐ北で西に曲がってる。水路西側には10m強の緑地が連なり,城壁を撤去したと考えるとつじつまが合う。
──でもこの位置に?城遺構があり得るか?

▲0943花園街。名前と違って通りは生活臭で蒸しかえる!

に長い看板。「芜湖市軍隊離休退休幹部第二休養所」???てことは「第一」もあるの?
──と当時は?だらけでしたけど,ここは新四軍の地元,そういうプライドは高くて当たり前でした。
「远离賭博陋习,共創和階社区」(ギャンブルの悪習をやめて調和ある社区を創ろうよ,みんな!)とある横断幕の前で数十人のオヤジが群れをなして賭博トランプ中。
 その標語,かわいそう過ぎる。

▲0945幹部第二休養処

■メモ:新四軍歴史研究会は何を研究してるのか?

「不忘合作初心 继续携手前进」という標語が目立つようになってきました。
「共同の初心を忘るべからず 手を携えて前進しし続けよう」──何てことない穏便な成句に見えますけど,この場合の「共同」とは,現中国成立前の日中(中国:抗日)戦争での共闘のこと。「携手」の主語は,前後世代と抗日戦での共産軍歴戦者です。──建国のために戦った世代の意志を想起せよ。
 この時見かけた「研究会」は,看板前で飯食ってたオバハンの印象もあって「何じゃそりゃ?」でしたけど,研究会自体は南部一円の手広いものでした。確かに共産党のプロパガンダ──本音としては経済発展下の世代を愛国心で繋ぎ止める努力──でしょうけど,ネットであまたヒットする記事からは苦労した旧世代を労る市民感情も否定できないようです。
 では,新四軍とは何者なのか?
 まずここで立ち止まった。中国語のものを見ても全貌が全く掴めない。どうも意図的に語尾を濁してるようなところがあるので,醒めた立場から書いてる日本語wikiをまず見てみる。

① 当該時期の日中戦争簡史

1939年1月:官陡門奇襲戦(下表☆☆☆)
1941年1月:皖南事変
(同 ★★★)
 どちらも,もしご存知なら相当なマニアか専門家を疑っていい。
 ワシはどちらでもないので,この2年間の(日本の)教科書的な事実から入ります。
1938年(民国27年、昭和13年)
1月16日: 近衛文麿、「国民政府を対手とせず」声明
3月29日: 中国国民党臨時全国代表大会が武昌で開催
・蒋介石:国民党総裁
・汪兆銘:副総裁
5月19日: 日本,徐州占領
10月27日: 日本,武漢占領
12月18日: 汪兆銘、重慶脱出
1939年(民国28年、昭和14年)
1月1日: 重慶国民政府,汪兆銘の党籍剥奪
☆☆☆
5月31日: 汪兆銘,横須賀海軍飛行場到着
9月23日: 大本営、支那派遣軍設置
1940年(民国29年、昭和15年)
3月30日: 汪兆銘、国民政府の南京遷都を宣言
・林森:主席 汪:代理主席
・政体名:南京国民政府
9月22日: 日本軍、北部仏印進駐
11月30日: 汪兆銘、日華基本条約に調印。日本政府、南京国民政府を正式承認
1941年(民国30年、昭和16年)
★★★
6月16日: 汪兆銘が日本を公式訪問。昭和天皇に拝謁。
6月23日: 汪兆銘・近衛文麿,共同宣言発表
7月1日: ドイツとイタリアが汪兆銘政権を承認
7月28日: 日本軍、南部仏印進駐
※ wiki(日本語)/日中戦争関係年表
 つまり官陡門奇襲戦は汪兆銘が蒋介石と袂を別った段階。もう日本軍は武漢をおとしてます。皖南事変は2年後,南京国民政府が承認され,年末には真珠湾攻撃が行われる年の初めです。
 ともに教科書には全く,形跡すら触れられません。

② 官陡門奇襲戦

 官陡門は蕪湖北郊外。ここにいた日本軍に,宣城から70km近くを夜間に進んで奇襲した,というのが新四軍の最も顕著な功績,ということになってるらしい。:新四軍進軍行程
 以下は,毎日头条の記述です。※ 毎日头条/粟裕——烽火诗情 奇袭官陡门

1939年1月18日,时任新四军第二支队副司令员的粟裕,亲率新四军第二支队三团主力,冒雨从宣城狸头桥出发,夜晚行军,奔袭了70多里,1月21日凌晨,粟裕下令兵分两路突然对官陡门的日军据点发起攻击。

──1939年1月18日,新四軍第二支隊副司令・粟裕は,その主力をもって豪雨の中を宣城狸頭橋から進発,夜間70km余の行軍の末,1月21日未明,二手に分かれて官陡門の日本軍を攻撃した。
……70kmを2夜?それは日本軍がどういう状況であれ,見つかるんじゃないか?そもそも官陡門は小さな湖の複雑に織り成す地形,そんな危険なところで日本軍は何をしてたのか?

粟裕领导这场战斗整个的战斗的过程只用了八分钟,包括打扫战场也仅仅只有20分钟,是在抗战早期,由新四军领导的一个非常经典的奇袭战案例。

──粟裕が指揮したこの戦闘は全8分間,掃討戦までを含めてもたった20分間だった。この早朝の戦闘は,新四軍が指導した非常に典型的な奇襲戦例となった。
……なぜ奇襲になり得たのか?20分で日本軍が壊走するような奇襲とは,どういう攻撃だったのか?その辺りの詳細が一切触れられない。
 最も奇妙なのは,奇襲後,この軍隊はどうしたのかという点。ここには全く触れられていません。

老百姓为了赞扬新四军,就写了首诗,叫“新四军如天神,一飞飞到官陡门,日本鬼子呼呼睡,阎王殿上来点名”

 百姓たちは新四軍を称賛し,詩にしたためて唄った。「新四軍は天神の如く,ひとっ飛びで官陡門,日本鬼子はぐーぐー寝てて,閻魔様に呼ばれちゃった(皆死んだ)」
……これはどうもホントっぽい。中国の庶民が高揚するようなお話の種には実際なったのでしょう。
 あともう一つ,次の事実は貴重な点に思えます。

在1939年10月7日的《新华日报》上,粟裕亲笔写下的《芜湖近郊的官陡门奇袭战》一文刊登在醒目的位置,当时的《申报》也刊登了这场战斗的消息。

──1939年10月7日の「新华日报」に粟裕が書き下ろした「蕪湖近郊・官陡門奇襲戦」という一文が大きく掲載されている。当時の「申报」もこの戦闘のニュースを掲載している。
……戦闘から9か月後に,初めて報道されたわけです。軍民いずれかにとって真に画期的な勝利だったのならば,なぜそんなに放置されたのか?
 粟裕が書いた,というより,誰かに書かされた,という方が近いように感じられます。

遊撃戦の名人・粟裕

 この粟裕という人は1927年に入党,28年から井岡山で数百人の隊を率いて転戦しながら解放まで活躍。1958年一時失脚するも文革中には国務院閣僚となった超古参格。トン族。
 とにかく遊撃戦の名人らしい。官陡門奇襲戦の前にも,「国民党の数次に渡る『進剿』と二次に渡る総兵力40個連隊の大規模『囲剿』を挫折させ、浙南遊撃根据地を発展させ」「日中戦争勃発後、1938年1月、閩浙辺において、遊撃戦術を講義し、抗日遊撃戦争の戦略的意義を説いた」。
 もう一つ重要な点は,粟裕の部隊は新四軍に帰属するというより,独自軍として動いていたこと。現在の宣伝上,新四軍の部隊として,と書かれているのは少なくともかなり限定的な意味で,ということになりそうです。
※ wiki/粟裕
▲栗裕 写真

③ 皖南事変までの新四軍

 では醒めた立場に立つ下記のwiki2本から,まだ内容を明らかにしてない「皖南事変」までを追いましょう。
※ wiki(日本語)/新四軍
※ 同/皖南事変

1937年に華北地区で八路軍が編成されるが、江西省・福建省・広東省・湖南省・湖北省・河南省・浙江省・安徽省に展開していた紅軍及び遊撃部隊は新四軍に編入された。[wiki/新四軍]

 つまり新四軍とは,中国南部広域の八路軍相当の軍隊,もしくはそれを目指した軍だった。正式名称は「国民革命軍新編第四軍」。

中国共産党第六期六中全会(1938年)で共産党は勢力拡大路線を決定した。当時共産党の根拠地は延安を中心とした黄河中流域と華北の日本軍勢力圏内でのゲリラ根拠地であった。(略)新四軍もわずかな兵力(設立当初は1万人程度)しかもっていなかった。この決定を受けて、江南抗日義勇軍が組織され、新四軍との共闘、江南における根拠地確保が進められることとなった。[wiki/皖南事変]

 この段階の中国共産党軍は,1934~36年の約3年間,国民党軍と日本軍の交戦下の1万2500kmを徒歩で,ある意味感動的な敗走を続けて延安に立て籠るに到っていた。っていた。た移動をいう。いわゆる「長征」ですけど,国民党側の呼称「大流竄」(竄:逃れる)がリアルです。要するにあと一撃で崩壊するその状態で,なぜ攻勢を企図したかは疑問です。
 冷静に見ると,起死回生の奇策,あるいは後方撹乱を狙ったと思われます。しかしもちろん──

華南地区の圧倒的な国民党政府影響下での共産党系軍隊の行動は多くの矛盾をはらんだ。
国民党員である葉挺の軍長・共産党員である項英の副軍長就任もその延長である。新四軍はこの段階では共産党の軍ではなく、抗日統一戦線の中で、紅軍を母体としながら国民党指揮下に入る軍隊として発足していた。[wiki/新四軍]

 非・共産勢力の外観で創立されたわけです。南京から武漢に進んだばかりとは言え日本軍の往来する長江域をかすめ,国民党勢力の優勢な南部への再浸透を図る。奇策と言えばかなりの奇策です。

蒋介石の考える国共合作とは、黄河以北では共産党が、長江以南では国民党がそれぞれ主導で抗日戦線を展開し、その緩衝地帯である長江以北・黄河以南は統一戦線を展開するというものであったものと思われる。実際、この時期に長江以南で活動する統一抗日戦線であった新四軍に対してそれまで行っていた財政援助を打ち切る旨通達している。[wiki/皖南事変]

 ここにある蒋介石の国共合作イメージというのがある程度,国共間の共通認識になってたのなら,新四軍という「統一戦線」を作りつつ実権は共産側が握っていくというやり口は,相当悪どい。
 当然,重慶に下がった蒋介石からは警戒された。おそらく,その後,共産側が新四軍の実権を握る状況を見て,まず財政的な縁切りをしたのでしょう。それは事実上,統一戦線構想の崩壊,つまり国共日の三つ巴状態を意味します。
 ではこの軍隊の規模はというと──

当初編成された新四軍麾下には四支隊と一特務部隊があり、兵力は約1万であったが、皖南事変後は、陳毅が代理軍長、劉少奇が政治委員として配置され、華南に展開していた一部八路軍部隊を組み込んで7部隊一旅団に再編され、9万あまりの兵力となった。[wiki/新四軍]

 1940年時点の八路軍の規模は40万とされる。新四軍の9万は決して小さくない。
※ wiki(日本語)/八路軍
 けれど,皖南事変以前は1万未満です。これが壊滅した後で9万になったというのは,皖南事変前と後では同じ看板を掲げてはいるけれど別の実態のものと推測できます。
 さてその皖南事変の話に入りましょう。

④ 皖南事変

「皖」wan3は安徽省のことです。

1941年に中国安徽省南部で起こった中国国民党軍と中国共産党軍の武力衝突。具体的には、国民党軍と新四軍の衝突であるが、共産党は事変発生時・発生後に国民党による軍事クーデターであると宣伝した。[wiki/皖南事変]

 共産党説の「国民党による軍事クーデター」もご記憶頂きながら,事件の詳細に入ると──

1941年1月4日、葉挺指揮下の新四軍9000名の部隊は安徽省南部茂林を移動中、国民党軍8万人に包囲され、7日間の戦闘の結果2000名が脱出に成功するが、2000人以上が戦死、4000人余が捕虜となった。(略)事変後、共産党は壊滅した新四軍を再編して軍長代理に陳毅を派遣、政治局員に劉少奇を選任した。しかし、江南における根拠地確保は白紙に戻り(略)蒋介石は1月17日この事変は新四軍の反乱であったと発表[wiki/皖南事変]

 国共双方の言い分からは,何れかの組織的意志で行われた戦闘とは考えにくい。でも可能性としては,蒋介石が自認する自己の勢力圏たる中国南部のトゲを排除したとも考えられます。
 勃発地点となった茂林とはここ→GM.。黄山が近い山中です。
 なぜここにいたのかは不明です。でも官陡門奇襲戦での宣城→蕪湖ルートと合わせても,事変前の新四軍の活動範囲は安徽省南部に限られていたと推測できます。
 また,この事件が国民党の組織的意志だとすれば,国民党は証拠を残さぬほど徹底的に新四軍を抹殺しようとした非情な作戦だったことになる。実際,9千が2千に減じたというのはほぼ全滅に近い。
 でもごく一部が残存したことで,逆に共産党は得意の情報戦略をとる。

⑤ 皖南事変後のリローデッド新四軍

皖南事変ではソ連・英国・米国などから抗日統一戦線を破壊する行為として激しく非難され[wiki/皖南事変]

 日本側の言う援蒋ルートで命脈を保ってる国民党にとって,反日本の諸外国との衝突は命取りです。国民党はもう延安を攻めれない。共産党は南部の新興部隊の全滅と引き換えに,北部の延命の保証を得たとも言えます。
「新四軍」の看板は共産党にとって,実態以上に好印象を抱かれたのでしょう。
 日本敗退段階での新四軍は,あまり顕著な動きはしていないらしい。

国民党軍と対峙している戦線のほうが多く、日本軍撤退を数ヶ月遅れで追ったほどである。
なお,日本敗戦後の日本兵を対国府軍(対国民党軍)の義勇兵として勧誘していた。この勧誘攻勢に日本軍では「ついて行かない事」と部隊ごとに命令されていたが、中には勧誘に応じて「行方不明」扱いになった者もいた[wiki/新四軍]

⑥ 日本敗戦後の日本兵取り込み競争

 少し脱線するけど,この義勇兵募集のくだりが俄に信じられなかった。解放後の反日教育からは,侵略者たる「日本鬼子」を自軍に取り込むなどあり得ないからです。
 けれど,本当らしい。以下は別の,日本側復員者の記述です。

この頃、中国軍編入となる日本兵の募集があり、二階級進級で優遇するということから我が分隊の古兵(ふるつわもの)が応募して去って行った。

 やむ無く取り込むのではなく,二階級特進,つまり強兵として招いたわけです。

支那派遣軍総司令の総参謀副長が、先に共に戦った『シ江(しこう)』の街で中国側と会談を行い、武器引き渡し、捕虜釈放などに調印している。その際、中央軍側から「中央軍以外(八路軍・新四軍)には武器を引き渡さないことなどを語ったと言われている。

 既に次の国共戦,バトル・ロワイアルの最終決戦に向けて,人員と物資の国共間での争奪が開始されていたわけです。

蒋介石総統は、日本で軍事教育を受けている知日派といわれ、日本軍及び在留邦人は全部日本に送還する。それに損害賠償などは求めないという寛大な措置を取られたと聞く。

 共産党側は分からないけれど,国民党側は明確に日本兵を紳士的に扱う意志を持っていたらしい。この辺りは,独ソ戦での最終局面で行われたソ戦によるドイツ人の扱いとは,完全に一線を画してます。
 意外に語られない事実です。だからあれほど大人数が展開していた中国から,多くの日本人が無事に帰国している,ということは記憶しておくべきでしょう。

武装解除になって戦闘能力が無くなっても、部隊の組織は厳として保持されていた。中国側からは捕虜としての扱いではなく、徒手官兵(兵器のない軍人)としての扱いだった。

※ シルバーネット/高橋等「中国戦線に征く

⑦ 新四軍の再評価機運

 本論に戻る。新四軍が日中戦と国共戦で果たした役割は,だから正史の上では相当に限られたものです。
 官陡門奇襲戦は,戦闘事例としては画期的かもしれないけれど,真偽ははっきりせず,ほぼ当時の流説に近い。そもそも,栗裕軍が新四軍の管理下にあったか否かが怪しい。
 皖南事変は,内外政治的には共産党の情報戦略上,十分に利用されたけれども,要するに壊滅してる。
 ただ,現在の共産党が「不忘初心」の愛国運動を展開するとき,抵日戦の実績の少ない中国南部ではネタ不足の感が否めない。そこで,顕著な戦績はなくとも好印象を残す新四軍が担ぎ上げられた,というのが実情でしょう。
 ただ,「老幹部」になっている古参兵のお爺さんたちの経験した変転は,延安時代の八路兵以上に凄まじい。何せ,広域的には日本の支配下の地域で,国民党勢力とも激突し,残兵2千にまで追い詰められた状態からの復活劇を経たわけです。
 情宣の巧みな中国であまり迂闊には判定できないけれど,それでもこの新四軍,またはその「物語」に対する市民感情には,素朴な信仰のようなものの存在をどうしても感じてしまいます。
 少なくとも,日本の老兵の何倍も蕪湖の古参兵は尊敬されてる。
欢迎访问芜湖市档案馆!
 それに,もしかしたらこの再評価の中から,さらに見落とされてきたこの軍の活躍が発見されてくるかもしれません。
▲新浪網のある記事にて→安徽芜湖:大小志愿者关爱94岁新四军爷爷,老人笑得好开心!

「/※5491’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:花園路堀端」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です