Range(上水).Activate Category:香港十次(32) Phaze:上水寥万石堂

元朗→上水バス再乗

朗青山公路・元朗同楽街発,276路上水行きに乗車。1152。
 軽鉄の大棠路駅を過ぎる。青山路を東行してると思う。
あら?元朗駅を潜った?なるほど,北側に出た形です。
 1158。これ何をしとるんだ?駅前で客を拾った後,再度駅の下を潜って南側へ出たぞ?──あ,こっちにBTがあるのか。ただあまり賑やかそうじゃないし乗客もない。青山公路に帰った。ロータリーから東行──あ,ここにもバス停あるのね。
 昨日も訳分かんなかったロータリーの中を複雑にたどってやっと東行路へ。1202。
 交通量は多い。あれ?北向に乗ったぞ?そうか,国境経由で上水はこっちなのか。
 高速に乗る。北にはやはり深センの高層ビル群。
 1216,30分余で上水着。純粋な移動者もこれだけいるわけです。スムーズな時間帯なら意外に気軽な路線だったのでした。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

日の市場界隈の西縁・新豊路に出る。1221,北行。新市街的な,というか大陸中国めいた閑散たる車道です。
 1230,北端まできた。目指すXは西方。地下歩道を潜ってロータリーの向こうへ行くしかないらしい。上水围と看板のある方へ。
 1234。ロータリー南西に上がれたはず。ほほう。いきなり雰囲気が変わった。村の風情です。

上水廖氏は明徳堂を祀る

▲1238東入口の廟(廖明徳堂)

ころでこの道はどこなんだろう?
 表示には上水興仁村一巷とある。直進でいいんだろう。
 1137,右手東側に廖明徳堂とある廟。そこから道は分岐。村の構造上,パティオのような場所らしい。左側をとる。
──廖明徳堂については以下のような記述があった。「廖」は氏族姓らしいけれど,圍内での有力氏としか分からない。

3日目は、香港の伝統的な村落の上水圍および香港島、香港歴史博物館へフィールドトリップ実習を行いました。上水圍は壁で囲われた農村集落(圍村)であり、新界の村の廖氏一族の村廟である廖明徳堂の見学を行いました。

※ 北海道大学/【海外ラーニングサテライト】香港中文大学で協働教育プログラムが実施されました

魚龍と化して上水に騰れ

▲1241きっちりした家門の片側丸まった対聯。結語に上水が来てるから,作者はあくまでローカルです。

前ロータリーからの分岐は見通しが立たない。大まかに南に向かってる左側をとる。
 作られた風のない集落です。文化財的にどうこうと保護されているのではなく,自分たちで浄め生活していく意思を感じる。

大元村の男子投げやり

▲1242大元村二巷に入った辺り

元村二巷になった。1242。右手の住所表示は四巷。
 上の写真では,建物は確実に古い。でも全体として何を構成してるのかは分からない。単純には倉庫街に見えるけれど……。
 南東方向へそのまま進む。

▲1249殺風景な祠

247,主道は左折したけどそのまま細い道へ直進。
 祠一つ。北向。
 これはまた香港でも珍しいほど投げやりな社です。拝まれてる気配もあるけれど,文字はおろか手掛かりはゼロ。  門。えっ?そこから出て来たのはタイ語を話す女?

▲1250主道を見失う。

折して南から回り込もうとしてます。こっちでいいんだろうか?
 いや,まだ行けそうです。この集落には行き止まりというのはあまりなさそうで,細い道がそれでも延々続いてることが多いようです。
 住所表示には中心村八巷とある。

タイムカプセルを拝む

▲1253洗衣のたなびく木造家屋。日本だと廃校舎に見えるけれど。

255,南北の道に出た。左折南行。
「上水郷第一休憩所」とある緑地。その向こうの古い建物には,日本語の表示で「廖萬石堂」と出ている。
 入って左手に「薪火相傅 時間囊」。2007.8と最近ですが意味不明です。

▲1303祠向かって左手の碑

間囊」がタイムカプセルを意味することは後で分かりました。含意や異義はありそうにない。
 しかしお宮のような,こういう場所へわざわざ埋もれさせるものって何でしょう?

全て謎のまま鎮守のガジュマル

▲廟の屋根

句,この「社」は完全にワシの想定外でした。誰が何をどう祀っているものやら見当がつきませんでした。
 1316,大きなガジュマルを見る。マップには上水圍榕樹頭とあるポイントらしい。ということは,その後ろが围らしい。
 鎮守のガジュマル,というところか。

▲不規則なガジュマル

■小レポ:上水廖氏のこと

「廖」のピンインはliao。広東語ではliu6。
 最初は「蓼」(たで)かと思ってたこの字は,前編までも何度か出た中国の姓専用漢字。それも次のような超由緒ある用字です。

中国黄帝時代、飂国(今中国河南省唐河県と桐柏県、湖北省棗陽市、隨州市)の候の子孫が国の名を使い、姓にした。東周時代、飂は風へんを減り、广(まだれ)をつけ、今日の形になった。

※ ウィクショナリ/
 つまり姓「廖」の原字は河南の古地名又は国名たる「飂」。対聯を初めこの一族の民俗によく登場する「風水」の語は,中国一般の伝統より今は削られた「風」へんに由来するかもしれません。

① 家系上の源泉

 中国語wikiも原典が定かでないと指摘するけれど,西晋子璋公を始祖に持つとする。が,これは神話の域でしょう。

根据《廖氏族谱》可追溯至西晋子璋公开始,是自有文献以来的源头。子璋公因武功显著而封为卫镇国大将军,其子孙十分繁衍,散居各地[原创研究?]。上水廖氏祖先为廖仲杰,元末时从福建汀州南迁至宝安,初住屯门,再迁深圳福田,最后定居于本名为“凤水乡”的“上水乡”。有传廖仲杰与文天祥的后人私交甚笃,随南宋兵败而南迁。

※ 維基百科/上水廖氏
※ 宜宾古廖国酒业集团有限公司/叔安公至子璋公世系名录

 上水廖氏の有史上の初代は廖仲杰さん。──元末に福建から汀州(福建と広州に同一名があるが後者と推定)を経て南迁至宝安(現深圳西部の区→GM.)に来た。初めは屯门,次に深圳福田を経,最後に現上水へ居を定める。本名称を「凤水乡」(風水郷)と呼ぶ「上水乡」である。伝説によると廖仲杰は文天祥の子孫と私交が厚く,随・南宋の敗戦により南へ移ってきたという。
 最後の伝承は,永い唐代を抜かしていて意味が分からないけれど,いずれにせよ戦火に追われて南遷した,ということでしょう。
 加えて,出自の面で重要なのは,より確からしい旧居は元末までの福建だったこと。すなわち前期倭寇の時代と重なります。
媽祖イメージ(台湾市長)

② 史料のある時代の廖氏

 圍の歴史そのものは明代から。1646年着工,翌1647年竣工。圍の城壁の外の河を水堀とし,鉄門を備えた本格的な防備はその当初からのものとされている。

到明朝万历年间,廖族子孙繁衍,因避李万荣之扰,故建围自保,在清朝顺治三年(1646年)动工兴建,次年完工,即今天的上水围“围内村”。围墙外有护河环绕,正门安装了连环铁门。康熙初年,郑成功起兵,故清朝在沿岸地区厉行迁界,上水乡被迫迁徙。至康熙七年才迁回上水乡在此正式落地生根[2]。及后上水廖氏三房四斗的基础下繁衍,在围内外建屋,发展成今天的“门口村”、“莆上村”、“大元村”、“中心村”、“上北村”、“下北村”、“兴仁村”及“文阁村”,九条村所组成的上水围村。。[前掲維基/上水廖氏]

[2] 萧国健,《新界五大家族》(香港:现代教育硏究社,1990),页10
 分からないのはその後です。後段を訳す。
──1662(康熙初)年,鄭成功が挙兵したため,清朝は沿岸地区を迁界(遷界:無人地域)となった。上水郷も移転を強いられた。
──1668(康熙七)年,ようやく上水郷へ正式な移転が認められ,後世,上水廖氏の「三房四斗」と呼ばれる繁栄の基礎が作られた。圍の内外に家が建ち,今天の门口村・莆上村・大元村・中心村・上北村・下北村・兴仁村・文阁村の(引用者注:圍内村を合わせ)九つの集落から成る上水围村に発展した。

③ 遷界令史との不整合

 遷界令は清初,陸の明残党の制服戦と平行して進めなければならなかった海の台湾・鄭氏政権に対抗するため,沿岸7省の海岸線から最長25kmエリアの政策的な無人化。鄭政権の経済基盤を失わせる攻撃的撤退ですけど,住民にとっては全くの暴挙です。
 分からないのは,この推移との噛み合わなさです。

政令首次颁布于顺治十八年(1661年)[注 2],重申于康熙元年(1662年),再颁于康熙三年(1664年)。康熙八年(1669年)允许部分展界,而康熙十七年(1678年)再次要求迁界[3][4]。至康熙二十二年(1683年)清军平定台湾后则颁布命令要求百姓迁回

※ 維基百科/迁界令
[3] 王, 跃生. 制度与人口:以中国历史和现实为基础的分析 下卷. 北京: 中国社会科学出版社
[4] 王日根; 苏惠苹. 康熙帝海疆政策反复变易析论. 江海学刊. 2010

 年表にしてみよう。[凡例 ▼遷界令史 ▽上水圍史 ○大陸軍事史]

○1619年 ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破る
○1644(順治元)年 李自成,北京を陥落,同年清が同入城
▽1646(順治3)年圍起工
▽1647(順治4)年圍竣工
○1658(明永暦12,清順治15)年 鄭成功,北伐軍興す
○1661(顺治18) 鄭成功,澎湖諸島占領,続いてゼーランディア城陥落
▼同年 遷界令一次実施
▼1662(康熙元)年二次実施
▼1664(康熙3)年三次実施
▽1668(康熙7)年圍帰還
▼1669(康熙8)年部分解除
▼1678(康熙17)年四次実施
▼1683(康熙22)年台湾平定,帰還命令

 明清交代期の真っ只中,伝承によると3世紀から大陸をさ迷っていた廖氏が,突貫で上水圍を構築。まずこれが分からない。経済興隆期の希望に満ちた植民とはとても思えない。
 普通に考えると,鄭氏と同路線の「一旗挙げる」気配の動きです。
 そして,圍への帰還。あまりにも早すぎる。「正式落地生根」という表現からすると,非公式の帰還はもっと早かった気配すらある。
 この早い復帰が,どうやら上水の繁栄に繋がってる。この時点では,圍の外部に9か村中8つが溢れて展開しており,清の勢力下での繁栄を志向してる。
 全体として,このようにどちらに転んでも巧く大きくなってやろう,とする柔軟な独立勢力が,東シナ沿海には無数に存在したのではないか。上水廖氏はその典型として,非常に面白い動きを見せてくれてます。

④ 上水廖氏の現況

 上水廖氏は新界五大氏族──锦田邓(錦田劉)氏,新田文氏,上水廖氏,上水侯氏及び粉岭彭氏──に名を連ねます。これら5族は明清より前に九竜半島入りした植民集団。上水廖氏はこの中では,人口4千まで拡大した中堅クラス。
 なお,規模で言えば錦田劉氏は10万人を超えており,5族中圧倒的な大きさです。

上水廖氏是香港新界五大氏族之一,定居于上水乡。上水廖氏于元朝末年从福建南迁到此开基,主要定居于上水东北梧桐河流域,故称为“上水乡”,上水围是廖氏家族的核心,由9条乡村组成,人口超过4,000多人,是新界聚族而居的第三大单姓村。[前掲維基/上水廖氏]

 ここまでの記述と重複が多いけれど,新しいのは梧桐河流域に集住していること。この河は粉嶺北部から深圳へ流れこむ水流で,上水圍の辺りでは丁度北半分を周回するような配置になってます。
 もうひとつ「第三大单姓村」という表現が出る。これは上水廖氏の紹介のあちこちで使われているけれど,他の文脈には登場せず,三姓の他のものは不明。ただそうした自称の要素を差し引いても,独立性,つまり排他的な傾向の強い氏族であることは伺えます。

⑤ もう一つの上水先住氏族・上水侯氏

 5族のうち廖氏と並び「上水」名を冠する氏族に,上水侯氏があります。これも自称の要素はあるでしょうけれど,維基の引用によると「上水最早发迹的」,つまり「上水に一番乗りした」一族。

侯族为上水最早发迹的大族,曾于上水建立隔圳墟和天冈墟两个墟市,但其势于清代衰落,为较晚迁居到梧桐河畔的廖族取代其于上水的领导地位。1899年,英军接收新界时,丙岗侯氏联合邻近姓族反抗。到1908年,港英政府及香港哥尔夫球会开始与侯族为首的村民进行谈判,最终得到村民同意于金钱村与丙岗村之间的侯氏祖坟山地一带兴建粉岭哥尔夫球场,故侯族在新界境内地位甚高。

※ 維基百科/新界五大氏族
 上水侯氏は清代以降,3つの事件を経ているとあります。
 一つは「衰落」。後から梧桐河畔に移ってきた上水廖族に,清代以降,「上水的领导地位」上水の指導的地位を代わられた,とのみあるけれど──「械闘」レベルの武力衝突もあったかもしれません。結果,現在は5族中最小,上水廖族の半分程度の人口規模に落ち着いているようです。
 二つ目は「反抗」。1898(光緒24)年の新界租借の翌1899年にイギリス軍が入ってきた際,侯氏は一族を挙げて「反抗」した。
 三つ目のこれが,二つ目の反抗とどう結びついているのかが判然としないけれど──1908年,香港イギリス政府と香港ゴルフ会が侯族と交渉を開め,最終的に補償金の支払に加え,「祖坟山地一带兴建粉岭哥尔夫球场」山地部に粉嶺ゴルフ場を建てた。そのため侯族の新界内での地位は甚だ高まった。
「反抗」が具体的にどういうもので,なぜそこでゴルフ場が登場し,妥結案になりえたのか,そのことが地位向上にどう結びつくのか,どうも分からない。
 けれど,概ね見かけは大人しく大勢に従ったように見える他族と異なり,戦闘的な動きを見せた先住一族もいたわけです。

⑥ 香港での無形文化遺産保護

 これらの出典は,各一族の口承族伝によるものが多いようですけど,2020現在,香港政府はこれら(の一部?)を「香港非物質文化遺產資料庫」としてネット公開してます。

※ 香港非物質文化遺產資料庫 / 上水廖氏宗族口述傳説

 この企画の立ち上げからの経緯を年表化すると──
2003年 香港科技大学華南研究中心が整理を開始
2009年「康樂及文化事務署」が香港科技大学華南研究中心の協力を得て非物質文化の収集・整理を開始
2018年 一般公開
 整理されている項目は以下5項目。極めて精緻だし,使いやすい。

①口頭傳說和表現形式(如圍頭話/畬話、竹枝詞、鶴佬話、客家話、漁民話等)
②表演藝術(如南音、道教音樂、祭白虎儀式、鹹水歌、麒麟舞、木偶戲等)
③社會實踐、儀式、節慶活動(如螳螂拳、點燈、盂蘭勝會、打小人、天后誕、盆菜、太平清醮等)
④有關自然界和宇宙的知識和實踐(如中藥製作、跌打、傳統中醫藥、龜苓膏、浸酒、漁民有關自然界和宇宙的知識等)
⑤傳統手工藝(如蒸籠製作、涼果醃製、龍鳯木雕、染布工藝、捕魚技藝、臘味傳統製作工藝、篆刻、籐編器物等)

香港非物質文化遺產資料庫 / 上水廖氏宗族口述傳説
※ 同大華南研究中心/簡介 | 香港非物質文化遺產普查
 ここに口承までが含まれているのは,文化政策としてはかなり進んでると思う。思うと同時に,今,それらが放っておくと消失してしまう危機にも晒されている,ということも背景にあるのでしょう。
 事実,こうして追ってみても相当部分の真相が謎のままです。

「Range(上水).Activate Category:香港十次(32) Phaze:上水寥万石堂」への2件のフィードバック

  1. Reading your article helped me a lot and I agree with you. But I still have some doubts, can you clarify for me? I’ll keep an eye out for your answers.

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