005-7変電所の坂\茂木街道完走編\長崎県

二日目。新しい鉱脈探しのラッキーワードは「六町」でした。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

とりあえず謎の地名”きゃあまぐる”

ゃあまぐる坂」という謎の地名がGoogleマップには記されてます。
 前回,観光通りのアーケードで見かけた長崎7坂。最後の一つがやや遠くて今回まで持ち越してました。
 一番の通り名は「変電所の坂」らしい。何や,無機質だな。
 9時。中央橋から飽の瀬町行の便を見る。何と。43分しかないの?日祝のみならず平日の通勤時間帯以外は1時間に1本になってる。
 やむを得ん。この時間に少し六町の台地を歩いておこう。
 ──と半時間ほど歩いたのが六町歩きの初手となりました。けれどその話は別稿にて。→006-1立山下り道\旧六町編


かった!県営バスは1時間1本だけど長崎バスは向かいの北西側B乗り場から神のなんとか行という名前でさいさい行ってるらしい。
 えーと?県営は赤いバスだよな?お,あれか?
 0947,乗車。立神の読みは「たてがみ」らしい…と今知る。
 橋を渡らず…長崎駅前南口へ?
 八千代町から宝町。ガラガラの車内。そんなに需要のない方面なの?
 稲佐橋。ここで橋を渡って左折南行。稗田橋。通りは旭町通りに。
 三菱研究所前。えらい閑散と…と思ってたら,ああ埋め立て地なのか。しばらくすると町並みが戻ってきました。
 1007,曲がった!と慌てて神社前で下車──したけど一つ前のバス停でした。

着いたところは震源地

▲肉のタニガワ男にのさばられてなるものか!と甦ったよろず通りメガネ男!→《豪遊∧8》 春節好!恐怖の長崎灯会&もっと恐怖の・・・
崎港の西側のこの辺り,全く来たことがありませんでした。
 いや正直に言おう。長崎魚市場通へ行った時に一度,バスで通ってるはずです。ただこれだと,何のひっかかりもなく通り過ぎたのでしょう。
 意外に,どころか無茶苦茶スゴい場所でした。近代長崎の震源地と言っていい土地です。
 何せ,世界遺産ですから。

▲三菱前の道路

りてまず驚いたのは,体感したことのない工場町の景観。
 一見,港町や工業団地によくあるだだっ広い車道なんだけど…雑踏の余熱が残るというんだろうか,初めから開発地でした,という土地とはどうも違う臭いがあります。
 海側を覆う煉瓦の壁。これ…本格的に古いぞ?通りの名前は「三菱通り」という企業城下町めいた名前。その対面に神社。まずは神社のある北側へ渡る。

釛山恵比寿からの幻視行

▲飽の浦神社鳥居。暑さでスマホがラリって下が欠けてます。

山恵美須神社」と説明書きが立ってる。それが正式名称でしょう。
 でしょうけれど,何て読むの?
「こがねやま」と読むそうです。こがね──黄金?
 鳥居の正面方向は東。文化五年(1808)創建。
 石燈籠に「五箇所商人中」とある。五箇所というのは江戸・大阪・京都・境(ママ)・長崎で,縁起には「享保元年(一七一六年),初代神官,柳木大膳が」「寄進を受け」祀ったのが神社の始まりで,「五箇所商人の寄進と御用地の証として建立された石燈」とある。
 社そのものはごく普通。
 その裏には恵比寿波止跡石碑。これによると──もともとの対岸恵美須町(現長崎中央郵便局付近)から江戸初期に動座。三菱製鉄所の建設時に消えた,島の下半分が黄金とされた「この島が金島(こがねじま)であったことから」現名がついたとある。刑場としても使われてた。
 フェートン号事件時の長崎奉行御用場所という。
 以上,結構写真も撮ったんですけど,前記のとおりスマホがラリって消えてます。次のプログが詳細な写真を載せてくれてるのでご参照頂くとして──
→(再掲)資料集2:造船所設置前の飽の浦/Y!プログ/みさき道人/”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

り返しですけど,見た目普通の神社です。
 けれど,何とも…言わば空々しい。
 何が違和感なのか考えてみると──
①創始が分祀でなく動座だという点。江戸末期まで辺鄙な場所だった西岸にです。日本広域の五箇所商人の寄進があったのだから,明確なニーズがあったはず。それは何か?
②「五箇所商人」が具体的に記載されないのはなぜか?通常,露出される傾向にある寄進者名が,遠方から,おそらく多額だったにも関わらず?
③「御用地の証」とはどういう意味か?刑場,フェートン号事件前線指揮所と警察力の影が色濃いのはなぜか?
「変電所の坂」娘バッジ
④「釛山」は要するに金山だけれど,下半分が金だなんて分かるはずがないし,ホントにそうなら三菱が埋め立てるはずがない。こんな難解で後ろめた気な漢字を当てたここは何か?
⑤神社名に入れるほどの「釛山」ならば通常は神体や奥山を指す。でもこの神社では社から鳥居の外が釛山,つまり祈りの方向軸が逆転してる。しかもそれは三菱が埋めて,同時に神社に寄進をしてる。つまり神体の扱いが無茶苦茶です。
 と,考えだすときりがないほど謎の神社です。特に⑤は見当もつかなかった。何か表に出てない事実がありそうに思えるけれど──表の事実だけでもある程度の推測はできそうです。→巻末小レポ:コガネ島と飽の浦の近世 江戸期の恵比寿神社付近図

全く知らなかったけど世界遺産・長崎造船所

▲三菱の赤レンガ舎

の浦」は「あくのうら」と読む。今さらだけどバス停にて確認。1027西行。
 この神社のライン,つまり車道──通称「三菱通り」から北側一本裏手には明瞭な段差が西へ延びてる。高低差10mほどか。
 元々の岬の痕跡でしょう。その突端が先の釛山社になる。
 三菱通り海側には延々煉瓦の壁。大音量の工場音が聞こえてる。作業音かと思ったら──この後で上から見下ろすと瓦礫の山が築かれてる。建替えや取壊しではないけど抜本改修中らしい。
 少し先の門には「資料館」との看板がかかってる。

明治日本の産業革命遺産」という合わせ技一本的な世界遺産があります。
 その一つがこの時見た三菱重工業長崎造船所。旧・徳川幕府長崎鎔鉄所。23の構成遺産中,4つがこの敷地内にあります。
 このプログであんまり工場を調べたことありませんでした。
 でもここは,調べまくった。調べれば調べるほど,まさに明治日本の産業革命遺産の典型です。近代日本の始まりの土地とすら言っていい。
 願わくは,「江戸・明治の」と冠するべきだったかも,と思いますけど。
→巻末資料集2:長崎造船所/(1)官営時代 (2)三菱時代
→巻末小レポ:江戸・明治日本の産業革命を誰が始めたか

19.3度は道じゃねえ!

▲変電所の坂。まだまだ登り口

電所の坂を登りに来たんだった,そう言えば。
 1040,これ…だろうか?バス停飽の浦前を右折。「みきや米穀店」と「サンハイツ飽の浦」の間の道──は三菱通りからは少しくねって入るんで,すぐにはその凄まじさが認識できなかったけど…。

▲確かにこれはキツい!でもタクシーが上がっていったぞ?

本道が見えてくれば,震撼します。
 確かに…というか,これ道なのか?
 気が狂ったような坂です!
 だから,ここを登ってる最中,隣をマジでタクシーが追い抜いて行った時にはホント,長崎人を尊敬してしまいましたけど…

▲見下ろす。三菱の向こうに海

からって誰が計れと言った,斜度を??
「缶バッジ ”ながさき坂道むすめ” 発売連動企画 長崎坂道めぐり」というHPが,長崎中の坂の斜度を厳密に測定してます。この変電所の坂が首位に輝いてます。
 最大斜度19.3度だって。
 そ…そんなことより「坂道むすめ」が今度は気になるじゃないか!→資料集3

▲一番上はホントに変電所

ゃあまぐる」坂という冒頭に触れた名称は,福山雅治殿が命名したもの。「ぶっ飛ぶほどスゲえ」みたいな語感の長崎弁らしい。
 この名前で,「きゃあまぐる坂GP」なる掛け登り大会をやってるそうです。
 それ…そのうち負傷者が出ないか?
 大丈夫か長崎人??

▲変電所にご用の方とは?

前の通り一番上は九州電力株式飽ノ浦変電所で行き止まり。さすがにこの坂は,変電所の私道,つまり作業道だそうです。
 てことは,この勾配で怪我しても賠償はされないから,これから行く方は自己責任でよろしく。

変電所の坂の脇道に微酔

▲変電所の坂から飽の浦集落

電所の坂でホントに好かったのは,けれど,実はその脇道でした。
 つまり,集落として好かった。
 上の写真は変電所坂の最高部辺りから南を撮ったもの。工場部とは別に集落部の平地がぐっと,そんなに広くはないけれど広がってます。呉を小規模にした感じ。
 変電所の坂や釛山神社は,その東入口,かなり高所が海に迫った辺り。

 うまく写真に落とせなかったけど,坂の半ばに小さな岬のようになった墓地があります。ここの雰囲気も好いんですけど──つまり変電所の坂は,この丘をまっすぐ突っ切るラインをとり,さらに高所の変電所と無理矢理に道を結んでる。それが傾斜のキツさの地理的な理由らしい。
 その変電所の丘からの岬状の腕が東に伸びて,釛山神社をその突端に置いてる。
 下りの道は,この岬状地形の南側の坂を辿ったわけですけど──

▲横の道を下る

い坂でしょ?
 1054,墓地の上側の道を東行。
 おそらくこの岬沿いの道が古道です。この下は遠浅の海,それが埋立地になったものでしょう。
 グラバー園南のドンドン坂の上部辺りに似てます。緩い坂が集落をかすめて伸びます。

▲家の奥には細かい階段も

並みの間を覗くとこんな階段がちらほら。
 岬の上に登る道でしょう。残念ながらどれも私道っぽくて入り辛い。
 集落をこの岬の影のような場所に伸ばしたのは,風を避けるためでしょうか?

▲複雑に分岐する階段

056,Ad飽の浦町8。
 1103,日蓮宗正徳寺入口の大看板脇に出た。ここから三菱通りに戻る。
 県営バス浜平・立山行1132を待つことにした。正面に飽の浦公民館。でもとりあえず向かったのは隣の…セブンイレブン!
 時間ギリギリまで涼んでから乗車することにしよう。

■小レポ:コガネ島と飽の浦の近世

「長崎黄金伝説」は釛山(コガネ島)を密貿易業者への見せしめの刑場と推測している。
 また,「飽の浦の謎」は「飽」の元字を「洞窟」=「空き」と推測する。
(再掲:長崎黄金伝説/異説か真実か!誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO,8
長崎 飽の浦(あくのうら)の謎

 まず,地図を少し広域に広げてみる。飽の浦の位置は出島・唐人町の対面です。
 こんな場所に全国から「五箇所商人」がはるばる来航して,恵比寿神を拝むだけ,というのはありえまい。現にこの浦には,秀吉の朱印状を得体荒木宗太郎がベトナム姫を連れ帰って住み,謎の磁器・秋ノ浦焼を残してる。
 正史に漏れた交易場──つまり遵法状態が保たれていると喧伝するために書きとめられなかった違法の場──がどれほどあったかは分からない。でもこの飽の浦など稲佐山下や野母方面に抜け荷,密貿易の常習場があったのはかなり確実です。
 密貿易と言っても,後から来た中央権力が「遵法」の線を引いてたまたまその外にあったというだけの,以前からあった「自由交易」です。
 飽の浦の恵比寿神社は,そういう交易場を神社の形にカモフラージュする形で成立したのでしょう。鳥居前の浜に多くの船が着き,燈籠は灯台として機能した。
 呉市に船津神社というのがあります。今は相当内陸部ですけど,埋立前は神社の鳥居前に船が着き,交易をしていたらしい。この構図とそっくりです。
 コガネ島はその往時には,海上マーケットのポイントのような賑わいの中心だったのでしょう。→資料1:江戸期の恵比寿神社付近図
 そこが,いつの時代にか一斉に摘発された。「悪事」自体を記録したくないから摘発の記録もないのでしょうけれど,何人かはコガネ島で見せしめに処刑された。飽の浦の交易場はその弾圧により壊滅。下半分が黄金,でも掘ってはならない,というコガネ島の謂いは,「黄金伝説」が言うとおりそうした強圧的な禁制の伝説的な表現なのでしょう。
 とすると,「飽」の浦の地名もシンプルな解釈が可能です。かつて「非合法」な賑わいに沸いた土地が「空」いた。「空き」の浦,つまり空っぽにされてしまった浦,です。
 もう一つの可能性も,全く当たり前ですけれど──「悪の浦」,つまり経済犯罪たる密貿易の行われていた巣窟。
 海から見ればこんな至便な場所が空いていたからこそ,長崎造船所とその労働者,戦前の長崎の1/3の人口規模が入れたわけです。けれど──本文⑤で指摘したとおり,本当にそれは都合のよい偶然だったんでしょうか?長崎造船所の誘致は幕府側が行ったわけですけれど,ここに何か,例えば,どうしても埋めてしまいたいものがあったのでは?という気がするのですけど…良い推論の材料がありません。

■小レポ:江戸・明治日本の産業革命を誰が始めたか

から「明治維新はなぜ可能だったのか」という問いを抱えてきました。
 今,鹿児島県と山口県が日本政府に「反乱」を企てても,両県が日本全土を制する望みはゼロでしょう。そこに高知県と佐賀県が加わっても同じ。
 薩長政府批判は昔からあるけれど,彼らがロシアに勝利できる新日本を作ってきたのは事実なんだから。
 この長崎以来,先の前提が違ってる気がしてきた。つまり──明治維新が可能だったのは,江戸時代を幕府側が自律的に終わらせたから。本質的に,旧体制を暴力的に倒して新体制が築かれる「革命」ではなかったから,なのではないか?→資料集2-1
(イ) 産業革命遺産選定の意義
 正直これまで軽視してきた「明治日本の産業革命遺産」選定は,存外に当事国・ニッポンにとって大きな発想転換だったことに気付きました。
 あの世界遺産登録には,韓国や中国が反対した。かつて自国を虐げた侵略国の近代史が,世界によって正当化ないし美化される動きに見えたからです。
 その時,日本は単純な選民意識を除外して,自国の近代史の何が人類史上意味を持つのか,ほとんど初めて自問することになった。
「産業革命遺産」は8県の23箇所の産業遺産から成る。経緯としても萩と鹿児島の地域運動に端を発してて,つまり「薩長」の自負を動機とした地方発信の動きです。各地域の誘致合戦も熾烈でした。
 その経緯で,23遺産中1/3超の8か所が長崎県,というより広域の長崎圏にあるのです。
 人間,案外と自分がなぜ成功・失敗してるかは知らないものです。つまり,近代日本が長崎で起動した事実を,わしを含めて初めて公認するわけです。

(ロ) 何が起動したのか?
 洋式軍艦を所有した。所有してみて初めて,それを動かす人材も技術もインフラもないことに気付いた。気付いたから焦って,超高速でそれをゼロから構築した。
 江戸末期の長崎で行われた思考過程は,そういうものでした。
 なぜそれが長崎だったのか,色々なところに色々書いてあるけれど,8遺産の形成過程を辿れば明確です。
 この時,公認の国際港は長崎しかなかった。だから公式に,洋式軍艦の運用に何と何が必要かを議論する内国人,彼らがその移入を求めるべき外国人,内外人の公式な議論の場たる会社(当初の社中),そして内外人の投資資金。全て揃うのは長崎しかなかった。ハード資産ではないと思う,ソフト資産が長崎でしか揃わなかった。
 例えば,飽の浦の造船所の場合,オランダに全面的協力を取り付け,技術者を呼びこめるのは長崎での長い外交実績なしにありえなかった。小菅のドッグの場合,グラバーの資金力を引き出す交渉と人的ネットは長崎でしか持てなかった。
 黒船来航直後には,そのソフトの結合が極めてスムーズに行われた。だから五稜郭戦段階で軍艦対軍艦の内戦を行うまでに至ったわけです。──「外国から買っただけでしょ?」とか冷笑する人は,それだけで軍艦は動かない,だからこれだけ必死だったのだ,という本質に触れておられない。

(3) 起動したのは誰か?
 近代日本の重工業史がはっきりと長崎に端を発する。これは世界的に公認された。
 ではこれらは誰が作ったのか?
 グラバー園はもちろん外国人だけど,他は全部民間が作ってる。明治政府は長崎造船所を引き継ぎ,三菱創始者・岩崎彌太郎に渡しただけ。
 そして長崎造船所の基,長崎鎔鉄所は,幕府海軍メンテのために作られてます。
 西洋技術の移入への舵は幕府が切っている。
 長崎鎔鉄所では幕府の奉行に技術を教育。それとは別に長崎伝習所では士官養成を行ってる。幕臣だけでなく船大工まで入学してる。勝海舟の他,五稜郭戦の榎本武揚,小菅ドッグを創設した五代友厚を輩出。坂本龍馬はこの後身の神戸海軍伝習所卒。
 つまり政治的立場を度外視し,とにかく人材を作ろうとしてる。地方藩閥優勢の当事の状況下にあって,これは自爆的教育施策としか思えない。
 感触として,長期政権を担ってきた徳川幕府の機構は,その位に冷徹だったのではないか。有効な意味での官僚意識を持っていて,それが「明治維新」後の奇跡の原型を作っていった。
 その事実が「産業革命遺産」の選定を通じ,奇しくも浮き彫りにされた,と見ています。


■資料集1:造船所設置前の飽の浦

※ Y!プログ/みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行” ※神社写真多数
※アートワークス/長崎 飽の浦(あくのうら)の謎
「アニオーさんは死ぬまで飽の浦で過ごしていたというので、アニオーさんの持ち物も残っていただろう。」
「となれば嫁入り道具には中国製の白磁もあったのだろう。アニオーさん関係の職人が、その後復刻したのだと思う。」
「飽の浦は『空きの浦』だったのではないかと思う。
空きとは空っぽで空白という意味である。つまり『洞=空間=あき』だったんじゃないかと推測する。」
※ 旅する長崎学/秋ノ浦焼/その1 謎の多い秋ノ浦焼
「秋ノ浦焼は、安政4年(1857)に建設が開始された長崎製鉄所の建築用の煉瓦を焼く窯で作られたと言われてきました。」
「実のところ、どんな窯で、誰が、何のために作ったのか、いつからいつ迄作られていたのかなど、明らかになっていない点も多く、謎に包まれた焼物です。
 伝世品が少なく、消費地での出土例も無く、窯跡も残っていません」
メコンプラザ情報DB/荒木宗太郎と安南国王女
「異国渡海の朱印状は、文禄元年(1592)に、豊臣秀吉が長崎、京都、堺の8人の豪商に授けたのが最初であるが、その8人の豪商のうちの一人が長崎在住の荒木宗太郎(?~1636年)。荒木宗太郎は、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャムや安南地方に数度貿易船を出した。ちなみに最初に朱印状を授けられた8人の豪商とは、長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋であった。」
※ ものがたり 長崎黄金伝説/異説か真実か!誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO,8
「金島という名前。
処刑場。
意図的に建てられた神社。
そして金が埋まっているが掘ってはならぬという伝説。
これらを総合すると一つの事実が浮かび上がる。
それは『みせしめ』である。」

■資料集2:長崎造船所史

(1) 官営時代
明治日本の産業革命遺産公式HP
※ 長崎県HP/長崎県の文化財/日本の近代化の先駆け
「一八五七年、江戸幕府が海軍創設に伴う艦船修復のために、オランダの指導のもと長崎製鉄所(創設時は長崎鎔鉄所)を建設しました。その際に購入した『竪削盤』(国重要文化財)が、わが国最古の工作機械として現存しています。」
※ ナガジン/vol.4 長崎生まれの「艦船」たち
「安政2年(1855)、江戸幕府は海軍創設のため、長崎に海軍伝習所を開設しました。そこでの訓練船は、オランダから贈られた練習艦「観光丸」。しかし、訓練を重ねていくうちに船や機関に細かな故障が生じたため、機械設備を備えた蒸気船修理施設が必要となってきました。そこで幕府はオランダから機械を輸入し、海軍機関士官ヘンドリック・ハルデスらを招き、〈長崎鎔鐵所〉を創設。安政4年(1857)、奉行所の許可を得て蒸気船修理施設の建設工事を開始し、その4年後、日本初の本格的な洋式工場、煉瓦造りの〈長崎製鉄所(飽の浦機械工場)〉が完成しました(建設中に改称)。当初の工場は、鍛冶場、工作場、鎔鉄場の3工場を備えていましたが、船を建造するには至らず、一部の機械を製造するか、普通艦艇の小修理をする程度のものでした。」
※ 地図で読み解く産業遺産 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」世界遺産登録記念コラム/地図から見ると…?遺産密集地・長崎の秘密
「今回登録された23箇所の産業遺産のうち、なんと1/3にあたる8か所は長崎県内にあります。なぜ長崎に、これらの産業遺産は集中しているのでしょうか?」
「小菅修船場は長崎港の西岸(ママ:正しくは東※※)に位置し、小規模な湾入地形を利用して造られた船舶修理施設(ドック)です。」※※→小菅修船場跡:長崎市小菅町5 GM.
「船架の創設は1867年。五代才助を中心に貿易商社大和交易の小松清廉とイギリス商人グラバーが出資者となって造られました。」
※ コトバンク/幕府海軍
「嘉永6 (1853) 年ペリー第1回来航の直後,老中阿部正弘の提議により洋式海軍の建設を決定。オランダの全面的協力のもとに,安政2 (55) 年長崎に海軍伝習所を創設したのが始り。オランダの全面的協力のもとに,安政2 (55) 年長崎に海軍伝習所を創設したのが始り。同4年には江戸築地に,また元治1 (64) 年には神戸に,海軍操練所が設けられた。海軍奉行勝海舟をはじめ,坂本龍馬,榎本武揚,五代友厚ら,佐幕派,討幕派を問わず有為な人材を輩出し,明治期日本海軍の基礎となった。オランダ政府から寄贈された幕府最初の洋式軍艦『観光丸』,渡米使節を乗せて行った『咸臨丸』,最初の国産艦『千代田形』など,最盛時には 45隻を保有。」
三菱HP/世界遺産「長崎造船所」三菱の誕生と近代産業の成立
「1857年、海軍伝習所は江戸に移され、長崎は閉鎖されます。しかし、船の修理用の製鉄所が建設されることになり、1861年、長崎鎔鉄所が完成します。」
「このとき製鉄の技術者がオランダから乗ってきた船が「咸臨丸」。同船に乗って来日したカッテンディーケは、工場の場所を長崎の飽の浦に決めます。
《港の西側番所寄りの方に、飽ノ浦の村がある。この付近はかなり広い平坦な土地で、湾の深い入江に接している。この入江では、大きな船も岸に密着して着けることができる。
 蒸気工場に適した敷地を探していた私と機関士たちは、この平地こそ誂え向きの場所であると思った。
 とりわけ、将来の工場拡張をも考慮に入れるならば、この地こそ最も適当であると考えた。そこで、この地に轆轤(ろくろ)盤や鋳物の工場を建て、蒸気鎚(スチームハンマー)を据え付け、また石の突堤を築いて、20フィートの吃水の船を横付けにすることに決めた》(『長崎海軍伝習所の日々』)」
幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
「長崎製鉄所は文久1年(1861)3月25日に竣工した。それは長崎港内の飽ノ浦において安政4年(1857)10月10日に起工して、3年5か月後のことであった。」
「長崎地役人の中から機関方として適性のある者の人選が行われた。その際、機関方見習として伝習を行うために製鉄所内の掛支配向・地役人詰所の一室を教室としたと見られる。」
※ BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)/江戸幕府の海軍はなぜ不完全燃焼で終わった?幕臣・中島三郎助と勝海舟の無念
「黒船来航からわずか15年間で、日本人同士が海軍を率いて戦えるようになったのです。
船を作り、輸入し、操縦し、戦う。そこまで来ていたわけです。
ここで疑問が湧いて来るのが、これ。
【もしも倒幕がなければ、日本は近代化できなかったのか?】」

(2) 三菱時代
※ 三菱重工HP/沿革: 長崎造船所
※ あっと長崎/明治日本の産業革命遺産/産業革命遺産の歴史
「蒸気船の普及により、石炭の需要が高まる中、グラバーの采配において日本初の蒸気機関を使った近代炭坑「高島炭坑」が誕生します。」
おらしょ/長崎 三菱通りから飽の浦教会堂へ
「一時は長崎市の人口の3分の1以上を三菱の従業員とその家族で占めていました。」
日経ビジネス/三菱重工造船部門、新体制で挑む大海原
「三菱重工業が経営改革を進める上で、避けて通れない「本丸」がある。同社発祥の地の長崎造船所(長崎市)が中核となっていた造船部門。戦艦「武蔵」を建造した誇り高き長崎も、大型客船の建造遅延でグループ内での発言権は低下。今年1月の部門再編で設立した新会社の名前からは「長崎」の文字すらない。」

■資料集3:変電所の坂周辺

※ 缶バッジ ”ながさき坂道むすめ” 発売連動企画 長崎坂道めぐり/長崎の急坂No.1はどの坂?
▲「変電所の坂」娘バッジ
缶バッジ ”ながさき坂道むすめ” 発売連動企画 長崎坂道めぐり/トップ
※ 長崎経済新聞/長崎の急坂で「きゃあまぐる坂GP」 福山雅治さん命名の坂駆け上がり速さ競う
「『きゃあまぐる』とは、長崎の方言で『気絶するほどえらくきつい』という意味を表す言葉。」