006-1立山下り道\旧六町編\長崎県

旧六町=現長崎官庁街

間は少し戻る。飽の浦へのバス待ち時間にほんの少し歩いた話に触れます。
 旧六町の台地の初歩きです。
 史料的には町の名前だけが残ってるらしい。横瀬浦町,平戸町,外浦町,大村町,文治町,嶋原町。1580年,大村純忠が茂木とともにイエズス会に寄進した土地です。秀吉時代に拡張指定された外町に対し,内町とも言う。
 
▲旧六町の概略位置

歩きと言っても,もちろん「そう意識して」という意味です。
 上図は,この六町と推定される付近の坂道をプロットしたもの。六町が行政区画上どこだったか?には,ツーリスト的にはあまり興味がない。六町が概ねあった台地,という意味ならこのプロットの囲む地域になるはずです。
 要するに,出島の北,旧長崎県庁の場所から長電蛍茶屋線の公会堂前の少し北くらいまで。ざつくり言えば現長崎官庁街です。
 この朝は地裁まで行ってます。ただGoogleマップの経路はまるで取れませんでした。これらの坂の小道は,GM.上の公道に設定されてないらしい。

「雪氷らんかん」の石畳道

▲0915市場裏

場裏。0911。
 パーキング名に長崎裁判所下とある。築町御座船御船蔵という大きなシャッター付きの倉庫。築町自治会館とある。
 北西側は20m近い石垣。
 南西へ左折…したら倉庫左手に階段を見つける。登ってみよう。

▲階段を上がってみる

段階の階段でした。
 半ばに妙な,40mほどの細い石畳道。
 なぜこんな中途半端な道がありうる?元々の台地面がこのレベルで,この上におそらくある裁判所などの地盤はもう一盛り盛り土をして整地した,ということだろうか?

▲中段の短い道

一つ。
「駿くんへ」と書かれたポエムを小さく綴った円柱。地蔵と一緒にぬいぐるみやら小さな仏像やらが一緒に飾られた妙な神殿です。幼逝した子どもだろうか。
 すぐ隣は公設市場への渡り廊下。逆側に「雪氷らんかん」という氷屋。
 分からん。どういう段差,どういう細道なんだ?

▲玩具の並ぶ祠と氷屋さん

フロイス通りから帰還

段の続きへ。とは言え,少しZ字に折れてもう10段程度。登る。0924。
 すぐにT字。Ad万才町10。サンガーデン万才町と裁判所の間に出ました。裁判所側には石垣が残る。
 0928,左折南西行。さらにすぐT字,工事現場に突き当たる。今の裁判所前通りが「フロイス通り」とある。
 左折南東行。坂を降りる。あ!竹の家の通りか!
 亀屋饅頭はまだシャッター。井上鯨肉店もまだ準備中。

いう所までが朝の初歩きでした。
 非常に狭いエリアだし,今まで何度も何気なく通り過ぎて来たとこです。
 ただイメージを持ってしまうと全く別の土地に思えてくるのが不思議なとこで──
 話は,飽の浦から丁度出てたバスに乗り,金比羅山麓へ。正午前,「じゅん」で何度目かの皿うどんを頂く。ここはいつも細麺と太麺とで悩むけど,今回は細麺にて…はともかくとして──もちろん,この食後の時点では六町はまた明日,と位に思ってました。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※次章含む

「じゅん」南の分岐を今回は

▲じゅんの西側の掲示板分岐。これの左右どちらに行くかでかなり違う。

ゅん」から歩きで降りる際,何度も「えっ?ここに出たの?」と驚愕してきました。
 浜平から立山へ,金比羅山南麓に巻き付く鉢巻道路は,地元では「新みち」と呼ばれるという(→巻末資料:新みち)。これがくねって伸びるあちこちから山の下の「旧みち」に放射線状に接続路が繋がってるから,うかうかと下ってると思わぬ場所に出てしまうんである。
 1232。本日は「じゅん」の西すぐにある掲示板の別れ道の地点から入ることにした。右手南側から行ってみよう。どうせどこへ出るか分からん。
 Ad立山三丁目8。
 階段の右に細い水きょが並走してます。

▲1236,下る。

ゆーか,この下り坂で分からなくなるのは,途中で酔いしれてしまうから,というのが一番大きいんだけどね。
 いい坂です。
 いい坂道だよ,おい。

「全然見えない…」的な嬉しい絶望感

▲1237ぐにゅぐにゅと曲がる

239,最初のT字。左へ。
 空き地の雑草ゆえなんだろうか,地形なんだろうか?この辺りは,すぐ上にあるはずの車道が全くそれとは読めなくなってます。
 一度,この辺を下から登ったことがあるけど,「まだ全然見えない…」的な絶望感が半端じゃない。

▲横道もあちこちに

さらにT字。1241,右へ。Ad立山三丁目右手4,左手9。
 この細道の形状は何だろう。等高線ラインの道は分かるけれど,この縦のラインは。無秩序ではない。川筋や尾根を渡るように,非常に効果的に伸びてる。
 それが物凄く美しく見える。だから酔ってしまう。

▲1240,分岐。

てことない別れ道。
 等高線ラインと川筋ラインが自然に合流してる。家並みもそれに沿ってきれいに並んで時代を経ています。
 思い出したけど,露出を高くしてるのは確かこの玄関の軒先がチラチラと色めいて美しかったからでしたけど…この炎天下,それは全然撮せてません。

夢の長崎市斜面移送システム弐号機

▲1244。このすぐ上がバス道とはとても思えない。

左へ。1247。Ad三丁目4。
 1248,さくら号軌道の最上部に着いた。長崎市斜面移送システム2号機,とある。
 え?今もまだ運休中なの?

▲運休中?

行者は長崎市土木建設課・立山地区まちづくり協議会とあるけど──分からん。何で単純に道路を作らなかったのか?
 ただ,乗り物マニアとしては──一度これが動いてるとこを見てみたい!という衝動がある。いや出来れば…乗りたい!

▲軌道の道を下る

旧金比羅参道と地蔵堂

山二丁目11辺りで再度右手脇道を進む。
 ここは迂闊にも入ったことがなかった。やや広い坂道は単調だから…という程度の気持ちで入ったんだけど──
 え?意外に雰囲気いいぞ?

▲立山の坂。凄まじい雲

と,これが古道でした。何度もスルーしてきた「じゅん」の上の金比羅山。そこへの参道だったのです。
 そして,ここに何で金比羅山なんてあるの?と掘り始めると底知れぬ謎また謎に入っていきます。読む方は心してリンクを押してください。→巻末小レポ:長崎金比羅山の掘れば掘るほど深い闇

▲1303「カギ」?

山町地蔵堂。1302。
 昭和7年記念碑あり。
 顔を隠すような石祠。隠れた顔部分を覗くと,目鼻がない。でもどうも女性像に見えます。マリア?
 とすれば,隠れキリシタンの隠しマリア──と勝手なことを思いついてましたけど,旧奉行所すぐのこんな場所に,そんなんがあるとしたら無茶苦茶挑発的な「隠し」方です。

▲顔の隠された女神像

被爆情報はどこから発信されたか?

,そこからはいつもの歴史文化博物館へ,と道を辿る気でした。
 1307,その博物館前の立山交番を過ぎる。すると南側の長崎県立長崎図書館に「長崎県防空本部跡(立山防空壕)併設」という看板を見つけました。
 1945年,長崎県庁中枢はここの防空施設に移転。8月9日,知事以下幹部が壕内で知事が会議を行おうと集まりかけた時に,ここかり金比羅山を隔てた2.7km北に原爆雲が立ち上った,とのこと。今は一般公開されてるらしい。→長崎県防空本部跡(立山防空壕)

▲真夏の勝山交差点

山交差点まで戻って地図を開く。
 何だ?ここって旧六町領域の東端,と書いてあった桜町小学校がすぐの場所じゃないか。
 長崎本を見つけに大波止の紀伊国屋へ寄る気になってました。これは出島そば,旧六町の西端。
 そうなるとこの企画しかなくなるよなあ。──旧六町,東西横断。

▲1442,マティマハルの裏道

言うわけで,次章がそれ。
 全般として,概要を掴めて良かったけど,光景自体はまあまあでした。
 暑さで(なのかどうかは分からんけど)スマホがブッ飛んで写真が全部失敗してます。人間の方も,歩く距離はともかく,炎天のコンクリートの照り返しは厳しかった。
 この途中で長らく見失ってたインド料理のマティマハルを再発見。
1354Aセット(キーマ)500
 ただこっちもまあ…隠れ家的な雰囲気と味の独自さは面白いけど,味は…まあまあだったな。

■資料:「新みち」

平※・(略)新みちっていうでしょ,長崎公園の上の六角堂から上がって長崎中学から浜平までの鉢巻道路。立山の人はあの道から上を「みちうえ」,あの道から下を「みちした」という。「あん人はみちうえやけん,雪の降ったら降りてこられん」とか(笑)。
ヒロスケ・あー,そういう地域限定の言葉,たまらーん。(山口広助「長崎游学シリーズ13 ヒロスケ長崎のぼりくだり 長崎村編 まちを支えるぐるり13郷」長崎文献社,2018。以下「のぼりくだり」という。)
※ 平浩介:平成16年より長崎さるく博’06プロデューサー。平成25年フジカ代表取締役。

■小レポ:長崎金比羅山の掘れば掘るほど深い闇

  金比羅山そのものは,江戸中期に勧進されたもの。ただ,後掲のヒロスケさんの表現が妙を得ているけど,この狭義の神体としての金比羅と,この山そのものの神域は別物と捉えたほうがよさそうです。
 そういう意味の金比羅山の関係伝承は,後掲のように物凄く絡み合ってる。しかも16世紀のキリシタンによる破却で断ち切られてるために,色んな非キリスト教信仰が渾然一体となってるらしい。
 長崎金比羅は,要するに古代神宮寺の神域で,現在の諏訪神社の叔父さんみたいなもの,と捉えてます。要するにこの山5
南麓に並ぶのは一群の宗教施設群。仏教も神道もあまり関係がない。
 乱暴な謂いに聞こえると思うけれど,例えば──今の諏訪神社の位置には,17世紀初には名前が伝わらないキリスト教会があったらしい。その教会は,神宮寺という寺院群をキリシタンが破壊した後に造られた。この神宮寺とは,百済から渡来した琳聖太子という,これまた謎の人物が,推古天皇5(597)年に創建。
 晧台寺の例を想起させます。神域αにあった宗教施設Aが移転し,全く別の宗派の宗教施設Bが建つ,という他であるまじきパターンは,長崎ではそう珍しくないらしい。
 例えば,今度は神体としての諏訪神社を追うと,これは16世紀に寺町付近に創建され,キリシタン時代の後,今の松森神社の位置に再建された後,今の位置に移されてます。しかもこの神社は当初「圓山神宮寺」と呼ばれてた。つまり,キリシタンによる破却を経た後の神宮寺の再建という位置づけも兼ねてた。
 兼ねる?そんな宗教施設ってあるのか?
 いわば,両義的な宗教観みたいなものが,どうも感じられるのです。──もちろん,同じ長崎でもキリスト教会にはそういう性格はないようですけれど。
 さて,そういう心得に慣れた上で,今度は本丸,神体としての金比羅神域,つまり古代神宮寺を追ってみると──6世紀末の創建の後,次第に廃れた上でキリシタンに完全に破壊される。禁教後,17世紀に「諏訪神社として再興」された後,山の頂上付近に金比羅神社が出来,財閥三井の寄進も得て大規模化するとこれも一部神宮寺と改称。つまり,里宮たる諏訪神社と奥宮たる金比羅神社という形で,古代神宮寺が「復活」している,と見ることができるわけです。
 その上で,さらに地形としての金比羅も追う。この山は,古称に瓊杵山(にぎやま),崇岳(たかだけ)などがある。「瓊」という漢字は,上質な玉の意味ですけど,神話的には特別な字です。つまり瓊杵命(ににぎのみこと)の意。天孫降臨をした神で,神武天皇のお爺さん。実際,金比羅山が天孫降臨地という伝説もあるらしい。
 何でそんな巨大で根源的な神域が,長崎にあるんだ?──というのは,やはり我々現代の長崎ツーリストが「出島の長崎」イメージに汚染されているからでしょうか?茂木で触れたように,神功皇后由来の土地もあるわけで,古代の謎の,誰も知らない長崎像がまだ存在する気配があるのです。

※「金比羅山上りロ
 ここでいう金比羅山とは山そのものと,頂上と中腹にお祀りされている金刀比羅神社のふたつを意味します。つまり,金比羅山の上り口とは登山道であって参道でもあります。現在,長崎歴史文化博物館の前から立山町地蔵堂前を通り上っていく小道が江戸時代からの本来の道で,金刀比羅神社一の鳥居へと進みます。江戸時代から昭和40年代までこの登山道沿いには段々畑が続いていました。長崎市民への野菜の供給地で,稲佐の稗田と共にオランダ屋敷や唐人屋数へ共絵する食用豚や野牛が飼われていたところでもありました。当時,登山道入ロ付近は立山・西山方面から下ってくる農家の作物の集積地となっていて,八百屋町は文字通り,流通の重要地点である青果市場の町でした。」(のぼりくだり/岩原郷③)

※「江戸時代後期に書かれた『長崎名勝圖繪』には,古来長崎には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近に立っていたと記されています。始まりは聖徳太子が活躍していた推古天皇5(597)年,朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が建てた道場で,のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし,その後,代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。」
「慶長時代(1596-1615)※にキリシタンによって破却され,神宮寺跡地には教会が建ったと伝えられています。なお,教会はセント・ルカス教会といい,そのルカスが『ろかす』に変わり炉粕町になったという説があります。※天正9年(1581)の説もあります。」
「宝永2(1705)年に金比羅山に金比羅大権現が勘請され,のちに本社が建ち,享保10(1725)年には神宮寺の名称となるのです。これは古来長崎にあった神宮寺の再興という位置づけでした。」
(のぼりくだり/9世紀の長崎にあった広大な寺院・神宮寺 伝説の寺院,一大伽藍の全貌とは?)

※「長崎の氏神様 諏訪神社
 課訪神社は弘治年間(1556ごろ),長崎甚左衛門の弟の織部亮為英が,京都より諏訪の神を受け東山(寺町長照寺付近)にお祀りしたことに始まります。その後,修験者の青木賢清が神道再興のため長崎入りし,寛永2(1625)年に長崎奉行長谷川権六郎の援助のもと,講訪神社を西山郷圓山(現在の松森天満宮)に再建。慶安元 (1648) 年に現在の王園山に移転し,王園山神宮寺ともよばれていました。江戸中期にはオラダ人や唐人なども参詣するようになり賑います。長崎の氏神様として親しまれ,10月に行なわれる大祭(くんち)は日本三大祭と称されています。」
「三本の松の木から命名,教会松森天満官に 松森大満宮
 元和 (1615-1623) 年間,肥前松浦部の川上久右衛門光房が今博多町に移り住み,祖先より伝わる菅原道真自筆の掛け軸を大切にお祀りしていました。ある日,掛け軸を入れた筒が奇光を発したので社を造り安置することにします。これが寛永3(1626)年,松森天満宮の創建です。明暦2(1656)年,諏訪神社があった地で当時は元識訪または圓山とよばれた現在の西山に移転します。延宝8 (1680)年,長崎奉行牛込忠左衛門が境内の三本の松の木を見てこう言います。『三つの技を合わせれば森の字になる』。このことから松森と名づけられました。」(のぼりくだり/西山郷①)

※「第五話 まぼろしの二つの神宮寺(じんぐうじ)
『金比羅山と岩屋山,その覇権争い』
 むかしむかし,長崎には神宮寺(じんぐうじ)という,同じ名前の寺がふたつあり(略)長崎市の,ほぼ中央にそびえる標高(ひょうこう)三三六メートルの金比羅山(こんびらさん)は,瓊杵山(にぎやま),崇岳(たかだけ)などの古い名前があります。
「にぎやま」とは、瓊浦高校の瓊(けい)・つまり天孫降臨の瓊杵命(ににぎのみこと)の「に」という漢字が用いられているように,瓊瓊杵命(ににぎの·みこと)がこられたという伝説によるもので,あるらしい。
 また,別名を無凡山(むぼん)。(略)
 この金比羅山の東南(とうなん)の麓の一帯,西山町の一部から諏訪神社・諏訪公園,立山町にかけての,広大な寺域(じいき)をもったお寺が神宮寺でありました。
 弘仁(こうにん)十年(ハ一九年),嵯峨天皇(さがてんのう)の勅願(ちょくがん)をもとに,創立されたもので,三十ほどの支院をもち,深江浦(ふかえうら)つまり現在の長崎を寺領としていました。
 この神宮寺は承和(じょうわ) 八年(八四一年)に一度修復されたといわれます。
 この年は,平安時代にあたり,空海の死後六年ほどたった頃で,そして,まだ,長崎小太郎(ながさきこたろう)はこの地にきていません。
 だから,長崎つまり深江浦は,まだ,このお寺の所領だったのでしょう。
(略)
 長崎小太郎重綱(ながさき・こたろう・しげつな)が至って,深江浦の支配者となったのは,だいたい,貞応(ていおう)元年(一二ニ二年)説が有力ですが,それより百三十年ほどくだって,正平(しょうへい)五年(一三五○年)、征西将軍(せいせいしょ
うぐん)懐良親王 (かねながしんのう)が,この神宮寺を修復し,五千貫(ごせんがん)の地を付与されたといいますから,神宮寺はまだ存続し,深江浦全体が所領でなかったことがわかります。」
(丹羽漢吉「やまだ眸月真の『長崎おもしろ・よもやま話』」長崎文献社,昭52)

※「長崎の神社仏閣を調べてみると、創立がほとんどが1600年以降となっているのに気がつくであろう。
これは、長崎の歴史で起こった、キリシタンによる神社仏閣の大々的な焼き打ち事件のせいである。」
「1571年の開港当時 1500人ほどといわれた長崎の人口は1681年には5万3000人という人口に膨れ上がっていた。」

※アートワークス/長崎宗教戦争/新長崎伝説/異説か真実か!誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO,9

※仮称リアス式/長崎の神宮寺の謎
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