006-2旧六町横断\旧六町編\長崎県

い気持ちで掛かってしまった旧六町縦断でしたけど──スマホがラリってる位なんで,人間の方も朦朧としてきました。

初代長崎代官:末次平蔵

315西行開始。
 1321,桜町小学校校門はすごい風雅な造り。脇に石柱2基「サン・ドミンゴ教会跡」「末次平蔵宅跡」。その説明書きには──
「初代平蔵(正直)は朱印船貿易商として活躍し,東南アジアの各地へ貿易に出かけ莫大な富を得,町の支配と同時に権勢をふるいました。
 元和2年(1616)には長崎代官に任じられ延宝4年(1676)まで4代にわたって代官をつとめました。ここはその代官屋敷でした。」

長崎市上下水道局の煉瓦

334,桜町の歩道橋をあえて渡ってみる。なるほど電車がトンネルをくぐるのはこの台地の下を抜けてるわけです。
 しかし…どうにも面白くない。
 台地上部は利便上開発されてると考えるなら,一段脇を行ってみてはどうか?
 1339Ad桜町5から南西行。
 垂直2mほど下がってる。南西側には石垣,北東側の長崎市上下水道局にはレンガが残る。

ンド料理のマティマハルにて一食した後,1416に再走開始。
 Ad桜町3。
 ダメだ,面白くない。西側の裏通りへ。Ad金屋町9。
 向井去来生誕地碑。
 1427,市立図書館裏を過ぎる。この辺りは何度か食い物屋を探してうろついた記憶がある。

樺島町の高低差

431坂本屋。
 Ad万才町1。ここで緩やかな下りになる。
 さらに脇道をへ。左折。Ad五島町8。
 うーんここか,この複雑な交差。Ad樺島町9。直進してみる。東に高低差15m。何の段差だろう?
 樺島町公民館。

d樺島町8。
 右折。左右に凄い坂道。昔ケーキ屋があった辺りです。
 もう一つ脇道へ。讃岐うどん鶴天。
 1449,ここでやっとのことで大波止交差点。ふう。
 1455。紀伊国屋で長崎本を探しつつ涼む。いかにも力尽きてサボってるようだけど,実はここで,長崎文献社という会社の薄手の冊子を見つける。かなり迷うほどのバリエーションある内容でした。

■小レポ:唐通事

 本文に出て来ないんだけど,長崎奉行は「政治」の権力者。そもそも長崎が直轄領にされたのは,大村氏のような勝手な国土の割譲が行われると怖い,ということですから,政治の眼目は海外勢力と国内キリシタンの監視です。
 では実質の「行政」は誰がやってたか?それが末次家が務めた長崎代官という役職で,地元資本を代表する豪商が当たった。つまり実質の経済活動は,民によってなされていた。
 そうなると,当然そこから先も民による実力者が連なってた。各方面の専門担当官は,「通訳」と訳される「通事」が担った。国際共通語のような言葉はない時代だから,通事は,言語圏毎に分けられた。
 そのうち中国担当の通事が,唐通事です。
 家格の高かったものでは,①潁川(えがわ,本姓陳氏),②官梅(かんばい),③二木(にき,本姓林氏),④彭城(さかき,本姓劉氏)が有名というけれど,下記サイトを見ると小さな家は無数にあったらしい。
 福州がやはり多い。予想に反し福建南部は少ないけれど,通事には「漳州口」専門官がいたそうだから一定量はあったのでしょう。
 面白いのは,単に「中国人」でした,というのではなく,日本に住み着いた,あるいは「深見』氏(中国名:高一覧)のように「福建省出身の高寿寛の子として鹿児島川内に生まれ」といった,まさに鄭成功のようなマージナルマンを思わせる人々も名を連ねてることです。
※ コトバンク/唐通事/日本大百科全書
「江戸幕府が長崎に置いた唐船のための訳官。1604年(慶長9)明(みん)人馮六(ひょうろく)に始まるとされるが、訳官としての地位が明確になるのは1641年(寛永18)である。その後、大通事(おおつうじ)4名、小(こ)通事5名の定員になり、明末清(しん)初、日本に流寓(りゅうぐう)した人々の子孫である潁川(えがわ)(本姓陳(ちん)氏)、官梅(かんばい)・二木(にき)(本姓林(りん)氏)、彭城(さかき)(本姓劉(りゅう)氏)らの諸家がその職を世襲した。」
「通常、唐通事とは、前述の額設九家の大・小通事をさしていい、漳州口(しょうしゅうぐち)、福州口・南京(ナンキン)口通事の別があった。」
※ ナガジン/唐通事と阿蘭陀通詞
「唐通事と阿蘭陀通詞に決定的な違いがあることに気づいた。それは、唐通事のほとんどは、中国から来航した貿易商人らが日本に移住し、帰化した中国人家系の地役人で構成されたのに対し、阿蘭陀通詞は地元長崎か平戸から移住した通詞、つまり生粋の日本人である地役人が務めていたということだ。」
「注目すべきは、唐通事の「事」と、阿蘭陀通詞の「詞」、同じ「つうじ」でも漢字が違うところ。オランダ貿易において通訳や翻訳を主な仕事としていた阿蘭陀通詞が「詞(ことば)」に通じたのに対し、唐通事は「事(こと)」全般に通じる……つまり、通訳はもちろん、長崎に在住する中国人たちの管理、貿易許可証である「信牌(しんぱい)」の発行など、唐貿易全体の業務を仕事とした。」
※ 夏姫の長崎倶楽部/唐通事の名門
「『平野』氏(略)
山西省の東南部の出身という説」
「『林』『官梅』氏(略)
福建省福州府福清県の人「林公エン」が日本に渡来
 大村藩の森氏の娘と結婚して生れたのが林道栄」
「『東海』氏
 東海家は中国人徐敬雲を始祖とし
 その子2代東海徳左衛門から
 10代にわたって唐通事を勤めた(略)
 夫婦川町春徳寺には東海家の墓がある
 長崎における中国式墳墓の代表的なもの」
「『潁川』氏
~陳道隆~
  1617~1676 唐大通事 日本名を潁川藤左衛門
  穎川(えがわ)家を創設して籐左衛門(初代)と称した
(略)福済寺の第一の大檀越で、道隆を除き5代目までの墓がある
  道隆の墓所は悟真寺」
「『深見』氏
~高一覧~
   中国福建省出身の高寿寛の子として鹿児島川内に生まれ、16歳で明に留学、26歳のとき帰国し、やがて長崎へ移り住み21歳下の女性と結婚
   日本名を深見久兵衛として1641年39歳で小通事となり、1643年に大通事に、隠元を招聘する12人に名前を連ねる」
「『彭城』氏
 彭城(さかき)家は、元和4年(1618)頃 福建省福州からきたと伝えられる劉一水(りゅういっすい)が祖」

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「006-2旧六町横断\旧六町編\長崎県」への2件のフィードバック

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