m011m第一波m十五夜をSHAへ駆る 緑色m津屋崎

~~~~~(m–)m津屋崎編
(日本:福岡県)~~~~~(m–)m

凡例 :福岡県津屋崎

本歌:夏の月ICUの赤色灯〔灘〕

出国前の小旅行。
──のつもりの津屋崎千軒から,海域アジアの扉を開けてしまいます。
終らぬ旅になりました。
[前日日計]
支出1400/収入1080▼14[112]
     /負債 320
[前日累計]
利益  -/負債 487
§
→九月十三日(五)
0803サンフカヤ
具だくさん焼きサンドのモーニング,フカヤブレンド(ホット)370
1403天ぷらうどん
野菜天うどん400
1444patisserie jacques
ケークフィグ250
[前日日計]
支出1400/収入1020▼14[113]
     /負債 280
[前日累計]
利益  -/負債 767
§
→九月十四日(六)


七条の袈裟になぞらえ四九願

国前には意識が既に国外に飛んでることが多かった。
 今回は,出国前に福岡のいくつかの場所へどうしても寄りたくなった。
 今回目指した「海域アジア」は,もちろんこの時点では姿を垣間見てすらいません。けれど,その初めて訪れるくにが,日本国内ともカブってるという予感はあったのでしょう。

803サンフカヤ
具だくさん焼きサンドのモーニング,フカヤブレンド(ホット)370
 昨年12月から8時開店になったらしい。久しぶりの焼きサンドが絶品!
 さて。
 0840,西鉄福岡北口で一旦荷物をコインロッカーへ押し込む。0905,福岡中央郵便局前18番乗り場(郵便局の前)からバスに乗車。路線は26A,JR福間駅行き。
 東行。0909,バス停「博多五町」。
 これまであまり気にしてなかった。長くなりますが解説を引用します。

「博多五町」を構成した五ヶ町も、いわゆる旧町(含む通称)です。
また「博多五町」という名称は五ヶ町の商店が一体となって「博多名所」として一九六○年代頃まで宣伝した名称でした。当時の資料によると
「麹屋番」「川端町」「ツナバ町」「川端通」「寿通」と記載されています。

秀吉の博多復興の際に「四水、四応、四神相応の計画を立て、博多の町を七条の袈裟になぞらえる七七四九願をあらわし、博多を一山の七堂伽藍にたとえた」(九州経済史論集)そうで、江戸期の博多の百科事典ともいうべき「石城志」には
「七小路」「七厨子」「七堂」「七口」「七流」「七観音」が載っています。

これらの場所・位置関係・旧町名は、
参考URL「大黒流総合サイト」>大黒流とは>大黒流の地図 で、アニメーション表示※でご確認下さい。

→※
教えて!goo/博多のいにしえを偲んで
※→参考URL:大黒流サイト

舟に乗って新宮湊に到る

912,高速へ上がる。
 若干の工場群の向こうに,博多湾が北に一望。この湾はやはり大きい印象を受ける。水平の手前でぐるりと湾になっている様が見てとれる。
 北,水平近くには湾口の玄界島。
 しかし?今向かってる福津はこの湾の外です。元々,つまり宋代の入口はそちらだったのか?でもその後の元寇は博多奥の大宰府側に入ってきてるわけで,この移動は何だろう?
 0924,東,前方に連なる山並。これを避けるように左に高速は折れ,地上へ。バス停福岡女子大前。次も九州産業大学前と大学が続く。田島屋という味噌の店。

▲国土地理院地図:博多湾外東沿線付近

ンパスを開くといつの間にかほぼ北行してました。
 道路左手に川。「唐原橋」という交差点表示。
 バス停「大名」を変な発音で読んだ?
 0936,車道,片側一車線。やや古い感じの道になってきました。バス停福岡工業大学前。
 バス停名・特別支援学校を挟んで下の府,上の府?何だ,この地名の語感の違和は?
 新宮小学校。新宮町役場。今の景観は完全に郊外住宅地だけど,ここには何か確実にあった手触りです。でも何が?

 江戸時代の三大地理誌の一つ、「筑前国続風土記」に『本朝無題詩集』の釈蓮禅と藤原周光の「舟に乗って新宮湊に到る」という題の詩が引用されている。この『本朝無題詩集』は986年から1140年ごろまでの間の詩を選録したものと言われている。
 この藤原周光の詩の中に「伝え聞くところによると住吉霊社を此地に移し、新宮と号す。故にこの地名を新宮と言う」と書かれている。

※ 新宮町HP/新宮の由来

総本山宮地獄をなんとなく過ぎる

949,古賀市に入る。JRししぶ駅。道に左右のうねりだけでなく上下が出てきた。バス停・花鶴「かづる」。
 0953,JR古賀駅前。バス停・古賀。タコス屋。
 北の空が怪しく黒ずんできた。
 0959,カトリック古賀教会。左手に松原。地名は花見。
 1011,福間駅下車。

050。ecobike借りるのに物凄い時間がかかってしまった。ロック6532,と。
 1055川を渡ったとこでマップをチェックすると…焦ったか?南へ逆走しとるがな!
 川は上西郷川。
 1103,やっと線路を渡り直してゆめマート前。交差点松原。
 1106,諏訪神社前で信号待ち。長!
 1111,交差点太郎丸。左折。
 セブンで休憩して地図を確認する。結構遠いなあ。北東のとんがり山の西麓が宮地獄神社の神域らしい。交差点道辻参道口。
 1122,神社。ad宮司元町。参道もあるけどなんとなく通過。
 1128,津屋崎中学校。その向こうに施設が見えてきた。

▲今川遺跡出土の矢じり

塩田,廻船,津屋崎千軒

津市複合文化センターに着いたのは11時半。
 博物館としては小さく初心者向けだけど,以下は案内文を転記したもの。こんな場所にそんなんがあるのか?

福津市では,勝浦や手光,宮司の地域でおよそ2万年前の石器と推定されるナイフ形石器などが発見されています。

福津市は,水田稲作がいち早く伝わった地域の一つで,弥生時代の初めごろの集落が見つかっています。

今川遺跡では,弥生時代の初めごろの土器や石器のほか,銅の鏃や鑿など金属の道具も出土しました。

 ここは「博多の手前」じゃなくて,むしろ博多の前身のような場所らしい。

▲甲冑

の写真の案内板には「三角板皮綴短甲,5世紀,宮司井手ノ上古墳」とある。
 14~16世紀と推測される上西郷タナカ遺跡からは,様々な木の道具が出土している。桶,下駄,漆器などの生活用品が並んでました。
 と,点の情報はいくつもあり,ものすごい土地らしい気配です。でも全体像がまるで焦点を結ばない。そういうのが何とか見えてくるのは室町以降になってかららしい。

市内には,室町~戦国時代ごろの城(山城)がいくつもあり,江戸時代にかけての屋敷や町屋の遺跡が見つかっています。(略)津屋崎では塩田や廻船により港町が栄え,そのまち並みは津屋崎千軒と呼ばれています。

 博多と同様,何度となく戦火にさらされた港町だったのでしょうか。にしても,博多との関係がどうも分からない。

▲津屋崎手前

化センターを発ち津屋崎へ向かう。
 集落までは田園風景が続く。町域は小さいらしいけれど,後ろの平地は広い。クニがあっても不思議はない領域です。
 ほぼ正午,集落入り。

▲海が見える高み

何かある!感が物凄い

通りは何てことはない。
 上の写真の緩い盛り上がりの向こうは,海へ一直線。かつての入江の屈曲の一部とも思えたけれど,位置は比較材料がない。
 この周囲は整然とした車道で,建物も新しい。北側に伸びる路地に魅力を感じ,入ってみる。

▲津屋崎古地図。現在の立地とはかなり違い,大きな入江があったらしい。

の高みに場所辺りから振り返ると,おそらく南東方向の直線路が見えたはずです。
 最近有名になりつつある宮地獄神社からの「光の道」の終点と推測される。この神社は,距離的には相当内陸ですけど,道自体は海からの参道と思えます。そうだとすれば,ここにはまず宮地獄があった,ということになる。

▲集落内

ゆーふうに,「これは何かある!」感がものすごいのである。
 入った路地は,やはり雰囲気はムンムンのむちむち(?)なんだけど,その時の感じでも今見ても──
 普通の田舎道だよな,これ。

▲集落風景

やいやそんなことは,とさらに路地に分け入る。分け入るうちに方向も分からくなってきた。
 ということは,道の配置は複雑なのです。家屋が雑多に建ち並んでからその間を道にしたっぽい。ソレっぽいのである。
 けどやっぱ……普通じゃのう。
 そうしてるうちに,この神社が姿を現した。だから場所はよく把握してません。

須賀神社と書いて「ぎおんさま」と読む

▲波折神社の貝殻の寄進碑

折神社。1204。
 正面右柱に「神威輝八宏」。左柱「徳澤洽四海」。五言対聯です。
 手前には貝の祠。注連縄がある。珍しいと思う。ひょっとしたらこちらが本尊かもしれない。
 祭神は三柱。瀬織津大神,住吉大神,志賀大神。やはり神功皇后新羅遠征に由来,凱陣時に斎祀が行われたと伝承があるようです。

▲須賀神社額碑。「ぎおんさま」と読み仮名。

難破船 船に残りし三つ石

賀神社。案内板に曰く「津屋崎では山笠が始まった当時の生業にそって漁業が多い北流 商家が多い新町流 農家・職人が多い岡流と三本の山笠があり」
 そう言えば博多祇園山笠も初日だったか,お汐井とりとか言う箱崎宮参道の向こうで砂をとる清めの神事があったな。つまり北の浜が神の来る方角と捉えられてる。
 さらに左手奥に3祠。こちらには名前がない。通常の神社ならこちらが本尊ですけど……。
 徹底的に分からない。

承を見ると,ここにも遭難→神体→救出の由緒がある。媽祖神話にそっくりです。

漁師3人が沖合で釣りをしていると、急に海が荒れ始めました。漁師たちが神様に祈ると、三柱の神様が現れ、その擁護のもと荒波を折り、かろうじて孤島に漂着して、波風が収まるのを待つことができました。(略)波風が収まって神様が去った後、船に3つの石があったので、漁師たちはそれを持ち帰って御神体とし、社を建てました。

※ ご来福しよう/波折神社
※ よしさんの神社仏閣巡りII/波折神社 (福岡):もう少し詳しい観察あり

▲1218川辺

へ走る。1220。
 1231,宮司海水浴場。ここにも「宮」字が残る。
 こっちの海岸沿いはアップダウンは少ない。距離は稼げる。ただ,かつての浜のはずだけど開発されてて名残は乏しい。
 1252,自転車を返却。リターンボタンを押してイエスを選択。ふう。でもガタガタ音はともかく車体自体はよく走る良いモノでした。
 福津駅はこっちが「さいごう口」(東口),朝借りた方が「みやじ口」(西口)。
 1259,快速久留米行きに乗車。1321,博多帰着。
 駅のアミュ5階の靴下屋でレーシングラン5本指を一足買い足しておく。
 1342。うーん,やはり大宰府行きまでは無理だなあ。地下鉄で唐人町へ向かうことにする。

博多遺跡群位置図:中世博多街区予測エリア〔2023年博多駅地下街掲示(福岡市埋文)〕

■小レポ:博多のラッキーナンバー「七」と松浦・博多経済圏黄金時代

 太閤秀吉時代に博多は「復興」された,という話はよく聞く。その時の発案と伝わる博多の町のスケルトンモデル・「七堂伽藍」というのは何だろう?

① 七堂伽藍で町造り

 wikiによると,日本中央で言う七堂伽藍とは,寺院の主要建物群の構成要素が7つあることを指してる。
「伽藍」は,サンスクリット語の寺院建物(सँघाराम:saṁghārāma)の音写漢語「僧伽藍摩」を略した呼称。元は,「聖徳太子伝古今目録抄」において金堂・塔・講堂・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂の七つがあるのが伽藍である(原文未確認)としているのが最初とされる。
※ wiki/伽藍
 なので日本の寺院建築史は,この枠内で,七要素をどう配置するか,という形で展開したらしい。大きくは,薬師寺を代表とする左右対照タイプが,平等院鳳凰堂など寝殿造タイプに変形,さらに鎌倉期に萬福寺などに残る一直線配置タイプへと推移。従ってその頃までは配置も意味したらしいけれど,それ以後の宗教の多展開時代には,御影堂(大師堂)と本堂(阿弥陀堂)が左右並列・東面する浄土真宗など宗派毎に自由度を持つに至ったらしい。つまり建物七つそのものとは別に,その配置が創造性を発揮すべきキャンパスになるという,ある意味極めて日本的な「抽象芸術」の世界が生まれてたわけです。
 これを念頭に入れた17世紀末の秀吉家臣団が,新たな町造りを「巨大な七堂」と見立てました,というのは新興天下人の興を買うに絶好のコンセプトだったでしょう。

② 博多に七つあるもの

 ただまあそんなものだったから,現実の博多の「七つもの」が極めて精緻に配置され,その交わる場所に財宝が……ということは,どうもなさそうです。
 ただ「七つあるもの」が無数にあるのは,「七堂伽藍」イメージを日本史上最大の成り上がり権力者だけでなく,博多の町人も喜び,自ら進んでそれにノッて行ったらしいことを予想させます。
 とりあえず山笠フリークが真っ先に思い浮かべるのは,山笠の流れの数。──恵比須流,土居流,大黒流,東流,中洲流,西流,千代流(H25:山笠追山順)。
 その他ではこんなのがあるらしい。

①「七小路」
一小路 中小路 金屋小路 奧小路 古小路 浜小路 対馬小路
②「七厨子」
奧堂厨子 普賢堂厨子 瓦堂厨子 菅堂厨子 脇堂厨子 観音堂厨子 文珠堂厨子
③「七堂」
辻堂 奥堂 石堂 普賢堂 瓦堂 茅堂 脇堂
④「七口」
浜口 象口 瀧口 川口 掘口 蓮池口 渡唐口
⑤「七流」
呉服町流 東町流 西町流 土居流 須崎流 石堂流 魚町流
⑥「七観音」
大嬢寺 妙音寺 観音寺 龍宮寺 聖福寺 乳峯寺 東長寺
⑦「七番」
竹若番 箔屋番 蔵本番 奈良屋番 釜屋番 麹屋番 倉所番

※ 官兵衛の部屋/七七四十九の願い それは、太閤の町割

③ 1587(天正15)年秀吉博多に来る

「七堂」構想で復興をスタートさせた秀吉は,いつどのように博多に入り,何をしたのか。講釈風にはこうなる。

 太閤豊臣秀吉が、南蛮船フスタ号に乗り戦火に焼かれた博多に入ったのは天正十五年(一五八七)六月十日のことだった。秀吉は博多町人の保護を眼目とする九箇条の「定」を博多津に与えるとともに、翌日より早速博多町割の作業に取りかからせた。
 焼け野が原の博多は、昔の通路の跡さえわからない。そこで古い辻井戸を探し、これを基準に屋敷の区画を確かめていったという。町割りには、六尺五寸四分の間杖(ものさし)が使われた。

※ 萬盛堂歳時記vol.8/太閤町割りと流
 南蛮船で来た?そして町造りを陣頭指揮した?
 総理大臣が被災地を視察することはあっても,現地で復興プランを決定し,施工に着手するということはない。でも秀吉はそれをやってる。信長は岐阜・安土城で,家康は江戸開拓時にやったかもしれないけれど,秀吉は外征地でいきなり都市の構築に着手した。
 以下の一次資料を追うとより明確になるけれど,秀吉が九州にいたのは,島津を屈服させるため。つまり西日本を完全制圧した直後,博多に入っているのです。これではまるで,貿易港を確保するために西日本を制服したようです。

丁亥六月三日(関白秀吉様が)薩摩より御還りなされ、筑前国筥崎宮に御陣なされ候によりて、(宗湛は)同七日の昼、松浦唐津より参上、箱崎に着いて、八日に関白様にお目みえつかまつり候也。

※ 神屋宗湛(博多三商傑の一人) 「宗湛日記」(乾坤二巻中)乾の巻 翻刻文「宗湛茶湯日記」西日本文化協会S59
「松浦唐津より」とサクッと書いてある。これは(戦火から逃れていた)「唐津」から,とシンプルにも読めるけれど,「松浦」と読むなら,そこは王直が逃げ場とし鄭成功を生んだ後期倭寇の根城でもある。そして唐津沖波戸岬(現唐津市鎮西町)は,この後の朝鮮出兵の内地拠点・名護屋城の場所。

一 同十日に 関白様博多の焼け跡を御覧になられるとて社頭の前よりフスタという南蛮船に召され博多に御着き候。御船に乗り候者はハテル(伴天連、パードレ、宣教師)両人、宗湛、そのほか小姓衆也。[前掲日記]

 前掲講釈で「フスタ号」とされてるのは,正確には「ガレー船」や「安宅船」と同じ「フスタ船」という船のタイプ。このタイプはガレー船の類似形らしく,櫂走も帆走も可能,しかも喫水が浅く小回りが効き近距離航行に多用されていた。豊臣政権期に日本国内で建造実績のある唯一の西洋船。

▲フスタ船画(出典不詳)

 長崎をイエズス会に寄進した大村純忠が,1578年に龍造寺軍を撃退した大砲付軍艦は「ふすたと申す船」(原典不詳)を合戦で使用したという。イエズス会のコエリョが秀吉に自慢した軍船だったともある。その他にも日本史料にこの名前は頻出してるから,当時のスペイン・ポルトガル勢力の有する最新近距離軍艦のようです。
※ 005-5転石の谷\茂木街道完走編\長崎県 /■レポ:合戦場で誰が戦ったのか?
 九州遠征基地だった筥崎には,そのとき軍船は数多あったはず。なのにわざわざ南蛮の最新鋭軍艦に乗りかえて,秀吉は博多に入港した。
 これは,一次目的的には「新しき制服者」としての演出でしょう。
 けれど……フスタ船の所有者はこの場合,海商の色彩の強いポルトガル人のように思えます※。さらに後期倭寇をバックにしている可能性のある宗湛。これらとまず会談し,その足で彼らとともに,彼らの準備した新鋭船を見せつけて上陸した。
※ 後掲wiki(/博多)は出典不明ながらこのフスタ船は「平戸と長崎からコエリョとモンテイロが秀吉に謁見するため乗って来たフスタ船」としている。コエリョとモンテイロはどちらもポルトガル人。
 松浦水軍とポルトガルの拠点港に博多はこれからなるのだ,というセレモニー。博多商人群の目にはそう映ったのではないでしょうか。
 その,ある意味証拠になるのが,これも然り気無い続きの文章。

博多の浜で御進物をさし上げるとそのうちの銀子一枚ばかり召上げられ候。そのほかの物は博多に下され候也[前掲日記]

 これは,新領主に対する儀礼のようなものでしょう。これを実質拒否するという姿勢によって,軍艦で来た秀吉は自分が支配者として来たのではない,と示している。
 では何か,といえば,経営者として来た,と言いたいのでしょう。
 この場面そのものが宗湛の演出,という可能性も捨てきれませんけど。

同十一日より博多町の指図を書き付けられて十二日よりの町割也。博多町割奉行衆は、瀧川三郎兵衛どの・長束大蔵どの・山崎志摩どの・小西摂州、この五人なり。下奉行三十人有り[前掲日記]

 秀吉は直接指示のみならず,要員にも当時の事務方の最優秀陣を充てている。中でも長束正家は,この2年前の1585(天正13)年の丹羽氏減封処分時に秀吉奉公衆に抜擢され,九州平定では兵糧奉行を務めた,と通史には書かれてる。
 当代きっての財務のプロです。今の日本で言えば財務次官か大臣が同行してるのです。
 別方面の経験を積み素質を試すような意図とも考えられますけど,ひょっとしたら,博多をどう初期設計するのがカネになるか?といったアプローチを秀吉はさせていたのかもしれません。

④ 1586(天正14)年 島津義久軍,博多を焼く

 ところで,なぜ博多は秀吉九州平定期に「復興」されたのか?
 博多の歴史は古い。秀吉の復興の9百年前,797(延暦16)年編纂の続日本紀上に「博多大津(博多津)」との記載が既にある。
 原爆以前の壊滅をほぼ経験していない長崎と,何が違うのか,よく分からない。
 けれど,現実に博多は,有史上幾度となく滅びています。
▽941(天慶4)年 承平天慶の乱末期,朝廷追捕使小野好古と藤原純友との争いで焼失
▽1274(文永11)年 文永の役。元寇により焼失
▽1333(元弘3)年 後醍醐帝挙兵に呼応し菊池武時が鎮西探題(北条英時)を襲う。町焼失。
▽1559(永禄2)年 大友宗麟に反乱した筑紫惟門が大友氏博多代官を殺害。町を焼失,破壊。
▽1578(天正6)年 耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗。この報後ほどなく,筑紫広門と秋月種実の軍勢が博多を掠奪
▽1580(天正8)年 龍造寺隆信が筑前国に進撃,町のほぼ全土が焼失
▽1586年(天正14)年 島津義久軍が博多占領。撤退時に町を焼く。
※ wiki/博多
 これらは,記録の残った全滅に近いものばかりと見るべきでしょう。つまり残っていないもの,部分的な破壊はもっとあるでしょう。

イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダによれば、1570年3月上旬(永禄13年1月)の博多の町は森林のごとくに変貌して20戸ほどしか居住していなかったという[6]。[同wiki/博多]

※同wiki [6] 1559年4月(永禄2年2月)の筑紫惟門の博多焼討による。 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)発行 発行所:雄松堂出版) 230~232頁、241頁、265頁、276頁
 1570年の博多壊滅は何があったのか,よく分からない。
 けれど20戸というのは……ほとんどノーマンズランドと化すような何かがあったわけです。けれど──

その2カ月後にアルメイダが再び博多を通過した時には20戸から3,500戸に増えて、程なく人口1万人に達する勢いだった[同wiki/博多]

 2ヶ月で1万!ほとんどこの町は滅び慣れている,あるいは逃げ慣れている町と言っていい。
 そして,そういう離脱が容易なのは,少なくともこの時代までの博多人のほとんどが海民であったとしか考えられないのです。
 ともかく,秀吉の博多入り以前の10年には,少なし3度,博多は壊滅してる。そこに秀吉が,全く新しく町を作った。だから,それ以前の博多が痕跡をとどめていないのは当然なのです。

⑤ 世界史級フィクサー神屋宗湛

 この秀吉来博の実質の演出者たる神屋宗湛という人も,見れば見るほど謎が深い。
 まず,彼の曾祖父・神屋寿貞は灰吹法の本格導入により石見銀山を再開発した人。世界的な銀交易の時代を開いたとされる石見の銀の産出・流通に,神屋宗湛前後の神屋家は関わっている。
※ wiki/神屋宗湛
 信長の時代,この人は上洛して信長に謁見している。明智光秀の石見領国話が出た頃です。信長の頭には銀産出管理のイメージがあったろう。
 本能寺の変の際には,当の本能寺にいて,なぜか難を逃れてる。夢に大黒さまが現れお告げがあり,急ぎ京を離れた直後に明智軍の襲来があった。この脱出時に宗湛は信長愛蔵の牧谿・『遠浦帰帆図』(現重文)を持ち逃げしてる。大黒様のお告げでもそんなことをすれば普通は織田政権との関係は絶えるはずで,黒幕かどうかは別にして,変の勃発を知っていたとしか思えない。
※ 萬盛堂歳時記vol.20/本能寺の変と博多大黒
 九州平定,朝鮮出兵では資金と兵たんを援助した功労者となった。家康からは疎まれたけれど,黒田家と密接な関係を持つ。何らかの政略面の失敗があったと推測できます。
 この人が(後期倭寇主力とも目される)松浦海賊による交易ネットワークを,石見銀という最強の交易資源を有した状態で支配していたとすれば,新興の,そして北九州にない陸上軍事力を擁する薩摩交易勢力は,政略の限りを尽くして壊滅すべき脅威だったでしょう。
 その脅威を除いた後,中央権力をバックに付け,ポルトガルと連携し,磐石の体制で造営に着手したのが復興・博多だったわけです。

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