m012m第一波m十五夜をSHAへ駆る 緑色m虹橋中转

唐人町の暗きょを嗅ぐ

▲yahoo!地図:唐人町

人町は天神から地下鉄4駅。西新の一つ前。北の福岡ドームと南の大濠池の間。
 この地点で明治通りは屈曲してる。前から気になっていた場所だけど……移動中に再度調べてもやはり分からない。中国人の集住区だったらしいというのは名前から歴然としてるのに,それがいつ,なぜだったのか,詳しいことは不明,という情報しかない。
 江戸時代ではあり得ない。戦国期,つまり九州三国鼎立時期の前のどたばたの中の話なんだろうか。

地名の由来については不詳だが、『筑前国続風土記』には「其始高麗人住せり」とあり、『筑前国続風土記拾遺』には「往古は唐船が泊まりしゆえ、如此名あるよし」とある。
文献上に初めて登場するのは、1627年(寛永4年)に成立した『筑前筑後肥前肥後探索書』である。江戸時代には唐津街道に沿って町家が立ち並び、これが後の唐人町商店街に発展したと考えられている。

※ Wiki/唐人町

江戸時代にはこの通りが福岡城の外堀で黒門飴の所に『黒門』(呉門とも言った)があり、福岡城の西の出入口でした。
『黒門橋』を渡った城下町が今の商店街でした。

唐人町商店街の歴史
403天ぷらうどん
野菜天うどん400
 久しぶりに開いてたこのお気に入りの町食堂で麺を啜りつつ,さらに考えを巡らせる。
 城門前の海からの入口に,外国商人が軒を並べ,戦火の度に追われつつ何度も異国人街が形成された,というところなのか?
 それは江戸時代には,もう無くなり,地名にのみ往時を残したまま城外の商店街に姿を変えていた,と。

▲1427唐人町の暗きょ

426,セブンから対面裏手へ。米田橋。暗きょになってる道路の下が見える。
 明治通りはこの場所で,暗きょになった城堀上を通っている。だから堀の屈曲がそのままここに残って,天神・赤坂と西新を結ぶ形になったのでしょう。

▲1429段差

d唐人町一丁目6。
 注意して見ると,車道と裏路地との間には60cmほどの段差が続いてます。暗きょの土盛りと海側の集落面との地盤の違いが,緩い垂直差となって残ったらしい。
 1431,善龍寺のZ字道。この寺は墓地が大きい。おそらく古くから筆は弄ってない。
 このラインに商店街がある。入口に唐人街道とL字の表示。この表示だと車道から商店街入口で右折東行する道だったことになる。つまり古くはこの地点で,90度に近い曲がりだったのではないか。

唐人町商店街から福岡ナンバーワン・スイーツ!

▲1433唐人町アーケード

 1436,商店街。「創業享保弐年」とある和菓子屋「加美屋」。今夜は中秋の名月とお団子に表示が付されてます。
 ここの奥の公民館には「当仁」と表記される。これが元の字ということはなかろう。ならば「唐人」という文字が避けられた時代の産なのだろうか。
 商店街東端は唐人町一丁目東の交差点。ここの道路が海へ到る川だったらしい。ここから西と違い今は開発・整備されたラインだけど,この川は城堀,さらに大濠池と外海を結んでいたろう。本来の唐人町があったならこの沿線が蓋然性が高いと思える。

人町商店街を東に抜けた少し先。1444patisserie jacques
ケークフィグ250
 運のいいときにはコレがある。あるいは,松山chouchouと同じくいちじくの季節だけ,という商品なんだろうか?
 さて1458。離陸3時間15分前となりました。地下鉄大濠公園から天神へ。結局3乗車したから,少し迷って買った1日乗車券でちょっとだけお得でした。
 さて。ここまでは助走でした。でもそこからの海域アジアの道中も,同じく解けない謎に翻弄されました。いわばどこまでも助走を続けるような旅行となっていきます。

明朝×李朝×足利政権=前期倭寇の温床

こからはいつも通り,意識は旅先へ翔んだ……のかと思いきや,持参した書籍に没頭してました。
 豊岡康史「海賊からみた清朝 〔十八~十九世紀の南シナ海〕」(清朝史叢書,2016)。
 これは本当に面白かった。第一章でまず,清朝の対「内」対策として作り出された「安南海賊」描写が描かれる。あんまり海上治安が悪いから,南の新興ベトナム人を誇大に中央へ報告して「だから仕方ない」としていたらしい。官僚組織が腐るとこうなるというのは分かる,というか笑える。
 けれどその先では,もっと本質に迫る話も出てくる。

「倭寇」とは,十四世紀中ごろから,朝鮮半島沿岸あるいは長江下流沿岸地域(江蘇,浙江付近)で活動した,おもに九州から来る武装集団を指す語であった。西日本・朝鮮南部・長江下流域を結ぶ貿易を中心とするその活動は,十四世紀末には終息へ向かう。明朝が成立し(一三六八年),李氏朝鮮が成立し(一三九二年),さらに日本で南北朝合一(一三九二年)に伴い足利政権が強い影響力を持つようになると,明朝,李朝,足利政権が貿易を管理,独占するべく,取り締まりを行ったからである。これらを総称して「前期倭寇」と呼ぶ。もともと九世紀ころには,日本を含む東アジア海域各地を結んだ貿易が盛んになっていた。「前期倭寇」は,既存の貿易活動を管理しようとする十四世紀後半の新興勢力との対抗によって生まれたもの,といえるかもしれない。要するに「倭寇」の背景には,その最初から国際貿易があったのである。

緑色 バスを降りたら目の前に


000上海到着
 2024,イミグレ。列には30人ほど,上海にしてはえらく少ない。今回は指紋も機械が取ってくれなかった。何度も来てたらそーなるの?
 トランジットのところで「西安!」と叫んでる。ギリの便があるんだろか。
 2054,虹橋までは一号机班で向かってみよう。「上車買票」と言われたけど車には客しかいないけど?
 スマホの方は,相変わらず到着直後にはどうしてもネットが繋がらない。
 2108,発車。約60分とか言ってるぞ?そもそも止まるのかT2に?とか色々不安はあるけど……もう走り出しちゃいました。
 中秋の満月が左手南後方に真ん丸い。頭の中に流れてきたのは陈雪凝「緑色」。
※ 緑色lu4se4 リューソウ 陈雪凝
※ C-Pop Study/歌で学ぼう中国語!第66回【绿色】陈雪凝 日本語訳 ピンイン(Pinyin)付

▲虹橋空港(SHA)T2

先の不安なんていい加減なもので,それを感じてない時にいきなりピンチに陥る一方,それに苛まれてたらストンと解消されもする。
 2209,バスを降りて笑った。出発層の2号ゲート,まさにそのすぐ前に見えてるじゃないか「泊悦酒店」!
 いやこれは,とんでもなく便利な宿を選んだもんである。しかもそんなには高くない。

今回の御旅程も飛んでます

▲お部屋の警告表示:タバコ吸ったら5百元!

て,今次の旅程ですけれど。
 明日早朝,既に訪問済みの福州に飛行機で入る。そのためのSHA直近の投宿です。
 そこから先は,SEC(上海→広州陸路旅行)で通り過ぎてた福建を細かく回る。
 台湾の械闘を調べて出てきた泉州と漳州が,まず浮かんでました。これに媽祖信仰の島を擁す莆田を追加してます。

▲無料ミネラルウォーター「お客様への贈り物」

路は,厦門から台湾へ飛び,2泊して帰国する。
 福建と台湾の近さを体感したいのに加え,媽祖の故郷から現在媽祖信仰の最も盛んな島へ,という,まあちょっとしたイタズラ気分でした。
 まさかその年のうちに,台湾を再訪するとは,さすがにこの時期には考えてもしませんでしたけど……。

SHA内部への秘密通路!?

▲宿から空港へ直接!

ったり4時に目が覚めた。
 津屋崎でかなりハードに自転車をこぎ,結構な筋肉疲労状態でした。よく予定通り起きれたなあ。緊張感というのは最良の目覚まし時計です。
 一服して机場へ。外は既に寒くはない気温になってる。
 ロビーで,空港方向のドアが気になり,訊いてみるとホテルから直接机場へ入れるらしい。これはいい,これからロビーを抜けていけばあの厳しい入口チェックがフリーパスです。
──と思ったらこのホテルのために,わざわざ一つX線チェックを作ってある。ただ朝だからまだ機械が起動してない,と言われ人力チェックでしたけど。いーのかそんなんで?
 さてさて,福建入りであります。

▲空港ピアノ