m021m第二波m月円し翅展げゆくピアノの音m前屿

本歌:月涼しピアノは翅(はね)を展げをり〔名古屋A〕

空路の福建入り!
二度目の福州ですけど
歩き応えが全く違いました。
[前日日計]
支出1400/収入1020▼14[113]
     /負債 280
[前日累計]
利益  -/負債 767
§
→九月十四日(六)
1138坛濯八味
口水鶏套餐32元500
1408家香汇中式快餐
肉団子
カリフラワーと細切れ肉の炒め
昆布と排骨の湯500×.8=400
1724誉道食堂
白身魚の絶妙水煮
白菜と玉ねぎの絶妙炒め
鶏頚肉と変な茸の絶妙湯500×.9=450(1350)
1817安徳魯森 andersen bakery
蛋糕150
[前日日計]
支出1400/収入1500▼14[114]
負債 100/
[前日累計]
利益  -/負債 667
§
→九月十五日(天)


0655SHA→0825FOC

列長!
 0516,この時間に上海虹橋空港チェックインカウンターは既に人だらけ。中国国内空路は益々過密しとります。
 0543,やっとカウンターにたどり着くと?荷物検査の証明書機械読み取りが出来ない?とかうだうだやった挙げ句,パスポートは22番へ行けって……ならば並んだのは何だったと?
 0551,ライター1個取られて荷物チェックを突破すると,窓外には既に曙光が見えてました。中国カフカは健在です。


え!ケンタッキーにピータン痩肉粥があるのか!しかも18元?
 でも本日はやはり福建飯から始めたい。見なかったふりでボーディングへ。
 0618,開始登記,というかバスへ移動させられる。ゲートに福州の天気予報表示あり。28度,曇り。
 未だネットは繋がらない。Wifiに一度繋がればいいんだけど……接続しようとしても,どうも聯通番号にSNSが届かないらしい。つまり密码(暗証番号)がゲットできないんである。
 空路は上海航空9205。06:55 SHA上海虹橋国際空港発,08:25 FOC福州長楽国際空港着。
 福州での宿泊は,前回をなぞって7天连锁酒店福州五一广场福新路店に入れてました。住所は鼓楼区福新路246號。
 移動中,やっと福州の調べにかかってます。

~~~~~(m–)mRe.福州編~~~~~(m–)m

▲S2×一文字だけ背景色
凡例 :福建省福州市

南か北か?


站か北站か分からんぞ,リムジンバスの行き先!
 空港前で市内へ行く手順を訊くと,バスが9時発だから急げ!と言われ,切符を速攻で購入。なぜか50元も取られる。金額からして……北站だよね,きっと。飛び乗る。乗ったんだけど……現在0910。まだ発車しない。
 火車站(鉄道駅)へ行くのは確かだけど,どの站行きか分からない。市内のある北站へ行きたいんだけど……訊いてもふやふやした返事しか来ないし,おまけに地図も持ってない。いつもならDLしてる離線地図がまだないんである。
 ようやく運賃を集め始めますと……え?50元だから別のバスだと騒ぎ始めた。じゃあどのバスだと訊けばもう出たという。ならどうするんだと問えば,切符カウンターに走った結果,とにかく乗れということになった。切符も返ってこないまま──騙し取られたようなもんだけど,もうとにかく站まで行けりゃいい,という気分になってきた。
 その上で,安全帯だけは何度もチェックが入る。いやはや,お馴染み中国カフカです。

東へ動いてる。0931,バックにつけた磁針でそれだけは分かった。まあ目的方向ではある。
 地勢が波打ってきた。右手に山並み。いやとうとうトンネルに入った。
 0937,大きな橋を渡る。これは川か海か?いや頭の地図だと福州は南部が中洲,北部旧城は北の岸…だったような?
収費站(料金所)は福州東を通過。さらに何度もトンネルを抜ける。方向はほぼ北。つまり中洲を縦断してる…はずだよね?
 この時何を不安がってたか,後にGM.を引いて初めて分かりました。

▲GM.:長楽空港~福州駅(市街)行程。もちろんこの時通ったのは有料道路じゃない。

ここはやはり湯!

楽空港は海岸線近く。福州市街から直線距離でも40kmはある。
 遠いのである。当時,せいぜい前回新幹線に乗った南站辺りと想像してたから,全く想定外でした。
 そのことに,南站の案内表示を見てやっと感づく。2km?いや500m?出口が,なのか本体か分からんままさらにトンネルへ。でもつまり,南站は通り過ぎた。福州站=北站でした。
 0956,北站を視認。同時にバスは高架を降りた。
 1002,下車。
 しかし火車站に行き着けない場所でした。ぐるっと汽車站を回ってたどり着く。
 1010,あっ!ここは……前回見たバス路線表示。k2が新福路口へ行くようです。

▲1045福州の町へ

ずは脱出チケット!は中国旅行の宿痾であります。
 1020。明日0955福州南発莆田行きが買えました。順調です。
 1028。k2で駅を後に。やはりあの複雑な位置のトンネルをくぐって南広場へ。
 この辺りには店が増えてる。周麻婆という店に惹かれる。前回なかった「地鉄」表示も視認。
 左手東には小高い丘。その前は工事中の場所多し。
 道は六一北路。明朝はこのk2路線で終点まで乗れば火車南站です。
 前回の小川が左手を沿い始めた。ただし東門前で大工事。さらに地鉄を造ろうとしてるんだろか。
 1043,福新路口下車。
 1045,福新路へ右折する。

056,七天チェックイン。
 ここのwifiはSNS認証のない簡単なものなので……よし!初めてネットに繋がった!
 まず手机営業庁へ。──またか?剰余話費が「-23.98元」。100元を微信支付でチャージ。マイナスが消えたのを確認して,お次は百度地図へ。
 離線地図をこの後の5市まとめてDL。福州と泉州が50MB超で重く時間がかかる。
 その間にお洗濯。
 ネットはLANを切ると接続が切れる状態。ローミングしてないと繋がらない。──APは3gnetにしてるのに?
 でもとりあえずツールは揃った。1134,出撃。
 バス停・双子星大厦北。

▲坛濯八味

の店も変わらず開店中でした。
1138坛濯八味
口水鶏套餐32元500
 湯が夢見るような透明さ,しかし濃厚な味覚。
 汁の底にたまった煮潰したような肉片がまた凄い。
 主菜はキュウリ鶏肉の千切りを辛く炒めたもの。これもかなりだけど,ここはやはり──湯でした!
 1206,下雨。とりあえず西行。

▲1210福新路の路端から

地に雰囲気のいい軽食屋を見つける。北から東水路が入る交差点南西角。万寿橋煎包と看板。6時オープン。
 水部站との地鉄表示が南を指す。これは明朝か?
 ICBCを見かけたので残金確認。こちらはまだありました。

古田シローは謎

▲1229建華支巷の怪しい暗がり

華支巷を南行。1227。
 いいくねり,いい暗みの通りです。入口にいくつも飯屋。
 なかなか好い界隈です。

▲1232建華支巷のアパート前寸景

こで古田支路という謎の魅力を放つ道を越える。
 この先,南側には東西の古田路がある。──中国のパターンと先の見映えから言って,さっき越えた古田支路が本来の古田路で,城壁を撤去した跡を車道にする際に旧名を引き継がせたんじゃないだろか?
※ 百度百科/古田路

▲1235古田支路の十字路

晟財富中心。東西に走る古田路の端に出る。これより北ではあまり見なかった高規格道路です。
 それはそうと,とりあえず福州地下鉄に初乗車する気でした。
 南対面には水部站の降り口が見えてる。でもこちらには見当たらない。対面に渡る信号は見えないほど遠く。バス停は水部なのに……。
 あ,東側のあの建物の陰か?いつもながら中国の交通機関は,場所によるんだけど利便性を欠く。

断じて鉄ちゃんではない

▲福州地下鉄路線図
※ 福州地鉄/线路查询(≒路線図)

部駅の地下ホームに立ったのは1249。2号で3駅,前屿まで動こう。
 他の町と同じく夢は大きいらしいけれど(→wiki/福州地下鉄参照),現在稼働してるのは1・2号線の2本。この西の南門兜が両者のジャンクションです。
 車内は水色。カードは不能退的卡(≒1回券)と能退的あり。訊くと,前者は1号でのみ買えるそうで,24h滞在しない今回は無意味っぽい。
 駅名には紫阴,五里亭と不思議な響きの駅名が多い。始点は苏洋,終点は洋里……って,いかんいかん,まるで鉄ちゃんのようではないか。
 中国語,英語の後に福建語のアナウンス。完全に聞き取れない言葉です。
 1258,前屿。チェンユと呼んでる。ピンインはqian2yuでした。
 バス停名も前屿。北には福州二十中の寒々しい建物が見えてます。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲1310前屿駅から上がった地上地点。にしてもそのカメラで撮影マンガの意味は?

ころで何をしにこんな東郊外に来たかというと,地下鉄に乗りたかったから……だったとすれば鉄ちゃんである。ワシは断じて,絶対的に,天地が返ろうとも鉄ちゃんではない。
 沖縄X,とワシだけが呼んでる,つまり航空写真でドットの細かさ,不定形さとかを見て目を着けた場所へ向かっておるのである。いわば地理学徒であって,鉄ちゃんではない。
 前横路という不思議な名の通りを北行。1312。前なのか横なのかはっきりしろ。

軍公安防暴支隊

▲1318海西茶城辺りで南を振り返って。

西茶城という看板の古臭い感じの市場。茶葉専門店街らしい。もちろんお茶は買いたいけど,覗く限りかなり高めだし,きちんと知ってないとボられそうな気配を感じてスルー。
 おっ!このバス停名は!──「軍公安防暴支隊」という日本に絶対ない名前!防暴本隊もあるのか?
「莆田卤面」という看板を見かける。そんなん有名なの?
 1320!今,SNSが初めて届いたぞ!金楯様がようやく中国WANに入国させてくれました。

▲1324左折西行した道。それはそうとこの「闽AV」って何の略だ?福建(闽)地場産なのか?

方北の左手西側が工事中。ここは折れておこう。1322,左折。
 adには鼓二村という名前が多い。
 しかしこれは……地下鉄ラインよりかなり路地深くまで再開発中らしい。てことは?
「遅かった!」ケースの臭いがたちこめてきたぞ?

歩行者一人

▲1328鼓山鎮衛生院前の元・三叉路付近

所表示には「鼓一村」。1328,鼓山鎮衛生院の前に至る。
 三叉路です。ですけれど──
 北への道が完全に封鎖され南にしか行けない。
 遅かった!
 Xはまさにこの北。

▲1335福馬路市場に歩行者一人

き返すしか選択がない。南行。道は福馬路。
 西に市場。入ってみるけどえらく閑散としてました。
 1344,車道へ出て右折西行
 少し歩いた化工河を目当てにしてた。1353。この河も両岸再開発中。ダメだこりゃ。
 にしても陽がきつい。ダメだ,市内へ帰ろう……と退却モードでたまらず27路へ乗……った,つもりだったのですが。

■基礎資料:3つの反乱,3枚の地図

「水部」といういかにも何か古っぽい地名は,まず維基がヒットしました。

古代該地近水,河網密佈,交通便利,貨船多聚於此集散貨物,便築有碼頭,故得名「水步」。據《三山志》記載,後梁時期,王審知築夾城,在東南處建有美化門,其內亦有門,據此命名「水步門」。明朝時期,東南處城門被誤命名為「水部門」並隨志書世代流傳至今,最終在現代得名水部。

※ 維基百科/水部站/站名來源
 すなわち,
①古代には貨物船が着く港町だったので「水步」と呼ばれた。
②「三山志」によると,後梁期に王審知が築城。東南に美化門を造った。その内側にも門があり,「水步門」と名付けられた。
③明朝期,東南の城門が誤って「水部門」と命名され,今も水部と呼ばれている。
 奇妙な推移です。でも推測できるのは,地名として相当に,つまり誤用されるほど人口に膾炙していたこと。意味合いは日本語の「水辺」と同じ程の言葉が,福州ではそれほど定着したらしいことです。
▲明代福州城と水部門

① 元初・元末の抵抗拠点としての福州府

 上記画像右上には「明福州府城図」とあります。
 環城です。上海や合肥のよれに近い。
 河を外濠として活用する,という理由に加え,実戦での籠城に堪えうる,というのも強い理由のはずです。

1276年にモンゴル軍により南宋の首都・臨安は陥落するも、南宋の残党勢力は益王趙昰を担ぎ出して脱出し、福州城にて皇位継承を行い(5月)、正統なる南宋朝の継続を図るも、同年11月、モンゴル軍の攻撃により福州城も陥落し、南宋軍はさらに海路、華南地方への逃亡を余儀なくされる。

※ BTG『大陸西遊記』~福建省福州市

 南宋朝の臨時首都だった??
 どうも福州という町あるいは港湾は,この,正史における「元代」以降,繰り返し反・中央の勢力の拠点になってるようなのです。
 次の元末のはもっと画期的です。

元朝の時代、福州城は引き続き、福建地方の中心都市であり続けたが、元朝末期の1359~1362年に亦思法杭の乱が勃発し、亦思巴奚軍がモンゴル守備軍を追い出し、一度は福州城の占領に成功している。[前掲BTG]

「亦思法杭」?
 現在この漢訳はイランの都市名イスファハンを指す。(エスファハーン/イスファハン/イスファハーン 啞四包閑・亦思法杭・亦思弗罕)
※ 【みんなの知識 ちょっと便利帳】外国名・外国地名の漢字表記+中国語表記[ア行]
 経緯は複雑らしいんだけど,1360年前後の数年間に渡り,福州を中心に福建北部を実効支配したペルシャ系の勢力があった。「亦思法杭国」(イスファハン国)を建国した,と記載するウェブもある。それは実質,イランの兵員によってなされたものらしい。
※ 百度百科/亦思法杭兵乱
※ 新浪网/史上唯一!六百多年前,一伙在华的波斯人妄图建国,祸乱福建九年

 つまり,最終的に中国側に駆逐されてはいるけれど,アヘン戦争みたいな,というより「傀儡国家」を建てるという手法からすると満州事変に近いような事態をアラブ人が引き起こしてるわけです。
 ならば……山がちとは言え一地域を領域支配するほどの陸軍力を,当時のイスラム勢力は福建に有してた,ということになります。「福建にも来てた」という程度の教科書的認識とは相当ズレた事態です。

▲13~14世紀(≒元代)の東西交易海陸路

② 明末清初の鄭成功根拠としての福州府

1643年、李自成の反乱軍が北京城を占領し、崇禎帝が自殺することで明朝が滅亡すると、その亡命政権として南明政権が南京で樹立される。その初代皇帝に弘光帝が就くも、1645年に南京が清軍に占領され、翌年に弘光帝も捕縛されて処刑される。これを継いだ二代目皇帝が朱聿鍵で、南明残党勢力の重臣らに担ぎ出される形で、この福州城にて王位継承を宣言する(隆武帝)。「国姓爺」で名高い鄭成功が隆武帝に謁見の機会を得たのも、この福州城内である。[前掲BTG]

 清に中国域での東西二正面作戦を強いた鄭成功,その前段で明末の帝室の福建入りがあったわけです。

しかし、1646年に清軍の攻撃にさらされ福州城も陥落すると、隆武帝らは汀州へ逃避するも、清軍に捕縛され、そのまま獄死する。その直後、鄭成功が一度、福州城一帯で清軍と大激戦を繰り広げることとなり、また、1674~1676年には耿精忠が福州城に依って反清軍を組織している。その後、鄭氏台湾に対抗すべく、清政府が海禁政策と沿岸地帯の無人化策が強硬され、福州地方一帯の住民も強制移住と貿易禁止が徹底されて、この地方が一時的に衰退してしまうこととなる(1684年まで続いた)[前掲BTG]

 耿精忠という人の話は初見でした。藩撤廃に際し呉三桂と呼応して立ち,鄭氏政権の三代目・鄭経と提携しかけたけれど失敗,1682年に凌遅刑という極刑に処されている。
※ wiki/耿精忠

▲清代福州城と水部門

 この時代に,遷界令もあって福州は一度無人化しているらしい。
 だから,その後の興隆は日本人感覚では信じがたいけれど,上の清代城図面を見ると,水部付近の施設は一円の中でも一番がっちりとしてる。城内には水部門大街という道名が見える。
 これがこの日に歩いた道になるはずです。
 外濠にも面しており,福州の清代における最大の交易場所の一つだったと推測できるのですけど……どうもその記録を拾えない。

③ 清末民初の福建軍閥拠点として

 ともかく,戦乱で何度もぶつ切りにされた歴史を,福州も持っているようです。
 独立性という意味では次の福建軍閥は,前記をさらに上回ります。

福建同盟会の率いる民衆軍が1911年11月9日に清軍守備兵を破り、福州城を占領して、福建軍閥政府を樹立し、半独立国的な地位を得る。この軍閥政治は、1926年12月13日に中華民国の北伐軍が福州城を占領するまで続くこととなった。[前掲BTG]

 何と15年も独立しているんである!……という単純なものでは実際にはない,というかよく分からないらしい。確かなのは,清中央の支配からの福建域の離脱は相当独立した軍事力によって行われ,これが民国の中央支配下に入るのは時代が少し下ってからだったらしいこと。
 それ以外は史実が入り込み過ぎて定見がまだないらしい。つまりは酷い混乱下にあったらしい。
 もう一つ,訳が分からないのはBTGの載せてる次の地図。清末民初のものらしいんだけど,この頃の福州には城壁が縦横に走ってて,それは6代に渡る城域の跡と解されてたようなんである。
 これで見ると,水部は梁代城の城門で,宋代城では城内に収まってます。
 全く訳が分からない。水部の位置もだけど,一体福州の町というのはどういう意志でもってこんなに伸縮してきたんでしょう。
※ 捜狐/民国初年摇摆不定的福建都督,今天反袁独立明天向袁世凯请罪,下场如何?
▲清末(推定)「福州古城」地図

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です