外伝17-103 胡同へ礼儀正しく蛇入る/胡同1/10=瑠璃厂街前へ迷走

~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m本編の行程:Googleマップ(経路)~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m

▲この南部の胡同はどこもそうだったけど,壁の壁画に凝りすぎてる。

猫の影 屋根より高く跳び去りぬ

北園シリーズの道にまだハマッてます。
 1306。T字を左折東行したのに,通り名は北巷のまま。囚われてる感じです。

▲どやどやした感じが嬉しい東北園北巷

おお!
 1311,西へ中巷が交わったぞ!
 だからどーと言うこともないけど,中巷,というと「センター街」みたいなもんじゃないか!
 と勝手に合点して右折西行,中巷へ。

▲東北園北巷の最後の辺り。さらば北巷よ,また会う日…があるのか?

かしさりげなく美しい迷路道です。
 今思うと,北京胡同らしいか,ご推薦できるかどうかは別にして,一番往時のラビリンスだった頃の北京を留めているのはここだったかも,です。
 この日の天がまた抜けるようで──この写真なぞ,後の魔法使い爺と同じくらい気に入ってます。

▲壁画と消火栓

もなく,ドラ猫が屋根を飛び越えた。
 魔界の匂う好い秋晴れ。
 すぐ南巷に名が変わる。道は南へ折れる。道なりに南行。

お気づきでしょうけど楽しんでます

▲南巷。道がうねる。そして迷う。

えっ?また名前が中巷に戻ったぞ?戻ってきたはずはないけど…?
 えーい西行!曲がって南行!というかもう道なりに進んでるだけです。

▲なぜか赤い樋が続く。

あっ!行き止まりだよ!
 中巷の東端に戻ってきてから,改めて南行に入る。
 お気づきとは思いますけど,無茶苦茶楽しんでます。
 1319,南巷へ出た。東行。

▲東北園南巷。道と言うよりパティオが連なってるだけのような…。

合園に名が変わる。
 おおっ!ついに東北園の迷宮から脱出したぞ!──もう一回戻ろうかな。
 という後ろ髪を払いつつ,1321,概ね東行。道はくねりつつ南東へ続く。

▲百合園も,名前の割にぐちゃぐちゃっとした通りです。

リーズ組んでるのは東北園だけだったんだろか。1324,延寿街に出る。
 そう言えば,道に「園」が付いてたのは初めて見ました。区画=ブロック,というほどの意味だったんだろうか?
 小さな市場。南行。

観光地やがな!:瑠璃厂

▲エイリアンの頭蓋!?かと思いきや,ゴミ箱でした。延寿街。

に人の気配が増す。
 1327,文化街(観光用の古建築通り)。ここがいわゆる瑠璃厂街らしい。
──予想通りです。北京十大胡同は,胡同そのものではなく周辺を攻める,というのが正解。

▲このポスターがえらくあちこちに。市議みたいな人が露出してるのは,台湾を思わせる感覚です。

し歩いてみるけど…まあ文化街です。
 ここを歩く必要はないなあ。十本目指したい胡同の,まだ一つ目です。
 やはり十本全部回りたくなってきました。そうなると,文化街でゆるりとしてる暇はない。
 そのまま東南方向にあるはずの,八大胡同へ突き抜けてみよう。

▲瑠璃厂郵政所。一応,スタンプ代わりに各胡同名の入った写真を撮っていきます。

果を先に言えば,北京十大胡同巡り,というこの企画,あまり有効じゃありません。──未だ自分でも何探してるのか分からんけど,とにかくホントに生活感ある町並みを歩くには。
 行政側目線の,観光地売り出し企画だと思ってた方がいい。
 ただ,以下に前掲の百度の記事をGoogleマップへのリンク付で載せますけど,十本のうち4つが内城の南外,残りが内城の内側,北半分にある配置です。この配置にもいわくがありました。→詳細:巻末小レポ
#百度百科/北京十大胡同
「北京十大胡同分别是①南锣鼓巷、②烟袋斜街、③帽儿胡同、④国子监街、⑤琉璃厂、⑥金鱼胡同、⑦东交民巷、⑧西交民巷、⑨菊儿胡同和⑩八大胡同。」(中国語。丸付番号とリンク(Googleマップ)は引用者追記)

▲回族だろうか?魔法使い…みたいなおじいさんの図を横目にさらに進む。

東方向を概ね目指す。
 ただ,とにかく観光客だらけになってきました。モバイクで侵入しようとする自転車を警備員が止めてる始末。
 ──止めた。どんなに見かけが良くても観光地は迂回しよう。一旦,南西に道を転ずることにする。

[前日日計]
支出1500/収入1590
負債 90/
[前日累計]
     /負債 409
§
→九月二十三日(天)
[101天津発北京東四行]⇒
1211护国寺小吃
ぶっかけご飯15元550
(白米飯,卵スープ,青瓜とキクラゲの卵とじ,インゲン豆と豆干の炒め,茄子とジャガイモの麻辣煮)[102胡同1/10=瑠璃厂街へ南行][103胡同1/10=瑠璃厂街前へ迷走]
[104胡同1/10=瑠璃厂街を南へ][105胡同2/10=八大胡同清真寺][106八大胡同実験小学][107胡同3/10=西交民巷]
1720新橋三宝楽面包店 XINQIAO SAPPORO BAKERY
ミルクフランスみたいなの
ロールケーキみたいなの500
[108胡同4/10=東交民巷と教会][109胡同からの帰還]
1838面兑
老坛酸菜面15元550
[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
     /負債 309
§
→九月二十四日(一)

■小レポ:琉璃厂の沿革から見た北京胡同の位置付け

 中国の歴史や町を見る時,それがそのまま何千年も続いていたと思ってはならない,というのは定見です。
 北京の場合,直近での断絶は,清都となった時に行われた満州八旗の城内移住。これにより,北京内城内から漢族は駆逐されています。
 その具体の場所をようやく見つけた。下の地図の黄色い部分らしい。

▲「清北京城」地図(乾隆十五年,公元1750年)

 内城の方形内は全部,満州人有力部族しか住めない場所だったわけです。
 さらに内城外も,南側の一部は八旗居住区になってる。和平門南で言えば,ちょうど,琉璃厂の筋辺りが満漢の境らしい。
 そもそも元代に端を発する北京の町は,(元)蒙→(明)漢→(清)満→(民国以後)漢と主民族を変えている。
 という事とその他情報から考えると,本文中の疑問について,次のような推論が成り立つ。
①なぜ城外のこんな場所に胡同があるのか?──明代に五大厂(工房)が置かれた場所が,清代に満漢居住区の境界となり,下町として賑わいを継続した。
②十大胡同はなぜ南北の2群に分かれるのか?2群はなぜ色彩が違うのか?──南の群は上記の通り,清代の漢族居住区の,内城に一番近い界隈。北の群は,完全に満族居住区内にあって,満族が,明代に漢族が作った都の町を引き継げた部分。
③琉璃厂が栄華を継続できたのはなぜか?あるいは,なぜ清代満族の居住区は,南にだけ拡大したのか?──おそらく八旗は内城内に,漢族ほどの商業地を造り出せなかった。だから清代に,内城南外地区はむしろ栄華を極め,満族側もこれに接する地区への居住を求めた。

「琉璃厂所在地区在辽代形成村落,称为海王村。明朝永乐初年迁都北京后,在此地设立工部所属五大厂(神木厂,大木厂,黑窑厂,琉璃厂,台基厂)之一的琉璃厂,故改为今名。当时琉璃厂的范围北至内城护城河西河沿,南至今北京师范大学位置。」
「清朝定都北京后,将内城居民迁至外城。外地官员、举子从南方各省来京,多由外城广安门入城,就近居住于宣武门外一带,因此琉璃厂附近逐渐成为文人汇集之地,自发形成了古籍、书画、文物市场。」
「1937年七七事变日军占领北平后,琉璃厂逐渐萧条。1950年代公私合营后,许多老店陆续消失。至1960年代,琉璃厂已经成为普通街道,仅保存了中国书店(邃雅斋)、荣宝斋等门市。1986年,北京市人民政府决定“恢复琉璃厂古文化街”,在琉璃厂东街和西街新建了一批仿古建筑,并将其划为步行街。」
※ 維基百科/琉璃厂(中国語)

「清初顺治年间,在京城实行“满汉分城居住”。而琉璃厂恰恰是在外城的西部,当时的汉族官员多数都住在附近,后来全国各地的会馆也都建在附近,官员、赶考的举子也常聚集于此逛书市,使明朝时红火的前门、灯市口和西城的城隍庙书市都逐渐转移到琉璃厂。各地的书商也纷纷在这里设摊、建室、出售大量藏书。繁华的市井,便利的条件,形成了“京都雅游之所”,使琉璃厂逐渐发展成为京城最大的书市,形成了人文荟萃的文化街市,与文化相关的笔墨纸砚,古玩书画等等,也随之发展起来。」
※ 本地宝/北京/北京必去的地方:琉璃厂古文化街

「在明确了旗人必须住在内城(北城)之后,我们来说下具体的位置。」
「顺治元年入关时候,八旗分列,即所谓:“镶黄旗居安定门内,正黄旗居德胜门内,并在北方。正白旗居东直门内,镶白旗居朝阳门内,并在东方。正红旗居西直门内,镶红旗居阜成门内,并在西方。正蓝旗居崇文门内,镶蓝旗居宣武门内,并在南方。”」

※ 知乎/清代北京旗人的住所分布是怎样的?

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