m053m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm泉郡富美宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

狭い道でもマイペース

▲昼下がりの聚宝街

いっきりダウンタウンな空気なんですけど,交通量が意外に多い。前後から迫るバイクを始終気にしつつ歩いた記憶があります。

▲どんなに道が狭くてもマイペースですっ飛ばす,というと聞こえはいいけれど……。

▲街角饅頭包子店……と見惚れててもバイクが過ぎる。

妙な静謐です。
 かくも騒がしいのに,家並みはひどく落ち着きを有す。
 さっきの土地公のH路が宋元城域の南の出っ張りの外側にあたるはずです。だからこの聚宝街は,城壁の突出を延長したさらに南,交易で賑わった民間の繁華街の成れの果て,ということになるはずなんですけど……。

※ m047m第四波mm東大路/■(再掲)基礎資料:泉州城域図

聚宝街は水路をまたぐ

▲黒板に書かれた鶏さんと真っ赤な対聯。うーん何するとこだろう?

▲かなり傷んでるけど味のある家屋……の前をやっぱり横切るバイク。

さい川を越える。1406。雰囲気のある水路ですけど,聚宝街より西は暗きょになってるらしい。

▲売り物なのか鉢植えなのか,どちらでもいいのか?

聚宝街は壁で終わる

▲家屋を取り壊して建て替える途中だろうか。

んだ感じになってきたか。聚宝街の南端の気配,Xと設定したエリアです。
 珍しく露出してる隣3階建の前面は,香港やシンガとは異なる大陸的な錆びれ様。

▲対聯の戸口2つ,集合住宅。伝統家屋ではないけどこの静寂感。

▲1411聚宝街南端

410,聚宝街は壁になって終わる。左手に橋。この先はあまり期待を感じないし,先のエリアをもう少し深堀りしたい。
 西の道を折り返そう。
──ここでもし東に曲がっていれば見れたであろうある地点は,巻末に写真を掲げました。けれどここではひとまず話を西に進めます。

泉郡富美宮のギャグ狛犬

▲1413西側への壁沿いの路地

▲1415,壁面下からの回り込み道

舎后尾」と表示がある。これが住所だろうか?
 不思議さに,壁上に登ってみると,南には東西に走る広い車道。車びゅんびゅんです。
 地図では湾仔墘という道のはずです。すぐ東までは水路が来てる。これは,水路を埋めるか暗きょにして上を車道にしたパターンです。でないとこのごみごみしたエリアにこの規模の車道敷地は確保できなかったろう。

▲1420南の車道

門に出た。1417。
「堤界」とある石標。そこから水路が伸びている。その西に泉郡富美宮とある廟。石門まである。
 その門の両側にはギャグめいた狛犬。笑かそ思てんのかい!

▲ギャグ狛犬

■小レポ:八舎后尾になぜ壁があるのか──「泉州圍」仮説

[先行検討]m051m第五波mm泉州站/■小レポ:泉州城にはなぜ顎が伸びたのか
 ここまでのデータを見られて,変だ,とお感じになられたでしょうか?
 上掲絵図は捜狐サイトにあったこの近辺のものです。
走进泉州那些小巷豪宅 看尽旧时金融繁华-旅游频道-手机搜狐
 なお,この中に富美宫についての記述もありました。

明武宗正德年间,于泉州城南晋江下游的富美古渡头,建立富美宫,以萧太傅作为主神奉祀。

1 車橋頭と来運駅の位置

 この図の下部中央に「车桥头」(車橋頭)と書かれています。前章最後尾で不明だった宋元の泉州交易全盛期の中心地です。捜狐には古い成語として「市井十洲人」(町には全世界の人がいる)「金青龙,银聚宝」(金:青龍(街),銀:银聚宝(街))とも挙げられてます。←m052m第五波mm順済天后宮/黄金時代の車橋頭と来運駅:再掲「车桥头”是中外貨物集散地,渓辺”来运驿”」
 それでおそらく迎賓館「来运驿」も……と探すと百度百科にありました。「地址:水巷尾与聚宝街交叉口东50米」──場所:水巷尾と聚宝街の交差点から東へ50m。つまり前掲写真の聚宝街南端から東へすぐの場所でした。
※ 百度百科/来远驿

泉州来远驿始设于北宋政和五年(1115年),系礼部奏请朝廷设置,时广州设怀远驿,明州设安远驿。(略)明洪武三年(1370年)在泉州设立了专通琉球的市舶司。

ともある。1115(北宋政和5)年に設置,その後も存続し続けて1370(明洪武3)年には琉球市舶司専用になったことも特記して,八舎后尾に話を移します。
▲来远驿遺跡碑[前掲百度百科]

2 八舎后尾に関するデータ

 本文でも不審を感じてるようにこの道やエリアの名前とは思えない名称は,こういうものでした。

据说,“八舍后尾”的来历不一般:明朝有官员在城南建府邸,后花园就在此地,当地人称之为“后尾”;清末民国初时期,又有吴、杨、蔡、陈、丁、纪、苏、徐八 姓“阿舍”(即官宦子弟)聚集在这里,经营洋行、钱庄等,他们私下以练南拳、听南音为乐,于是这一带得名“八舍后尾”。

 つまり,明代に役人の邸宅や庭園が並んで,「后尾」という地名がまず出来た。何か含意のある言葉のようですけどよく分かりません。その後,清代に宦官一族の居住地となり,それが八姓あったために「八舎」が上についたらしい。
 だからそれ自体は宋元代より後の出来事に由来します。ただし,このベルト地帯が非常に由緒あるエリアだという前提で,そういう「特別な地区」視されていた形跡は感じられます。
 天后宮サイトにも記述があり,こちらには恒例らしいパレードの写真その他古い画像も掲載されてます。
※《巷遇·八舍后尾》:百年升平奏 静观江海流-泉州天后宫
▲八舎后尾における「民俗活動」[前掲天后宮HP]

3 泉州城南突出部と八舎后尾に関する謎

 これらを前提に,先述の泉州城南突出部とこの八舎后尾について,違和感のある点を列挙してみます。
[A 泉州城南突出部]
A1 泉州交易エリアを防衛する目的で造られた城壁突出部が,なぜ交易の核である車橋頭と来運駅まで達していないのか?
・突出部南端の徳済門は聚宝街北端よりさらに北で,城域は天后宮のみをカバーしている。宋元代に城壁をわざわざ突出させた理由は交易エリア防御しか考えられないのに,それではカバーできてない。
A2 単独の防衛施設としては機能しない形状である。
・防衛施設は短い防御ラインで広域の防御面積を確保することにある。宋元より前の方形の泉州城からこんな突出を造っても,攻撃側からは攻めやすくなるだけです。
A3「[漢数字]+堡」地名が突出部沿いに並ぶのはなぜか?
・「五堡街」「四堡宮」など突出部にのみ連なる地名群からは,突出部が事実上,防衛施設のメインになっているように見える。城の全体構造からは南端に当たるここに,なぜこれだけの堡塁があったのか。
[B 八舎后尾]
B1 なぜここに壁があるのか?
・宋元城壁が聚宝街北端より北で終わっていたのは,徳済門の存在により考古学的に立証されている。だから八舎后尾にあるのは宋元城壁ではない。宋元より後の城壁拡張の記録はない。それならば,この城壁にしか見えない施設は,誰がどんな構想で造ったのか?
B2 徳済門から八舎后尾までの町並には,他の港町や商業地と異なり,一定の条里めいた計画的設計が施されている。
・「金青龙,银聚宝」と呼ばれる青龙街,聚宝街,さらに西の万寿街の三本の南北道は,条里制の都市構造に見える。
B3 同エリアに多い水路の外周は,方形に整備されているように見える。
・元は西を流れる晋江の氾濫原やそこへの流入路だったとしても,自然な河川とは考えにくい。かといって町の生活水路としても不自然な環状を成している。
 ここまで来たら何を言おうとしているか,もう推して頂けるかもしれません。

4 仮定される泉州圍

 方形の環状水路を壕とし,その内に城壁を巡らせた防御施設があったと仮定すれば,以上の疑問点は解消されます。
 A1:突出部は,この方形城域と泉州本城を結ぶ連携路を成していた。この時点,つまり宋元代の泉州は双子城のような形状だったのではないか(上図半透明部のイメージ)。
 問題は,こんな「城」が統治側の資料に残されていない点です。それは,ここが民間の軍事施設,つまり香港に残る「圍」のような建築物だったからではないか,というのが仮説になります。
 時系列で言えば,宋より前にここが交易地として栄え,財を蓄積し,その略奪が横行,あるいは恐れるようになってくる中で,民間の合意により外周壁が建設された。
 ただそれは,北に別の城域を築いていた統治側に脅威にもなった。統治側も南の方城を防御するメリットはあったから,両者を結ぶ突出部が造られた。
 南の交易エリアが明清代に衰えると,民間軍事施設は自壊し,壁も概ね崩壊した。ただし,明清代も特別なエリアであり続けた南側だけはその防御力に依存する必要から壁を維持してきた。
 でもそれらの推移一切は,統治側の管理下になかったから公式記録には記載されることはなかった。残されたのは,南側の壁と壕跡だけになった。
 もしこれが事実ならば,南部中国特有の民間軍事力と中国全土に普遍的な統治側軍事力とが連結された,極めて特異な城市が泉州に存在したことになります。もちろん,こんな記述はどこにも見当たりませんでした。ただ八舎后尾になぜ壁があるのか,という説明記述も見当たりませんでしたので,空想をしてみた限りです。
▲同じ近辺にある后山四王府宫という廟の神体[天后宮HP]。下腹部が鱗に見える。祭事の際,漁民たちは「岸上!」または「山上!」と掛け声を発するそうです。いずれも全くの謎です。