m061m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm北山古地

本歌:朝霧に鳥の心の聞こえけり〔灘〕

モスクを見てから泉州を離れ,いよいよ謎深き漳州へ。最初の貌は無愛想でした。
[前日日計]
支出1400/収入1250▼14[115]
    /負債 150
[前日累計]
利益  -/負債 927
§
→九月十八日(三)
1018芳芳牛肉小吃
咸飯
牛肉羮370
1647玲姐古早味四果湯
四果湯150
1741名もなき店(微信表示:成隆小吟店)
魯面餐庁10元,370(890)
1758家常小炒快餐
ごつごつ骨肉の岩石煮
瓜のふわふわ水煮
謎のジワ辛肉とピーマンの炒め500
1838向陽坊
新老婆餅250
[前日日計]
支出1400/収入1640▼14[115]
負債 240/
[前日累計]
利益  -/負債 687
§
→九月十九日(四)


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※城北路の入口からして全く分かりません。そこからは適当です。スミマセン……。


平地の城市ではあり得ない傾斜

645,バス停東湖公園から602路に乗る。
 午前中を残すのみの泉州。窓外は晴天,雲なし。
 バスは東門から西行。すぐにICBC。
 この辺りが既に騎楼です。
 泉州一院。ここで東街は北へ湾曲しかつ少し登る
 この登りというのが──

▲再掲:三国呉代泉州地図

──当時,現・泉州城域を覆っていた古・晋江河面にかろうじて顔を出していた島,だということになります。
 鐘楼。なるほど,割と小さい街なのだ。白時計のロータリー,右折。
 石畳の公園前ロータリー。ここに城壁が残る。
 0653,北門街下車。──城域図で見るとここです。

天門が北に見えてます。北行。
 綺麗に整備された太い道です。
 歩くと明らかだけど,写真には写しにくい下り道──と当時もメモしてます。確かに,平地の中国城市ではこの傾斜はちょっとありえません。

泉州朝天門は今世紀の作

▲0703シェア自転車の尻の列と雑居ビル

手西側に石門と祠。バイクと老人が群れてる。
 ICBCを見かけたので少しチャージ。宿代まで微信で払ったから結構減ってる。
 そんなことができる位だから,普通の街中です。見た目,あまり風情を感じるエリアじゃない。

▲0705由緒あり気な建物の早飯屋に原チャが乗り付ける。

は南唐代の創建と伝わる。

清乾隆《泉州府志·古跡》稱:“朝天門系南唐保大中(943-957),留從效擴城後方予北門名號。”

泉州朝天門:朝天門為泉州古代七城門之一,歷史悠久,文化氛圍濃厚,城樓為歇 -華人百科
※同文 泉州朝天门_百度百科

 ただ,なぜかそれ以外はどのサイトにも記述がない。現在の門は今世紀に建て直したものという。つまり,よく分からないままらしい。
 0707,城北路へ左折。なぜだろう,人の集まる早飯店がない。

賢くなるから左折する

▲0708城北路から朝天門を振り返って。

にこの辺りで城北路は湾曲してる。丸い城壁線だったのか?上下は微かに登って,すぐまた下りになる。バス停朝天門。」
と当時メモしてる。でも我々はその理由を知り得てます(上記図参照)。唐代までは北にもあった海岸線をなぞったからです。
 南裏道に西隅幼儿園。もっと希望ある名前なかったか?
 北西へ成賢路。賢く成るらしい。0716,縁起もいいし,その対面を左折しましょう。

▲0718「頂孝友」の祠

あり。道の住所には「頂孝友」とあるけれど……これ,地名?(巻末参照)
 祠の佇まいからは,かなりの由緒が感じられる。説明板なし。後の調べでも,ここ自体の情報はゲットできませんでした。
 泉州の祠は,八角柱の焼却塔が目立つ。この様式は福建南部の特徴だろうか。

▲0722「北山古地」の宮の前

面で,道は尽きているように見える。けれどバイクはどんどん来る。この流れは,まず抜けれるはず。
 南へ進む。
住所表示は北山巷になった。T字を右折西行。
 また祠?北山古地と看板。前面に井戸。右手に焼却塔。対面になぜか肉屋。

台地へ上ってきたことになる

▲0725社区の奥に見えなくなってる道

は突き当たりで直角に右折。行く手はなお見通せない。
 0723,左に道がまた90度折れる。道なりに左折南行。

▲0726「北山古地」の道端にて

なエリアです。社区の中なのに静寂。道がくねって壁は古い。登り坂にまでなってきた。なのに交通量だけはけっこうあります。
 掘り返してる道にT字でぶつかる。坂はここまでらしい。台地へ上ってきたことになるのか。

▲0728掘り返し道への出口にて

り返してる道の端で少し惑うけれど,0729,人の流れに沿って左折東行,続いて南行。

古地や蛙飛び込む水の音

▲0731暗い社区をバイクに抜かれて

うやらこの辺り全部石畳にする気らしい。文化街だろうか。
 ただ○征マークは見ないから,家屋立ち退きなしで道路だけやってる模様です。

▲0734敷かれつつあるタイルの道

736,車道に出る。
 東行。
 北門街への出口南西角に土地公宮。石門に「泉山古地」──またです。「古地」って何なのじゃ?

▲0738お宮の横を過ぎる

■小レポ::北山古地は古・泉州島の北海岸

 注意深い読者は,この章の初めに再掲した三国呉代の泉州地図で既に見つけられてるかもしれません。距離が正解に計れないのが残念ですけど,この22百年前の「泉州島」の,北山古地は北端の高台に当たると思われます。

▲三国呉代地図(最上部参照)拡大及び元妙観-朝天門位置図

 やがて陸化するこの島の北と東は,それほど水深もなかったでしょう。ただし,現在も北西に西湖が残ることから推測するなら,この北山沖はその中では比較的船をつけやすかったのではないでしょうか。
 もう残るものもほとんどないけれど,ここが泉州最古の船着き場だったならば,朝天門はそこから城内への大動脈だったはずです。
 宋以降の車橋頭から西街への道と同じようなものが,三国当時は北にあった,という可能性について触れてみました。

■メモ:泉州老城外縁に並ぶ中国御嶽・「铺境」廟

「北山古地」以外にも「古地」は泉州に2つヒットしました。二郎古地(同市崇福路)と石门古地(同市洛江区桥南街)です。ただ,その他の漢族居住地にこの名称はヒットがない。──興味深いことに,広島県福山市と岡山県総社市に「古地」地名があるけれど,それはひとまず置きます。
 これらはいずれも「铺境」と呼ばれる,中国の境界信仰だと呼ばれます。

① 泉州铺境の推移

 泉州铺境については「泉州历史网」が列挙してます。宋代に端を発して次のような経緯で推移してきたもの。──最初は地名の遷移にしか見えず,何が重要なのかピンとこなかったのです。
宋——保甲制与厢坊制
金、元——都、社(图)、隅
明、清——铺境制
附一:明代惠安县里社合一与保甲制度
附二:泉州城区与附郭旧铺境稽略※ 泉州历史网/泉州铺境
 まずは「北山古地」その他の「地名」をこの中に確認しておきます。次の「每日头条」記事によると,現在確認できる「铺境」は次のものがある。
※ 古城知多少 | 泉州的铺境体系的初涉探究 – 每日头条

铺境庙(现存):
希夷古地、小希夷古地、文胜宫、约所关帝庙、白耇庙、执节古地、二郎古地、桂香宫、上乘古地、顶孝友宫、北山宫、通天宫、孝友古地、联魁宫、奇仕宫、奉圣宫、妙因宫、铁炉寺、熙春宫、古榕宫、真济宫、忠义关夫子庙、广灵宫、圣公宫、上帝宫、凌霄宫、日月太保宫、花桥慈济宫、通津宫、三义庙、永潮宫、辅德宫、南岳宫、泉郡溪灵宫、义全宫、龙全宫、天王宫、青龙堂、富美宫、后山宫

▲「泉州古城铺境体系现状」添付地図

②「铺境空间」の意味

 ほんの少しだけ「铺境」の意味が分かってきたのは,この毎日头条の記述を読んでからでした。

铺境空间,由官方认可的基层行政组织“铺” 和基于共同信仰和祭祀传统的民间空间“境”,逐渐整合而成。铺境空间不仅是信仰空间,也是重要的公共活动空间。[毎日头条]

──「铺境空間」,それは統治側が基礎的な行政組織として設けた「铺」と,共同信仰と伝統的祭祀に基づく民間の空間「境」とが,徐々に融合して生まれたものである。铺境空間は信仰の空間であるだけではなく,重要な公共活動の空間である。

铺境庙:
铺境信仰,是一种活态传承的信仰体系,民间节庆与信仰仪式仍然活跃,庙宇建造活动延续,是居民认同并自发维护传承的遗产。[毎日头条]

「铺境信仰」は廟を中心としている。地域毎の宗教的核を持っていて,「民间节庆」(祝い事)の場でもある。
 ただこれがどこから来た何の風習なのかは,どうにも分からないらしい。

起源:
在人口迁徙和商贸交流的大背景下,泉州逐渐形成了以闽越文化为背景、以中原移民的汉文化为基础、融合了多元外来文化特质的地域文化,留下了丰富的物质与非物质遗存。[毎日头条]

▲「起源」添付図
 闽越文化の上に流入した中原文化,海外の習俗と幾重にも重ね塗りされた文化だから,と毎日头条は書いてますけど,要するに起源はよく分からない。文化のるつぼの中で生まれた独特なもの,としか捉えようがない,というのが通説みたいです。
 ただ,考えるに類似性はあちこちの文化にあるように思えます。

③「铺境」類似の文化事象

 利用実態からすると,まずこれを思い浮かべます。
▲ナスの御嶽(沖縄県中頭郡北中城村字仲順)の前庭から集落方向
FASE60-5@deflag.utina3103#

③-1[沖縄]御嶽ともーあしび(毛遊び)

 境界,集落祠,祭祀・社交の中心と来ると,これは沖縄の御嶽との共通点が極めて多い。雰囲気が違うから連想しにくいけれど,その点は風土と従来のサンクチュアリのイメージの差なのでしょう。
「铺境」に対応する集落領域の概念としては,沖縄の「間切」という「自分たちの生活領域」を表すものがある。沖縄の「腰当」というのが,泉州の廟の場所にも通じる。
 沖縄の御嶽には,多く前庭があり,まま,毛遊びの場としても使われていたようです。
 用途の面からは類推例がある。次に位置の面でも,次のものは日本人には馴染み深い。

▲松本市島内(天保13(1842)年藤森吉弥作)道祖神
道祖神について – dousojinn ページ!

③-2[日本]道祖神とその江戸期の急速な拡大

 これも謎の神です。

道祖神とは「一般にサヘノカミと呼ばれ、また道陸神(ドウロクジン)ともいう。
古くは塞(サヤ)大神、乢神、道神、衢神とも記されている。
猿田彦に不会したり、種々の説をなすものがあるが、その名の如く元来は防障、防塞の神であり、外から襲い来る疫神悪霊などを村境や峠、辻、橋のたもとなどで防障する義であり、また生者と死者、人間界と幽冥界の境をつかさどる神の意である」[前掲dousojinn内 東京堂出版「民俗学辞典」より]

「防障」「防塞」とある。宗教学の分類では,いわゆる「境界神」の典型です。そのベクトルは「疫神悪霊」を仮想敵とする。
 ただ,知る限りそこが社交の場だったような事例は少ないのではないか。「講」の専用建物は別にある場合が多いと思う。

防災、防疫、道中安全、夫婦円満、子孫繁栄等八百万の祈願が出来る庶民の神様道祖神。
(略)
「道祖」の語源は中国に於ける旅行安全の神の名前。[前掲dousojinn]

 ここで逸脱がある。境界神の本旨からは,道中安全まではぎりぎりイメージできても,夫婦円満・子孫繁栄──おそらくエロい意味です──がなぜ出てくるのか?
 あと,根拠は不明ながら道中安全は中国由来で,「道祖」名は同様ともある。

当初「防災・防疫のカミ」であった信仰が、江戸中期の1700年代から突如、信仰を大きく変容、「性病の治癒や子宝のカミ」となるとともに、像容も僧形並列像から男女の像にがらりと様相を変え、性愛の姿態を素直に表現したものや祝言の仲人姿などの多種多様の像容を彫像し、また造立数を急に増している。
つまり性病や産育に関わる、社会情勢に大きな変化が生じたことを意味していた。[前掲dousojinn内 石田哲弥「道祖神信仰史の研究」より]

 最初に掲げた写真・松本の道祖神が天保年間であることに気づかれたろうか?居住域の外=疫病源というイメージならば,江戸期最大の飢饉に際し流行したことは納得できます。
 さて,ここまでならば,東アジア限定とも片付けられます。けれども。
▲「テルミヌスは、しばしば境界石(boundary stone)の上の胸像として描かれる。」
※ wiki/テルミヌス §「この記事は英語版からおおざっぱに翻訳されたものであり」との注釈あり。

③-3[ローマ]テルミヌス

 欧米で研究対象にされてるのはコレらしい。アジアに比べ形至上的で,それだけに本質が浮かび上がる。

土地所有者は毎年2月23日に境界石の神聖不可侵を確実にするために犠牲を捧げて[1]、テルミヌスの栄誉において 「テルミナリア」と呼ばれる祝祭を執り行った。
1 ^ a b c 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店 1960年、170,171頁。

 境界性そのものを神聖視してます。私有権の不可侵を掲げるのがどこまで現代欧米人の観念を反映してるのか疑問ですけど,簡単に言えば「この境界は大事なものだ」と示威し,威嚇するとともに自認を深める意味でしょう。

古代の著述家は、ローマ最初の王ロームルス(統治、紀元前753-717年)または彼の後継者ヌマ(同、紀元前717-673年)の治世の間に、テルミヌス崇拝がローマに導入されることを確信していた。現代の学者は、それを境界石に固有の(神聖な)力に対する初期アニミズムの崇拝が生き残ったものとか、あるいは財産分配に関わる神に対する始祖インド・ヨーロッパ信仰がローマ地域で発展したもの、など様々な見方をしている。[同wiki]

 統一的な見解はまだない。ただ,非常に古いものだとは認識が一致してる。年代的にはBC8C起源。宗教的には「文明」の始源たるローマがまだアニミズムに支配されてた頃のものです。

著述家のシクルス・フラックス(英語版)は、境界石が浄化される儀式を記録している。生贄の骨や灰や血は、穀物、蜂の巣、ワインとともに一点に集められて穴に置かれ、一番上に石が運ばれた[5]。毎年2月23日、テルミナリアと呼ばれる祝祭はこの基本儀式の「年次更新」またはその反映と見なされる実演が含まれ、テルミヌスの栄誉において祝われた[6]。
5 ^ Siculus Flaccus, De Condicionibus Agrorum 11.
6 ^ a b W. Warde Fowler (1899). The Roman Festivals of the Period of the Republic: An Introduction to the Study of the Religion of the Romans. London: Macmillan and Co. pp. 324-327. Retrieved 2007-03-24.

④「境界空間」の普遍性と海域性

 話を膨らませてるのは,まず一つは,「铺境」を「泉州にのみある変な文化」という現在位置から救いだすことから,この文化の考察が広がると考えるからです。
 地理的な境界自体を神聖視するのは,太古においては,相当普遍的でした。それは通常,自分たちの生活域の外部への恐怖とその反面としての畏敬から来る。悪霊とか無秩序な自然そのものとか,そうした哲学的なものだけでなく,具体的な襲来,人間ならば海賊盗賊,非人間ならば疫病もあり得,それらの度に「信仰」は近代にも度々再興してきた。
 17C東アジアのそれは,交易拡大による疫病に起因するように,ぼんやり想像します。
 それとも繋がりますけど,もう一つは海域性です。なぜローマと東アジアに境界神があるのか。中国の中でなぜ泉州なのか。
 外部への恐怖は,外部の情報が皆無の状況では高まらないでしょう。ある程度,外部の情報が知り得,それが如何に内部とは異質であるか,という現実的な認知と併せて高まるものではないでしょうか。例えば,具体的に異国語を話す外国人と接触し,彼らを媒介した疫病が内部に甚大な被害をもたらした後に,初めて外部が恐怖として体感されるものではないでしょうか。
「铺境」のリストには数えられてないけれども,老城外縁に存在する最も大きな宗教施設は,泉州天后宮です。
 膨大な利益をもたらすとともに甚大な災厄も連れてくる外部に対するピリピリとした実感。そういう場所から,媽祖信仰も生まれてきたのではないか,というイマジネーションを持つのですけど,少し筆が進み過ぎました。

⑤「铺境」の中の「古地」

 前述の铺境一覧に戻ります。
「古地」名義の铺境は相当数あります。他は「宮」名になっているということは,現在,その場所に廟が立っているかどうかの違いなのでしょう。「古地」とは廟無しの境界神。
 ということは,道祖神とほぼ同一の境界「信仰」になります。
 北山古地は,前述一覧には宮名で,実際廟らしきものがありました。宮と古地が併記されるような中間的な状態なのではないでしょうか。
 おそらく泉州最古の港町だった場所が[三国],陸化に伴い北の境エリアに展じ[宋],老城外縁の铺境の一つとして祀られ[清],やがてその信仰も廃れ,ただ何となく神聖な感覚のエリアへと転じつつある。
 薫り高い場所です。

■メモ:沖縄県浦添市-福建省泉州市は友好都市

 浦添と泉州は昭和63年に友好都市締結をしています。

 台湾島と海を隔たり、華僑の出身地とし台湾漢民族の主な祖先地として有名なまちです。
 浦添市と泉州市との交流は、はるか琉球王朝時代にまで遡ります。察度王が朝貢のために浦添から使節を派遣し、その際に入港したのが泉州でした。泉州と浦添は、琉球と中国が公的に交流を開始した「ゆかりの地」でもあります。

浦添市の友好都市を紹介します | 浦添市
 原典が不明ですけど,浦添時代のプレ王朝時代の朝貢先が泉州だった?なぜだろう?政治的中心は民間中心の泉州からは隔たっていたはずですが……。