m062m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm承天禅寺

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:~泉州一中
GM.:承天禅寺~
(経路)

模範巷は何の模範だったか?

▲0745模範巷を東行

スクを見ておきたかった。
 しばらく百度地図で検索,バス路線を品定めしてから,0743,模範巷を東行することにした。
 殺風景な緩い下り道ですけど……これは何だ?細道ながら交通量がすごい!

▲0747模范巷(2):覗きこんだ路地裏。家並みの筆は相当古い気配。

範」と言えばどうせ文革地名だろ?とタカをくくってたら,何と明代の優秀な水軍団の駐屯地で,彼らを漢族の民族的模範と見ての呼称だそうな。
 部隊長の名は俞大猷。
 何が優秀だったかというと,明初の倭寇(第一次)の鎮圧に優れた実績をあげたそうで……つまり対日最前線部隊として,らしい。
※ 百度百科/模范巷

▲0749模范巷(3):半パンの爺様 陽だまりで漕ぐ

范巷は,好かった。
 この前3枚,後3枚の計6枚を撮ってます。道は白考廟という廟で左折北行するけれど,どうやらこの道も同名らしい。特に左折後が味わいを感じました。

ナチュラルに蚵壳厝

▲0753模范巷(4):「送水」との原色看板でどうしたい?

所表示が左右で違うようです。右手東側のみが大城隍口になってる?
──今見ても地図上は模範巷なんですけど,ネット記事では城隍前街などの名前が何度も出る。
 巻末後述します。

▲0755模范巷(5):さりげない風情の脇道風景ですけど,この壁の下側は!

おっ!ナチュラルに蚵壳厝の壁じゃないか!
※ m054m第五波m/m054mm南環城河[交易史]「蚵壳厝」の存在が意味するもの
 この時にこの壁の知識を持ってれば,結構あちこちの路地裏に見つけれたのかもしれません。

謎のミニバス・X1は南のへ

▲0756模范巷(6):抜け道化してるのか,ホントにバイクが多かった。

イクをかわしかわし北の道・学府街へ出る。この道も印象に残ってるけれど,バス探しの方に忙しく写真は残してません。ただ位置からすると北の城壁の盛地の跡なのではないかと思えます。
 0810,バス停・泉州一中からX1路という謎のミニバスへ。東行。
 南俊北路を右折。かなりきつい坂を下る。ここの勾配は全く読めない。あえていえば青島に似てる。
 あれ?もう承天寺?
 と思ったら,東街でラッシュに捕まり少し時間を食う。
 0821下車。少し遅れてるけど,かなりいい街路です。一服。

▲目の前にシェアサイクルと……

ンボケになって失敗してますけど,上の写真で対面奥にある広告は劉亦菲のtissot(腕時計)のもの(下記写真)。このCFのシリーズのリウイーフェイは本当に美しい。

悪いのは全部リウイーフェイ

然それた話を戻すと,ですね。ええと?何だったかな?
「鼻炎痔疮亏科」とバス停対面にある。何直すとこ?──後で調べても文字通り鼻炎と痔の医者としか思えないけれど,この組み合わせは謎です。

▲0823南俊北路のゴミ箱と街路樹の影

天寺前を過ぐ。看板には「承天禅寺」とある。門には「月臺」と額。
 劉亦菲ゆえかそれだけしかメモしてないけど──後日の調べだと,この寺は10C半ば(南唐)創建。開元寺,崇福寺と並ぶ泉州三大寺院の一つ。「月臺」寺の別称がある。文革時に破壊され「他用」されていたのを1983年に「シンガポールの船長」が建て直したものという。それにしては苔むした雰囲気で,手をかけた再建をしたようです。
※ 來去泉州(八) 泉州 承天寺 @ 時 空 旅 人 :: 隨意窩 Xuite日誌

▲0827南俊北路の歩道の陰影

字路をまたぐと,道は百源路に変わります。右手に華僑中心と掲げる大きなビル。
 後から見ると,この辺りは「后城古玩街」という文化街でもあるらしいけれど,劉亦菲に気を取られ全く気づいてません。

八卦沟 涂門街から清浄寺

▲0838水路を越えて

837,小さな水路を越える。「八卦沟」と公示栏(公共表示)。
 これは劉亦菲のせいではなく,当時はこの老城の複雑な形を認知してなかったからだけど──この水路が唐城,南突出部のできる前の城域の南縁に当たるはずです。
 涂門街。この十字路の騎楼も見事です。
 左折。0842,清浄寺が見えてきました。

▲0841騎楼の交差点

■小レポ:北へ動いた泉州府城隍廟

 この日,泉州老城北端で通りがかった「大城隍口」は,色々調べた結果,やはり,城隍廟のあるブロックでした。
 通常,「城隍廟」は町の基になったものとされる宗教施設です。泉州のここは宋代のもの。

泉州府城城隍庙俗称“大城隍”,主要奉祀“监察司民城隍威灵公”,其他街市的城隍都被称为“小城隍”。
大城隍
泉府城隍庙最早在府治北,由宋嘉祐年间侍郎赵涯建,名烈明王庙。后于明嘉靖二十三年,知府俞咨伯重建,也就是如今的模样,

泉州大大小小城隍,挑近的拜~_手机搜狐网

① 泉州城隍廟は大小あり かつ移動した

 何度も分からなくなったのは,まず,泉州の城隍廟が複数あったからでした。
 城北端の府城隍廟は,別称・明烈王庙,俗称・大城隍廟。別に晋江県・南安県・安溪県城隍廟など11の城隍廟があり,これらは「大」ではなく「小城隍廟」と呼ばれます。
 なので,名称の混乱を避けるためここから「府城隍廟」と呼びます。
 注目したいのは,さらにその位置。前掲の記述にありますけど,明代に別の場所に建て直されてる。それが城北端の現在の城隍廟です。

② 元の所在地は东萼辉铺(現・镇抚司巷)

泉州最早的府城隍庙 是明烈王庙,位于宋·州治西(明·察院行署之右,今镇抚司巷,约泉州六中菲友体育馆一带)。
明烈王庙的创建时间,历来说法不清。清·道光《晋江县志·卷16·祠庙志·府城隍庙》:“故址旧在治东萼辉铺,(北)宋·嘉佑二年(1057年)侍郎赵涯建,名明烈王庙。”《府志》作嘉佑三年(1058年)建。

※ 泉州历史网/城隍庙 泉州府城隍庙(明烈王庙。附:资寿寺)
 つまり,府志の記述から「东萼辉铺」にあったことが分かる。泉州研究の強みは,铺境のデータから各年代の铺境名称を現在の地名に置き換えられること。それは現在の镇抚司巷に当たります。
 元妙観から北西に4百m。すなわち最初に水上に顔を出した泉州城域です。
※ 泉州历史网/泉州铺境
 つまり,府城隍廟の移動経路はこうなります。

▲泉州府城隍廟の新旧所在地

③ 宋代府城隍廟の「祝文」2つ

 镇抚司巷にあったころの府城隍廟に掲げられた「祝文」──願文のようなものでしょう。それも複数残ってる。

南宋·真德秀祝文
 南宋·嘉定十年(1217年)至嘉定十二年(1219年)、绍定五年(1232年)至端平元年(1234年),真德秀(号西山)两知泉州,留下两篇城隍祝文。[前掲泉州历史网]
(参见泉州历史网www.qzhnet.com《泉州人名录·真德秀》)

 一つは「真西山文集」に記述されたもの。難しい文章ですけど何らかの「灾祸」──自然災害から逃れようとした節があります。

城隍之有神,犹郡国之有守,幽明虽殊,其职于民则一而已。某叨蒙上恩,来镇此土,深唯责任之重……朝夕兢兢,不敢自忽。至于蠲除灾祸,丕降福祥,则神之职也。[前掲泉州历史网/《真西山文集·卷48·城隍》]

 もう一つも同じ「真西山文集」。こちらでは「旱」「饥饿流离以死」──干魃による飢餓が語られてます。

夫既食民之食,则当忧民之忧。此某于今兹之旱,所以惶惧怵迫,而有求于神也。守之忧民如此,神之忧民其可已乎。然守能忧之,而不能救之;能忧而又能救者,神也……民既乏食,必将饥饿流离以死,神其忍之乎![前掲泉州历史网/《真西山文集·卷50·东顺正、西明烈、明德王祝文》]

④ なぜ移転したのか?

 ここまでの内容を踏まえて,不明点を整理しますと──
A) 城中央部にして最も古い镇抚司巷に数百年鎮座していたのに,なぜ明代になって移転したのか?
B) その移転先になぜわざわざ城北端を選んだのか?(単なる火事ならばその跡地に再建するはずである。)
 この点について,泉州歴史网はこう整理してます。

明·嘉靖二十三年(1544年),泉州大旱,南门桥头十字街又发生特大火灾,燔民居370余间,促使泉州知府俞咨伯广邀名家方士,相地堪舆,仔细审察泉州的山川形势,决定选新址重建城隍庙。经郑重研究,城隍庙新址选定资寿寺故址,即今址。[前掲泉州历史网]

 1544(明·嘉靖23)年に南門と橋頭十字街の付近で「发生特大火灾」──特大級の火災が発生したため,「仔细审察泉州的山川形势」──泉州の山や川の地勢を詳細に勘案して今の場所を選んだのだという。
「橋頭」とはこの前日に歩いた城壁南突出部の先,交易の中心地です。直接距離にして3km以上離れてる。何より,南端から出て当時城隍廟のあった城域中心部まで焼けるような「火災」なら,ほぼ城域全部が灰塵に帰したことになります。
C)そんな大規模な火災とは何だったのか?

⑤「湫隘喧嚣,圮剥殆尽」

 Cの事件の原典は「晋江县志」の次の記述らしい。

庙旧在卫西,逼近台省诸署,湫隘喧嚣,圮剥殆尽。岁甲辰(嘉靖二十三年,1544年)大祲,郡侯俞公蒲山(俞咨伯)、别驾陈公少华,思祈神贶,载辑民休,乃相谘议,谓神聪明正直,能调和风雨,福善祸淫,助我绥育黎庶。[前掲泉州历史网/清·道光《晋江县志·卷16·祠庙志·府城隍庙》收录“陈让为记”]

「台省」とはやはり台湾の略称でしょう。その近くの諸署が「湫隘喧嚣,圮剥殆尽」された中で泉州南半分を焼いた「火災」も引き起こされた──この8字,ワシの語学力では難解ですけど,「湫隘」は狭い所,「喧嚣」は喧騒に近い。「圮剥殆尽」は壊し尽くされた,という語感でしょう。
 泉州統治側は壊滅した南半分を捨て,城域北端に撤退して本拠を再構築した。それが「仔细审察泉州的山川形势」の意味ではないか。城隍廟を北に移した,つまり城域の中心を北遷する構想で「火災」後の再建に着手した,ということではないでしょうか。
 あと,年代は「嘉靖」です。この元号は,海域アジア史ではこんな風に登場します。

⑥[広域史との整合]嘉靖大倭寇による泉州壊滅

後期倭寇は,同業者間で激しい抗争を繰り広げたことでも知られる。これに対して,朱纨[山崎岳2003]を初めとする明の官警は,最大の密貿易拠点であった浙江省双嶼を1548年に陥落することに成功するが,却ってこれが密貿易集団の拡散化と過激化を招き,以後,中国南岸を中心に激しい略奪活動が繰り広げられた。これを「嘉靖大倭寇」と呼び,1550年代にピークを迎えた。彼らの活動の余波が,遠く朝鮮半島西部や琉球王国(那覇)にまで及んだことは,前述の「荒唐船」に関する記述ならびに第6章を参照されたい。
明の官警による厳しい取り締まりにもかかわらず,後期倭寇の猖獗が一向に納まらなかったのは,日本という格好の逃げ場があったからである。王直を初めとする倭寇の頭目は,西日本各地に拠点を持ち,そこには人力や物資を提供する日本人の協力者が待ち構えていた。

※ 桃木至朗ほか「海域アジア史研究入門」第9章「倭寇論のゆくえ」2後期倭寇(6)「嘉靖大倭寇」
※ 山崎岳2003:「巡撫朱纨の見た海──明嘉靖年間の沿海衛所と『大倭寇』前夜の人々」『東洋史研究』62-1
※ 第6章:琉球王国の形成と展開

「火災」の起きた1544(嘉靖23)年は双嶼陥落の2年前です。いわゆる嘉靖大倭寇はその後,1550年代ですけど,海賊の史料記述はたいていその活動末期の衝突の多発期のもの。「倭寇」の活動そのものはその前の時期の方が本格期だったとみてよい。
 明代,泉州は衛指揮使司が置かれてます。海上保安庁のようなものみたいです。本拠だったらしき永寧衛城は,この時期何度か占拠されてます。

永寧衛城
石獅市永寧鎮永寧にあり、泉州の東南37キロ地点にある。“鳌城”とも呼ばれる。(略)明·嘉靖二十七年(1548年),同三十七年(1558年)倭寇を撃退した。同四十一年(1562年)2月、倭寇は永寧衛城に侵攻し,永寧衛所指揮王国瑞は酒色に溺れていて、城を占拠された。三月, 倭寇は再度攻城し、またも陥落させた。同四十五年(1566年):倭寇百余人が永寧を荒らした。
清·順治四年(1647年) 四月,鄭成功の部将林順于が永寧一带を荒らした。死者二千四百余人。

※ 旅行日記/泉州
1544年の泉州も同列に「倭寇」のターゲットにされたのではないでしょうか。
 ただ,これと激しく敵対していた官警側としては,倭寇に半ば占拠された,と史書には残したくなかったと予想されます。
▲泉州城の明清増築部分

⑦[城建築との整合]泉州城域の最後の増築エリアは北へ

 何度も引用してる老城域図ですけど,明清代の増築部が一ヶ所だけありました。
 これが,北端部なのです。
 菱形の一辺を拡張する形にも見えます。でも拡張部だけを取ると,北端に方形の城域を新設したようにも見えます。
 後者だと見れば,これはあたかも日本の山城です。南の旧城域が仮に占拠されても,北の内城に籠ってさらに戦える。加えて各铺境が小さな砦にもなってるわけですから,縦深陣地にような戦闘も可能になる。
「仔细审察泉州的山川形势」というのは,このような泉州統治側の冷酷にして(旧城域を蹂躙されることを前提にして)不屈の構想を案出したことを意味するのではないか?
 だとすれば当然行われたであろう城隍廟以外の官庁的施設の移転を確認できてませんけど,幾つかの事実が整合するのは,偶然とは思えないように考えます。

■メモ:八卦沟から出土した壺の謎

 文中,軽く越えている「八卦沟」という川の名前は,15C末,この水路を竣設した際に出た壺に由来してると史書にあるようです。

《闽书》写于明万历年间,文中提到的御史张敏“开沟之役”发生于明孝宗弘治十一年(1498年),这当是一次沟渠疏浚,大瓷瓶就发现于该工程中。在此之前,人们相传八卦沟是按照八卦之象开凿,瓷瓶出土后才知道是“以八卦之瓶置于先天卦地”而得名。“八卦沟”来历有了一个见诸史籍的说法,…

※ 杨少衡:沿八卦沟走一走 (作者系福建省文联副主席、福建省作家协会主席杨少衡 。该文系作者参加“刺桐点灯红”——2018年全国文学名家泉州古城元宵笔会所作)
「巽」は方位では南東を指す。城域の南側だから納得できなくもない。
「存满娱乐网」という他の記述には「巽流」「清渠」という名称が出てくる。これも妙に簡単な,思い入れのない名称です。

八卦沟之名,源于明弘治十-年(1498年),御史张敏疏浚城中沟,于西南隅掘得大瓷瓶,瓶盖上有“巽”字,乃先天八卦西南方位之配,并非沟如八卦形。因以前没有名称,以后遂叫它“巽流”或“八卦沟”。
(略)
唐代筑天水淮利用它引导笋江水漑田.修筑为主干渠,名“清渠”。

泉州古城八卦沟为何不具八卦形 – 娱乐资讯(存满娱乐网)

何が分からないのか?

 へえ~とスルーできそうにも思える由緒ですけど,著者・揚さんが前掲記事に続けて語る通り,この話にはあまりにも不明点が多い。

…,但是依然还有种种待解问题在我心中徘徊不去。例如当年修渠放置八卦瓶出于什么讲究?八卦沟里,是否还藏有“乾”“坤”“兑”“震”等瓶,它们为什么始终未在漫长岁月里无数次大小疏浚中露脸?“巽”字瓶现于史籍之后,又曾何往?[前掲杨少衡]

①なぜ八卦沟からの考古学的成果が,当時及びその後,続いてないのか?
②「巽」字の壺だけがなぜ発見されたのか?他の八卦名のものは?
③なぜ「巽」字壺は壊れてなかったのか?
④「巽」字壺はその後どうなったのか?なぜ残されてないのか?
 さらに存满娱乐网の記述も併せて考えると──
⑤なぜ八卦沟には,「巽」字壺出土前の名前がないのか。これだけ城域中心部を流れる水路なのに,あまりに意を払っていない感がある。

 ぼんやりとしているけれど,どうにも不鮮明です。これだけ古い城の中心の水路にしては,こんなに確定的な事実が出てこない,その違和感ばかりが残る。仮説をたてようもない漠然さです。