m057m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm旧館驿

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※~鐘楼バス停

庄府巷:地名にのみ名を残す男

▲1745新門街の十字路の角丸建築

746少し迷ってた。新華路を渡る。」とメモしてるから,かなり現在位置が分からなくなってたらしい。
 涂門街の西に接続する新門街に入っていたのでしょう。おそらくこの広い道が城壁撤去跡です。

▲1754新門街に続く騎楼

へ向かわねばならない。濠沟墘という難しい漢字の通りへ右折するつもりでした。
 なのに,行けない。新門街北にはこの裏に川があって行く手を塞ぐ。
 スマイルを見つけた先,別の道から入る。庄府巷。

▲1802庄府巷。暗みを帯びてきた町をバイクが疾走する。

りげない道です。12Cの庄夏という人物に由来する地名らしい。ただ百度にも,遺跡らしきものは皆無で,ただ地名としてのみ名前をとどめる人だという。※ 百度百科/庄府巷

▲1805庄府巷その2。時間のためもあってか微かに妖艶な好い通りです。

古榕巷:明るい夕暮れ

府巷から1806,左折。
 花巷。
 すぐに许厝埕に道名が変わる。というか,何かどやどやっとした空気になってきて道もどれにどれが交わってるのかよく分からない感じ,のまま進みます。

▲1807花巷,だろうと思う。

た!泉州市天主教会。──というのはたどり着いた,って満足感だけで,ここは普通の建物でした。
 1812,右折北行。古榕巷。
 風。井戸。消火栓。明るい夕暮れ。
※ 百度知道/泉州古榕巷简介

▲1814古榕巷

818,旧館驿へ左折北行。
 由緒のありそうな家並みが続きます。古さや味わいはあまりないんだけど,何とも薫りが深い。

董さんと杨さんは仲良しこよし

▲1816旧館驿の大きな家屋

杨代宗祠。
──へえ~♪と通り過ぎてます。でもここは,通常なら一の氏族で祀る家祠を,由縁ある海外を含む董氏と杨氏の一族が共同で運営してる稀有な施設らしい。元代には驛站,明代には染織房があった場所とのこと。
泉州董楊大宗祠全稱是「全球董楊大宗祠」 – 每日頭條

▲1819董杨代宗祠の前にて

て旧館驿ですけど,この直線を先の董杨代宗祠を含め5枚,ほぼ連写してます。
 逢魔時の光の加減かスマホの調子なのか,戦慄するような陰影が撮れてます。
 ただ,ここは今は──

▲旧館驿がまさに征収地(再開発エリア)になってる!(2020.11現在,百度地図航空写真)

こうなってしまってました。文化街に生まれ変わるのでしょう。
 よって,以下4枚は既にない場所です。
 3枚目の門の後ろからの光は,門向こうに何もないことを伺わせます。立ち退き中だったのかもしれません。

旧館驿:最後の写真4枚

▲1821旧館驿①さりげないけれど妖しさを灯す花色です。

▲1822旧館驿②覗きこんだ路地。ヌメるような路面と硬質なバイクの照りが美しい。

▲1823旧館驿③煉瓦に映えているのは,街灯でもないし,何のオレンジでしょう。隙間からの蒼も,崩され壊される間際と予感させる凄みです。

▲1824旧館驿④彼方に繁華街の灯。その直前まで続くこの風情って……壊した後でいつか気付かれるものなんだろうか。

開元寺 まあ塔だな

825,道路に出ると重塔。
 まあ塔だな。──とメモしてる通り,そりゃまさにお寺の塔でしかないんですけど……(巻末参照)。
開元寺,泉州観光スポット,泉州見所案内 ふれあい中国:観光情報はこちら

▲1826お寺の杜と夕焼けを背景に蛎オコ屋

う言えば幸福路で一度宿に帰ろうとしてたんだった。
 人混みに紛れるとドッと疲れが噴き上げる。見回しても,検索しても,ここは繁華街でバスの通る車道は遠い。一番近いのは……鐘楼か?
 この繁華街は西街。北部中国なら西大路と呼ばれるであろう,老城の東西横断道です。鐘楼は,他と同じく東街(他での東大路)との接点にある。
 というわけで,めでたく泉州観光客にまみれながらさらに延々鐘楼まで歩き,ようやくK1路バスで帰路についたのでありました。
 そのバスの暗い車窓から気付く。J1のすぐ北にも川があるのか。これはどの流れだろう。泉州の北半分は,南ほどやはり濃いんだろうか。

▲2053本日の向陽坊はカステラ

■小レポ:空海は福建で何をしてたのか?

福建の開元寺?どこかで聞いた名前だと思ったら,空海でした。
 空海は,804年7月に肥前を出港,遭難状態で福建の赤岸鎮(現福建省霞浦県赤岸村)に漂着したのが,同8月。同12月に長安に着いています。この間,名文「福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」を記していることが残り,これらから滞在先は福州の開元寺だとされてます。
福州開元寺は548年創建。
 ……そう,「開元寺」違いで,空海が滞在したと言われるのは福州の開元寺,泉州のではありません。泉州開元寺は685又は6年創建。
 だからどうした?という話なんですけど,粘着質なもので──以下は,泉州の開元寺も空海に絡んでいるのでは?という異説です。
▲空海渡唐ルート
※ お大師さまについて・弘法大師空海の足跡を辿る7(2008秋-No.36) | 【公式】高野山の納骨と永代供養 持明院「はすの会」/印刷に便利なJPG版/

① 空海の滞在先は開元寺か?

 空海の,804年福建滞在から長安入りまでの行程の原典史料は「性霊集」。一言一句を当たれなかったからいい加減ですけど,福建の開元寺,という語句は確認できません。どうも,先の福州観察使への文面の存在から福州にいたのだろう,ならば当時同市最大の寺院・開元寺だろう,という二重推定みたいです。
 ただ,ここで第三の「開元寺」として,長崎県平戸市大久保町の地名を挙げます。

ここに寺があるわけではない。顕彰碑と法要殿があるのみである。 弘法大師は、延暦23年、31歳の時、第16回遣唐使船で難波を出航。 瀬戸内の各所に立ち寄りながら九州に至り、最後に日本を離れたのが、ここ田ノ浦である。 その故事にちなんで建てられた霊場であるという。 寺号「開元寺」は弘法大師が12月の終わりに唐に上陸後、1ヵ月の間とどまった福州の寺院が開元寺であったことにちなんだものという。

開元寺 – 平戸市/長崎県 | Omairi(おまいり)
 帰国時に広まったものだろうか※。こういう地名に開元寺名があるということは,決め手ではないにせよ,最近の誤謬ではなさそうです。滞在場所はどこかの「開元寺」だった,というのは一応否定せずに進めます。

② 泉州開元寺=タミルナードゥ・ヒンドゥー寺院

「開元」というのは唐・玄宗帝時の年号で,713年~741年に当たる。仏教の保護に執心したこの皇帝が,あちこちの寺に「開元」を冠したからあちこちにあるらしい。──性霊集にも随州開元寺という寺が別に登場しますし,検索すると他にもわんさかヒットする。いくつあるのか,数えた資料は見つからなかったけど沢山ある。
 少なくとも寺名にはそれ以上の意味はない。
 その中で泉州開元寺の特色は,もう言わずもがな,という際立ったものでした。

▲泉州開元寺のレリーフ

ワニがゾウを川に引きずり込もうとしている様子が彫刻されている.かつてゾウとワニはともに熱心なヴィシュヌ教徒であったが,いつしか憎み争うようになり,ついにワニがゾウを襲撃する暴挙にでたのである.ワニの攻撃から逃れようともがき苦しむゾウは虚空に蓮花を高くかかげ,ヴィシュヌ神に助けを求めている.一方,この柱の上部の図像には,ガルダに乗ったヴィシュヌ神が彫られている.左手には円盤右手には法螺をもち,恐怖のない境地を示す無畏印をむすんでいる.すなわち,ヴィシュヌ神は,いままさにゾウを助けようとしているのである.ヴィシュヌ神はワニめがけて円盤を放ち,ゾウの救出に首尾よく成功する.

※ 平木光二「中国泉州開元寺のヒンドゥー教神像」

 なので通りすぎたのを無性に悔やみつつ書いているんですけど……ここはインド人居住区のヒンドゥー寺院でした。

アラビア人をはじめインド人など世界各地から商人が来訪し,蕃坊と呼ばれ る租界を形成し住んでいた.香木・象牙等の貿易品 とともに, ヒンドゥー教やイスラーム教などの外来宗教も伝えられた.泉州の人々はかれら異人が建てた宗教施設をえびすどもの寺という意味で蕃仏寺と称した.[平木前掲論文]

 なぜか和訳がないけれど,英語wikiには次のような記述があります。

Although it is known as a “Hindu-Buddhist temple”, on account of added Tamil-Hindu influences

※ wiki(英語)/Kaiyuan Temple (Quanzhou)
 インドの中でも,正解にはタミル人の寺だったらしい。ドラヴィダの色濃い,南インドの古い民です。

Behind its main hall “Mahavira Hall”, there are some columns with fragments as well is vigraha (idol) of Lord Vishnu from a Vishnu temple built in 1283 by the Tamil Ainnurruvar Valanjiyar Merchant community in Quanzhou.

 13Cにはヴィシュヌ神殿が併設されてる。別箇所にはこの時代には千人超の僧がいたと記述がある。

They were made in the South Indian style, and share close similarities with 13th-century temples constructed in the Chola Nadu region in Tamil Nadu. [前掲wiki]
References4 Lee, Risha (2009). “Rethinking Community: the Indic Carvings of Quanzhou”. In Kulke, Hermann; Kesavapany, K.; Sakhuja, Vijay (eds.). Nagapattinam to Suvarnadwipa: reflections on Chola naval expeditions to Southeast Asia. Institute of Southeast Asian Studies. p. 240.

 様式もタミルナードゥのもの。その背景は極めて明確です。泉州にマルコ・ポーロが来,アラビア人が来てたということは,当然その中間域にいたインド洋の海洋民・タミル人も中国に来ていたからです。

The Silk trade by sea brought the South Indians to China and the Chinese to Southern Indian ports and it is very likely the Indians took the knowledge of Silk cultivation and fabrics from China back to India. China had a significant influence on South India; examples of Chinese fishing nets in Kochi and fine china pottery still referred to as “Chini chatti” or Chinese pot in Malayalam and Tamil. [前掲wiki]

 コーチンに中国の魚網が残り,「チニ・チャティ」と呼ばれる陶器がある。逆に,多彩な南インド風ヒンドゥー寺院も,マレーシアやインドネシアに残るのと同等以上のものが,泉州にもある,というのはごく自然な結果です。
 12Cより前,空海時代にどうだったかの史料がないけれど,背景が南インドとの交易にある以上,唐代にその萌芽があった可能性も高いでしょう。
 空海一行が福建に漂着した当初,彼らは海賊と疑われて軟禁された,と言われる。それは,当時の福建沿岸一帯が既に海民の跋扈する海域だったことを示唆します。元代以前の海民とは,中国系よりアラブ・インド系がメインでした。
 さて,やっと本稿の論点を書きます。空海がなぜサンスクリットを読めたのか,という謎についてです。

③ 空海の梵語超速習神話

 空海研究者,文学では司馬遼太郎(「空海の風景」)ほかが口を揃えて謎と呼ぶのは──805年6~8月,唐都長安・青龍寺の恵果和尚から密教の灌頂を受けた空海は,仏教原典がそれで書かれているサンスクリット(梵語)を理解したとしか思えない。けれどそれをいつどこで学んだのか?
 サンスクリットは,難解な言語として有名です。特に哲学用語の複雑さは他に例を見ないとされます。それを長安滞在の3か月とか青龍寺に入ってからの2か月で習得できた,というのは,ほとんどの論者はそれを空海の天才性と結論づけてしまってるけれど,論理的に破綻している。
 この点をややシニカルに表現した小林さんの論文の表現では,こうなります。

空海がサンスリットを学んだという話の背後には,次のような推論が日本人の間にある。(前提1)インド密教の習得にはサンスクリットの学習が不可欠である。(前提2)「空海はインド密教を習得した。(結論)したがって,空海はサンスクリットを習得した。「前提1は真である。前提2が真であるためには,結論はぜひとも真である必要がある。」

※ 小林信彦「空海のサンスクリット学習」
 空海が本当にサンスクリットに通じていたのか?という点は,類推の上でのものでしかない。例えば,空海が梵語で記した書名は皆無です。

空海は長安仏教界の状況を何も知らずにやって来た。惠果に会うまで,空海はもっぱら師匠探しをしていた。こういう状況であったから,惠果に会うまでの3か月余りにしても,集中力を要する古典語学習に没頭する余裕があったとは思えない。
仮に集中的に勉強することができたとしても,古典語を修得するには3か月余りという期間はあまりにも短すぎる。この間に文字を習い単語をいくつか覚えることはできたであろうし,がんばれば基本的な動詞変化や名詞変化を学習することもできたであろう。確かに空海はインド文字を知っていたし,サンスクリットの仏教術語をいくつか知っていた。しかしながら,空海がサ ンスクリットの動詞変化や名詞変化を学習した痕跡は見つからない。[前掲小林論文]

 信徒の盲信の言としてはともかく,冷静な史学又は言語学の目からは,空海はサンスクリットを「囓っていた」という程度,と評するのが妥当らしい。自在に会話できたわけではない,と考えるべきでしょう。

はるばる中国から持って帰ったサンスクリット文献を空海が読んだという言い伝えはないし,本人の死後に誰かが読んだという言い伝えもない。それ どころか,その存在に言及する言い伝えさえ,真言宗には全く残っていない のである。[前掲小林論文]

 ただそういう語学力だとしても,仏典を一通り読みこなすにはサンスクリットの一定の素養が必要です。
 会話できる語学力と書名を読解できる語学力は,レベルというより種類が違う。後者は,その話者に接して言語感覚を身につければ比較的短期間で習得できる,と経験的に捉えてます。

④ 中国タミル人街を歩く空海

 ここで,空海の滞在したのは福州開元寺ではなく泉州開元寺である,と主張したいわけではありません。福州の寺であっても,この海域に既にタミル商人が来ていたなら,南インド僧もいたでしょう。泉州のようなインド人街はなくても,集住地区はあったでしょう。
 仮に泉州の寺だったなら,知識欲旺盛な空海がその異文化を吸収したであろうことは,不思議なことではない。
 国際都市・長安というイメージが教科書的には際立つからでしょうけど,そのような海域アジアの状況を併せて考えるなら,空海の唐でのルート中,ヒンドゥー文化に最も触れる可能性のある地点は福建だった,とするのが自然なのではないでしょうか?
 結論は,小林さん風に言えばこうなります。
(前提1)空海は梵語で原典を読解し,密教を継いだ。
(前掲2)空海の長安での滞在歴から,その梵語語学力を長安のみで習得したとは考えられない。
(前掲3)空海の在唐ルート中,長安以外でインド文化に接する場所は,福建しかなかった。
(前提4)陸のシルクロードの長安より海のシルクロードの福建(泉州)の方がインド文化色は濃かった可能性がある。
[結論]空海が梵語(の少なくとも基礎)を習得した場所は,福建と考えられる。

▲蕃客墓碑(福建省博物館)

アラビア文字やヒンディー語のナーガリー文字などで刻まれた墓石が多数現存している。[松浦章「世界史リブレット63 中国の海商と海賊」山川出版社,2003]

■小レポ:(泉州城南突出部再考)唐代車橋頭海上砦

 空海絡みで唐代を,さらに東湖近辺の水路を見ていくうち,泉州の陸海境の推移を記した次のサイトを見つけました。サイトトップには以下の3枚の画像をアニメーション形式にしてあり非常に分かりやすかった。

9000年前
清源山下的泉州市区
随着沿海地壳升高
如今的泉州才渐渐“浮出水面”

──9千年前,清源山の下に当たる泉州市区は,沿海の土地が高さを増すことにより,今の泉州の形に次第に「水面に浮き上がって」きたものである。
守护古城千年,泉州“护城河”的前世今生!_手机搜狐网

① 护城河その他市内水路は三日月湖の連続体

 このサイトは,护城河という城域南西の弧になっている水路をテーマにしたものです。
 つまり,これらの水路は全て,かつての川筋の残存です。护城河もそうだし,この時の宿の北に見えた水路(护城河の一部)も,東西の湖もそうです。
 泉州老城が何度か城域を拡大していったのは,陸域の拡大と期を一にしてる。それもこの川筋の付き方は,スムーズに等スピードで拡大したのではなく,段階的に,ある時期に一気に拡大するような経緯を繰り返したのでしょう。つまり海岸線の移動につれ,城域は拡張されたらしい。

② 唐代城域南に浮かび上がった「島」

 ここで,先に泉州圍※m053m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm泉郡富美宮/■小レポ:八舎后尾になぜ壁があるのか──「泉州圍」仮説と呼んだ城域南の突出部にご注目頂きたい。赤く記された护城河ラインの右下延長部がそれに当たります。
 二番目の地図,唐代のものに,その場所にある島のような場所が見えます。
 これが後の「泉州圍」の原型ではないか,というのが本論での主張です。

③ 鞆・大河島砦との類似性

 結論を急がず,この「車橋頭」砦に似た人文地形を挙げてみます。
 広島県福山市鞆の仙酔島南西,観光地の町屋から海に外れた場所にある大河島城跡(現・円福寺の南)です。織豊時代に足利義昭が「鞆幕府」を構えた鞆城の高台(現・歴民博物館の場所)から,南東に陸で繋がった半島の先に当たります。



鞆の浦 古寺めぐり

 この場所は,よく分かっていないけれど,村上水軍の砦だったと言われています。足利義昭とそのパトロンとなった毛利家がこの海賊を頼ったことはよく知られていますけど,地理的にはその仮想敵・信長側最前線の砦と連携する場所に築かれた鞆城に,義昭は「幕府」を開いてます。
 さらに突飛ながら,フィリピンでのアメリカ軍のコレヒドール要塞を想像してもいいかもしれません。
 浮沈空母としての水上砦。これを海民が握り拠点とするオプションは,歴史にまま現れる常道です。
 史料はない。でも泉州のこの場所が海賊的勢力の砦だった可能性は,その後が圍になった経緯から,捨てきれないのではないでしょうか。

④「車橋頭」砦から「泉州圍」までの時代

 海民の砦と仮定してその後の歴史を想像してみます。
 宋代にかけ,次第に周囲が陸化した砦は,その周囲を城壕とし,内側に城壁を造る形で圍の形状をとるに至った。
 海民の拠点の周囲が,交易の拠点となり,世界史的な海外拠点に成長していくととともに,陸域の拡大に伴い城域を拡げていった本城側との距離が縮まり,両者を連結することが現実的になってきた。北の統治側は海賊拠点を管理下に置くために,南の海民側はより強大な城郭に取り込まれて商業利益を防衛しやすくするために,両者の連結が現実化した。
 そうだとすると,泉州が世界史的な交易都市になった由縁は,かつての海民の拠点が,その成功と流域の変化によって統治側と程よく共存していった,絶妙に幸運なバランスにあったと言えると考えられるわけです。