m063m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm清浄寺

~(m–)m 本編の地点 m(–m)~
GM.(位置:清浄寺)

▲清友寺の平面図
※ 原典※※の出典表記:From ” Chinese Architecture” by Laurence G. Liu,Academy Edition
(名称の違いについては巻末参照)
※※ 中国南部のイスラーム建築 | 清真寺 (モスク) | 神谷武夫 |

カフカのモスクの入口は?

浄寺に着いたんですけど……これどこから入るんだろ?
 時刻は0842。
 旅游中心は左から回り込んだら北側にありました。でも,そのサイドからも入れないぞ?

▲0849,北側裏手の溝越しに,多分新礼拝堂を眺める。

854。一周してみたけどどこにも入れそうなとこはない。裏はさっきの水路が境界堀になってるようだから,東西脇か南しかないんだけど?

▼0854,南側表から諦めかけ,帰りがけに一枚,と撮った写真

アブラカダブラ(開けごま)

あれ?門のとこで待ってる人がいる?ということは……9時開館なのか?
 あ!今開いたぞ?!
 と駆け込んだ入口で待っていた兄ちゃんたちを見て一句。
雑談を止める気もなく票を投げ

▲礼拝所「奉天坛」

ってすぐ,建物を通ってパティオに出る。
 その左手西側に,えらく空虚な野原。奉天坛と看板。案内書きには「穆斯林诵経礼拝之所」とある。
「穆斯林」はムスリムの漢字記載らしい。つまり,ムスリムの読経と礼拝のための野原……ということになるんですけど,別の見方もあります。巻末参照。

▲千年井戸

914,千年古井。結構あちこちの文章に載ってたのがここでしたけど,中国にはこの名前の井戸は沢山あるみたい。古い井戸,ということでしかないように見えました。
 本殿の後方北側には,トイレに挟まれいくつもの浴室。信徒が沐浴するためでしょう。右手東側には図書室も2箇所ある。

五つの壁時計,説教台と扇風機

▲0919図書室辺りにあった新興宗教チックな掲示板

の時計群はしかしどういうもんなんだろう?
 少しずつ時間がズレてるから世界各地の時間で,どれかがメッカの時間を表して,礼拝時間をそれに合わせて……とは想像がつくけど,どれがソレか表示されてない。これでどうしろと?

▲0921時計並ぶ

殿に入れた。
 土足。正面南側には縦断7列。西側に説教台と扇風機。前掲の時計はここの正面壁に並んでおりました。

▲0920拝殿を横手から覗く

中国式木造礼拝殿・明善堂

初は用務員さんとかの宿舎かと思ってた,奥手の,他の建築トーンから全く浮いた木造。これもまた礼拝堂らしい。
 巻末で触れるこのモスクの詳細記述を書かれてる神谷さんは,これこそ泉州にイスラム教が根付いた証拠のように記述されてます。
 明善堂という建物です。

▲0924そこだけ木造礼拝堂

すべてが非中国的であったからか、奥に 明善堂(ミンシャンタン)という、中国式の木造礼拝殿が 1609年に建設された(創建は 1131年ともいう)。これは、次第に中国人の信者が増えていったせいであろう。現在見られるものは、廃址になっていたのを、近年建て直したものである。[前掲神谷]

誰が何をする場所だったのか?

▲0925本殿上部の,地味だけど美しいレリーフ
※巻末に後掲するarachinaによると,東と南の壁にはアラビア語のカリグラフィー(コーランの句)があるとあり,これも同種のもの,つまり文字なのかもしれません。

口ゲートの東側に,建て直した跡のような奇妙な空間がありました。
 巻末で触れる記述では「祝聖亭」という建物があった場所らしい。
 ここにインド風の神器のような奇妙な,臼のようなものが配置してある。インドならこれが色とりどりの染料でどろどろになってるんだけど,ここのは汚れてない。汚れてないけど近付き難い。誰が何をする場所だったんだろう?

▲0928ゲート東壁外の不思議な空間

■メモ:調べた中で最も詳しい泉州清友寺情報

……が,神谷さんのこの記述でした。後半は本格的な宗教建築論になって,モスクに造詣のないワシにはついていけなかったけど,詳しい方は是非お読みください。

① モスクの名前?

09 泉州 (チュエンジョウ)**
  QUAN ZHOU  福建省
清友寺(麒麟寺)**
SHENGYOU MOSQUE (QILIN SI )
全国重点文物保護単位
広州、杭州、揚州 と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」のひとつで、他のモスクと同じように動物名を冠した愛称、「麒麟寺」(ジリン スー, Giraffe Mosque) の名でも呼ばれた。アラビア名は 艾蘇哈ト大寺 Masjid al-Ashab なので「聖友寺」(シェンヨウ スー)であるが、誤って「清浄寺」(チンジン スー, Qing Jing Si) とも呼ばれてきた。今では 清浄寺のほうが 正式名称のように扱われている。

※ 再掲:中国南部のイスラーム建築 | 清真寺 (モスク) | 神谷武夫 |
 というわけで,当時もそう思ってたし本文中でも清浄寺で通しましたけど,これは俗称,正式名は「清友寺」です。

動物名の南部4モスク

 中国モスクに動物名を冠する習わしがあるかも,というのも初めて聞きました。
 神谷さん曰く,北から揚州・杭州・泉州・広州と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」にはそれぞれ動物名があるというのです。
[揚州]正式名:清真寺
愛 称:仙鶴寺
[杭州]正式名:真教寺
愛 称:鳳凰寺
[泉州]正式名:清友寺
愛 称:麒麟寺
[広州]正式名:懐聖寺
愛 称:獅子寺
 ご存知のように中国四霊獣としては,通常,麟(麒麟)・鳳(鳳凰)・ 亀(霊亀)・竜(応竜)が知られる。四神とも四霊とも呼ばれるこの概念とも,半分ダブルイメージを持ちつつ半分ズレてる。しかし獅子は中国においては霊獣に入るとしても,揚州の鶴とは何だろう?
 神谷さんは「建物の配置形態が飛翔する鶴のようであったので,この名がついたのだという」と紹介してます。もちろん,誰かが一時に考案したわけではないでしょうけど,中国イメージと南アジアイメージのクロスの仕方がなかなか面白いと感じます。

② 歴史的位置

 脱線から戻って,今度は清友寺の古さについて。現存ムスリム建築としては中国最古です。

アラビア人のムスリムが北宋の大中祥符2年(1009)に創建したと伝えられているため、中国最古のモスクという歴史的意義から、イスラーム建築の中では最も早く、国務院の国家文物局による全国重点文物保護単位 に指定された。(略)現存の遺構は 元代1310年の再建である。ペルシア人のイブン・ムハンマド・アル・クーズ・シーラーズィーの寄進によるという。 創建時の建築形式を忠実に踏襲したらしい。大門もまたその時の建設であったが、上部にあった宣礼塔(ミナレット)は 明暦の泉州大地震で崩壊してしまった。[前掲神谷]

 そうミナレットが見当たらなかったんだけど,元々はあったらしい。ただ,明暦に崩れたきり再建してないということは,地元的にはそれほど感激されなかったということか。
 あと,「明暦の泉州大地震」というのが気になって検索してみたけれどどうしてもヒットがなく,何も分からない。お陰で脱線せずにすみました。
▲再掲:宋代泉州地図
※ m057m第五波mm旧館驿/■小レポ:(泉州城南突出部再考)唐代車橋頭海上砦

③「蕃坊」のモニュメントとして

かつては この町に9つのモスクがあったが、今はここのみである。[前掲神谷]

 この記述に驚きました。
 他の記事を検索してみたけれどヒットがなく,何を史料にしてるのかも不明なままですけれど──おそらく元代,まだ半島状だった泉州には,大建築を立てる場所がそうあちこちにあったとは思えない。そこに9つもモスクがあったのか?

早くからアラブ人やペルシア人商人が来訪して、ムスリム・コミュニティの 蕃坊(ばんぼう、外国人居住区)をつくった。マルコ・ポーロの「東方見聞録」では、「ザイトゥーン」(刺桐)という都市名で描写されている。ザイトゥーンとはアラビア語でオリーブの意であり、10世紀に留従効がオリーブの木を植えたことに由来するという。[前掲神谷]

と言うんですけど,9つモスクという情報がのしかかる。アラブ人の蕃坊がどこに,どれだけの広さであったのか,については記載されたものがヒットしないけれど──この時に見た清友寺が9つあって,その規模が必要なほどのアラブ人の居住面積を想像すると,ほとんどアラブに占拠されていた,あるいはアラブ人「租界」になっていたのではないでしょうか?
 その傍証として,建築学的にも,このモスクは中国のそれの中でも中国色のないものとして著名らしい。

このモスクは、中国ではさまざまな点において特異であって、中国式であるよりは、中東のモスクにずっと親近感がある。そのことが、この遺構の古さを物語っている。つまり 回族ではなく、当時泉州に住んだアラブ人やペルシア人が、自分たちの礼拝のために 故国のモスクのスタイルを持ち込んで建設した建物なのである。[前掲神谷]

 他の分析や論文でも,決め打ちの度合いは様々ですけど,どうやら純アラブというだけでなくクラシックなペルシャ様式のモスクとしての価値が見いだされるという。異国なればこそ自国の純文化を露出する,つまりアメリカでの富士山ゲイシャ忍者みたいな,過度なペルシアンと評される建築らしい。
 他の8つのモスクがもし同じ類だったとすれば,そこまでする意義は,やはり「ここは中国ではなくペルシアだ」というモニュメントだったのではないでしょうか。

④ 他にもある疑問点

 ここからは,神谷さんの記述以外で,気になった清友寺の諸点を列挙します。

イスラム教を保護した明朝

 これだけ中国国内で我が物顔だったアラブ人に対し,統治側がどう対したかというと,どうやら基本的に好意を示したらしい。

寺内には明永楽5年(1407年)に朝廷がイスラム教、及びモスクを保護するための詔(みことのり)の石刻が大切に保存されています。

泉州麒麟寺ーAraChina中国旅行
 宋~元代当時のアラブ人の代表格に蒲寿庚という人がいる。この人の足跡を追うと,どうやら,アラブ人たちは体制側にがっちり浸透していたらしい。

彼は南宋の末期に泉州で活躍したアラビア人(またはイラン人とも言う)商人で、海運業に従事していた。提挙市舶司(提挙市舶)という役職について泉州の貿易を牛耳っていた

※ 世界史の窓/蒲寿庚/Episode フビライに協力した泉州のアラビア商人
 これまで泉州の統治側,と一口に書いてきたけれど,その統治側そのものにかなりアラブ人が入りこんでる可能性があります。

……が、元軍が南下してくるとそれに協力し、元の福建・広東地方制圧に活躍、元代の南海貿易でも大きな利益を上げた。[前掲世界史の窓]

 つまり,中国中央政府が海上勢力と連携し,その旨味を認識したのはアラブ商人を通じてだったらしい。

クビライは蒲寿庚を取り込むことで、海上通商勢力を丸ごと手に入れた。蒲寿庚らも、クビライ政権の海上進出にすすんで協力した。泉州では、モンゴル政府による大型艦の建造も開始された。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.205>[前掲世界史の窓]

 さらに興味深いのはこの延長としての「元寇」です。日本侵略という目的は果たせなくても,この規模の海上兵員輸送自体が世界史的な出来事でした。

 モンゴルが南宋接収の海上戦力の組織化をためす最初の機会が、1281年の第二回の日本遠征であった。江南から10万の兵(実態はほとんどが移民だった)を乗せた大艦隊、「江南軍」であり、これは人類史上最大の「外洋航海」をした大艦隊であった。<杉山 同上 p.207>[前掲世界史の窓]

 よく考えれば,中東世界を含む南アジアでそんな海上ロジスティクスが求められる環境はない。「海の向こうの敵」がいないからです。
 それは東アジアで,世界史上初めて実現し,有効となった。前後期の倭寇に悩んだ明朝も,この旨味を知っており,海上掌握のためにアラブ人のロジスティクスを利用しようとした。それならば,彼らを優遇した意図に全く不思議な点はないのです。

祝聖亭の2つの碑文

 本文の最後に触れた本殿東の不思議な空間について,分かっていることは以下のとおり。

正門の東側には「祝聖亭」が立っていましたが、現在は基礎部分のみが残っています。残存する石刻から、元至正10年に呉鑑、明万暦37年に李光缙の編集により、麒麟寺が再建された内容の記述が読み取れます。[前掲AraChina]

 この碑文の原文も探してみたけどたどり着けない。下記「最熱播」の紹介だとそれは「重修清淨寺碑記」「重立清淨寺碑記」という2つで,単に再建経緯だけでなくイスラム教の伝播や組織機構についても読み取れるものらしい。おそらく研究が進められている中途なのでしょう。

祝聖亭內立《重修清淨寺碑記》與《重立清淨寺碑記》 ,對研究伊斯蘭教在中國東南沿海港口城市傳播與清真寺的建置、組織機構等,具有重要的歷史資料價值。

※ 6.清淨寺——泉州\中國十大寺廟分別坐落在哪個城市? – 最熱播

奉天台の「文物」

 本殿の逆側・西にも建物が存在したらしい。

西側には長さ24.6m、幅24.3mの「奉天台」がありましたが、現在は外壁の部分のみが残っています。(略)奉天台の跡から大量の文物が発見されました。[前掲AraChina]

 本文で写真を撮ってる「奉天坛」と同じ場所なのでしょうか?現地の案内板からは「穆斯林诵経礼拝之所」と転記してますけど,現状の野原ではなく25m四方の建物があったとすれば,イスラム教の町で定時に響き渡る大音声のコーランをここで唱えていたのでしょう。
 そこで「文物」が出たとするならば,それは「祝詞」なのではないか?
 あの大音声の内容を理解してない。だからあれがどのくらい自由度をもった内容たりうるのか分からないけれど,これも何かとんでもない内容を含んだもののように聞こえます。

 こう見ていくと,宋元代──前後期倭寇や中華海商の時代より前の泉州が,教科書的な「アラブ人『も』来ていた」という状況だったとは思えなくなります。
「アラブ人の香港」とでも名付けて良いような,もっとはるかに異国的な場所だったのではないでしょうか。そして彼らこそ,海域アジアを最初に拓いた集団だったのではないでしょうか。