m064m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm龍宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

近圣路→小蔡巷→龙宮巷

帝廟は中華世界の華。
 それがこの泉州の,しかもモスクの隣にある関帝廟でも同じだというのは,驚きつつもゲンナリ。しかも参拝は隣のモスクの十倍はいる豪華絢爛なる造り。物乞い多数。
 写真は撮ってません。
 9時半。この東を歩いて帰ってみるか,と思い立つ。

▲0936近圣路

こまで来て早飯なしか!とメモを残してる。向陽坊を見つけるけど,泉州離脱直前の今探してるのはソレじゃない。
 0934,近圣へ左折北行。GM.で見ると近圣路→小蔡巷→龙宮巷と魅惑的な道の名前が転じながら続きます。

▲0937近圣路→小蔡巷辺りの街路にて

939小菜巷。名前の通り市場
0942ではここらで店開き,というオバハン」とメモしてます。
 前掲の通りこれは「小蔡巷」の見間違い。残り少ない泉州での時間,名物「菜飯」ばかり探してたからでしょうか……。
 でもここは確かに程よく自然な市場でした。

龍宮巷に龍宮を見落とす

▲0940龙宮市場。韓国の市場みたいな風情です。

947,龍宮市場。
 いや?住所表示も龍宮に変わってるぞ?
 なぜ?こんな市内中心部にどうして海神の地名がある?──というのは既に三国期の地図をご覧の読者にはご理解頂けると思います。ここに龍宮地名があることこそ,かつての海岸線の存在証明です。
 鯉城区机关幼儿園を過ぎる。

▲0942龍宮巷。(画像破損してるけど)商店の列がちろちろと続いていきます。

宮というのはやはりかつての信仰施設を指す。それは城域北端で通り過ぎた大城隍に対する,小城隍の一つらしい。名を龍宮廟という。
 場所ははっきりしない。何とか拾えたデータ(巻末参照)を総合すると,この短い巷の中に,今は小さな祠を残すだけの形で現存するようです。これから行く方は探してみてください。

龍宮へ行く 玉手箱は無し

▲0944バイクぐいーん!九一路出口にて。龍宮廟があるならおそらくこの角だったと思うんですけど……。

ーあ,東街に出てしまった。朝飯なしか。
 通り出口には公設市場らしき建物の入口。普通はこちらを龍宮市場と呼ぶらしい。

▲0947公設市場「龍宮市場」

飯表示の店があって,入ってみると「まだ出来てない。昼になったら出せる」と言われた。朝には食べないものなのか,それとも仕込みに時間がかかるものなのか……?
 10時を回る。あら?この道は九一街じゃないか?とやっと気付く。距離感がつかめてないらしい。
 温陵路に出た。释雅山公園の西側の壁沿いを北行。東側は花園。わあ,これは楽しい道だなあ。
 1015,宿で荷物をピックアップ。朝飯は駅で食おう。

菜飯:これは中華か?

▲1020ついに菜飯

と思って一度はバス停に立つ。バスを待ちつつ振り返れば…灯台元暮らし,いや暗し。
 あるじゃないか,バス停手前に!
1018芳芳牛肉小吃
咸飯
牛肉羮370
 菜飯。ここまで通算3店「咸飯没有!」だったこのメニューを,人懐こそうなオバハンが「有!」と首を縦にふった時の喜びときたら!──あるいは単に昼時だからなのか?
 湯とおかずまでコーディネートしてくれて,上記のような立派なお膳になったのでした。
 これがまた……えらいこと旨い!

▲菜飯どアップ

肉羮の具は炝肉の胡椒を強くしたようなもんだけど,湯が全く異なる。漢方味,台湾でよくあった味です。昨日のシャオロンパオ店よりくっきりと漢方味を意識しました。
さて驚くべきは咸飯。まさに炊き込みご飯なんである。沖縄のジューシーなんである。これだけを出されて中華料理と当てれる人は少ないだろう。調味料も香油もほぼ感じない。具は白菜と人参,その中華漬物でしょう。そこから出る臭みと塩味が飯に染み渡ってる。
 一見,いや食べてもよく味わわなければ漬物の存在,それが中華モノであることは把握しにくいだろう。
 これは中華料理なんだろうか?そんな疑問すら抱かせる奔放な味覚が,初回泉州最終食となったのでした。

▲バス後方の鄭成功

ス停に走り飛び乗るk1路。
1039乗車,1056終点アナウンス。昨日の3路よりかなり速い!でもそんな早く着いても困るぞ!1103到了。
 昼御飯に丁度いい時間ができてしまったけれど,さっきの菜飯は結構腹持ちしてる。いいや,もどき飯は止めて行き先に期待しよう。
 行き先とは──もう一つの閩南の核です。手元の票(切符)はこんな感じ。▼▲

泉州 站 D6221 漳州 站
QUANZHOU → ZHANGZHOU
2019年09月18日12:25開 03車02C号
¥40.0元 折 二等車
限乗当日当次車

 始発は福州,終点は诏安。今回最も謎の土地・漳州へ向かいます。

■小レポ:小城隍廟・龍宮廟についての僅かな記述

 本当に僅かな,たった2点の記述しか見つかりません。まずそれを掲げます。

段淩平:始建年代無考

「始建年代無考」──創建年代は分からない。
 それが清代に小城隍廟とされた後,1960年代に壊されてる。おそらく文革でしょう。それが1992年に,何があってか誰がなのか,小さな祠として復活して現在に到り,「龍宮」はほぼ地名として残るのみになった,というのが龍宮の歴史の概要らしい。

2 泉州龍宮廟
位於泉州城内三教鋪,今九一路東段南側龍宮巷,始建年代無考。原供奉龍王,於清末改祀城隍。由於「求雨屢驗,為民禦災療病,普沾其澤,功徳在民」,於清光緒十八年(西元1892年)勅加「昭威」封號。二十世紀六零年代擴建九一路,被折毀殆蓋,1992年在原址一角落搭蓋ー小間延續香火。

※ 閩南與臺灣民間神明廟宇源流
段淩平 — 2018

泉州历史网:龙宫城隍庙

 それが,泉州历史网の方はかなり違う表記をしています。この記事は,前掲の泉州大小城隍廟に関するもので,龍宮=小城隍廟と分かったから調べられたヒットでした。

龙宫城隍庙(鲤城区九一路东段北侧、龙宫巷口东端)
龙宫城隍庙位于鲤城区九一路东段北侧、龙宫巷口东端,为泉州周边一些城隍庙的祖庙。
始建于唐末·禧宗(874—888年)时,祀四海龙王,庙号龙王行宫。
南唐·保大(943—957年)年间,增祀汉·忠祐侯纪信大将军,城隍、四海龙王并祀,遂改称龙宫城隍庙,亦成为旱时祈雨、涝时求晴的当然场所。
宋、明以来,官民到龙宫祷雨、祈晴渐成长典定例。

※ 泉州历史网/城隍庙 泉州府城隍庙(明烈王庙。附:资寿寺)
 まず,創建は唐末·禧宗(874—888年)時だと断定してます。祀られたのは四海龍王。龍王行宫と号したと明記してる。
 さらに,南唐時には既に城隍廟になっていたとする。祈祷の目的も雨乞いと断じてます。

龍宮ができた時空

 もしかすると何かの考古学的進展があったのかもしれませんけれど,少し臆病に上記両者の間をとり
①龍宮の由来は唐と伝わるほどかなり古い。
②五代~清代のどこかの時代に城隍廟に「昇格」した。
とだけ知見にして進みたいと思います。
 沖縄で見てきたところでも,神の性格からも,龍宮は水辺にあるのが普通です。
 だから,まず考えるべきは,現・龍宮巷エリアがいつ水辺にあったのか,ということです。
 本文でもちらりと触れた通り,それは泉州浮上の時代しか考えられない。
 この地点は最も早い浮上地点・元妙観から南南東1kmほど。具体的に,前掲の泉州浮上地図を見ると,三国期にはまだ海中です。唐代に陸化した場所と思われる。図示すると次の指差し場所になります。
▲泉州浮上期中,龍宮の場所

枡形水路の意味

 すると唐代の該当地点に枡形のような入江か港が存在することが分かります。
 船荷の積み降ろし場所のような機能を,当時ここは持っていたように見えるのです。
 11Cに興った媽祖信仰はまだない。より古い海神の龍王信仰の宮が,そこにできた。発着する船の海上安全を祈った場所でしょう。
 それが急速な陸化に伴い内陸の土地になり,港から市場へ転化する。宮は「水」に関わる祈りの場所というイメージだけが残り,雨乞いの場に転化していく。
 例えばそのような形で,15百年前の水辺が今に残されているのが,泉州龍宮なのではないかと考えます。