m074m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm東橋亭

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※推定。該当地名全く見当たらず。
↓バス
GM.(経路)

恵悦香で美しきチェックメイト

霞路の1/2teaで休憩した足で,見つけてたXに入っていこうとしてましたら……おや?いい感じの快餐(ファーストフード食堂)があるぞ?と入ってしまう。本日3食目なんですけど……。
1209恵悦香快餐小炒
鶏もも肉そのまま煮
ゴーヤの真緑煮
三枚肉の激ウマ角煮
排骨湯500

▲恵悦香快餐小炒

ーヤは,ゴーヤチャンプルーとしては絶品でした。ゴーヤの辛味に技巧がなく生々しく木訥。そこに卵が,これもほとんど調味なしに合わされてる。裏に流れる豚脂もごく淡い。何もしてないようなのに,それでバランスが取れてる。つまり沖縄的に言う理想的なゴーヤチャンプルーです。
 問題は,そんな発想が何で中華で有りうるのか?という点でした。

 福州の湯は,これでもかと技巧を複雑に尽くしてる。何十種類の湯を重ねたかを彼らは自慢する。
 でもこれは,いわば最小の手数で美しくチェックメイトするようなイメージです。
 鶏うま煮もまさにそれ。先味では和食の鶏煮込みかと思うほどですけど,後味にじわりと効いてる漢方味が中華を主張する。
 これが最も有効打になってたのが角煮で──浙江の正統派とも中華標準の山東のとも全く異なる。では何かと言えば,長崎で食べる角煮なんである。いわば煮汁がさらさらしてる。
 ──ここの味覚を思い返すたび,この後の台湾の味覚とダブルイメージになります。台湾の味覚の基本は漳州,という見方が確信になった一食でした。

▲1208帰る頃には行列。もちろん調べて行ったわけじゃないけど…大当たりだったかもです。

漳州牛庄ネバーランド

飯で運を使い果たしたかもしれません。
 1217,騰飛路を東行して,大体この南なんだけど……という辺りで,漳州牛庄という牛人間が登ってるビル,というかアウトレットモールみたいなところに入ってしまう。
 あれれ?南への行道がないぞ?
 どうもこのモール──「ZZCP PARK」と当時はメモしてるけれど──に塞がれてしまってるらしい。

▲「漳州牛庄」ロゴマーク?

……後で調べるとネット上にあるから,この時の疲れによる幻でもないんだろうけど……うーん。完全に無人のモールだぞ?開業前なのか?

あの元気水で甦るのだ

▲1228謎の牛広場

れ?でも通過できたぞ?よく分からないけど南行しよう。
 とぐんぐん進むと……やはりダメだ。南へ回り込んでみたけど,瓦礫に阻まれて出れそうで出れない!

末で再度触れますけど,とにかくこの時は北の出口までとぼとぼと引き返すしかありませんでした。
 出た車道のコンビニで思わず「元気水」というのを購入。これが旨かった!生き返った!──幻ではない証拠に,こちらは写真を撮ってます。
 1250,バス停に座り込む。少し休みたいぞ。……と停留所名を見ると,さっきの経験上縁起でもない「牛庄」という名前でした。牛,もういいぞ。

▲甦りの水:元気水

とうとしながら日向で座った後,1309,8路バスに乗車。
 西行。
 漳福路から左折。バス停勝利公園。もう新華路です。長途汽車站。
「オバハンに硬貨5元を両替させられた。」と分からんメモを残してる。──思い出した!隣に座ったおばちゃんが,何か当然そうに両替を要求するから,反射的に小銭を出したら,おばちゃんさらに当然そうにその硬貨で下車していったんでした。ああ~げに悲しきは日本人体質!

ほのかに期待した泗洲巷

▲1323泗洲巷①:スポット的にのどかな南国風情だった場所

いに右折したのでたまげて下車。えーと?バス停:市中医院?1319──あら?丁度いい位置でした?
 昨日の打錫巷の平行路,あるいは延長には何かあるのでは?と期待しての再訪だったんですけど──

▲1324泗洲巷②:大樹の木漏れ日が眠りを誘う風情ですけど,それはともかくこの赤い円柱は何だったんだ?

こにも大きな祠。仏教らしい。」とメモってる。寺のような雰囲気に見えたんだろうか?今写真を見るとガラクタ屋にしか見えないけれど……。
 この「祠」の東側から南行。泗洲巷。ゲートあり,社区に入るけどこれは抜けれるだろう。
 抜け出た下沙路は完全無欠の期待外れ。半ばの打錫巷だけが特別なのか?

▲1334打錫巷の延長,下沙路

東橋亭の観音様

らば昨日のコアエリアももう一度歩いておこう。1338,昨夕の半月陸橋から西行する。今日は修文東路の石畳道から入る。
 1353,東橋亭寺。あまり供え物の形跡はない。案内板にいわく──816年創建。面積800平米,観音像があったけれど文革で「流失在外,后尋回蔵于市博物館」,つまり外部に流され,今は市の博物館にあるそうです。……その観音は限りなく妈祖っぽいけれど,いずれにせよ現在は庶民の信仰対象ではないらしい。
 1359,文廟。今日は迷わずまっすぐ南側・龍眼营へ入りましたけど──こちらは次章:特別編にまとめてみました。

瑞京路にはお寿司屋さん

424,漳州石牌坊でタバコ休憩。──新華東路で見つけた4つの石牌坊に,しれっと行ってます。→m073m第七波mm新華東路/勇壯簡易 所向無前 閩越雄聲 楚滇偉積
 ここに「古城位置図」というのを見つけてます。
「北西の山裾がやはり気になる。」とメモに記してます。Xをとってた地点で,やや辺鄙な場所なので行くのを迷ってたんですけど,やはり向かうことにします。
 が?百度地図でバス路線を検索すると北のよく知らない辺りが最寄りみたいです。

▲漳州城図。老(外)城北西角をターゲットに定める。

438。香港路から芳華南路を北行。「老人活動室」前を通過。爺さん方の麻雀部屋,というのがその実態でした。
 がっこうまえのぶんぐやで蛍光ペンこうにゅう。ぴんいんはイエングワンビー。漢字はおそらく蛍光笔……って,ええいへんかんがでない。わしもつかれてきたけど すまほもらりってる。いちどさいきどうしてみよう。

京路,という地区らしい。T字を曲がった,中山公園バス停で待つ。1456。
 この対面にも向陽坊。やはり厦門近郊だからでしょう。
というか,全く目をつけてなかったけれどこの辺りは一番活気あるエリアらしい。寿司屋もある。沙茶面の店も多い。

▲1440瑞京路エリアのお洒落カフェ

金湖村湖内福徳正神廟

503,33路乗車,市医院まで。
 左折。バス停人民劇場。
 バス停漳州一中。銀行とコンビニが多い。マックもあるぞ?
 1510,市医院下車。路線ルートによると18路線通過?えらく交通要所なんだな。
 さてと。西の芝山路を北行だな。左手に国防大厦。日本にはなかなかないネーミング。

▲1513国防大厦=「国防マンション」

529,やや入口に惑ったけれど,この……福徳正神廟のある三叉路でしょうか。
 どちらに進むかでまた迷った上で,左を選択。住所表示は「金湖村湖内」とある。
 おお?行き止まりかもと見えた道は左折して,まだ続いていくようです。

▲1528「金湖村湖内」入口の三叉路

■メモ:斜道は牛庄を抜けて東へ続く

 また斜道(m071m第七波mm柑仔市/■レポ:柑仔市→浦頭→過溪について現時点での知見)にこだわってるとはシツコいと思われても仕方ないんですけど……歩き終えたはずの斜道が,どうも東獄宮では終わってなかったことに気づいたからでした。

「牛庄」ブロックにはなぜ行ったのか?

 行き着けなかったので本文で触れませんでしたけど,元々ここを目指したのは,次の★地点をXに見立ててたからでした。

▲百度地図(航空写真)「牛庄」南ブロック

 今見ても,Xマニア(何だそれ?)垂涎の画像です。
 もちろんドットが細かく配置が乱雑,という基本は満たしてますけどそれ以外に──まず,中央部の不整形な緑地。形状は神域あるいは島を思わせます。
 さらに,南側からの入口が見当たらず,北からのみ,それもひどく湾曲した道でしか行程が取れない道配置。袋小路のような異様さです。
 最後に,ここの周囲からの浮き方。東西南とアパートらしき整然たるラインが多量に見える中に,頑強に抵抗するが如き相です。
 斯くしてその全貌は?!──というと,前述の如く憎い牛のために解明できなかったわけですけど。
 と,辛い思い出を噛み締めつつ地図を睨んでおりまして気づいたのは……このブロックのすぐ西の斜道「北端」・東獄宮付近の延長線でした。

飛び石状に続いている新華東路

▲牛庄東西に続いている新華東路

 確かにそれは丹霞路で途切れてる。でも,どうやら牛庄エリアだけ途絶えた東側では,同じ新華東路として続いてます。
 新華東路は,どこかの時代に牛庄の地筆で分断されたと見てよい。それ以前は東西の一本の道だったのでしょう。
 この東の道は,さらに東の川端まで伸びてます。
 それを東獄宮以西と合わせて繋ぐと,次のような弧状ラインになります。

旧斜道:頭浦港を囲む半弧

▲斜道の北側延伸路?らしき道「新華東路」

 この半弧が,かつての頭浦港商業エリアの陸地側の境だったと推定できます。
 なお,このラインは解放前後のものらしい下記BTG地図でも確認されます。ちなみに漳州石牌坊はこのB~C辺りで,統治側も半弧を意識してその中央に門を築いたことが推測されます。

▲再掲BTG地図(指差し位置は柑仔市)

何かが在った1km平米

 だから何?というところまでしかやはり行き着けないんですけど……もう一つ記しておきたいのは地名です。この1km平米強程度のエリアにある「笃后」「上厝」という理解しがたい地名。「新華東路」ももちろん解放後の改称でしょうけど,旧称は見つかりませんでした。
 何かがかつてあったこの地区は,現在相当の執拗さで新市街に上書きされてます。パッと見ると単に格子状の道が走ってるだけに見える。つまり統治側が否定したい何かであったとも推測できます。
 前章で引用した俗語「岳口囝仔唔驚鬼,新橋囝仔唔驚水」の後半,新橋の子どもは水に驚かず,の世界です。
 次章巻末では,それに繋がるかもしれない民俗事象に触れていきます。