m073m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm新華東路

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

発作的に降りると斜道に戻ってた

スターミナルから1038,30路で市内へ。市内に方向転換する。以下,当時のメモをそのまま掲載してみます。
「左折。清華園バス停。文華園市場バス停。丸い陸橋の交差点。右折
モーター車城バス停
左折。天下広場バス停
九竜公園北門バス停
北へどやどやした通りが見えたので発作的に下車
1045勝利東路を東行。中共漳州市委党校
南に茶葉の店がずらり
あった。何と斜めの道、新華東路でした。1052北行」
 ということで,何のことはない,柑仔市からの斜道の北側を歩くことになったのでした。

▲1053新華東路の勝利路から入った辺り。斜道に戻ってきました。

▲前掲BTG地図より。矢印部が「柑仔■」だからその北辺りです。

▲1054市場が広がり始める。右手を歩く貞子風の女性が不気味ではあるけど,見なかったことにする。

勇壯簡易 所向無前 閩越雄聲 楚滇偉積

い市場道です。どやどやしてるけど明るい。
 前方に石門が見えてきたぞ?1059,くぐる。石門の銘には「勇壮簡易」とあります。
 まさかと思いつつ調べてみると,何とこれが他3基と合わせて国文級の文化財になってます。

▲1059「勇壯簡易、所向無前」坊の石門

口街兩座石牌坊為「勇壯簡易、所向無前」坊和「閩越雄聲、楚滇偉積」坊,均為東北-西南向,建於清康熙年間,兩坊間相距159米。「勇壯簡易、所向無前」坊為清康熙四十六年(1619年)賜福建提督、左都督、掛鎮朔將軍印的藍理所立,坊寬10.63米,高12.5米。「閩越雄聲、楚滇偉積」坊為康熙六十一年(1722年)賜福建全漳總兵官、左都督許鳳所立,坊寬11.2米,高12米。
※ 維基百科/漳州石牌坊

 あと2基というのは香港路にあったアレでした。

▲1101タオル!──じゃなくてこの屋根裏の構造もまさしくレトロ。

 だから何?──という情報を維基は全く提供してくれないんですけど……ともかく清代には香港路(当時の雙門頂)と並ぶ重要な街路だったらしい。
 つまり,東の浦頭港からの入口ということです。

子連れオカンの頭上に後光

▲1105真っ赤な看板下から麺食う人々を覗き見る。

にかくパッとした店がない。昔ながらのワサワサッとした軒並みが連なる。
 上海の四牌路に似た感じです。

▲1107おそらく昼休みの子どもを連れてくオカンの頭に後光のような日傘

ッ,この行き交い始めた子どもの影は……。
 そう言えば昼休みの下校時間と重なってる。こんな細い道で,しかも脇道は妙に少ない。このシチュエーションで何度も地獄を見てきたので戦慄が走る。

▲1108うーん,ヤバいなあ,子どもの姿が増えてきたなあ。絶対近くに学校があるなあ。

台風の目に突っこんでました

市路をまたいでまだ先に門がある?」と,この辺りでやっと驚いてます。
 1111,第二門過ぎる。「閩越雄聲,楚滇偉積」坊だったはずのこの門の真下のお店が,下の写真。

▲1111雑然とした,というか何屋なのかも分からない店先。門のおかげで細い道がなお細く,渋滞ポイントになってる。

や?門のためばかりじゃなく,店と客の密度が濃くなってきたようです。この辺りが繁華街の中心みたい。
 まさか?このタイミングで来るなよ?
 と背筋におぞぞが走る。すると──おおっ!

▲1112道か?これは道なのか?

こか!何と台風に飛び込んでしまっとるぞ!!
 1114,岳口実験小学校門。まさに昼休みの下校時間,子どもに加えて迎えの親とその車両で……ひいいっ!謝るから許してくれえ!!

HIROSHIMA・ラブ・ミルクティー

▲1122出口のお宮

うやって抜けたものか記録にも記憶にもありませんけど……ここの出口にも岳口徳進廟(巻末参照)がありまして,非常なる安らぎを感じたのは覚えております。
 いい道だったけれど,どっと疲れた。丹霞路の「1/2tea」というカフェらしき店に腰を据える。
「広島之恋奶茶」?お薦めメニューになっとるけど何?
 広島より疲れをとる方を選び「青檸之夏」(青レモンの夏)をチョイス。カフェというより台湾ドリンクバーに近かったけど,こういうとこは段々増えてきました。たまにアメリカーノとかある店も見かけます。

■小レポ:「岳口徳進廟」に関するエピソード2つ

 この廟は「漳州東嶽廟」の方が一般的らしい。確かに表には「岳口徳進廟」と碑が出てるけど,これは東嶽廟の建物の一つらしい。
 つまり,この時感じた以上に,かなり大きい廟でした。

岳口の子どもは鬼に驚かず

「岳口囝仔唔驚鬼,新橋囝仔唔驚水」という漳州の成語があるという。
 最初読めなかった。「囝仔」(子ども)はそんな表現もあるのか,という程でしたけれど,「唔」は完全に分からない。調べると広東から閩南の方言で,否定詞だそうです。

漳州有句俗語:岳口囝仔唔驚鬼,新橋囝仔唔驚水,說的是岳口的孩子經常在東嶽廟玩耍,對閻羅殿的鬼怪見怪不怪。同樣的,新橋的孩子住在南門溪(九龍江西溪經過府城這一段)旁,天天玩水,自然也就不怕水了。今天我要帶大家看的就是東嶽廟。※ 毎日头条/漳州東嶽廟,岳口囝仔唔驚鬼

 つまり,岳口の子どもは鬼を見ても驚かない,新橋の子どもは水を見ても驚かない,という意味でした。
 東嶽廟のエリアを「岳口」と呼ぶらしい。ここの子どもは,東嶽廟でよく遊んでいるから,そこに沢山ある鬼の像を見慣れてる。
 中国語の鬼は,日本語での「桃太郎の鬼退治」の鬼ではなくて,幽霊一般も指す。もっとはるかに暗い,不明瞭なものを指すから,これに驚かない,という表現はかなり強い。
 水に驚かない方にもまた別に惹かれたのですけど,それはまた章を移すとして──そんな暗いイメージの「東嶽」とは一体何でしょう?

東嶽信仰:北とは違うのだよ北とは

 淮安編で東岳信仰は単に,泰山を神体とする信仰として扱いました。→※ /※5444’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:楚州中学育才路/■小レポ:東岳廟にヒーロー大集合
 確かに淮安でのそれは,神様ワンダーランド的だったんですけど,どうも南部のはそういうハジけたものじゃない。
 下記水越さんの論文では,宋代に流行した民間信仰で,東岳・泰山の信仰と同根ではありながら,官を離れて民衆化し,本来持っていた地獄信仰の色を強めたものを指すらしい。

また潭州では陳淳『北渓大全集』巻四七の「上露寺立論淫祀」にあるように、
  三月二十七日を以て嶽生の辰と為す者は、又た何にか拠ると為さん。両論の男女混雑し、昼夜を徹してこれに朝礼し、以て嶽廟に会して入門すれば則ち群潤し、亡者の為に祈哀し、以て陰府繰維の脱慶と為すと謂う。侍者亦た慰め他日の祈と為し、これを朝生嶽と謂う。州に州嶽有り、近城の民朝会す。邑に邑嶽有り、環邑の民謡会す。
など、異常な盛り上がりを見せていた。
※ 水越知「論説 宋元時代の東嶽廟 地域社会の中核的信仰として」

 この論文で漳州に触れたのはこの箇所だけで,漳州が特にというわけではないようですし,それが現・東嶽廟を中心にしていた確証もないんですけれど,邪宗と見られつつ一時大流行した信仰だったことは確かです。
 一説に,北から福建への移民が持ってきた,というけれど,水越さんの論文後半でも北の東岳信仰とは明らかに異なることまでは言及されてる。
 ただ,では何なのかはどこにも語られてませんでした。