m076m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm湖内

▲百度地図航空写真。ここはGM.,百度ともなぜか全く道が取れない。実際には私道とは思えない道が縦横に走ってる。

金湖村湖内の半月路

▲1530光に融けるような黒服

湖村湖内」という住所表示の場所らしい。1529,東行してこの集落へ入る。Xはこの奥の地点のはずです。
 三叉路に福徳正神廟。古くはここが集落中央だったかもしれない。左へ。

▲1533所々に古い石垣跡

き止まりかと思いきや,道は左折してまだ続く。
 所々に岩壁残る。これは,相当崩してあらかた撤去したけれど,それでも撤去しきれない部分が残ってる,という感じです。

中腹の台地の木陰道

▲1536わずかにパティオ風

い坂を登りきった辺りで,見ようによっては広場に見える,道幅の膨らんだ場所に出ました。
 そこから中腹の台地のような地勢になり,道はまだ続いてました。
 うーん微妙。外れにも思えるけれど,そこはかとなく雰囲気をはらんでもいる。

▲1537街路樹の暗がりに車道が伸びる。

200番代,壁の隙間

539。260番地が一番奥で,その先は芝山公園に抜けてました。
 園内地図を覗くと,公園の北側に池が3つ。昔の濠の跡でしょう。ただ地形や地名を見る限り惹かれるものはない。西は空軍幹部クラブと技工学校。
 この地図には,今抜けてきた集落に「湖内村」とある。この湖とは何だろう。

▲1554隙間から出れた。

546,引き返す。
 254号の対面で右折してみる。番地は200番代に。袋小路でもやむを得ない,と覚悟してましたけど,幸い,細い壁の隙間から出れました。ただこれを道と言っていいのかどうか……。

▲1556隙間を抜けた集落の中

の金湖村行,隙間を抜けたこの辺りが実にエキサイティングでした。
 どこが?──と言われると,ウウッと呻いて自爆するしかないけど,地図もなく標識もなく意味も分からす,あるのは勘だけ,というステージです。しかもその勘に反応するものは無数にあるんである。

位置情報ではX地点

▲1556割と広い道があります。

字路。直進。
三差路。直進。ad191」
としかメモしてない。相当にテンパって,つまり愉しんでました。
 大体,半月弧を描くように登った坂の帰り道,半円の中心に入り込み,そこからさらに弧の逆側に潜って行った格好です。

▲1557木陰の道

度地図の位置情報上はほぼマークしたX地点です。
 おおっ!上の写真のさりげない木陰なぞ,凄いじゃないか!
 ──どこが?
 ウウッ,ドガーン(自爆音)。

▲1558と思ったら出口はまた隘路

んでいくと,道が急に細まりました。
 ここは……何というか,Z字が連なるような路地になってました。傾斜は緩い下り。家の隙間という風でもないのになぜこんな道ができるものか,訳が分からないけれど,道はそっちしかない。

どうぞ二階へお上がりなさい

▲1600無茶苦茶不安になる道です。

字ということは先が全く見えない。次を折れたら行き止まり,でもおかしくない。
 と思えばこんなカワゆい看板も。「請上二楼」──二階へお上がりください,って?上がんねーよ。怖くて。

▲1602路地奥に「請上二楼」……注文の多い料理店かよ。

犬に吠えられる。三叉路。左へ。」
 逃げ場のない,というか逃げるなら引き返すしかないこの状況で,この犬の吠え声はホントに怖かった……。
 でも何とか出れるらしい。けれどどこへ?

▲1603ビルが遥かに

生なんとか,つまりゴミ回収場の横に出た。入った場所より少し北でした。ともかく車道へ生還したぞ,どうじゃ,がははは。
 何が?──ウウッ,チュドーン(爆破音)!
▲中国煙草「芝山」

■小レポ:芝山寺町に関する断片情報群

 芝山のことは,本当に情報がない。
 漳州城域北西角,京都で言うと嵐山に当たる。湖内という地名からも唐宋城以前,おそらくこの扇状地が水域だった頃に唯一水上に出ていた山の跡で,住民の感覚上は極めて重要な場所に思えるけれど,それでも何も出ない。
 感覚的な重要ぶりは,上掲の煙草の銘柄のほか,漳州からの台北移住者が,士林北部の丘陵に「芝山」名を冠したことでも分かります。

台北に再現された芝山

士林区の至誠路一段と雨声街の交差する位置にあり、双渓川に寄り添う緑豊かな生態系と文化史跡を有する大規模な自然公園です。公園の名称は、清朝・康煕時代に福建省漳州から淡北・士林一帯に多くの人々が移り住んだことに由来し、公園の地形が福建省漳州域内の芝山の地勢に似ていることから命名されました。(略)公園内にある100年の歴史を持つ古寺「恵済宮」は清朝・乾隆17年に建立され、1979年内政部により第三級史跡に指定されました。内部には開漳聖王が祀られています。
※ Taipei Travel/芝山公園

▲[後掲]台北芝山巌恵済宮祭壇

 何の偶然だったのか,この3日後の帰路で台北の巌恵済宮を訪れてます。→m104m第十波mm巌恵済宮(台北)
 漳州人にとって故地そのものとダブルイメージになってるような山……ということのほか,この台北の方が芝山のレプリカになってるのだとすれば
①自然の豊かな
②宗教的に重要かつ霊的に高いけれど
③気が向けば市民が赴ける
場所が芝山だとモデリングできます。
▲かつてはこの山麓に祠が多数建って,いわゆる寺町の風情だったことがわかる。
※出典 BTG『大陸西遊記』~福建省漳州市薌城区~:明~清代のものと思われる地図

宗教地としての芝山

 上の地図では,今回歩いた山麓辺りに点々と祠があったことになります。──この辺,まさに京都の化野を連想させます。:wiki/化野
 芝山の地名由来としてあちこちに書かれるのは,明初頭,山上に「紫芝草」が生えて「こりゃ縁起がいいや!」と山の名前に付けた,というもの。この文脈には神奇なものは登場しません。

芝山原名登高山,明洪武十三年(1380年)山上发现紫芝草,知府徐恭以为祥瑞征兆,上表朝廷,后得赐“紫芝山”之名,俗称“芝山”。(略)自古以来,深得民众喜爱,成为城区的风景名胜。文人墨客经常登临吟咏,留下不少优美诗文。
※ 百度百科/漳州市芝山公园

 どう考えても胡散臭いこの紫芝の話は,むしろ理由なしの神聖さをこの山に付与してます。不思議なのは,それにも関わらずこの霊地に中心的な施設がないことです。

文献上の芝山

「留下不少优美诗文」──少なからざる優美な詩文に名をとどめる,というのは確かなようで,先述の「電子化計画」で漳州府誌から「芝山」を検索すると,ヒットは山のようにあります。

風姬將戰天色驟變風從西北起忽巨雷一聲雲收霧散束南風太何我軍遂揚帆大進屯止芝山之聖德神威所感召而人力要不可誣也先是海氣弗靖于大陸以渾外為中路以障浦海澄為左右路設斗鎮總尸兵官水則海澄銅山送置遊擊副將提督總兵官豐雖
※漳州府志 : 漳州府志卷之二十四 兵紀下25 – 中國哲學書電子化計劃

 簡単に言って「芝山の神徳」で行軍できました,感謝してます,という内容でサブ情報がまるでない。信じられないことに全ヒットがこんなものでした。芝山にある□□堂で……という類の記述ばかりで,では芝山は何なのか,そこはほぼ認識が深まらなかった。
 この豆腐に釘を打つような手応えの無さがむしろ異様です。

画像に残る芝山

▲1950年山頂(威鎮亭)から撮影
漳州芝山三亭-闽南侬文化传媒
 1950年代の記録が僅かですが見つかります。上は山頂から見下ろした写真です。
 この山に登った記録として何ヵ所かで見かけのが,どうやら中学生の作文らしい次のもの。こういうものしかないというのが市民の常景だったことの証明でもありますけど,山頂に「芝山三亭」と呼ばれる建物があり,山の象徴だったようです。

1958年,(個人名)读小学四年级时,就利用星期天爬芝山。他仍记得很清楚:山上有三座石亭,爬到亭上,从亭中俯瞰广阔的漳州平原,顿觉豁然开朗。他记忆中的三座石亭就是老照片中山峰的“芝山三亭”,原来的威镇亭、仰止亭、甘露亭。老照片展现百年前“芝山书院”风华 – 每日头条

 前掲文化传媒ではこの引用の続きに「最近同じ場所に登ってみると空軍基地が出来ていて失望した」という意味の記述があります。
 さて,山麓側から見上げた写真も2つありました。
▲年代不詳,西洋人の撮影した芝山山麓からの画像[前掲文化传媒]

 下記の画像には出典について少し注釈がついていて,上記も性格的に同一の出所かもしれません。そうだとすれば,特段の目的や偏向もなく,単に旅行者の気まぐれで撮影した画像だということになりそうです。

▲19C厦門伝教士撮影写真
※ 前掲每日头条 「这是厦门的外国传教士或旅行家的摄影作品。只见在黑白的老照片上,用英文标注着“THE Gentry College at Chiang-chin,Amoy”,翻译成中文就是“厦门,漳州贵族学院(大学)”。老照片上所属的拍摄时间是十九世纪末。」

 いずれの写真にも,建物が幾つかあるのはわかるけれど,大伽藍と言えるような目立つものはない。概して荒れた寂しい傾斜面です。
 つまり,山頂部まで人の手が入ってます。
 そもそも,名前の謂れになっている「紫芝草」を見つけるのは,そういう禿げ山であってこそ納得できるエピソードです。
▲「漳州芝山公园旧貌」漳州市芝山公园_百度百科

激動の経験者としての芝山

 現地で見たところでも,上の百度百科写真からも,とてもそんな禿げ山ではありません。百度百科の記述でも,現在の再開発までの間,「竹林茂密」竹林が繁茂し「蚊虫滋生」蚊や虫だらけの土地だったとあります。

但因多年岁月侵蚀,园内设施和绿化都有不同程度的损坏。而且芝山公园可以说濒临荒废,园内竹林茂密,但是竹林中垃圾成堆,蚊虫滋生,整体上显得杂乱无章。[前掲wiki]

 1950年代から半世紀の間に,それまで里山で,かつおぼろげな聖域だった芝山は,何らかの理由で立ち入ることの出来ない場所になっていたらしい。
 芝山を検索すると,「芝山紅楼」というのが相当数ヒットします。1932年に毛沢東が漳州を攻め落とした際の居所で,アメリカの教会立の中学校長公舎を接収したものという。

1932年春由毛泽东率领红军第一、五军团组成东路军东征闽南,4月20日攻克漳州城。芝山红楼原为美国基督教会创办的浔源中学校长楼,为西式两层红砖楼,毛泽东住楼上。:維基百科/毛泽东居所列表

 山頂部が空軍に接収されていた,という記述にも先に触れました。また,龍眼营近くの「戦備大橋」の名称もご紹介したところです。
 漳州は台湾対岸です。統治側としては,特殊な管理下に置かなければならない土地,という発想は自然でしょう。八卦楼が文革で破壊されたのも前述のとおりですけど,この町の文革は凄まじかったことを窺われせます。
 その記録は一切見つかりませんでした。ここまで探して見つからないのは,むしろその徹底度を疑わせます。
 従って,極めて薄い状況証拠しかないのですけど……芝山麓の宗教施設群はこの時期に痕跡もとどめぬほどに一掃された,と推定できます。
 最後に,芝山山麓の伝統施設の一つ,漳州丹霞书院という学術施設を引き継いだ漳州第一中学の校史に,こんな記述があったことに触れておきます。

校长 尹杰民 1960.11-1968.09
革委会主任 左伯衡 1968.09-1969.12
革委会主任 王佩清 1970.03-1973.03
革委会主任 王佩清 (文革期间校党支部一度停止活动
校长 梁逸群 1977.09-1984.6
福建省漳州第一中学[福建省漳州第一中学] – 头条百科