m104m第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m巌恵済宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

参道は消えず 五段801

▲1543フォルモサ,すき家,孫東寳,BOULANGERIE NOGAMI(ノガミ)と並んでた福國路

挙に北行。台北中心市街から,淡水信義線にて芝山へ。
 1527,下車。巌恵済宮を目指します。
 1543,福國路南行。フォルモサ卤肉飯とすき家が並んどる──のは,知りませんでしたけど……この辺はマイナーながら日本人タウンらしい。
 孫東寳というステーキ屋が人気らしい。この時間にもかなり人が入ってる。看板商品の190元の牛排は確かに良さそう。
 あとパスタが人気なのか,あちこちに店を見かけます。BOULANGERIE NOGAMIという麺包店にも客多し。──これも日本人街ゆえでしょうか。
 1553,T字を右折。ガード下を南へ潜る。……ってこの道,げげっ,中山北路なのか!?
 焼肉一心堂。甲冑が置いてあるぞ?誤解されとるぞ,現代ニッポン?

▲1556中山北路五段801巷

山北路五段801巷に提灯の行列。方向から言って宮までの西参道でしょう。中山路に両断されても参道は生きてる,ということか。

始まりの樹海に鬼が背を伸ばす

▲1601宮の前の交差点

渓路という道で東行。1559。ここのバス停から206路のバスが台北中心部・小南門まで運行してる。
 至誠路二段から一段へ南行。1606,北にファミマ,南にセブンの交差点。その向こうに見えてきた小山が宮らしい。

▲1614芝山巌恵済宮の正面入口階段

山巌恵済宮の門に着く。1608。
 階段に段数が書いてある。今百段目を過ぎたとこ。
 鬱蒼とした山林です。台湾開闢当時の原生林の名残りでしょうか。

▲1616途中の背伸び鬼

威は夏日の如く 恵みは春風の若し

山岩」とある岩のゲートを過ぎると,真っ直ぐだった階段がくねり始めた。概ね右手東方に向かって折れた格好です。まるで城砦のようなおどろおどろしさを感じる配置。
 226段目上にさらにゲート。開漳聖王の記名とランタン。

▲1617結構続く階段

うしてついに我々は(一人だけど)芝山巌恵済宮本殿にたどり着いたのである。
 そこにはそれはそれは豪華絢爛,当代の技巧の限りを尽くした美しき伽藍が……あるのかと思ってたんだけどね。
 おおっ,しかしこれはこれで壮観である。この行程がなければお宮とは,どころか中に入る気はしなかったかもしれないぞ。

▲力一杯工事中の正殿

を取り直して内部へ……入れるとはとても思えない外観ですけど,まあ入れました。戸口の対聨は
左「济威如夏日漳気掃盡頼王功」
右「恵澤若春風闽暴歸誠昭聖徳」
 大きな宮です。左右に三壇。主神の手前にも十柱ほど神様。見たことのない雰囲気の神々です。みな顔が闇のように黒い。

▲祭壇。主神は开漳圣王(開漳聖王)。

漳州府の看板を掲げた日

内へ出ると南に見晴らしが開けていました。台北101……だよなあれは?
 かなり眺望もきく場所です。軍事的には要地になりうる地点だと思う。

▲南を遠望。手前の石掘り文字は「[雨/月]遠教化被閩臺」

の台の周囲のゴッツい石彫り群には,どうやら漳州裔(漳州出身台湾移民)の歴史が描いてあるらしい。
 モチーフは,美術的とは言いにくいチープなものに見えるけれど,それだけ露骨な地元愛,というより執着のようなものを感じます。

▲「漳州府」の看板を揚げる,のレプリカ

鳥の音 雨の聲

の入口,ファミマとセブンの間にて206路を待つ。1642。バス停の名前は「名山里」。──有名な山の麓の郷,という,これも露骨なネーミングです。どうもいちいち,独特のセンスの匂いがある。
 目の前ファミマ,左後ろにセブン。右手に山門,左手に信号のある十字と中山路の高架。

▲1643,名山里バス停にて

思議の場所です。
 何てことないのに落ち着くスポット。ここは一時は漳州裔の城砦だったのかもしれませんけど,太古から純粋に聖山として祀られてきたのでは……という感覚を覚える。
 微かに残照の気配。鳥のさえずり。
 このファミマセブン前の南北道は雨聲街と名付けてある。調べると,芝山の周りを馬蹄型に巡る道でした。謂れは分からない。
 ただ,この道の名の唄がある。

■小レポ:漳州裔の最後の砦・巌恵済宮

 ワシはこの日,3つ目の媽祖宮に行く気で巌恵済宮を訪れてます。どこかで間違えたらしい。
 士林三大古廟という言い方がある。士林神农宫,士林慈𫍯宫とこの日訪れた芝山巌恵済宮だけれど,媽祖を祀るのは士林慈𫍯宫の方です。巌恵済宮には観音が従神として祀られるから媽祖宮と言えなくもないけれど……。
[所在地] 台北市士林区名山里至诚路一段326巷26号
[創建年代]1752(乾隆17)年
[主神] 开漳圣王(開漳聖王)
(従神) 观音菩萨(観音菩薩):1階後殿
孚佑帝君:1階右房
文昌帝君:2階
(1)維基百科/芝山岩惠济宫 位於士林的直轄市定古蹟
※※出典:洪扬才. 《一周專題﹕台北古蹟遊(四)》 芝山岩隘門歷史古堡壘. 《联合晚报》. 1988-07-28 (中文

 これら基本属性だけでも,この宮の異様さは察知されます。
 まず住所の複雑さ。由緒ある町にしては3桁代の番地名は,いかにも行政的におざなりにされてる。
 次に創建年。龍山寺開山の1738年の14年後に,この地区が宮を必要とするほど人口を擁してたんでしょうか?どうやら1752年というのは,この宮に関する史料に登場する最古年を持ってきただけに思われる。要は,艋舺地区に匹敵する伝統を有すことを誇示しようとするバイアスが働いてる臭いがする。
 1752年にあったとはっきりしてるのは──

芝山岩上庙宇创立、历次修建与合并的年代有多种不同说法,可确定的是乾隆17年(公元1752年)时,地主黄国聘(生卒年不详)献出土地,由当地仕绅吴廷诰(生卒年不详)召集乡人捐献资金
(2)芝山岩惠济宫-台湾宗教文化地图-台湾宗教文化资产

黄国聘という人が宮の建設要地を用意したり,吴廷诰という人が建設資金を献金したこと。しかもこの二人とも,他に名前を見ない人物らしい。宮の竣工はいつとも知れないし,献地献金の話が全くの創作ではないという裏取りもできません。
 最後に祭神です。開漳聖王が漳州伝統の神であるのは分かる。けれど観音と文昌帝君はどちらかと言えば泉州裔系の神。孚佑帝君となると道教の大衆神で,清代の流行神に見える。賑やかしにしても奇妙な組合せです。
 何があったらこういうことになるのか,当時から途方に暮れてましたけど──同じ維基百科にあった次の15文字の一文がようやくキーになりました。

咸丰九年(1859年)的漳泉大械斗,漳州人大败,退守此地[前掲(1)維基/芝山岩惠济宫]

1786年林爽文事件鎮圧時

 18世紀後半から19世紀半ばにかけて,このエリアが漳州裔(漳州出身台湾人)のモザイク的居住区だったことは確からしい。
 というのは,この時ワシは見つけれてませんけど,巌恵済宮には多くの墓が残っていて,それは次のように17世紀末起源説と18世紀半ば説のいずれかで説明されているからです。いすれも,なのかもしれません。

乾隆51年(公元1786年)林爽文反抗起事,叛乱扩张到台北,从八芝兰街逃至圆山仔上的漳州人皆被杀害,地主黄文欣(生卒年不详)于是将圆山仔捐出交给公众管理。乾隆53年(公元1789年),士林地方人士募款于山上修建墓冢;咸丰9年(公元1859年)台北漳泉械斗在山上战死之尸骸也合葬于此墓冢,称为「同归所」,同受庙方管理。另外,也有说法提到芝山岩是在乾隆53年(公元1789年)才创建;[前掲(2)宗教文化地図]

 このエリアで発生した,二度の漳州人ジェノサイドをこの文章は語っています。
 この時代,八芝兰街という町がありました。場所は,この日下車した芝山駅南,中山路をくぐった辺りだったらしい。後に略して芝兰街,あるいは芝兰(芝蘭)とも呼ばれるようになった。──位置からすると,艋舺と同じく僅かな高みを持って淡水河に突き出た岬の先の町だったと想像されます。
 前段にあるのは林爽文事件。この時に芝蘭から圓山に逃げた漳州人難民が皆殺しにされている。巌恵済宫にあるのはその時の犠牲者のものという。
 林爽文事件は,一般に清朝の台湾支配下での内乱と説明されますけど,どうやらもう一つの側面として,泉漳械闘の初期形態でもあったらしい。というのは,林爽文が核とした天地会という組織が,漳州人を中心とした幇でもあったため,泉州人が清朝と結んで「反乱勢力」と一緒に漳州人を叩いたからです。

随着林爽文势力大多属于台湾漳州闽南人系统,(略)双方向来有宿怨,于是全台湾爆发大规模的漳泉械斗,不少台湾泉州闽南人自组“泉州义民军”纷纷自卫,配合清军围攻、抵抗以漳州闽南裔台湾人为主的林爽文势力入侵家园。
(3)維基百科/林爽文事件 1787年清領時期台灣民變

「泉州義民兵」と称する泉州人私兵団を清軍が容認したことは明らかで,この義軍が林爽文勢力以外の漳州人も襲っていった,というのが事実のようです。
 この時の漳州人側の被害の規模は,語られたものが見つかりません。けれど芝蘭エリアは一度壊滅したと推定されます。また,巌恵済宮の創建年が1752年で正しければ1786年の反乱時に既に宮は存在しますけど,この時の経緯に巌恵済宮は登場しません。
 さて,後段の19世紀半ばのものが,現代に伝わる大械闘と呼ばれるものです。

1859年台北泉漳大械闘

“当时系与泉人战亡。乾隆间,漳、泉分党乱,漳人多避于八芝兰林石角之圆山上。泉人环攻之,乘漳人窘时,佯言曰:‘凡下山发辫相纽者,视为平人,皆勿杀。’于是漳人囗囗者,多相纽发下山,泉人皆杀之。”[前掲(1)維基]※出典:陈捷先. 台灣族譜、古契中所見先民開台的艱辛. 《联合报》. 1985-10-25
※※原典:宜兰《黄氏族谱》乾隆年间在芝山岩上的泉漳械斗记载

 一次史料として宜蘭に伝わる「黄氏族谱」の上記記述があります。この時も芝蘭から圓山に逃げ込んだ人々が多くいて,泉州側が民間人は許すと投降を誘ったけれど,それを信じて下山した漳州人は皆殺しにされた,というもの。
 もう一つ,一次史料を挙げます。鄭用錫さんという進士の残した「勸和論」という著作です。

顧分類之害甚於臺灣;臺屬尤甚於淡之新艋。臺為五方雜處,自林逆倡亂以來,有分為閩、粵焉,有分為漳、泉焉。……淡屬素敦古處,新、艋尤為菁華所聚之區。游斯土者,嘖嘖稱羨。自分類興而元氣剝削殆盡,未有如去年之甚也。干戈之禍愈烈,村市半成邱墟。問為漳、泉而至此乎?無有也。問為閩、粵而至此乎?無有也。蓋孽由自作,釁起鬩牆,大抵在非漳泉、非閩粵間耳。※(4)林文龍(國史館臺灣文獻館編輯組研究員)「大觀義學與板橋林家」國史館臺灣文獻館-電子報內容
※※原典:竹塹進士鄭用錫曾寫過〈勸和論〉一文,作於咸豐3(1853)年5月,正是淡北閩粵分類械鬥初期

 少し叙情的ですけど,
・(汎地域)台北だけでなく台湾北部各地で戦闘が発生した
・(汎出身地区)主に閩(福建)vs粵(広東)の対立があった
・(汎出身地)同じ閩出身者の間でも泉州vs漳州の対立も前述通り続いた
といった様を憂うる文章です。
 この時の原因は,恐ろしいことによく分かりません。「艋舺普渡祭典」時の漳泉人間の喧嘩を原因とする次のような文章もありますけど,少なくとも理性的な理解ではそれだけでなぜこんなバトル・ロワイアルめいた殺しあいが始まるのか,分かりません。──あるいは,真の社会崩壊状態というのは案外そんな,トリガーさえあれば何からでも始まるものなのかもしれませんけど。

咸豊九年(一八五九)七月艋舺普渡祭典,漳泉人發生口角,引發動武,經地方耆儒等努力斡旋而暫安定;
※(5)芝蘭新街開基者–潘永清

 地域・出身だけでなく,職業や氏族毎の殺しあいも同時発生したとする次のような記述もあります。

規模較小者,如職業、姓氏等械鬥,大都侷限於地區性,而漳泉、閩粵械鬥,則因族群意識的介入,更是一發不可收拾,各地死傷枕藉。其中,咸豐3(1853)年至9(1859)年之間的閩粵、漳泉械鬥,蔓延淡水廳全境,創痛最深,著名的基隆大廟公、桃園大墓公,都是此一械鬥遺跡。[前掲(4)林]

 この時の「遺跡」として挙げられるものには,桃園大墓公も……基隆大廟公も??以前まとめた,そしてこの福建行きの直接のトリガーになった基隆での泉漳械闘も,この時の台湾全土を覆った無秩序の一貫だったようなのです。
※ (@_66_@) 第二日@台湾/再六訪 鶏籠美麗/寿山(@_66_@)/■小レポ:19世紀後半・基隆:何が起こったのか?

1859大械闘下の芝蘭と巌恵済宮

 それでですね,やっと戻ってきた,というか思い出したというか芝山の話ですけど──

八月潘永清公同陳老師進城參加恩科鄉試。其期間台北地方發生大規模械鬥,十月社子同安人攻進芝蘭街焚燬搶掠,稻穗也搶割一空,街內災民全都逃難躲在芝山巖。[前掲(5)潘永清紹介]

 第一段は引用文が触れている潘永清さんが科挙の(おそらく監督者か採点者として)ために台湾を出ている間,という意味ですので飛ばして──1859年10月に「同安人」が芝蘭に攻めて来て「焚燬搶掠」,日本の戦国用語なら焼き働き,乱取りをした。稲穂一本残さないほど徹底していたので,被災民は全て巌恵済宮に逃げ込んだ。──と,ここでは圓山に逃げた人が描かれません。
 ここでの同安人とは泉州同安県の出身移民のようです。後の記述からすると,泉州の街中出身者より貧しい者が多く,当時は最も凶暴と見られたらしい。
 この後,巌恵済宮の籠城組がどうなったのか,激しい戦闘だったことは書かれてるけれど,顛末を綴ったものがない。前後の状況からしても,この「城」の規模からしても陥落したかそれに近い状況になったと想像されます。

經連日奔走督勵,街區復興正有頭緒時,又連續三天籠罩在狂風暴雨中,雙溪發生山洪,情況更加悽慘。潘永清公修書向枋橋林家請假後,就專心獻身桑梓督運物質救濟難民。[前掲(5)潘永清紹介]

 不思議なことに,この時風水害が重なったという。「山洪」山津波が起きて,それが芝蘭の町にとどめをさした。
 漳州人は難民化した。

1859年以後の漳州人

 ここで引用文が主人公にしている,潘永清という謎の人物が活躍したことが,複数の文献に記されてます。

較高,經勘察後,就倡議了「猴年入樹林」的構想,徵得眾人的贊同後,概然負責經始,土地方面慶獲大地主曹七合派下之同意,允個人自由租借,並獻廟地等若干以作公用。於是潘永清公開始細心計劃市街,開文化之先例,先定路線、水溝,然後劃定店舖,使之方正平均,整然不紊,中央劃為廟址,廟前設大廣場以作內外農漁交易之所。[前掲(5)潘永清紹介]

 ややクドい表現ですけど,潘永清さんがやったことは2つ。
①樹林に「難民キャンプ」を設置,ここへ難民を移した。
②旧・芝蘭南方に新・居住区を再建した。
 この②の新・居住区こそ,現在観光客で賑わう士林夜市らしい。その後,日帝統治下で公設市場と位置づけられたこともありますけど,漳州人の新市街が元になっている。
 ただし泉州側の攻撃が終わったわけではなかった。翌1860年に再度同安人は来ている。この記述には「戰書」という語まであるから,宣戦布告があった。漳州人居住区再建に圧力をかけた,ということでしょうか。

咸豊十年(一八六○)七月,同安社子社下戰書約中元節決鬥,潘永清公隨即召開芝蘭一堡防衛會議,作好作戰計劃,佈置陣勢備戰,並嚴厲叮囑「千萬不可擾亂戰機誤大事」掌握先機統御防衛軍,打敗驕橫兇漢的同安漁民。雙方於八月十五日議和,潘永清公乘機會同泉籍廩生李起疇等人調停械鬥,努力塑造和平安寧社會,於咸豊十一年(一八六一)十月達成漳泉全面解兵言和之重任。[前掲(5)潘永清紹介]

 この時は漳州人は「防衛軍」を組織して対抗し,同安人を敗北させている。この抵抗戦を指導したのも潘永清さんだったとある。
 さらに翌1861年の末になって,やはり潘永清が調停して泉漳間の「全面解兵」,おそらく和平が成立したとある。
 これらが本当なら潘永清という人物は,よほどの政治力の持ち主だったと思われますけど……ともかくこれで,ようやく漳州裔側は現・士林地区への再定住の目処をつけることができたらしい。
 つまり漳州人エリア・芝蘭は,ほぼ降伏に等しい形で泉州に敗北した,というのが1861年段階だったと見ていい。巌恵済宮の奇妙な祭神について言えば,当時の風習から言って,泉州系の神である文昌君や観音を並置,あるいは「目附」として置くことで,そこが泉州裔側の半植民地であることを暗喩させたのではないでしょうか。

付記:孚佑帝君と「巌」名

 それでもなお分からないのは,祭神・孚佑帝君です。
 この神は唐代の山西人・呂洞賓(796(貞元12)年頃?)が仙人になったものとされ,名の本来の漢字は「煜」又は「嵒」,これを「巌」「巖」「岩」とも書く。洞賓は字。1元の武宗(13C)から「純陽演正警化孚佑帝君」の称号を贈られたので神仙名又は道教上の称号は孚佑帝君と称す。
(7)wiki/呂洞賓 中国の代表的な仙人である八仙の一人
 つまり巌恵済宮の一文字目の「巌」は,芝山の地形としての巌ではなく,この孚佑帝君の人名を冠したものと推測されます。
 いかにこの神が普遍的で,中国民衆からは関羽に並ぶかもと言われるほど親しまれていたとしても(巻末別記参照),漳州裔・泉州裔いずれの視点からも突飛というか,一人浮いてます。
 なぜこの神を合祀し,施設名にまで冠していく必要があったのでしょうか。
 なお,この人の名前を用いた中国諺に「狗咬呂洞賓」──犬が呂洞賓を咬む,というのがある。悪人と善人の見分けがつかない,という意味らしい。吉川英治版宮本武蔵の「雑魚は歌い雑魚は踊る」などと同義でしょうか。
▲雪村周継作呂洞賓図アップ。仙人にも見えるけど戦隊シリーズの怪人っぽくも見える。

艋舺に残る巌恵済宮伝説:泉州裔側の見た亡霊

 かくして漳州裔の町・芝蘭は消滅した。現在にとどめる遺跡もないということは,かなり徹底的に破壊されてます。写真も,当たってみたけれど出て来ない。
 これだけヤラれてなお新居住区を建設していく漳州裔側の執念も執念ですけど,これだけヤッた泉州裔側にもそれは恐怖心として残って行くのは理の当然でしょう。

传说若能从艋舺龙山寺后方看见芝山岩惠济宫、前方中和慈云岩的灯火,则万华即传出失火[32]。后来信奉艋舺龙山寺的泉州人摧毁慈云岩,之后板桥林家林国芳在板桥重建,即今日的板桥接云寺[33]。[前掲維基]※出典:洪茗馨. 龍山寺的歷史傳說走過二百六十年 名列二級古蹟開鑿「美人照鏡池」居民免遭回祿 坐擁「美人穴」守護艋舺年復年. 《中国时报》. 1999-05-09 (中文(台湾)‎).
胡瑞玲. 漳泉械鬥害觀音媽搬家 接雲寺承繼香火163年. 《联合报》. 2019-07-21 [2019-08-07] (中文(台湾)‎)

 年代が械闘後か否かは定かではない。でも,巌恵済宮方向にあった中和慈雲岩,というのは岩塊あるいは小山だったのでしょうか,ここに灯が見えたら萬華で出火がある,という伝説が残ったと書かれています。
 巌恵済宮,即ち漳州人の怨念,いやもしかすると漳州人の報復攻撃が害をなすのではないか。そういう恐怖が,艋舺の泉州裔に共有されていたのでしょう。
 その「妄想」ゆえのみに駆られて,彼らは中和慈雲岩を破壊し,他所へ移動せしめています。それが現在の板橋接雲寺だというから,中和慈雲岩にも元々何かの宗教施設があったのかもしれません。

ぱっしらん温泉→八芝蘭→士林

 消滅した芝蘭は,地名としてのみ名をとどめています。現在の士林です。もしかすると,漳州裔が言葉遊びとして残しただけかもしれませんけれど。

士林の旧称は八芝蘭林社である。これは平埔族の言葉で温泉を意味するPattsiranの音訳である。後に雅字を以って士林と呼ばれるようになった。
(6)士林区 – Wikiwand

 だから士林観光夜市を歩く時,皆さんには,ほんの一瞬でも,この消えた町のことを思い出して頂ければと思う。かの怨念たちも僅かに浮かばれるかもしれません。

■別記資料:台湾寺廟の主神シェア

 岡田栄照という宗教学研究者が,昭和五年の台湾総督府文教局社会課作成の寺社台帳に記載された台湾寺廟の主神数を整理している。貴重な数値データと思われるし,当面,本章で扱った孚佑帝君の台湾宗教上の位置を確認したく,整理して(神毎に連番を付して改行し句点は除いた)転記してみます。
※ 岡田栄照「台湾の寺廟について(一)」

01 福徳正神を主神とする寺廟数      674
02 王爺   534
03 天上聖母 335
04 観音菩薩 329
05 玄天上帝 197
06 関聖帝君 157
07 三山国王 121
08 保正大帝 117
09 釈迦仏 103
10 清水祖師 83
11 有応公 86
12 三官大帝 82
13 太子爺 73
14 神農大帝 66
15 鄭国姓 57
16 開漳聖王 50
17 文昌帝君 30
17 義民爺 30
19 元師爺 27
20 広沢尊王 26
21 孔子 12
22 地蔵王菩薩 11
22 孚佑帝君 11
以下略
総計175種類の主神が記述されている。

 大陸一般には相当の信仰がある孚佑帝君は,意外にも台湾では22位タイ,ギリギリでリストに挙がる程度です。
 台湾の信仰がいかに地方神に特化しているかを表す数字であるとともに──この超レアな孚佑帝君が巌恵済宮に祀られた点は,台湾信仰上はかなり異常な事態だと再認識させられます。
 させられるのですけど……それが何ゆえなのかはやはり見当がつきません。