m077m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm美食街

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

ガジュマル下のサンタクロース

湖村内湖を背に南へ歩き初めたのが1605。1626,バス停軍分区站で待つ。
 新華北路へ返るのは……5路,901,11,18,33,b8……えーい覚えられんほど路線があるぞ!
 11路に乗れた。運ちゃんに「到哪里?」(どこまで?)と問うから「長途汽車站」と答えておくけど,どこまで行くか考え中だから訊かないでほしかった。あ,この路線は火車站まで行く長距離だからか。
 バスは勝利路を東行。

州賓館バス停。新華路で右折。
 長途汽車站…で降り損なう。てゆーか運ちゃん,訊いたのなら降ろして?
 次の行政中心で下車。
 ここのビルに「天然温泉 游泳健身」とあるのはやはり温泉なのか,それとも語感通りの温水プールなのか。
 ちょうど対面が昨日通ったガジュマル祠だったので,東側歩道へ移動。
 樹の根元に「榕树公」と扁額がある。赤ら顔のサンタクロースみたいな神像です。対聨は左が「黄金送福人」右が「白発知老翁」。見たことのない表記です(巻末参照)。
 それはいいけど,オイそこではしゃいでる坊主。神前だぞ。社会の窓から覗いてるナニを収めろ。

▲榕树公祠

打錫巷のあの店へ再び

夕の味覚が忘れ難く,打錫巷に出たその足で向かってしまいました。
1648家常小炒
梅菜のウマウマ角煮
ピーマンと鶏皮の辛味炒め
ささげの辛い唐辛子炒め
500
 ピーマンと,今日は鶏皮だったと思う。表面がぷよぷよしてて分かりにくいけど。やはり辛味が効いてる。でも昨日ほどじゃなくて旨味の方が強い。何で臓物肉をこんなに上手く使えるんだろう。

▲再訪の家常小炒

さげ豆が,今日はその分辛かった。
 唐辛子が小さい激辛タイプなのでチリリと鋭い牙をむく。強くはないけど八角も感じる。山東や淮陽のより素材を生かした感じの旨さ。
 昨日は既になくなりかけて汁だけかけてもらった角煮が今日はまだたっぷりあったのでゲット。──素晴らしい。角煮と言っても日本や山東のとは異なり,梅菜が渋く効いてる。薬臭いとも言うけど(台湾に似てる!)少し慣れたらこれがいい。控えめな八角ともマッチしてる。
 残った汁は,もちろんご飯にどっぷりかけて頂きました。

▲家常小炒のさりげない店頭

り返しになるけど……この通りはホントにさりげない。
 美食街というのは調べなければ分からない。ワシ自身,後でググって初めて知ったんだけど,僅かに他より賑わいのある,という程度の賑わいです。
 打錫巷を少し歩いて,別れを告げる。

豆ジャンは朝食え

▲貢茶の国際表示

茶の国際表示にまだ日本はない!ガーン!
 とか疲れに任せて変な写真ばっか撮っております。次は文昌閣(東門)ですけど──
 
▲文昌閣と頭頂部を染める夕日

夜食堂」はなぜか中国ではパクりを幾つも見かけます。センスにマッチしてるんでしょか?
 豆ジャンはまあ豆乳お粥みたいなもんですけど……あれを深夜に食べる風習は,おそらく止めた方がよい。朝食え,朝!

▲「…食堂」に掛けてあるのは分かるけど,そんなもんをなぜ深夜に?

錫巷の南北ラインは,しかしどこも美食街ではない。
 宿真裏,こちらははっきり「美食街」と銘打ってあるけれど,ここには全然美食はない。その代わり,全く目につかないけど学校があるらしい。
 最後に一応,と立ち寄ってみたのが運の尽き。下校時間にぶつかったらしい。本日二度目です。
 ひええ。助けてくれえ。

▲美食街の下校風景

くして今回最も謎だった漳州二泊の行程は終了したのでした。
 明朝は一番で再訪となる厦門に向かいます。この夜に調べたメモを最後に掲げます。

華聯商厦→
10路→客運中心站
a3路→桂渓花園 ※渓xi1
長途汽車站→
K1快線・8路❌・11路・18路・901路→悦港新村 ※悦xue4

※BB./厦門
「别称鹭岛, 简称厦、鹭」
「别名
鹭岛、新城、嘉禾里、嘉禾屿、中左所、厦门城、思明州」
「康熙二十二年(1683年),福建水师提督移驻厦门,翌年设立台厦兵备道(雍正五年(1727年)改为台湾道),管理台湾、厦门两地政务。」
※BB./厦門菜
「厦门福安小富春特色菜:酸辣汤、姜丝牛肉、糖醋排骨、鱿鱼豆腐、酒糟黄花鱼、炒麦螺、炒钉螺、冬粉鸭、四里沙茶面、酸菜饭、葱油拌面。
最有名和最普遍的厦门小吃有;沙茶面、土笋冻、烧肉粽、五香、芋包、韭菜盒、芋枣、章鱼、油葱馃、卤豆干、卤鸭、蚝仔粥、面线糊、炸枣、糖葱饼、薄饼、沙茶面、鱼丸、蚝仔煎、麻籽、贡鱿鱼、”翻煎”豆干、加滋螺、花螺、芋馃炸、蚝仔炸、马蹄酥、炒馃条、面茶、虾面、烧豆花、花生汤、炒面线、炒米粉、豆包仔馃等等。」

今回の厦門は閩南中枢都市として歩きます。初回と全く違う厦門でした。
[前日日計]
支出1400/収入1600▼14[115]
負債 200/
[前日累計]
利益  -/負債 487
§
→九月二十日(五)
0847梧村小吃
酸菜,ゴーヤ塩炒,ソーセージ
白粥370
1523如意風味小吃
沙茶面(普通)370
1620澳联西饼
老婆餅250
(ドリアンロール)
1735萬恵香扁食
古厝咸飯
紫菜扁食湯370
[前日日計]
支出1400/収入1360▼14[115]
/負債 40
[前日累計]
利益  -/負債 527
§
→九月二十一日(六)


901バスで行こう

▲長途汽車站バス停にて

649,901路に乗車。本物の長距離バスターミナルのある悦港新村へ動く。
 20分待ってしまった。新華路から左折,水仙大街を東行。ここに南北水路があります。その先にICBC。
 白制服の学生がずらずら降りてく。
 バス停商業城。やはりこの辺りはアパートばかりです。
 ESSO。バス停税務局。晴天です。今日もまた暑くなりそうやね。
 0657,下車。7時ジャスト,漳州汽車客運中心站に入る。この建物には漢庭と速8(いずれも中国ローカルビジホ)が入居してました。

暴れん坊婆さん 甘える

……まさか?
 チケットには「大型車」と印字してあるけど…今改札向こうに停まってるバンじゃないだろな?
 0718。厦門快線と書いてある2号検票口で待ってるけど係員が来ない。さすがにそわそわしてきた。
 0720。席を立つ。厦門行きと書いてある(でも漳州には長途汽車站とある)大型車がバンの隣にいた。でもどちりにもまだ運ちゃんの姿なし。
 0726「シアメン~」とダルそうな声。運ちゃんの客寄せらしい。ということは……隣の3号口かよ?
 幸いなことに,車体はきちんとした大型の方でした。
 着席。座席は1番だったかた一番前に座れたけど,隣が…何でこの無法者的にガサツな婆さんなのじゃ?数人しか乗ってないバスで,なぜ暴れん坊婆さんがわしの隣に?
 真っ赤な巨大スーツケースの他に,黄色と桃色のセカンドバックまでをどかどかどかっと積み上げてる。さっきは「もっと詰めろ」と膝を押してきやがったぞ?
 0730,定刻出発。曙光が眩しい三車線の路面。
 ふいに?婆さんが水筒を突き出してきたぞ?やはりぶっきらぼうな口調でいわく「開不了」(開かない)だって?
 やってみると軽く開く。開くと当たり前そうに水筒は奪われる。──何だこいつ,甘えん坊婆さんか?

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路,バス)

暴れん坊婆さん 暴れる

746ハイウェイは頂の尖った独立峰を右手へ。G15。方向は概ね南。大きな川を渡った。
 九竜江よ,さらば。
 緩い丘陵続く。飛び飛びに大工場。
 道はすこぶるクオリティ高い。片側四車線,本格的なハイウェイです。
 婆さんのセルフォンが大きな呼び出し音で鳴る。それにさらに大きながなり声で婆さんが応える。身振りも凄いので時々腕を叩かれる。
 良かった……速い車で。

~~~~~(m–)mRe.厦門編~~~~~(m–)m






▲車窓に厦門が見えてきた!

804。G319とある厦門への分岐。距離的にはもう6割がた来た。速い速い!杏林と掲げるゲートを過ぎる。
 厦門北站10kmと表示。この町の北站は,市街の島の対岸のはずです。
 高層ビル群が迫ってきた。
▲一番気に入ってた美しき厦門のマップ

美しき橋 ゆるりと渡れ

とか大橋と表示。0812。坂を登って右に湾曲。
 何と?橋の上のここで渋滞?
 下りに入った。島部分との間の海が輝き,長い橋が見えてる。
 いや?今渡ろうとしてるのはその橋じゃないな?手前の杏林大橋へ直進。中洲伝いにかかる形の厦門大橋と対岸付近で合流する。

▲厦門中心部へかかる橋

しい。
 右手に海沧大橋も見えてる。これも素晴らしいM字の陰影の橋。左手に長い集美大橋も望見。厦門にはこれら計4本の橋が渡ってる。
 右手は港湾。左手は小山の向こうにすぐ集落が続く。道は成功大道。長い下りに入った。高崎机場との表示も見える。
 0826,トンネル。婆さんのスーツケースがガクガク動いてる。今にも転げ出しそうだけど,暴れん坊婆さんはもう着いた風情でそわそわしてる。

■小レポ:榕树公≒ガジュマル信仰の広域性

 日本人が「ガジュマル」ワードで検索すると,ほとんど沖縄の記述がヒットしてきます。それがこの「榕树公」というワードにすると,物凄い数の台湾の名樹が画面を埋めてきます。
 ピンインはrong2shu4。

台湾の榕树公信仰の多様性

 台湾のガジュマル信仰は節操がない。以下3件ピックアップしてみましたけど,方向や性格がバラバラで,体系のようなものはとても見いだされそうにありません。

①[彰化県田頭村]九龙大榕公

九龙大榕公,是位于台湾彰化县竹塘乡田头村浊水溪堤岸旁的榕树,树冠约有三千多平方米以上,形成一大片树林,被当地人视为神树。(略)居民认为榕树是佛祖的化身,在1990年代曾传出不少灵验的传说,如祈求找回失窃车、身体痊愈[1]。为其盖的庙两旁树干,也形似青龙与白虎[2]。溪州乡的庙方曾来此举行法会[12]。:維基百科/九龙大榕公
1 獨木可成林 奇樹顯神威 竹塘鄉老榕公的傳. 《阳光彰化》 (彰化县政府). 2008-11, (第十一期) [2017-04-10] (中文(台湾)‎).
2 凌筠婷. 獨木成林竹塘百歲榕樹 蔽天3000坪 盤根錯節 被封「九龍大榕公」 蚊蟲少 樹蔭涼 遮蔽整個堤防 像把大綠傘. 《联合报》. 2013-10-29 (中文(台湾)‎)
12 林宜慈. 無無上天皇陵宮 法會圓滿. 《联合报》. 2000-04-13 (中文(台湾)‎).

「法会」が定期的に営まれています。樹木は仏祖の化身と見なされているというけれど,霊験ある事象が幾つも起こったのは1990年代らしい。つまりかなり最近に起こってきた信仰です。

②[彰化県福興村]永靖古树公

永靖古树公,是位于台湾彰化县永靖乡福兴村、永福路路中央的榕树,被当地人视为神树。(略)居民家中若有有体弱多病的小孩,在中秋节就会来此前祈求并摘下树叶佩带[2][5]。等小孩十六岁时,父母必须再到此树前还愿[5]。中秋节时,陈清扬会请戏班演戏给古树公观赏,附近居民齐聚一堂,为古树公庆生[1]。
※ 維基百科/永靖古树公
1 路中央的古樹公. 《阳光彰化》 (彰化县政府). 2008-04, (第八期) [2019-02-14]. (原始内容存档于2012-01-31) (中文(台湾)‎).
2 杨秀员. 中秋拜樹公保佑小囝仔 永福路老榕傳有神靈 摘葉戴胸前可避邪. 《中国时报》. 1996-09-10 (中文(台湾)‎).
5 杨秀员. 永靖古樹香火盛 傳說大榕樹護佑體弱多病孩童. 《中国时报》. 1996-09-28 (中文(台湾)‎).

 身体が弱くて病気がちな子どもは中秋節(十五夜)に樹下で祈り,帯を巻く。その子が16歳になったら,その父母は樹下で感謝しなければならない。
 ほかに中秋節に,樹下で演劇が演じられ,付近の住民は総出でこれを見る風習もある。
 こうなると,沖縄の御嶽前での集落行事に酷似してます。明確な神像も神名もないけれど村人こぞって集まる場。

③[新北市山溪里代天府圣明宫]千年神猪树公

千年神猪树公,是位于台湾新北市石门区山溪里代天府圣明宫后方的雀榕,被信众视为神树及猪八戒的化身,并在10月10日祭拜此树。(略)拜此树当义子的信众,当天回到庙里换香火袋过炉增添神光,比较讲究的用地瓜叶祭拜,但绝对禁用三牲、猪肉[1][3]。信众也有来求财者[1][2]。:維基百科/千年神猪树公
1 黄其豪、沈继昌. 千年老樹公 聲名遠播《自由时报》. 2007-02-19 [2017-10-12] (中文(台湾)‎).
2 李定宇. 石門聖明宮 百年樹似豬八戒. 《苹果日报》. 2011-12-11 [2017-10-12] (中文(台湾)‎).
3 叶书宏. 雙十神樹豬公聖誕 500份平安點心免費吃 《中国时报》. 2016-10-09 [2017-10-12]. (原始内容存档 于2020-02-20) (中文(台湾)‎).

 ここはお宮の裏です。ただ表でなく裏というのは,元々そちらが先に在った霊地とも解せます。
 10月10日に樹木を祀る。
 信徒には何と猪八戒の化身と信じられてます。廟の中で火を焚いて祀る。地瓜(サツマイモ)を供える。でも豚肉を使うのは禁じられている。
 なお,金儲けの功徳があると信じられてます。

推測される諸点

 ガジュマルに関しては,仏陀が悟りを開いた時の樹が実はガジュマルだとかそうでないとか,共通の信仰母体圏域があるかないかとか,そういう文化的分析がなくとも,単に立派で,かつ「絞め殺しの樹」の生態や魔性めいた気根から自然に崇拝・畏怖の対象になりやすい,と考えても納得はいきます。
 ただここでは,あくまで前者の文化的側面を,過去の検討を補完する形で考えていきます。

キジムナー信仰との断絶

 沖縄におけるガジュマルとキジムナー,さらにそこから延長して「ムン」については,沖縄編で既に触れました。
→FASE62-2@deflag.utina3103#/■小レポ:キジムナーを掘り下げてみる
 台湾の事例にも,これだけ多様なら,「火」とか「金」とか共通する要素が探せないことはないけれど,全般的かつ客観的にはキジムナーのイメージを見いだすのは難しいという印象です。
 ただ,感覚的に,原初の風格を漂わせる素朴な妖怪,東南アジアの「ピー」のような信仰として,共通のものを感じます。
 何でもロゴス化しないと気がすまない漢民族文化圏に,こういう限りなく原初的な信仰が残っていること自体が,むしろ注目に値するように思えます。
 逆に,だからこそ大陸中国では完全消滅に近い状況になってるのでしょう。
▲[前掲記事再掲]キジムナーby出口富美子著・曽我舞画「キジムナーの約束」

開発vs自然保護観点

 香港・観塘の駅横にあったガジュマルは,自然保護の観点が強い形で残されてました。感覚的には九龙大榕公の事例に近いと感じます。
※外伝09♪~θ(^7^ )第九日日_元郎川龍を再訪す【3:観[土唐]のガジュマル特集】@第7次香港
 神格をはっきり持たない樹そのもの。「榕樹公」とか「榕公」とかの語感は,日本語にし辛いけれど単に「ガジュマル様」という感じです。
 漳州の例も,これに近いと思う。香港ほど環境保護一辺倒ではないけれど,沖縄と同じで公園という行政上のお代目を得ての実質的保護です。

キジムナーvs猪八戒

 台湾で,猪八戒が西遊記本体を離れて神格化している気配は,淮水編でのめりこんでました。
※ /※5441’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:西遊記の町/C 豚を登場させたバックボーン:密教摩利支天
 けれど,ガジュマルを巡るイメージが如何に奔放に羽ばたいたとしても,猪八戒に結び付くもんなんだろうか?
 千年神猪树公だけが突然変異体,という面は否めない。でも上記2例目の永靖古树公の,病弱の子どもが帯を巻く,というのはどうやら擬似的な親子関係を持つことを意味するとされ,その種の信仰はかなり例があるらしい。
 何を言ってるのかというと,台湾のガジュマル信仰は沖縄よりさらにアニミズムの側面が強い,ということです。樹に人間を見ている。キジムナーのようにそこに住んでいるのではなく,樹そのものを拝んでる。
 ロゴス文明の権化たる漢民族世界にあって,この感覚は異様だと思う。
 台湾に,やや地域的偏りを持って存在する以上,福建のどこかから伝わったとしか思えないんですど──かなり解明が絶望的なテーマにも思えます。

ガジュマル信仰の国際性へのまなざし

 論理性の薄いレポになってしまいました。ガジュマル信仰の「薄い国際的共通性」というか。
 なぜか,沖縄のガジュマル考でも台湾の古樹公の論考でも,榕樹(ガジュマル)信仰としての共通性に触れた記述がほとんどない。東南アジアを含むとかなり広範囲に見られると推定されるのになぜなんでしょう?


※再掲 出典:李紅梅「清代福建省における経済発展と貨幣流通」第1節 経済発展の趨勢と地域差 1.人口の推移と経済的な要因の移動,松山大学論集 巻19 号1 ページ153 – 200 ,発行年2007

■外伝の外伝:武夷山茶の通った道

 本編にて福建内陸を離れるに際し,ここまでで全く触れていない福建のもう一つの水上交通路について,一瞬だけタッチしておこうと思います。
 海側の道とは別の,内陸水路についてです。――――それがないならば,上記再掲の李さんの表に見えるような,沿海各都市以外の町への人口配置は考えられません。その意味では,福建沿岸を辿れば福建が分かる,という感覚での当時のワシのルーティングは,実は初手から誤っていたとも言えるのですが・・・。

十八世紀以降、清代中国の広州より欧米に向けて盛んに輸出されたものに茶葉があった。その主要な生産地の一箇所が、武夷山脈南側即ち福建省側の山麓であった。同地で生産された茶葉は、山越えで陸路により福建省から江西省へ輸送され、信江沿いの河口鎮から江西省内の水運、即ち信江を下り省都南昌方面に向かい、さらに南の広東省から北に向かって流れる籟江を遡航する水運を利用して江西省の南安府、現在の大余に至り、再び山越えで大庚嶺・梅関を経て広東省の南雄州、現在の南雄市に至って再度水運を利用して広州まで輸送されていた(1)。そして広州で外国船に積みかえられ海外に輸出されていたのであった。
※ 松浦章「清代福建輸出茶葉の一集荷地・江西河日鎮の歴史と現況」2002
※※松浦引用元 1 波多野善大『中国近代工業史の研究』東洋史研究会、一九六一年五月、第二章「中国輸出茶の生産構造ーアヘン戦争前におけるI」八六S一四四頁。

 土地勘がないと,これがどういうルートのことを指すのか見当がつきません。ワシも次のような形でGM.に落としてみて初めてこの交易路の凄さが理解できました。
▲武夷山~広州鎭行程(GM.)

清代において江西省経由の経路で福建から広州までは五〇日から六〇日を要した。五港開港以降は、内河水運で福州までは春は四日、秋ならば八日であり、さらに沿海航運を利用すれば広州までは一四、一五日程であったとされる(10)。[前掲松浦]※松浦引用元 10 波多野善大『中国近代工業史の研究』――九頁

 凄さ,というのは――――まず,我々島国のニッポン人には海側にしか「出口」がないと思える福建に,「裏口」が存在していることです。それが存在しているということは,福建には沿海側とは別の経済圏がある,あるいはあった,ということでもあります。
 第二に,この総行程千kmを超すルートの途中にある陸路の存在。二か所の陸路のうち,福建省武夷山市から北西の河口鎮に至るものは,水平距離で百km,高低差で見ると最高海抜千mを超えています。このような陸路を途中に挟んでも,最終のアウトプット地:広州でのニーズがある限り,交易路というものは成立しうるのだということ。長崎の茂木街道を思い起こさせます。交易路は,水路で一筆書きされている必要は必ずしもない。
▲武夷山~河口鎭行程(GM.)
 今一つは,前記のような前提に立つと,交易のルートというものは,相当の自由度を持って各所に引かれていただろうと想像されることです。この武夷山-広州ルートは,少なくともワシは最近まで全く知りませんでしたし,これほど大規模なものと現実味を感じるにはしばらくかかりました。
▲清代・鉛川県誌に描かれる河口鎭

(史料集1)河口鎮:現江西省上饒市鉛山県

 前記河口鎮は,景徳鎮を筆頭とする清代江西の四大市鎮の一に数えられています。行ってもいないので,史料集としてのみ掲げますけど――――
 日本語のものでは,日中戦の事前調査的なものとして次のものがあります。

河口鎮は名は鎮名なれども大型民船上航の終点に位し上下貨物の積替地にして、又福建、浙江方面との交通の要衝なるを以て、往時は商業頗る殷盛を極め、呉城鎮、景徳鎮と共に江西の三鎮と称せられたりしも、一度長江に汽船通じてより以来、本省西南部一帯の取引は長江筋の奪ふところとなり、為に漸次衰微して今や昔日の面影なし[前掲松浦 引用元:一九一一年上海東亜同文書院の実地調査報告]

 明代の史料にはあまり名が記されることがなかったようで,清代,海禁が強かった時代に裏交易路の結節点として栄え,福建沿海の開港とともに没落していったらしい。一時の夢のような繁栄,という態様は璋州月港に似ています。 
 中国語でも,同時期の各種地誌に名を連ねています。

河口鎮、縣西三十里、即古沙湾市也。営信河・鉛河二水交會之衝、在油口九陽石之上、商賣往来、貨物貯緊、隠然為縣西之保障。明萬暦間、石佛棄巡検司何清奉文駐笥河口。今初之。按河口之盛、由来旧芙。(中略)貨衆八閩川廣、語雑両浙淮揚、舟揖夜泊、続岸燈輝。[前掲松浦 引用元:乾隆八年刊『鉛山縣志』巻一、地理、彊域、鎮]

 河口鎮の古称は「沙湾市」だったとされます。
 また,その繁栄の基となる立地条件は,信河と鉛河のジャンクションという点が挙げられている。してみると,本稿が元にした武夷山発のルートとしてだけではなく,その交易路の伸びる方向は四方にあったと考えられます。それは後段の「貨衆八閩川廣、語雑両浙淮揚、舟揖夜泊、続岸燈輝」という,一見抒情的な表現にも通じているらしい。この表現は他の史料でも使いまわされており,半ば成語化しています。

按河口之盛、由来薔突。貨衆八閲川廣、語雑両浙淮揚、舟揖夜泊、続岸燈輝、市井晨炊、沿江霧布、斯鎮勝事。[前掲松浦 引用元:同治『鉛山縣志』巻二、地理、張域、鎮の按語]

「貨衆八閩川廣」の「八閩」は閩,即ち福建の各地ということですけれど,それに止まらず「川」=四川,「廣」=広州にまたがる貨物と人の集まる場所だった。
「語雑両浙淮揚」は,両浙(≒現・浙江・江蘇省+上海市),揚州,さらには両淮(淮河付近≒江蘇・安徽・河南・湖北各省平原部)までの各種言語が入り乱れる様を現わしています。
 気になるのは「舟揖夜泊,続岸燈輝」です。船は夜にも停泊していて,その灯は岸を照らし続けている,という意味ですが,前後の表現の全体からはこの河口の賑わいの「いかがわしさ」を表現しているように読めます。つまり,外地から来た分からない言葉を使う素性の知れない者たちが,夜にも何かをし続けている・・・。

信江一道、水路。(中略)至河口鎮三十里、距府城計水程八十里。
(同条割り注)
江浙閩粤商販、叢集茶葉・煙・笋等各貨、衆集大小船隻亦多停泊。[前掲松浦 引用元:乾隆四十八年刊『廣信府志』巻、地理、彊域の信江の条]

 貨物として記載されるのは茶葉のほかにはタバコ(の葉)と笋(たけのこ)が挙げられています。
 当時の行政文書(檔案・档案)中には,「茶船」は海に出てはならないという禁止令が幾つもあるらしく[54・55 『嘉慶道光両朝上諭檔』第二十四冊、六六四~六六五頁及び第二十六冊、ニニ〇頁。],それが逆に,いわゆる密輸行為としての茶の海上運送も後を絶たなかったことを物語るとされます。適法な内陸ルートと違法な海上ルートの現実の交易量比は想像するすべもありませんけど,内陸行為にしたってそうそう清純潔白なものではなかったのでしょう。茶葉の買付には南からだけでなく山西商人も来ていたとされるし(民国三十一年(一九四二)『崇安縣新志』巻十九、物産),賭博や娼妓も季節の茶の出荷時期の風物詩となっていたようです(嘉慶『崇安縣志』巻一風俗,民国『崇安縣新志』巻六同職業)。

廣信府同知分防河口鎮、地営衝要、五方雑虜、係衝繁難、三項相兼要訣、非精明強幹之員、不克勝任。(31)[前掲松浦 引用元:31 台北・中央研究院歴史語言研究所蔵明清史料、登録号一―五六四二。]

 この記述の最後の「不克勝任」は難解ですけど,これだけの賑わいと商業上の異様さを持っていながら,兵員の駐在が手薄であり抑えきれていない,ということを言っているらしい。要するに,治安上危険だ,と著者は訴えているようです。
 簡単に想像できますが,仮に海上輸送で南方に茶葉を直接移送しようとする「密輸業者」がいたとしたら,彼らもこの雑踏に交じって出荷作業をしていたわけですから・・・。

(史料集2)河口鎮の茶葉業者

乾隆時代、河口鎮には茶問屋に当たる茶行、茶荘が四八家あり、いずれも河に臨んで建築されており、船に装載するのに便利な構造になっていた。これは茶行、茶荘の中でも饒、呂、郭、荘の四家が四大金剛と称せられた。河口鎮に集荷された茶葉は水運で北路は九江を経て武漢、漢口方面からモンゴル、ロシア方面に搬出され、南路は江西省内の水運と山越えの陸路によって広州と搬出された。(79)[前掲松浦 引用元:79 鉛山縣縣志編纂委員会『鉛山縣志』二八〇頁。]

 商港としての河口鎮の繁栄は,確かに一時的なものに終わっているけれど,そこで蓄積された財は,茶葉業者によって他地で回転し続けていったようなのです。そのシェアは,次の例から見ても,市場独占的と言っていいほどのものだったと推測してよいと思われます。

南京条約により上海が開港され、上海での茶貿易も可能になった直後の道光二三、二四年(一八四三~一八四四)に、上海で茶葉を扱った敦利琥の記録に、鉛山縣河口鎮の茶商と見られるものに、李裕登、学和号、天美号、協泰号、瑞蘭号、同興源記等の六家の名が知られる。とりわけ天美号は道光二四年九月二六日に六三二箱を届けている。他の日の記録は数箱から数十箱であることから見て河口鎮茶商の集荷能力の高さが推測される。(81)[前掲松浦:81 王慶成「開埠初期上海外貿業的制度和概数ー英国収蔵的敦利商桟等簿冊文書考釈(下)」『近代史研究』一九九七年第二期(三月)、一七六~一九九頁。]

 松浦論文では,この茶葉商人組織の細分の構造を次のように図式化しており,興味深かったです。(数字や記号は引用者が追記した。)
 1 山戸・茶戸
   :茶樹の栽培と毛茶の粗製,茶工が茶葉の摘採・耕種・製造等に従事
  →2 茶行・茶販
    :毛茶の仲買人
   →3 茶號・茶荘
    :毛茶を購入し、輸出向けに精製する
    →4 茶桟
     :茶號より、輸出商に至るまで製茶の仲介を本業
     →5 外国商人

※同引用元:61)波多野善大『中国近代工業史の研究』では、山戸・茶荘(茶琥)・行商があげられている(九七ー一三一)。
 その他「呉覚農.苑和鉤著『中国茶業問題』現代問題叢書、商務印書館、一九三七年、第六章茶業組織問題、第一節吾国茶業組織概況(二0二頁)及び、同書第六章を翻訳した松崎芳郎訳「支那茶業の機構」茶業組合中央会議所、一九四0年十一月、一1三0頁及び同書の「現代支那茶用語解説」一I]三三~三八頁を参考にした。」と付記

▲再掲:武夷山~河口鎭行程(GM.)

(史料集3)武夷山茶産地・星村から河口鎮への陸路運送

 武夷山茶の出荷地の筆頭は星村という場所だったようです。ここから河口鎮まで,標高千m超の武夷山系を越える百kmの陸路を運送したのは,もちろん人力です。
 この工程を,スコットランド人のロバート・フォーチュン(→wiki/)という植物学者が活写しています。当時の人力輸送の実態記録として非常に興味深く,やや長文になりますが転記しておきます。
 なお,この人はインドへチャノキを持ち出したことでも知られています。当時の中国内陸部はもちろん外国人の立入制限があったけれど,植木屋や墓地(中国人が花木を植えていた)で植物を収集,さらに中国人に扮して蘇州まで潜行したという豪傑です。
[Robert Fortune, A Journey to the Tea Countries o China ; including Sunl{-lo and the Bohea Hills ;with a short notice o the East India Company’s tea plantaitions in the Himalaya Mountains, 1852,Mildmay Books, London, 1987, pp. 202-203.]
▲「上質茶葉の輸送」スケッチ

クーリーたちはたくさん居て、お茶の箱をかついでいた。彼らの多くは箱を一箱だけ運んでいた。私が説明したのは上級のお茶で、その茶箱は旅の間、地面に接触することは許されなかった。したがってこれらの茶は通常、粗製茶よりはるかに良い状態で目的地に到着する。一箱を運ぶ場合は以下の方法で運ばれている。2本の竹をそれぞれ七フィートほどあり、両端を堅く結びつけ(別の)両端を箱に固定する。反対側に三角形をつくるように二本の端を結ぶ。これによってクーリーがこの箱を運ぶときに肩に載せて運ぶことが出来る。頭を竹で作った三角形の中心になるように入れて肩にのせて運ぶことができるようになる。小さな木の片は箱の下に結びつけられ、その肩に載せるときに、容易にシートとなるようになる。次のスケッチ(本頁上下の図)はどのような表現よりも興味深い様式よりも分かり易いイメージを与えてくれるであろう。運んでいるクーリーがこのような形で休みたいと思った時は、地面の上に竹の端を付けて竹を垂直に持ち上げる。力をかけることなくこの状態を保つことができる。

▲「粗製茶葉の輸送」スケッチ

このやり方は山道とか険しい道を行くときに便利である。なぜならクーリーは休みなしで一定の時間に数ヤードしか運べないからである。そしてもし、ここで示したようなやりかたが無かったら荷物は頻繁に地面の上に降ろさなければならなかったであろう。宿屋や茶館などで休息するときは、この箱を壁に向かって立てかけ、竹の端を上に置いている。
安価な茶はすべて通常の方法で運ばれた。つまり一人のクーリーが肩の上に竹をわたらせ二つの箱を運ぶ、その両側に一っずつ箱をつるしている。彼らが休むときは路上であれ宿であれ、いつでもその箱を地面の上に降ろすので、その結果として箱は汚れて、上記の方法で運ぶよりもいい状態で目的地に着くことは無かった。

▲現在の武夷山登山道