m081m第八波m青北風や 波打ち打てど岸を蹴れm江夏堂

※青北風(読み:あおきた):初秋の北風。やや強く、青空のことが多い。
本歌:毛虫這う雨打ち打てど木々を食め〔彦根東〕

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:厦門站(地点)
GM.(経路):鎮海路~江夏堂

暴れん坊婆さん 挟まる

方向,厦門の島から大陸への道がかなり混んでる。
 逆じゃないのか?金曜日だから週末でもない。
 0834。えっ?トンネルに入るの?と混乱してると,その地下で分岐して一般道へ上がってきました。高機能なインフラです。上に高架のある道。これが駅前道か?
 こちら側も渋滞になってきた。BRTの下を過ぎる。道の表示は湖賓西路。左手に火車站方向と指す標識のある十字路。ここを右折?いやロータリーなのか。都合左折した形で南行。厦禾路に入った。
 もう両側にはビルだらけ。
 婆さんの電話がまた鳴る。電話の向こうもこちらも大声。でも……もう着くはずです。
 右折。站内へ入りました。0842到着。漳州から所要72分。
 さて降りよう……とすると婆さんが回転扉に挟まってしまっとる。出られないぞ。でも最後まで笑わせてくれて有難うね。

▲梧村小吃の朝ごはん

スターミナルに良さそうな飯屋があったので,そのまま朝食とする。
0847梧村小吃
酸菜,ゴーヤ塩炒,ソーセージ
白粥300
「井胃酸菜粉/面」というのに惹かれてはいったんだけど,粥の早飯が食えそうなので急遽そちらに転換。
 酸菜は面白かった。長沙の小米(漬け唐辛子)だけど酸味が勝ってて唐辛子は非常に薄い。厦門の味覚は酸味寄りと見た。

門駅前は記憶通りで,やや余裕がありました。
 地下には「中闽百汇商場」。潜って南対面に出るのが早いか?いやまず地上を行ってカードを買おう。
 ターミナル右手東側に陸橋。記憶の通りだとここにカードを売る窓口があったはず。ただ陸橋東,駅前はひどく工事してるな。
 0919,カードは買えた。e通卡。

▲駅前陸橋

厦門と言えば駅前速8

うだ,思い出した。この陸橋はBRT専用で渡れないんだ!ということは──やはり地下に潜る。
 速8辺りに周麻婆が見えてる。八方雲集も出来たのか。
 地下に……本州の手作りおにぎり「一捧飯糰」?日本料理っぽいメニュー書きだけど,それは本州じゃないといけないのか?
 エスカレーターで厦門駅前へ。
 あら?ここにWALMART沃尔玛出来たのね。建物は禹洲・世贸商城とある。
 厦門駅前から北方向はずっと工事してるようです。施工者は中国中鉄四局と掲げられてて……どうも地鉄っぽい。
 東へ。そうそうここにスタバあったあった。ここに……なぜ千と名無しの車内ツーショットの画像が?

▲0934厦門駅前通り

8(ビジホ)を予約してた。思い出深いカウンターは方向が変わってたけど,キツそうなお姉さんの受付にチェックインを求めると……いきなりの予約無し騒ぎ。
 でもこの程度は想定内です。準備してたメール画像を落ち着いて見せる。──金盾内でもGmailは,Google系なのになぜかメール文面までは見れる。
 御姉様,仕事には真面目っぽい。予約したのはシングルかダブルかと確認した上で(てゆーかそれも分からない状況?)きちんと部屋を確保して頂けました。──ちなみに「速8」の発音はスーパーに近い。是非とも訴追してやってほしい。
 無事入居。速8と七天はマグカップが部屋にある。茶飲みにはかなり嬉しい。
 部屋の窓を開けると,いくつも連なる丘が見える。南裏手は,こんなにすぐ山だったのか。
 さて,当面向かうは──地下鉄でとにかく東の中山路へ向かおう。かなり変わってるはず。新たに出来たという地鉄(地下鉄)にも乗ってみたいし。

ってるのは厦門地鉄3号線。BRT路線を切り替えたということだろうか?
 1117,駅前通りの禾祥東路を越え南へ渡る。どうやら地鉄工事はまだこの通りまで来てない。地鉄駅はもうワンブロック向こうか。厦門駅を外すとはどういう成り行きだったのか?……なるほど,それで駅との連絡路線になる3号を急いでるわけか。この市の交通行政,紆余曲折しまくっとるなあ。
「地鉄→」の表示。地下鉄が稼働してるのは確かっぽい。湖賓東路を南行。
 バス停湖東。萬象城The MIXC。そこでようやく地下鉄入口が見えた。ただ,この北はまた工事してる。3号線なのか,他の開発工事なのか。
 中国の乱開発ぶりを絵に描いたような光景でした。

厦門地下鉄で行こう

▲厦門地下鉄(2019.9現在,中心部のみ)。1・2号のみ。

賓東路から乗車。1130。南へ,終点の鎮海路まで4駅。
 車内は白基調で座席がオレンジ。
 北の逆方向には19駅ある。終点手前1駅が厦門北。つまり橋を渡ってる。この路線が1号線。
 次の駅文灶 wenzao。難しい漢字です。
 厦門地鉄の略称はAMTR。車内には厦門経済特区軌道交通条例が貼り出してある……けどコレ,誰か読むと思ってるのか?
 1138,終点・鎮海路に下車。1号出口から出る。この北東辺りにXを見つけてました。

運命の21球を祀る

門市妇幼保健院」(産婦人科+小児科)の巨大建物。これを右に回り込む。左手海上に見えてるのは島──コロンゾか?
 养元宮巷へ左折北行。地形は面白い登りだけど,町並みは新市街めいたコンクリートが埋めてます。

▲1149三叉路のアパート前で

叉路。
 勾配があるので迷う。まだ少し登りかと思ってた。下りになるけど右でいいんだよな?
 えっ?さらに急な下りになってきたぞ?でも如家(ビジホ)が見えてる。この道でいいはずです。
 ということは,目指すX辺りは窪地になってることになります。

▲1158青石巷北端辺りの光景

153,江夏堂。運命の21球を祀っているのではない。「福建省対台交流基地」とある。──調べても直接のヒットはないけれど,江夏黄氏の祠のようです。
 第一目標には妈祖宮を定めてました。するとそれはこの小学校裏なのか?でも道がないぞ?
 学校北には廟の壁とそれ沿いに市場。間違いない。西行して壁に沿って進んでみる。
 ちなみに北には漳州卤面と泉州牛肉館というスタンダードラインナップ。

▲1200青石巷北端からの東西道・通奉第巷

厦門に違和感がなかった理由

──言っても……何を書いてんのかそろそろ完全に分かってもらえないと思うので,巻末に地図等付しました。
 ご想像頂けるとおり,当時は極めてニンマリ顔でした。厦門にもこんな路地の町があるのか!
 毎日头条が「誰も知らない」中山路裏道として特集してますけど,この界隈の記述はあまり例がありません。
没有人发现:闽南古厝隐藏在厦门中山路附近 – 每日头条

▲1215明锌珍小吃店の酸笋面

をよくしてここで昼飯にしてます。
1207明锌珍小吃店
酸笋面300
※笋:sun4
「厦門風味小吃」と掲げてあるし,女将一人でやってるのに客が絶えない感じの店。
「笋」そのものは単にタケノコの細切れが浮かべてあるだけ。
 汁は長崎のちゃんぽんの味です。前回の厦門に違和感が「なかった理由」が分かった。
 さて!時刻は12時半を回りました。東西道・通奉第巷へ歩を進めます。

▲1231気絶寝しとる物売りおばさん

■小レポ:中山路南東裏手ブロックの位置と相貌

──とでも言うしかないエリアです。
 ほとんど記述もないし,そもそもこのエリアを指す総称も見当たらない。地図を覗いてもあまり他と異なる点は見出だしにくい。
 でも現地を歩くと明らかに,ある独特の空気を持ってます。

▲江夏堂(赤星地点)西ブロックの航空写真と街路地図(百度地図)

 上は江夏堂からこの後訪れた妈祖宮付近までのブロックの,航空写真と普通の地図を縦に並べたものです。
 この昼時には,南の地下鉄終点から北行して入っていきました。
 この後の路地名も,どこがどこやらほとんど分からないのが実際のとこです。ただ概ね北西へ,最終的には観光街・中山路へ抜け出ていきました。

中山路南東裏手ブロックに関する若干の所見

▲媽祖宮周辺(次章参照)の航空写真

 それでも僅かに分かる点をメモしておくと──
 次章で実際に歩いての感想とも通じますけど,江夏堂すぐ西,媽祖宮付近は路地は多いけれど妙に整ってます。
 おそらく解放後に建て替えられたものです。ただ,路地がそのままなので,現代の大規模再開発とは考えられない。この辺りが不思議です。
 触れておきたいのは,この時実際に歩いた中山路抜けの北行ではなく,もしさらに西行していたら,次のエリアがあった点です。

▲上記エリアのさらに西の帯状集落

 地図上は「釣仔路」という名前が見えます。
 媽祖宮以北とは全く異なり,格子状ではなく,ドットが整っておらず,湾曲した帯状に膨らむような集落です。ここだけを見るとまるで山間の村のような形状で,とても厦門一の繁華街・中山路から百mも離れてない場所に見えません。

唐代に洪濟山麓に集落を開いた人々

 僅かにこんな記述を見つけました。

唐朝天寶年間,漢族人薛姓和陳姓從閩東的福安和閩南的漳州移民入島分別在洪濟山下的南北麓聚族而居。
南轎巷、賣雞巷、釣仔路…廈門這些特色地名每個都有一段故事,99%你都不知道!_小魚網 – 微文庫

 厦門がこの地域の中核になるのは近代になってだけれど,集落としては唐代までの古層を持つ。その層が,これだけのメガロポリスにもところどころに顔を出してるんでしょうか?

厦門を歩く戸惑いについて

 関連してですけど……この記事をまとめてる今になっても,厦門に潜る基本ツールに戸惑ってます。
 ここは,これまで見た福州・莆田・泉州・漳州のような城のあった町ではない。城と名付けられた時期のある場所は,ずっと東北の同安県にあります。厦門の島にも短い期間は厦門城という小規模な円環城があったらしいけれど,都市構造の基本になるようなものではなかったらしい。
 繰り返しますけど,ここは阿片戦争後の町です。歴史像としては香港や天津,青島が近いでしょう。しかも,その中でも観光色が濃くて,浮わつかないデータに乏しい。
 この町は,どう掘ればいいんでしょうか?

■小レポ:私設・イミグレーションとしての江夏堂

「運命の21球」については上記youtubeをご覧頂きたい。
 それはさておき本文では江夏堂を「江夏黄氏の祠」と軽く通り過ぎてますけど,後日調べていくうち,実はこのエリアの歴史に大きな関わりを持っていた可能性があることが分かってきました。
「新浪博客」の記事が詳しかったので,これに沿って深堀りしてみます。
 先に,5W1H的な基礎ですけれど,厦門の江夏堂は1910(清宣統2)年創建。閩南の周辺地域を中心に国内外の黄氏一族の共同出資で建てられたものです。

厦門江夏堂〔GM.〕

厦门江夏堂建干清宣統二年(1910年),历吋8年竣工,是由当吋的南安武状元黄培松倡议,閩南周辺及海内外黄氏宗亲捐资兴建的。
老厦门影像(10):钱炉灰埕巷2号-江夏堂_兰若静云_新浪博客

「南安武状元黄培松倡议」の箇所が何語なんだ?という中国語ですけれど,南安(現泉州市の県級市)の武状元(武芸の科挙の首席)だった黄培松さんの主導(「倡议」)によって,この共同出資が企画された,ということのようです。
▲「黄氏家訓」

黄姓/江夏黄のド派手ぶり

 つまり黄姓の一族というのがキーになるわけです。この人たちは,一体どういう集団なのか?というと──

至2006年,黄姓人口约有2700万,约占全国人口的2.2%;按人口算,黄姓排名从第8位升为第7位。黄姓_百度百科

 2千7百万人いる。北朝鮮やオーストラリアの総人口より多い。大陸中国での姓別人口では7~8位。
※wiki/漢姓:2007年4月24日中国公安部治安管理局発表の統計
 中国の姓は地域的偏りがすごい。黄姓は南部沿岸に多いけれど,その他以外にも中西部にも濃く存在する。

当代,黄姓人口近2700万人,约占全国人口的2.2%,排在第7位。广东为黄姓人口第一大省,约占全国黄姓总人口的19.5%。在全国的分布,主要集中于广东、四川、湖南三省,大约占黄姓总人口的42%;其次分布于广西、江西、湖北、福建、江苏,这五省又集中了28%。全国形成了以长江为分水岭,以北少黄姓、以南多黄姓的分布局面。长江以南,尤以珠江三角洲为黄姓高聚集区。其次,四川东南部,湖南东部和江西南部形成两大块次高密度的黄姓区。[前掲百度百科]※出典 黄姓 .苍南县人民政府[引用日期2015-04-14]

 広東・四川・湖南の3省では総人口の4割が黄姓???日本の田舎,特に島ではそういうところがあるけれど,それが省単位で,というのは凄い。地域を見るに,要するに清代以降の多量移住地域です。つまり,この時期の国内移民の潮流に最も乗ったのが黄一族だったらしい。
 次の統計はほとんど数字マニアな世界ですけど,

黄姓人口单位面积内密度最高的地区在广东东部、福建西部、广东中部、湖南东部、江西南部、四川东南,每平方公里的黄姓人口达到8.7人以上,尤其在广东的潮州地区,每平方公里的黄姓人口在17人以上,中心地区可达21人以上。黄姓分布密度最高的(8.7—21人/平方公里)地区仅仅占国土面积的5.7%,黄姓人口大约567万;2.9—8.7人/平方公里的地区占国土面积的27.9%[前掲百度百科]※出典 中国姓氏人口分布图 看看你的大本营在哪儿 .网易[引用日期2015-04-16]

 1km四方あたり人口が8.7人以上を集住域の一つのラインとすると,広東省の東部・中部,福建省西部,湖南省東部,江西省南部,四川省東南部はそれに該当する。広東省潮州地区にはこれが17人になり,中心地区だけをとると21人以上となる。さらに8.7人以上居住地区を面積で見ると,中国全土の5.7%。2.9人以上での同面積は全土の27.9%にあたる。
 徒歩10分圏内に自分と同じ姓が20人いるのは,とても嫌だと思う……という話じゃなくて,清代のあの暴力的な漢民族の拡大の大きな一端を,この黄氏が握っているのは確かのようです。
 なお,歴史的には次のようなほとんど神話的な伝承になっているようですけれど,大発展した時代との時差から考えて,眉唾感はあります。

是远古时期伯益的后裔,伯益长子大廉为黄夷首领,在夏朝建立古黄国,商朝以国为氏。[前掲百度百科]

 夏王朝の黄国に由来するという。民族神話として捉えるなら「自分たちはかつて一国を形成していたんだぞ」という強烈な独立心の誇示かもしれません。
 そろそろ本題に戻るべきでしょうけれど,この黄氏の中の一氏族が江夏黄氏です。黄氏の中でどのくらいのシェアを占める人々か,数字はありませんし,おそらく他姓及び同姓内の確執から出せないでしょう。ただし,清代に大発展したという意味では最右翼なのが江夏黄氏のようなので,相当な高率だとは想像します。

祠になる前の江夏堂

「江夏」とは湖北省の「江夏郡」と記述があるけれども,武漢市の江夏区のことだろうか?この点はよくわからないけれど,地名的にそういうことにして先に進む。ここを発祥地として持つ黄氏の一分派が,江夏黄氏ということになるようです。

江夏是流传最广的一个黄姓堂号,江夏堂源于江夏郡,即今天的湖北省境内,是江夏黄氏祖先居住的地方,因而也成了大部分海内外黄姓华人公认的兑郡望和发祥地,故有“天下黄姓出江夏,万派朝宗江夏黄”之说。[前掲新浪博客]

「天下黄姓出江夏,万派朝宗江夏黄」という成語があるそうです。──天下(全国)の黄氏は江夏より出,よろずの人々は江夏黄氏に参集する。凄い自意識過剰な二句ですけど,荘厳すぎて「金のない奴あ 俺んとこへ来い!!」めいてます。
※ 祖地江夏黄氏网
 なんでこんなに派手派手な意識を持てるかと言えば,どうやらこのエリアが江夏黄氏の海外進出の重要拠点……「’过台湾’与’下南洋’的出发地」(「台湾行き」と「南洋下り」の出発地)だったかららしいのです。

我根好奇为什仏要在这个地方建江夏堂?老伯说当年厦门是’五口通商’口岸之ー,因而成为’过台湾’与’下南洋’的出发地。码头就在这附近(即如今的鷺江道一帯),移民的人都必須从閩南各地汇集到这里乗船出发。江夏堂所在的地方周边的三四个社里都姓黄,所以才将江夏堂建在此地。[前掲新浪博客]

「码头就在这附近」,この辺りがかつては港だった,とあります。移民たちはみなここから出発した。江夏堂周辺の3,4つの村は全て黄姓だった。つまり,おそらくは海外移民のブローカーの集住地域で,それを牛耳っていた江夏黄氏中枢がここに居を構えていたということでしょう。

黄姓南洋移住の初期及び最頻の時期特定

 黄姓の移住は百度によると「元朝末」。具体の年代として特定できるのは,黄姓から婆羅國(文萊:赤土國西南とされ,マレー半島中北部の小王国と推定される。)王家に姻戚を入れた明洪武8(1375)年。

在元朝末年,黃姓移居南洋。當時一位名叫黃森屏初名黃元壽的官員奉命出使婆羅國(文萊)。他到達婆羅後,便在婆羅國留居下來。之後,黃元壽以傑出的才幹被推為文萊華人的領袖。後來,成了整個婆羅國的統治者——蘇丹(實即國王)。他去世後,葬在文萊,子孫世代留居於此,且極為顯赫。黃森屏初名黃元壽生有一女,於明洪武八年(1375年)嫁給渤泥(即文萊)第二蘇丹阿合曼。阿合曼逝世後,黃森屏的女兒便繼位為文萊國王。〔百度/江夏堂〕

 なお,最も移民が顕著だったのは「19C」と漠然としている。フィリピン植民政府の記録(1893-1894年)に陳姓に次ぐ姓として黄姓が現れており,仮に1893年を時点として採ることとします。

黃姓也是如此,移居南洋的人數迅速增長,僅據菲律賓殖民政府1893年和1894年的統計資料表明,在當時移居菲律賓的近10萬華人中,來自福建晉江、同安、南安、龍溪等地的黃姓華僑就有數千人之多,在當時旅菲華人七大姓中名列第二,僅次於陳姓。〔後掲百度/江夏堂〕

历史上江夏堂対黄氏宗亲起了很大的作用,很多想出国的人要委托江夏会館为手続和担保,出国的時候又必須在会館里侯船,而海外黄氏宗亲想回国寻亲访友寻根祭祖往往也通过江夏堂,回国时若遇到晩上到达就直接在会館里休息,可以说江夏堂是海内外黄氏宗亲在厦门一个必不可少的落脚地和联絡点。[前掲新浪博客]

「委托江夏会館为手続和担保」,江夏会館に出国手続と担保を委託していた。あれだけの人口が動いた時代です,それは移民にとって一つの投資行為であり,当然その投資の信託を専業化する企業体が生まれておかしくない。江夏堂はつまりそういうブローカーの社屋だったと思われます。経営体がなくなった後で,祠として綺麗な体裁を整えただけでしょう。
 厦門のホットな時代の片鱗がやっと浮かび上がりました。中山路裏のブロック奥に思えるこのエリアが,ややダークかもしれない港奥の移民船出発地だった。ということは,当時の海岸線は今のものとはかなり違うラインにあると考えていいようです。

■基礎資料集:厦門古地図集

 厦門は手強い。まず地理的な基礎資料を集めておきます。
 最初,「厦門」で検索しても妙にヒットがなかった。「厦」字に簡体字はないけれど門字にはある。それで「厦门」で検索するようにすると,中国語サイトがヒットし初めました。

[テキスト]厦门志,同安县志

 中国哲学书电子化计划(中国哲学書電子化計画)サイトに「厦门志」(厦門誌)という地誌がある。1832(清道光12)年に福建分巡兴泉永海防兵备道という官職の周凯さんが編纂させたものです。阿片戦争後の1842年南京条約締結で厦門が開港される丁度10年前の時点,つまり近代経済史の表舞台に登場する前の段階の厦門の記述です。
 同サイトには「同安县志」という県地誌も存在します。
 なお,それより70年古い「鹭江志」という地誌もある。1769(清乾隆34)年完成,これが現存する厦門の最古の地誌とされるけれど,デジタルがない。微信でPDFをダウンロードできるようなので,可能な環境の方は是非どうぞ。→鹭江志(整理本)pdf下载 | 福建 | 县志下载 | 中国县志大全

[マップ1]明・万里海防图


▲明《万里海防图》厦门岛及周边,明嘉靖年间(1530-1560年代)
※ 跨越450年的古今厦门地图合集,不仅信息量巨大,更是一场美学盛宴! – 雪花新闻

背景:上图为明嘉靖年间(1530-1560年代)绘制的《万里海防图》中厦门岛及其周边的局部,是迄今为止发现的最早记录厦门的地图之一。1387年,为了抵御沿海倭寇的侵犯,江夏侯周德兴在厦门岛的西南隅筑城,七年后完成。当时抽调永宁卫下的中、左二所兵力驻扎厦门,因此厦门城亦称“中左守御千户所”,简称“中左所”。

「厦門城」は明初に,朱元璋の主力武将で江夏侯だった周德兴が対倭寇防衛線として造営した16の城の一つ。このマップはその防衛線の位置図という性格のものでしょう。
 町歩きに使える精度のものではない。何より島の西南隅にあるはずの城が東中央に書かれてる(図中「中左所」記名の場所:厦門城の正式名「中左守御千户所」の略称)。
 ただ,それも含めて,明初の厦門がその砦があるだけのほぼ無名の屯田兵の居住地だったことが分かる重要なイメージ史料です。

[マップ2]清・鹭江志 厦门岛全图

▲清《鹭江志》厦门岛全图

时代:清乾隆年间(1760年代)
来源:《图说厦门》
背景:此图出自清乾隆中期(1760年代)编著的厦门志书 《鹭江志》。图中厦门岛轮廓清晰可见,当时的筼筜港港湾辽阔,长十多里,宽四五里,海水一直流到江头。浮屿(今思北)仍然是一个伸入水中的小岛。1683年,施琅将厦门城扩建至600丈(2000米)。(略)厦门岛西南靠海的部分聚集了密密麻麻的“路头”,即简易码头。东边广袤的土地上则遍布了不少禾山的村庄。

 かなりあちこちに引用されてる図で,おそらく最古の地図らしい体裁の地図なのでしょう。
 ただこれも現代の町歩きには使えない。城は壁はおろか道の痕跡もないのだし,その周囲はまだ出来初めたばかりの段階です。
 有意なのは,解説に「聚集了密密麻麻的“路头”」と書かれてる筍のような港が多数,城側の都市計画とは全く別に自然形成されていったことが分かる点です。現在の中山路付近の繁華街は,完全に民の力で形作られていった。

[マップ3]清・厦门旧城市图

▲清《厦门旧城市图》

时代:清同治年间(1860年代)
来源:《图说厦门》
背景:上图为清同治年间(1860年代)的《厦门旧城市图》,主要记录了当时厦门城区的情况,其中街巷信息相当的丰富。据乾隆三十二年(1767年)版的《同安县志》载,厦门的古街道有25条。其中近城的称“内街”,共计有桥亭街、新街仔、塔仔街、局口街、菜妈街、桥仔头街6条;近海的称“外街”,计有提督街、石埕街、神前街、外关帝庙街、轿巷街、火烧街、碗街、磁街、竹仔街、亭仔下街、纸街、中街、木屐街、港仔口街、岛美路头街、五崎顶街和走马路街等17条;内外街之间有关仔内街;厦门港有市仔街。而从地图上看,当时厦门的街巷已远远不止25条了。

 この地図は有意です。ブロックの形が読めるから,X手法で集落の性格が推測できます。
 ただ文字が読みにくく,厦門の道が全く痕跡を残さずに新設しているものが多いため,現在との照合の難易度が高い。例えば現・中山路の位置はなかなか分かりにくい。
 それでも,例えば鎮海路から江夏堂の集落はかなりはっきりと形状が見てとれます。
 総体的に見ると,各港からせいぜい百m程度の直接路の後ろは,ガタガタに形が崩れた乱雑なブロックが入りくんで広がってる。相当な乱開発の結果です。
 なお,解説の記述を同安県誌で検索してみたけれどヒットがなかった。

[マップ4]1915年厦门城区与鼓浪屿

▲1915年厦门城区与鼓浪屿

时代:民国初期(1915年)
来源:杨羽翔 收藏
背景:此为民国初期(1915年)出版的《东亚官方指南》第四卷中厦门城区与鼓浪屿的英文地图。该图用蓝、绿、橙等不同色块来反映厦门的水系、山林、建成区等。厦门旧日的“七池、八河、十一溪”,在地图中亦可见一二。厦门岛海后滩及鼓浪屿东部海滨上用英文标注了不少机构及公司名称,如太古洋行、美国领事馆、厦门电话公司等。

 英字地図で,用途も植民地経営を主眼にしているらしい。鎮海路までで橙色の「建成区」≒居住区が途切れてます。
 地図の精度はこの時代のものでは最も秀でているようです。「七池,八河,十一溪」という成語も初めて聞くけれど,確かに内水域は多く描かれてる。湖沼域を纏った岩礁のような土地が厦門の原型だったのでしょうか。
 以上を準備して,次章から本格的に歩いていきたいと思います。