m082m第八波m青北風や 波打ち打てど岸を蹴れm石坊巷

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
大体こんな辺りを歩いたと予想されます
けどよく分かりません……

ないはずはない媽祖宮

奉第巷へ!
 と歩き初めてすぐ,またまた好い感じの店を見つけてしう。しかもこのメニューは予習してたヤツだ!
1235泓韵阁餐庁
漳浦大骨面300──と書きかけたんだけど,何か……「没有」と断られた。昼時を過ぎたわけでもないし,麺がキレたんだろうか?
※ 没有でなければ食えてたもの→百度百科/大骨面

▲1244金新河路辺り

れはそうと……宮らしい建物がないぞ?
 1240。いや!ないはずはないだろ?
 南の路地へ。住所表示は同じく通奉第巷で7から9。
 第一横巷。警務室あり。どうもそこからは社区です。ここじゃないはず。さらに南へ。
 金新河路になった。この辺か?左折すると……通奉第横巷?通りの名前の規則性がどうも読めない。
 ──あった。

その門は二時に開く

▲原朝元宮 妈祖宮

所は石坊横巷のT字。住所は石坊巷15。だけど──何てことだ!アパートの中に飲み込まれてました。
「原朝元宮 妈祖宮」と表札を掲げてます。対聨は
左「富貴平安歳歳歡」
右「吉祥如意年年楽」
 あとこれは管理者名だろうか。「厦門市佛教會 居士水仙修學黠[黒占]慈航組」と看板が出てる。
 ただ……門が閉まってます。覗きこんで中を見たのが──コレ。

▲1256妈祖宮祭壇

ういうまさに不審な行動をとってると,わざわざ後方の家の婆様が──明らかに泥棒か何かと思った様子で──厳しい声をかけてきた。努めてニコヤカに受け答えしてると「2時に門が開くよ」と教えてくれた。
 ……熱心な信者と思われたものか。まあここは,そういうことにしよう。何せ湄洲へ行った足で来てるんだから権利はある!資格はないけど……。
 今,写真を見直すと,神体は小ぶりながら媽祖っぽい。ただ左右に千里眼・順風耳はいないようだし,供え物も見えない。
 落ち着いて周囲を見回す。いや,ただこれは………この周りの家屋の敷地は,明らかに元の廟の境内の中でしょう。つまりここは,最近一度破壊され,居住区に改変された後に,御神体が帰ってきてその一角を間借りしてるという雰囲気。文革が臭い。

右折,半端な開発区へ

▲1257妈祖宮から石坊横巷を戻る

306,さっきの未遂となった飯屋通りに戻ってきた。この道をさらに西へ。
 住所表示は通奉第巷のまま,登り道がT字に途切れる。
 右折北行。──ここで左折してれば謎の釣仔路方面へ抜けてたはずですけど……。

▲1300酒巷の路地裏

字酒巷に住所表示が変わってました。ほとんどが新しい家ですけど,所々に突然旧家が出没する。
 どうも,開発の手の入り方が半端な印象です。やはりかなり以前にアパート化された地区でしょうか。

何語なんだ?銭炉灰埕横巷

▲1302酒巷~銭炉灰埕横巷(1)

巷がL字に右折。銭炉灰埕横巷という長い名らしい。上のものから計5枚,この通りの写真です。
 長く続いた湾曲路。それでもこれを15分ほどかけて歩いてるのは,余程気にいったようです。

▲1308酒巷~銭炉灰埕横巷(2)

の写真の左手壁面は洋館の古い土台を思わせます。
 下の写真の門構えは,この地方の古い形態でしょうか。その内側のみ鉄扉に取り替えたもののようです。

トトロの道の補習班

▲1309酒巷~銭炉灰埕横巷(3)

つ途切れてもおかしくない雰囲気のままうねりながら続いていた道でした。
 脇道はなかったと記憶します。こんな長い道が元々そうだとは思えないから,近年に塞がれて一本だけ残されたものでしょうか。

▲1312酒巷~銭炉灰埕横巷(4)

天星補導中心」と看板が出てるのは補習班,つまり学習塾です。
 この塾か,それとも塾生によるものか,妙に道の気配に似合ったトトロの落書きがありました。

坂を下って中山路

▲1315酒巷~銭炉灰埕横巷(5)トトロの路地裏

れて折れて続いた道が,1317,ようやくT字に出た。左折。おそらくこちらが北でしょう。
「兰琴古厝」という暗証付ガラス戸のある古家。博物館みたいなとこ?──と書いてますけど,何と正解は古家屋を利用した民宿でした。結構な人気らしい。兰琴古厝:隐匿于厦门中山路保存完整的明代老宅,竟然可以入住_手机搜狐网

▲1320定安路手前辺り

安路に出た。1321。地図を確認すると中山路の東隣でした。
 折角だから定安横巷にそのまま北行。この道は短いけれど,中山路には坂を越える格好で入りました。坂の上側に「中山路168-172二楼边門」とad表示。つまりまるまる一階分の高低差がある。
 昔の堤防跡か何かでしょうか。

▲尾根を越えて中山路へ

■小レポ:厦門で媽祖を拝むなら

 この頃は媽祖宮と聞いたら駆けつけるような気は全くなくて,単にXのポイントだったんですけど……厦門で有名な媽祖宮を遅ればせながら整理しときます。
※出典:閩南風/厦门的妈祖宫

宮はほとんど媽祖宮

据道光年间编撰的《厦门志》载,其时厦门岛内共有宫庙66座,单独奉祀妈祖的就有西门外的朝天宫、东坪社的妈祖宫、厦门港的福海宫、草仔屿海边的龙泉宫、先锋营的平台官、火仔屿的寿山宫、鼓浪屿三丘田的三和宫、寮仔后海滨的潮源宫、斗涵的灵惠宫等,计9座。此外,还有混合奉祀天后和保生大帝的宫庙23座。这就是说,全市宫庙有一半是奉祀妈祖的,其信徒之多,就可想而知了。

 厦門のほとんどの宮は媽祖を祀ってると言ってもいいほど,この土地の媽祖信仰純度は高いらしい。
 その中でも単独の媽祖を祀っている有名どころは次の9つ。
①(西門外)   朝天宫
②(东坪社)   妈祖宫
③(厦门港)   福海宫
④(草仔屿海岸) 龙泉宫
⑤(先锋营)   平台官
⑥(火仔屿)   寿山宫
⑦(鼓浪屿三丘田)三和宫
⑧(寮仔后海岸) 潮源宫
⑨(斗涵)    灵惠宫

[②(东坪社)妈祖宫]謎多い厦門最古の媽祖宮

厦门岛上历史最悠久的妈祖庙为东坪社的妈祖宫,大致位于今黄盾与五通之间的海滨。这座妈祖宫祀天后的日子比通常的三月二十三日要早几天。这时,不但全社乡人大庆,而且厦门所有妈祖庙都要前往请香。

 極めて厳かな媽祖崇拝を毎年,集落をあげてやってる地区があるらしい。しかもこの「东坪社」というのは今の厦門駅裏のエリアです。→廈門市思明区東坪社区居民委員会:GM.(地点)
 ただ,3月23日にそこから海岸へ行って儀式をする,とは書いてあるけれど,媽祖宮本体も海岸の場所も全く分からない。

[①朝天宮]厦門最大の媽祖宮

 従って,観光客的には朝天宮へ赴くのが妥当らしい。今の規模と風格ですら文革で相当にやられた後のようです。

规模最大的妈祖庙则为朝天宫。其位置在今大同路思北小学,始建于明初,施琅复台后复建。(略)宫内还塑有“顺风耳”、“千里眼”神像,神采奕奕,颇有艺术价值,可惜毁于“文革”。

[④龙泉宫]台厦航路専用媽祖

「草仔培」という場所は,清代には,台湾駐在官兵を送り出す専用の港だったという。ここに媽祖宮が置かれてる。

负有特殊使命的则是草仔涉海边的龙泉宫。草仔培即现在同文顶一带,其海边即现今和平码头附近,其时为台厦交通的重要码头。因此清廷派驻台湾的官吏兵士皆在此迎送。

 記述はそれ以上を語らないけれど,かつての敵国・鄭氏台湾王朝の占領部隊としての出征です。当時はかなり悲愴な出立だったのでしょう。

[南寿宮]最も参拝の多い媽祖宮

 観光的には意外に注目されてないけれど,中山路の北にあります。→GM.(地点)

香火最盛的为南寿宫,位于今中华路桥亭附近。该庙祀天后和吴真人。庙舍虽小,但店外两旁有四大将军,俗称四大将。据说不但妈祖、吴真人香火盛,连四大将也被传说得神通广大,有求必应,因而男女信众每日络绎不绝。

 注目されないはずで,ここは極めて小さな廟らしい。建物の中で,秘仏めいた様子で祀られている。でも参拝は絶えることがない,という不思議な場所だという。
 これも今知ったので,当時は完全に見逃してます。

[大担岛前国宫]海上媽祖宮

 海上の媽祖と言えば,香港・佛堂门天后古庙(かつては船でしか行けない島だった)や台湾・林園の海上巡行(林園鳳芸宮海上媽祖會香)がありますけれど,厦門にはもっと本格的に船のみが集う媽祖祭礼があったという。
※ wiki/佛堂门天后古庙
林園中云港で4年に1度のお祭りに出会った~♪ | 台北ナビ

厦门边上的大担岛,也有一座妈祖庙,叫前国宫,在渔民、船民中影响较大。据说前园宫很早同湄洲的妈祖庙有过交往,被视为正宗妈祖的分身神。三月二十三日妈祖诞辰,不但是厦门,连金门、龙海、同安等地的渔船民,都要乘舟前来进香,名曰谒祖。各路船只舆辇妈祖神像,锣鼓喧天,笙歌悠扬;而前国宫前则张灯结彩,好戏连台。往往要通宵达旦方尽兴而归。

 大担島という島にやはり3月23日に,厦門一帯の漁民が集まって夜通し銅鑼を鳴らし笙歌を奏でていた,とあるのですけど,昔の話らしい。
 なぜなら場所が,厦門島から3kmなんだけど,ここだからです。→GM.(地点)
 ごく最近,やっと渡航が再開されたらしいけれど,1日の乗員に制限(2017記事:百人)されてて本気で待たないと行けないらしい。

旧態依然たる厦門の媽祖

 というわけで,とってもお気軽な厦門の媽祖宮情報をご紹介しました。行きたい!と思ったアナタは今すぐ!
──行けねーよ!
 ホント,自分自身,これらの情報を事前に知ってしまってて,偏執狂的に行こうとしたらどうなっていたかとハラハラします。
 何でこんなに厦門の媽祖は敷居が高いんだ?──石坊巷の媽祖の難易度は,厦門では普通だったらしいのです。
 それは,考え直せば……不特定多数の陸上民向けに出来てない,ということに尽きると思われます。
 元々媽祖信仰を海人が,海外交易とは関わりなく持っていた時期,媽祖はこういう形で拝まれていたのではないか?という形態が,厦門には現代商業化することなく現存しているのではないでしょうか?
 とりあえず陸上観光客は,厦門の朝天宮に行きましょう!……ってワシはそれすら見逃してるんですけど……。

■小レポ:海神信仰の共有するイメージ

 自身のこの後の思考を先に言えば,媽祖信仰を海外のみならず日本国内でも追いかけることになるのですけど……媽祖そのものは台湾や香港で広く大衆化した,かなり最近の信仰だと考えた方が現実的です。
 似たような海神は中国東海岸に多数存在した。この後,対馬で触れた天道信仰,さらに沖縄のアマミク,日本のアマテラス,住吉,宗像,八幡と変幻自在です。
 海域アジアの海神信仰の全体イメージは,どういうものなのか?それには何か共通した最大公約数のようなものが隠れていないか?
 という発想で書かれた論文は意外に少ないので,見つけたこちらをここで読んでみたいと思います。
テキスト:下見敏美「南西諸島の海神信仰」国立民族博物館研究報告,1986

[イメージ1]巡幸するカミ

 海神信仰では,カミが海を移動する。

台湾の本省人の海神来訪は王爺, 王船がある。基隆湾内の社寮島では,社霊廟と称して妈祖をはじめ10体ばかりの神像を肥っているが,旧暦6月15日にはそれらの神々が管轄地域を巡幸し,周辺海域は2捜の船を仕立てて巡幸する[鈴木1974: 164-165]。
※原典:鈴木満男「マレビトの構造」三一書房,1974

 日本の神道的な祭礼でも,カミは常在する場所を離れ,人々の住む場所を巡るけれども,どうも海神の移動はそれとは少し違う。
 海は無主の場所です。聖-俗,ハレ-ケの間の移動ではなく,それらを超越した虚空の中をただ移動する,そういうイメージがあります。

[イメージ2]移動するマレビト

 移動するのはマレビトである。高貴であったり,異界に属する者であったり,異能の者だったりするけれど,こちらの世界以外に属する者です。
 航海者が男性である場合が多いためか,マレビトはしばしば女性です。

媽祖は福建省湄洲島に肥られる航海神であり,女性の巫力によって男性航海民を守護する神である。筆者が調査した福建省の泉州市の漁村[虫寻]埔(せいぼう)では,旧暦9月23日には,村中の人が魚や豚肉や鶏肉などの料理を持って妈祖廟の前の浜に集まり,海上を伏し拝む。[虫寻]埔では妈祖は,航海安全および豊漁の神とされている。この場合,9月ということが後述の厦門の士王出巡の時期と一致すること,また豊漁を願って海上はるかに拝むという習俗が奄美·沖縄のニライ·カナイを拝むのとよく似ている。妈祖は道教の影響をつよく受けた海神信仰である。したがってその部分を勘案して考えると,妈祖信仰もその根底にニライ·カナイ的な海上他界観があると見られる。

 海を他界と呼ぶとしても,その他界は陸上民のそれと異なると思う。海人にとって,海は日常生活の場である。けれど,それと同時に異界でもある。聖即俗,とでも言うべき「他界」です。
 そこから来るマレビトは,聖でも俗でもあり,かついずれでもない。いわば理解不能な異物である。

[イメージ3]死んだマレビトが漂着する

 このマレビトが異界を経て漂着するイメージは,海神信仰に何度も出てくる。異界を経た漂着なので,マレビトは大抵死んでいる。

台湾の王爺信仰と王船習俗は,福建省の沿岸各地より送り出した王船が漂着し,それをもとに起りはじめたのだという。また福建渡来の人びとが直接伝えたということもいえよう。福建省沿岸では1949年以来,この習俗はとだえているけれども,状況を憶えている人は多い。

 漂着する異界の者,というのは海人にとってまま出くわす出来事だったでしょう。その事態のもたらすものは,見たことのない事物や途方もない富であることもあれば,狂暴な侵略者や未知の疫病だったりもする。漂着は,予測不可能な変化を連れてくる。

[イメージ4]巡幸するマレビトの漂着を拝む

 これを海人は拝む。この拝みは,明らかに聖域から,毎年やって来るカミを拝む陸上のそれよりも,遥かに危険で無謀な行為です。

筆者は履門港の沙波尾で,老船長玩発銀らよりその模様を聞いたので次に記す。
 3年に1回,旧暦9月15日前後の日を選んで「士王出巡」という祭りを3日間行なった。美しい船を造り,船の上には神像や仏像をおいて沖を走らせた。その船はなるべくきれいな若者がよい材料を使って造ったもので全長7メートルほどであった。たくさんのごちそうものせて走らせたが,それが海岸に沿って走る時,人びとは皆海岸に出て砂の上でその船を拝んだ。この祭りの間は人びとは仕事もしないで休み,酒を飲み,劇を見てすごした。士王出巡の趣旨は豊漁と航海安全を祈るのだといい,船は祭りのあと焼きすてた。

[関連データ]「沙波尾」という場所

 前掲論文の最後に引用したフィールドワークの聴取地点・沙波尾という3字が気になり調べてみると──厦門港南の地名でした。
 地点はここ。→沙坡尾:GM.(地点)
 しばしば「避风坞」とも表記されており,この両者の関係性はよく分からない。
 中山路沿岸の波止場群から少しだけ離れた位置にあります。現・厦門大学の海側,前回も今回も見逃してる場所でした。
 前頁の地図にもそれぞれ該当する場所が描かれてます。

▲前頁掲・各地図における沙坡尾エリア

 ただし,英字の地図を除きあまり正確ではない。場所の存在は無視できないけれど,公式の統治上は「一応併記」しておく程度の,重要でない土地,という感覚に見えます。
 次のサイトにかなり写真はありました。ただ,ほとんどが現在のお洒落スポットになってからのもの。
厦门港的沙波尾也是游客必到之处。
 百度百科にも記載がありました。ここは「沙坡尾は厦門港の始まりの地である」とまで言っちゃってます。

沙坡尾是厦门港的源起之地(略)其名来源是因为这里是一大段沙滩的最末端。早期的厦门港是一处弧形的海湾,这一带海湾呈月牙型,金色的沙滩连成一片,故有“玉沙坡”美称。
沙坡尾_百度百科

──名前の由来は砂州の最末端(≒尾)であることからきている。大昔の厦门港は一つの弧を描く湾だった。この一帯で湾は月の牙を成した形をとっており,金色の砂州が連なっていたので「玉沙坡」の美称も残る。
 と,地名と伝承のみです。歴史学や考古学の面からはどうなんでしょう?と思うけれど──

根据闽南文化研究者陈复授先生整理的资料,沙坡尾避风港的历史可以追溯到明代以前。[前掲百度百科]

──閩南文化の研究者が整理した資料によると,沙坡尾の避風港としての歴史は明代以前に遡ることができる。
 つまり文化史的には厦門の創始と同時期くらいには,港としての沙坡尾は古い。
 それ以上の学術的所見は,どうやらないようです。どうも歴史学サイドから沙坡尾は重きを置かれてないらしい。
 先に触れた通り,この港の「士王出巡」(中国語の観光サイトでは「閩台送王船」と書かれるものが多い)は文化的にはかなり貴重なものです(下記写真一番下)。にも関わらず──
▲沙波尾の画像群(前掲「厦门港的沙波尾……」より)

2015年5月11日,思明区政府、厦门市海洋与渔业局发布《关于厦港沙坡尾避风坞封闭管理》的公告。6月10日起,这里将进行封闭整治,不再作为船舶停泊点,长期停靠的无证船舶和外地船舶需全部驶离,不再停靠作业渔船。(前掲百度百科)

 2015年6月に区政府通達が出され,沙坡尾は港としては物理的に封鎖され,船舶は全て他所に移りました。だから前回も含め,今ここに行ってもお洒落スポット化した沙坡尾しか見ることはできません。
 けれどここは,この数百年の間,本当は何だったんでしょうか。避風港と言っても,港はすぐ北にあるのに,どうも必然性が低い。江夏堂で黄氏がやっていたような非公式交易の場だった可能性がある。
 この港にも朝宗宮という媽祖宮があり,龙泉宫と同じく,台湾行きの人々を送り出したという伝えがあります。