m083m第八波m青北風や 波打ち打てど岸を蹴れm夏商市場

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※こんなキレイなルーティングしてませんけど,ここしか路程がとれません……。

騎楼のマックはカッコいいぞ!

山路は,まあ中山路ですね。はい以上。
 安渓鉄観音だけ買って大中路へ北行。
 この東のモールは前からあったっけ?かなり商業的になった気がする。前回はもっと野暮ったかったような……。

▲1354角丸騎楼のマック

ーん!
 1352。三叉路から思明西路へ東行。何だかんだ言ってこの丸まった騎楼は凄いぞ!
 1356,左折。天一楼巷。天一楼庆让堂という1932築の建物があったらしい。それかどうか分からないけど凄い建物がある。まあ……それらしいので,それということで。

▲1359天一楼庆让堂だったらしい建物。何気なく刻まれたソビエト印がノスタルジック。

口の三叉路から北行。警務室……ということはこの辺りは私道なのか?
 行き先方向に方穀故居とある。共産党の地元の偉い人らしい。
 住所表示は梧桐埕巷となった。

梧桐埕巷の迷路を行く

▲1402微かにレンガの露出する路地裏を行く。

字。1407。全く分からんけど左折。
 いや,凄い細道です。中山路南側に勝るとも劣らない。人通りもほとんど絶えました。
 けど……ここは一体,どこなのよ?

▲1408。道の表示は「梧桐埕巷横巷」

回も,この辺りには路地が多いなあ,という印象は持ってましたけど,今回のここは──どこなのか知りませんけど──本当に凄い。素晴らしい迷路感です。
 路面,壁とも古みは感じない。中山路以南と同じく解放後の「半端な開発」状況のようです。

▲1410梧桐埕巷横巷,北出口辺り

思ってたら,ふいに,北へ出れました。大同路のようです。
 東行。ここも自然な騎楼がうねうね曲がりながら続いてます。

大同路の繁栄は1958年まで

▲1413大同路

同路始建于1929年,长1100米,宽9米,骑楼宽2.4米,是厦门第一波城市建设时出现的道路,也是完全由华侨出资购地,独立建房而成的商品街。其实在1929年到1958年间,大同路是厦门最繁华的商业街,也是商品种类最齐全的贸易区。
(略)厦门最有特色的小巷——双莲池巷就在大同路上,巷子呈现S型,狭小得仅容一个人通过,体型稍微胖一点的都很难进去。
厦门大同路在哪里,怎么样 – 漫漫看厦门

 長さ1.1km,幅9m,うち騎楼部分2.4mのこの通りは,1929年に華僑の全面出資で建設された。それから1958年まで,厦門の最も繁栄した商店街だったとある。
 この1958年というのがどうしても分からない。中山路は戦前からある。この年に金門島の砲戦が勃発してるけれど,それと関係するのでしょうか?
 なお,後段の枝道「双莲池巷」については後述します。

▲1415大同路の騎楼

道に右折北行。表示は大元路。
 厦影文化と赤文字のある公園。──ここはどうもよく分からんけど共産運動系の地元映画会社らしい。
厦影文化的个人频道

▲1424開元路

夏商市場は濃く冥く

421,開元路。西行して少し歩く。
「夏商(营平)農産品市場」という公設市場があった。周辺にもはみ出し営業してるタイプの市場だけど,陰々。古式騒然としてる。

▲1430夏商市場

き当たりを左手へ。南側に古营路,北側に阿仔[土乾]と住所表示。
 まだ市場が続く。どっちがどっちか全く分からなくなってきた。とにかく一度北へ出ようか…と思いかけたけど,ここはそのままカーブに沿い,南側に進んでみよう。

▲1432古营路の路地にて

並みが見事に古い。
 市場のはみ出しめいた風情がずっと続く。凄い地区とは分かるんだけど,まるで脈絡がない。どこが本道とも見えない迷路がどこまでも連続する。

▲1434この辺は観光客めいた人影も

裏道に遺る鄭成功軍本部

438,市場半ばから洪本部街へ南行。すぐ西行。住所はなぜかそのまま洪本部だけど……本部?

洪本部是郑成功部将洪旭办公地点(今洪本部巷40号)及其练兵阅兵的外校场、训练弓箭手的箭道和军乐队所在地(奏曲馆)的总称※ 厦門/洪本部

以郑成功骁将洪旭而得名。南明永历四年(1650年),洪旭设“兵部衙堂”于此,简称“本部堂”,巷称“洪本部”,内有洪旭祠堂住宅。洪本部巷-厦门市思明区洪本部巷旅游指南

▲1440洪本部街

442。曲がりかけた路地に「重修洪本部渡头碑記」というのがあった。「渡頭」ということは,ここのラインが元の岸なのか。
 よしここを南へ入ってみよう。洪本部旅社。
──碑文の文字はかすれて読めないので,その時は先を急いでますけど,読者には先の解説をお示ししました。「洪」とは鄭成功の部将・洪旭のこと。ここは鄭成功が厦門を占拠し,本拠地とした時代の練兵場跡です。
 この路地裏にかの碑文をひっそり残した,厦門市民の思いが偲ばれます。

▲重修洪本部渡头碑記

■レポ:厦門海水上に開元路が立ち上がるまで

 さて最初に,前頁に掲げた地図「清・厦门旧城市图」から中山路,大同路の位置を比定してみます。

台形,菱形,S字

 現在のブロックの形で,やや特徴的な2点を抜いてみます。
▲台形ブロック→GM.(地点:市食品薬品監督管理局ブロック)

▲菱形ブロック→GM.(地点:厦門貴客車酒店ブロック)

 もう一つ,本文で紹介した双莲池街です。大同路からS字に伸びる特徴的な路地で元々は池端に沿った道だったということまで書いてあるので,湾曲がこの池の淵のラインであることが推定できます。

双莲池街,西起内武庙街,经海岸街,东北至丹霞宫巷,南至大同路。长642米,宽3米。原有两池相连,称双莲池,为厦门七池之一,雅为今名。
※ 美丽厦门魅力街巷(212):双莲池街

▲双莲池路の位置(前掲サイトより)

 なお,ここの記述そのものは少なくて,厦门志,同安県誌でヒットするのはこれだけでした。

王经纶,初名纶,字愧言,号莲洲;双莲池人。厦门志《卷十三》93

 これらの形状はいずれも中山路・大同路辺り。なので前頁地図で探していくと,次の書き込み地図のような位置になり,これから2つの道の場所が推定したのが次の図です。

清代地図中,中山路~開元路~夏商市場の推定エリア

▲清代地図中,中山・大同路の位置推定図

 左手中央の下側がへこんだ,「凹」を上下逆にしたようなブロックをご記憶ください。位置的にはこれが開元路の辺りに相当することになりますけど,この逆凹字の西側は清代地図では次のようなブロックになってます。
 道の特徴的な形状から,本文最後の洪本文碑の位置までは推定できます(指差し位置)。

▲清代地図中,開元路以西と推定できるエリア

港サイドのブロック相の段差

 上の2つの地図のブロックの相は,大きく異なってます。
 中山-大同路エリアは,ドットの小さい,不整形な筆がてんでバラバラに並びます。都市計画がなされる以前に,北の厦門城との間を家屋が埋めていった過程を思わせます。
 それに対し,開元路以西のエリアは,大きなドットがある程度整列してます。おそらく町並みの形成過程が異なるのです。
 中山・大同・開元路の位置は,地図を見る上の目安です。清代のこの時期には,どの道も存在していなかったことが,この地図からも分かりますし,それぞれの道の沿革も解放前後の建設であると伝えてます。
 開元路の沿革は次のとおりです。1920年に修建され,中山路がそうなる以前は厦門の中心的な繁華街でした。

1920年12月开始修建,建成于1924年8月,曾繁华一时,随着中山路的崛起,开元路的城市中心地位被慢慢取代了,1966年8月30日改名解放路,1979年10月1日恢复开元路原名。厦门第一路,百年老街“开元路”-旅游频道-手机搜狐

 だから,3本の道の建設以前のこのエリアは,ドットの相から推測するしかありません。それぞれの道,特に土木工事のパワーがなかった解放前の時代に建設された大同・開元路は,既存の道をできるだけ繋ぎ合わせたはずですけど,基本的には後付けと考えたほうがいい。

開元路エリアは元々水域だった

 先に目安の一つとしたS字路地・双莲池街の湾曲は,双莲池という池の淵のラインの名残りだということは伝えられている通りです。
 開元路についても水の臭いが残ります。

厦门大元路,位于鼎鼎大名的八市外围,旧时称为“赖厝埕”。长不过百米,宽不过五米,这样一条市井当中不起眼的小街,其实从上世纪三十年代起就是美食文化街。大元路,一个聚集厦门老城区古早味的地方_手机搜狐网

 この中の「八市」とは第八市場の略称らしい。解放後の称号です。けれど「赖厝埕」というのは何でしょう?これが開元路の旧称らしいんですけど──?
 ここについてはさらに巻末で検討してみました。その結果,「家屋廃棄物の堆積」と捉えることにします。
 堆積とは,何かの中に何かが積まれているわけですけど,何の中に積まれた,という意味なのか。
 前頁の英字地図では,このエリアはこんな表示になっています。

▲英字地図・開元路付近拡大

 池のようなものが書かれています。
 双莲池だけでなく,厦門にかつてあったと言われる「七池,八河,十一溪」という言葉がある(同英字地図解説ほか)。そのほとんどは位置が不詳ながら,七池の幾つかは開元路東の現中山公園の水域だという見方もあるらしい。
 英字地図の作成年代は不明ながら,近代のものとは推測できます。その時期にもここに水域があったならば,近世以前はここに湖,というより北で海に続いている湾があったのではないか,というのが本稿で提示したい仮説の核心です。

「赖厝埕湾」の推定範囲

 前頁のうち,英字地図を含む2つにこの池は描かれ,その名前が書かれているようですけど,残念ながらどうしても読めない。英字地図には「……lake」,前頁の絵図(清《鹭江志》厦门岛全图)には「長……」(→後掲拡大図)と読めそうなんですけど,該当する地名にヒットはありません。だから仮に「赖厝埕湾」と呼んでみます。
 ただ,それでも位置の推測は不可能ではない。
 厦門の媽祖宮紹介で触れた中山路の南寿宮(→m082m第八波mm石坊巷/■小レポ:厦門で媽祖を拝むなら/[南寿宮]最も参拝の多い媽祖宮GM.)の位置は海中ではないでしょう。おそらく海辺の蓋然性が高い。
 ここから北に故宮路という道がある。南寿宮への参道と思われます。このラインも海中ではないでしょう。
 同じく,開元路に龍泉宮(GM.)という,これは情報の全くない宮があります。名前だけですけど,龍王を祀っていると見れば,やはり海辺とみるのが妥当です。
 もう一点,ブロック地図の北側に,湾口の小島があります。現在は埋立地の中ですけど,水域痕から見て次の場所だと推定できます。

▲北の付け根の小島の推定地

 以上,海中ではなかったであろう4点を推定しました。この4点の間に湾があり,かつ現・中山公園付近に七池があったという想定で,GM.上にその範囲を落とすと次のようになります。
 なお,ブロック地図は北方向が反時計回りに60度ほど傾いているので,方位はこれに概ね合わせてます。


▲GM.に落とした「赖厝埕湾」

「赖厝埕湾」の形状とその存在した時間軸

 海岸線が現在と不一致なので正確性を期しにくけれど……これをブロック地図に落とし直すとこうなるのだと思います。
 先のブロックの相が異なっていた範囲と概ね重なります。

▲ブロック地図に落とした「赖厝埕湾」

 もう少し輪郭を明確にします。この水域は,いつ,どういう形で存在したか。
 中世まで上記規模で穿たれていた湾には,漳州で見たような(→m075m第七波mm龍眼营再訪/■レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論])蛋民(水上生活者)の集住地区だったのではないでしょうか。この場所にこんな地形が,つまり外海の波風を避けれる場所があれば,そうなるのがむしろ当然です。
 元々はここも船着き場として使われたんでしょうけれど,厦門へ着く船が大型化し西の外海沿いに特化され,湾への着岸が減ると,途端に水上家屋の埋め尽くすところとなった。陸上の排水もあるのですから,徐々に水域に堆積がなされ,人間によって陸地化していくことになったのでしょう。結果,近代には湖沼,泥地に,つまり半陸地化した不良土壌の状態になっていた。これを,現地の人々は「赖厝埕」という地名として伝えた。
 次の写真は,上記漳州ページで触れたブルネイのカンボンアイールの写真です。近代初めの「赖厝埕湾」はこういう状況ではなかったかと想像します。それが英字地図の作られた時代には,湿地と池の中間のような状態の地面を,集落が埋めている状態になっていた。

▲ブルネイ・カンボンアイールの水上集落風景 ※ Brunei’s Kampong Ayer The largest settlement on stilts in Asean – Asean Records World

1920年代=厦門港建設ラッシュの時代

 この地域の過去がこれほど追いにくくなっているのは,厦門のこの港エリアの再開発が他より異例に早く行われたからです。
 それは,下記「网易订阅」記事によると,解放前,民国時代の1920年から1930年代前半までの出来事のようです。中山路・同安路・開元路とも建設年代が揃っているのは,いずれもこの時代の再開発の一環だったからで,他にもこの時に思明路,新马路(提督路(現・鹭江道)~东止浮屿(現・厦禾路))と現在の厦門の基本道が建設されています。
 他の町のような現体制の偉業と言えないので,あまり大々的な情宣の対象にならず,掲載サイトも探すのを苦労するほど少ないですが・・・。

二十世纪初,尽管厦门开埠已经半个多世纪,是中国重要的港口、福建对外贸易的中心和华侨出入的门户,但城市建设可以用脏、乱、差来形容。民国《厦门市志》载:“(市政建设前)街市狭窄,且污秽不堪,熏蒸潮湿,疫疠时作。”
(略)
1920年,林尔嘉、黄奕住等地方绅士倡议进行旧城改造,成立“厦门市政会”筹款集资建设,政府相应成立“厦门市政局”,负责规划设计和施工。建设包括开辟马路、拆除城墙、规划市场、兴建公园、修筑堤岸、更新码头等,至1933年,厦门城市面貌焕然一新。100年前,厦门市区的第一次“旧城改造”中山公园鹭江道曾厝垵思明_网易订阅

 なぜ厦門だけがそんな大開発ができたかと言えば,「地方紳士」により「旧城改造」が企画され,「厦門市政会」という臨時財団が市に資金を提供したからです。他の記述から類推して,まず海外華僑が資金源です。生活のために故郷を一度捨てた厦門人の一部が,無私の立場で,海外に成した財力を故郷へ還元したわけです。

▲百年前の厦門湾岸写真「1920年代堤岸修筑前的海后滩」

 それ自体は美談ですけど,潮州の事例のように,旧市街の文化的保全といった発想ではなく,それどころかイギリスの都市を模倣したものになった。これは,文化的には,厦門ケースの幸でも不幸でもありました。現代のような卓絶した機械力のない時代だったため,再開発はやや「中途半端」に進められる結果になった。街路の裏側には前近代の構造が他より残されることとなった。半面,現代の再開発のように分かりやすくない,近代と前近代が複雑にモザイク化した構造を持つようになった。
 この分かりにくさが,厦門の現代を歩くワシら旅行者としては最大の難敵でもあり,もちろんたまらない魅力でもあるのです。

▲開元路1:東側上空からコロンス島方向

まとめ:「赖厝埕湾」から開元路までの道

 大きく迂遠した上に,以下にさらに補稿を2つ付してしまっており恐縮ですが・・・お詫びにここでそもそもの開元路の話に絞ってまとめて,筆を置きます。
 なお,写真は前掲「厦门第一路……」手机搜狐掲載のものです。ツーリストが撮りにくい高所からの視点のものを集めてみました。

▲開元路2:位置不詳,西側から中段のアップと推定される。

 現・開元路の一部が「赖厝埕」と呼ばれるより前,おそらく中世以前には,ここに北から続く湾がありました。
 元々はこここそが「厦門港」で,交易の中心だった。これは漳州の浦頭港と同様です。

▲開元路3:夏商市場付近を階上から見下ろしたもの

 近世,船舶の大型化と外航化,さらにそれが可能にした海外貿易航路の恒常化に伴い,船着き場は西の外海側に移りました。内陸船舶が漳州で外航船に荷を移すようになると,厦門の湾に船は着かなくなり,専ら水上生活者の住居になる。
 そうなると水域は誰にとっても不要になる。

▲開元路4:同上の薄暮の光景

 水上居宅とその残滓で,水面はまず視覚的に消える。陸上民の生活ゴミも堆積し,湾は物理的に消滅する。
「水上家屋の建材ゴミ溜まり」として「赖厝埕」の名前だけが残さた場所に,1920年代,海外華僑たちが英風の新都を築いていく。
「赖厝埕湾」は道としての名さえ失われ,新たに「開元路」として新生する。
 それから既に百年を経ようとしているけれど,この時の「小破壊」が幸となり,現代の「大破壊」を免れた厦門独特の光景を,まだワシらは見ることができます。

▲開元路5:場所不明・階上から見下ろした開元路の一部

■補稿1:地名「埕」が遺すイメージは何か?

 開元路旧称「赖厝埕」の漢字を考えてみる。
「赖」は「頼る」の簡体字。
「厝」は閩南語で概ね古い家屋を意味するらしい。→※m054m第五波m(泉州)m南環城河/■小レポ:青龙巷の林さん家
 問題は,3字目の「埕」です。これが訳が分からなかったので沈没してしまいました。

字典上の字義:「広場」

 日本語の中国語字典に載ってるレベルで行くと,こんな辺りが記載されてます。
埕 ピンインcheng2
付属形態素 アゲマキガイの養殖場.⇒蛏田 cheng1tian2
((方言)) 名詞 酒のかめ
埕の意味 – 中国語辞書 – Weblio日中中日辞典

 養殖場?酒甕?道の意味にはほど遠いけれど,原義はこんな辺りらしい。道としての用法は,もう少し転じた意味か,方言かなのでしょう。
 中国語のやや詳しい字典ではこうなっています。
■教育部國語小字典(略)
解釋:閩南方言。泛稱庭院或廣場。如:「稻埕」、「鹽埕」。
■教育部國語辭典簡編本(略)
解釋:閩南、臺灣地區稱庭院或養殖、曝晒等空曠地為「埕」。【例】稻埕、鹽埕
■教育部國語詞典重編本(略)
解釋:(略)2[名] 臺灣、大陸地區福建沿海一帶養殖海蟶、海蛤的場地。清.徐珂《清稗類鈔.動物類.動物可種》:「閩人濱海種蟶,有蟶田,亦曰蟶埕。」
3[名] 沿海的鹽田。如:「鹽埕」。清.顧炎武《天下郡國利病書.福建漳州府志.鹽法考》:「土人以力畫鹽地為埕,漉海水注之,經烈日曝即成鹽。」
4[名] 臺灣、閩南地區稱庭院或場地為「埕」。如:「稻埕」
※ 埕 – 教育百科

 やはり分からないけれど,福建で夏に常食するアゲマキガイ(蟶)の養殖場のほか,塩(鹽埕)田もイメージする字で,ここから何かを広げ,晒すようなスペース一般を指すようになった漢字らしい。
 このぼんやりしたイメージを,用例を元に推定していくしかなさそうです。

「埋」字用例:現代記述3例

「車埋」の「埋」は、台湾語で「場」という意味がありまます。これは昔、日本統治時代に砂糖工場で生産されたサトウキビを輸送するために1916年に捕里から車埋への鉄道が建設された後、この駅の前に荷を積んだ車が何百台も停車するようになったことに由来するそうです。台湾・南投のマイナーな観光地【車埕】で半日まったりして来た – 台湾メモ

 台湾のローカル鉄道として有名になってきた集集線の終点駅・車埋についての,日本人の方の記述です。
「車が沢山,溜まっている」という意味で「車埋」という地名になっている。何かが多量に置かれている,というイメージで使われてます。
 次も台湾の事例。台北の,観光客なら一度は通ったであろう台北駅西エリアです。

大稲埕(だいとうてい、タータウチュン、英文:Twatutia)は現在の台湾台北市大同区附近の名称であり、艋舺を継承して台湾で最も発展した地方である。(略)大稲埕の範囲は台北市の民権西路以南、忠孝西路以北、東は重慶北路から西は淡水河に囲まれた地域を指す。北には大龍峒、南は北城門をくぐり城中、そして南門を経て艋舺へつながり、交通の中心地であった。(略)1709年、戴伯岐(略)らが協力して開墾を行い(略)当時ここに大規模な穀物を乾燥させる施設が設けられたことから、大稲埕と称されるようになった。※ wiki/大稲埕 台湾の台北市大同区付近の地域名

 稲が蓄積されている,という意味で「稲埕」という地名になったとある。ここでは晒されている,そのまま放置されている,というイメージも重なってます。
 最後は中国語ですけど,同安の灌口街についての記述。草仔市という通りの中段が「石埋」と呼ばれていた。それは路面に使われている石板に由来する。

草仔市,分力上草仔市、下草仔市,中段叫石埋。它位干灌口街的西北面,与三桥头,古渡相逹接。路面也是用条板石铺成,同祥順坡而建,有几級台阶,路面也较窄。古老的灌口街

 近代のある一時代にだけ使用され,その後は消えた用法のようです。「石埋」は,これまでの用法からすると,元々石が野積みされ放置されていたような場所を意味し,その後でそこが道として使われるようになったために石畳に変わった。その後,「埋」の用法が消えて通りの部分名にだけ名をとどめるようになった,ということでしょう。
 開元路についても,同じように,単に旧称というよりも,道の元が家屋(厝)の残骸の積み重なりで,それに「頼」(赖)って出来た高台のスペースが道の元になった,そういう形成過程が「赖厝埕」という古称として残ったと可能性があります。
 なお,本文中にメモした「梧桐埕巷」の「梧桐」も建材を意味している,とも考えられます。

「埋」字用例:史料記述例

 厦门志にも同安県誌にも「××埕」という地名は幾つかヒットします。

345(略)怀德宫在石埕街头。祀天后、吴真人二神即怀德社以上「县志」。[厦门志巻2]

223(略)崇武澳内打水五、六托,泥地。(略)以上惠安县属、湄洲孤屿也,周围四十里。上有天后妈祖宫,曰妈祖澳。内打水四托半,烂泥地。澳门有礁,出入宜防。南风,可泊船,潮退搁浅。隔海对面,即莆禧。又一澳,名蚝壳埕,在新宫前。(略)

224(略)娘宫之东有港,即火烧港;内是泥埕,可泊船避飓风。
(略)
定海有城,有妈祖庙。(略)再过西,有澳曰小埕;澳内打水二托,亦可泊船。小埕又西,有沙澳甚长,曰落皮沙;又过西,有山鼻极长,内名布袋澳,可避飓风。[厦门志巻4]

 積まれているものは石・蚝壳(蛎の殻)・泥。海辺の生活ゴミ,と総称できると思います。
「蚵壳厝」という閩南独特の建築様式にかつて触れました→※m054m第五波m(泉州)m南環城河/■小レポ:青龙巷の林さん家/[交易史]「蚵壳厝」の存在が意味するもの。生活ゴミの蛎の殻で家を造る。
 なお,媽祖の記述が前後に見え隠れするのは,時系列的には,「埕」字流行期と,媽祖を奉じて開拓移民した時期が重なるため。かつ,地理的には次に述べるような海人の生活臭が濃厚な立地だからだろうと思われます。

「埕」=過去積上げた人間の生活痕

 最後に紹介する厦门志巻48-48では,そうしたつつましくも凄まじい,かつての閩南の海辺の生活の現実を綴っています。

48 厦岛田不足于耕,近山者率种番薯,近海者耕而兼渔,统计渔倍于农水田稀少,(略)海港腥鲜,贫民日渔其利。蚝埕、鱼■〈草断〉、蚶田、蛏■〈涂攴〉,濒海之乡画海为界,非其界者不可过而问焉。越澳以渔,争竞立起,虽死不恤;身家之计在故也。[厦门志巻48]

「厦岛」(厦門の島)は耕す田が少なくて里山で芋を育てるほかは,半農半漁の生活をするしかなかった。海の境界争いは凄まじく,境を越えるとすぐに血みどろの争いになったから,自分たちの境界内で生計を立てるしかなかった。
 生活ゴミの再利用はそうした生活の中で,やむを得ず生まれた知恵だったでしょう。家を造り,同様にゴミ捨て場の後を広場にし,道に整形していった。
 そのようにして脈々と築いていった人間の土地,というイメージで「埕」という用字が用いられているように理解しました。
 だから,「埕」字地名を地図にプロットしていくと何か見えるような気もしましたが,残念なことに,台湾を除き,現在のどこを指すのかはほぼ完全に分かりません。

▲清《鹭江志》厦门岛全图に描かれた「長■河」

■補稿2:「赖厝埕湾」がなぜ英字地図にのみ描かれるのか?

 この「水域」は,一定の精度の地図の残る近現代の地図には,ここで問題にしている英字地図以外には,ほとんど描かれていません。
 なぜか?
 英字地図のみの誤記ではないのか?という可能性は,準植民地支配の用に期すという目的から少し非現実的です。また,上記の清《鹭江志》厦门岛全图にも「長■河」と描かれた水域はあり,存在しなかった,とする発想はひとまず捨てます。
 「赖厝埕湾」がレポ本文で触れたような時空と形状変化を辿ったならば,その末期に当たる近代には,この「水域」を地図上の陸地と見るかどうかは,極めて微妙だったろう,というのがここでの推論です。
 水上生活者とその居宅という存在を,西欧で形成された地図学は想定して体系化されていない。集落は陸上にしかなく,陸と海の境界は明確である,という前提に立ったのが地図学だと思えます。
 日本の地図学上では,例えば満潮干潮時の海岸線の特定は大きな問題になっています。大仰に言えば,陸海の三次元空間を二次元の紙面に落とし切るという作業は,ミクロのレベルで,少なくとも海域アジアでは破綻しているのです。
 理屈はそうですが,事実関係として,(本文中でも触れた)現時点で世界最大の水上集落であるブルネイのカンボンアイールの地図を以下ご覧ください。
▲[上図]グーグルマップ [中図]同航空画像 [下図]他の地図

地図に描かれたブルネイ・カンボンアイール

 カンボンアイールは,ブルネイ川上の水上集落です。下に載せたグーグルマップをご参照ください。
 グーグルマップ上は中州のように描かれています(上記上図)。けれども実際には全て人工の「船舶」で(上記中図),細かい縁どりは「中州」のラインと微妙に異なっています。
 何より他の地図(上記下図)では,この中州自体が描かれず,河水上の橋の集合体のようになっています。

 つまり,何をもって陸地と捉えるのかで,海岸線=海陸境界線は大きく異なる。その極端な例である本事例のようなケースでは,陸域全体が消えることもありうる。厦門の「赖厝埕湾」のケースでは,逆に水域全体が地図から消えたり描かれたりすることも起こりうる。
 カメラが存在する時代の「赖厝埕湾」が水上集落群から半陸地化していたとすれば,ここを写真に撮っても通常の住居群としか写らないでしょう。本件英字地図の製作者がどういう定義をもってここを「水域」と捉えたのかは定かではありませんけど,その捉えは完全に誤りではない。また,陸地と捉えて地図に描かないのも,これまた完全に誤りではなかったのだろうと考えます。
▲「19世纪末的厦门港口」対岸に見えているのがコロンス島と思われる。