m094m第九波m龍灯の海に一滴吾が小舟m王記府

もう最先端じゃない西門

▲まだまだ元気な妈祖キャラ

だかんだ言っても,やっぱ西門のもんである。
 台湾の最先端の町では,もうありません。一時は過去の繁華街と見放されつつあったここは,息を吹き返した,というより,何か鄙びた,ノスタルジックな匂いのする,それでもやはり繁華街として再起動してます。
 この打たれ強い盛り場の姿こそ,大陸にはない台湾の町の生命力です。

つべこべ言わず面線を喰え

▲王記府を騎楼の柱の陰から

西門のそこここに顔を出す,微かな陰りもいい。
 例えば,この写真の煉瓦の柱の僅かな歪さ。駅前近辺の文化街化が進む一方で,こうした古い家屋がまだまだそのまま残り,ふと曲がった角に姿を見せる。

▲面線

宗面線のこの一品は,悪く言えば,日本の無料のフードフェスとかで大鍋から配給されるみたいにパカパカと配膳されてます。
 何の気遣いも,何の気取りもない。
 でもこれが,バカみたいに旨い。火傷するほど熱いのをふうふうしながら吸うのが,冗談みたいに小気味よい。

西門中華路鴨川ベンチ

▲やはりすげえ行列

つもいつもこの行列ではありません。回転が早いから,数分後には数人になってたりするから,そこを狙ってありつく。
 貪り吸う観光客,地元民,カップルとが,道端に入り乱れる様も何とも言えない味わいの一つです。

▲西門中華路側はもはや鴨川状態

西門東淵,中華路側には広い路側に飛び飛びにベンチが並ぶ。
 でも大抵,誰か座ってる。これがどうも,この時間帯にはカップルしかいなくなるらしい。
 中華路のネオンも,このベンチの幅も,程よい夜風も誰かが計算した訳でもなかろうに,凄く心地好い。その辺が西門の西門たる由縁です。

冷めて固まった粽

▲ユニクロ前

西門地下鉄駅から西に上がった出口,このユニクロ前の広場は,いつの頃からか何がしかのイベントが絶えることがなくなりました。
 誰かが利用を管理してる訳じゃなさそう。以前は宗教が布教してたし,写真のようなストリートミュージシャンも技量は日々様々で,要するに早い者勝ちで使ってるのでしょう。

▲王記府の粽!

上,何度目か分からない西門の酔いに浸った後,お部屋で王記府の粽を頂きました。
 実はこの大陸帰りの粽が忘れられず,この後も何度か食べましたけど,ここのは店内のセットとかじゃなく,持ち帰って少し冷めて固くなりかけたのが旨いと思う。
 あまり上品な味じゃない。むしろ田舎じみて脂まみれ,という味覚で……西門はそういう開き直りをしてからが真価を発揮してきた感じを受けてます。
 さて,明日から福建としての台湾を歩きます。

▲北門と西門の位置から長年イメージしてた偽・台北城

■恥ずかしレポ:台北城はどこにあったか?そして艋舺は?

 ここだけの話ではあるけれど,あんだけ台湾に来ておいて(→台湾編首頁),台北旧城域の位置を押さえてませんでした。──時空に興味がないとこうなってしまう,という誠に情けない話です。
 というのは──「西門」に大陸のような城門跡はないけれど,まあ間違いなく旧城西門の位置でしょう?さらに北門は,こちらは現物が台北駅西にある。
 この2点を西側と北側の辺中間点とする正方形を考えると,上のような図しか描けない。
 でも台北には「南門」という地名もマイナーだけど存在する。この南門は,どうやっても正方形の辺に位置づけられない。
 何より,上の想定だと町組の方向が斜めになり,現存の道のほぼ東西南北に沿った方向と違えてしまう。──だから上の想定はまず間違い……ということまではイメージできてましたけど──それ以上考えを進めてませんでした。
 以下は,その正解はこうでした,という赤面の一文になります。

大陸にはあり得ない方形城域

▲地下鉄西門駅に以前あった古城模型(上・奥が南方向,下・手前が西北角)

 福建各都市の章でも毎度お世話になってきたBTGが,台北については,さらに恐ろしく詳細な記述を載せてました。
 原文を崩すのがもったいない完成度です。西門地区の形成を書いた次の2つの図面とその間の文章を,まずそのまま転載させて頂きます。
▲清光緒※代台北城西半分地図
※ BTG『大陸西遊記』~台湾台北市 ②(萬華区)
※1875~1908年。表題に「二十……」と見え,築城完成が1884年なので,地図は1890年代のものだろう。

古城南西側で淡水河(合流する 3河川の一つ、新店渓。下地図)が大きく湾曲するポイントに形成された船着き場から発展し(今日の貴陽街二段沿いの天后宮周辺。上地図、および下地図の赤〇)、300年以上も前から形成されていた集落「艋舺(モンガ)の町」と西門跡を接続させ、(広域)西門商業地区 を開発させていったわけである。[前掲BTG萬華区]

▲1915年台北市街図萬華地区(上が東方向)[前掲BTG萬華区]

 冒頭にイメージした偽・台北城に比べ,実際存在した台北城は,ほぼ東西南北線に沿っており,ほぼかつはるかに大きい。
 偽・台北城は,西・北・南門が正方形の各辺の中間点にある,と前提したものでしたけど,それが間違いだったのです。
 さらに,実際の台北城の北門は,正方形のほぼ北西角付近にある。なぜそんなところにあるかというと,城内の構造の中枢が西北角の四半分に偏っており,他の3つの四半分ブロックは空隙のままだからです。
 けれど,そうすると大陸の城の発想からは大変に奇妙です。それなら他の3ブロックを除外した城壁を築けばよかったはずです。それに,西門の西側河岸は艋舺の繁華街だったのだから,3ブロックを遊ばせておく理由が分からない。

台北城建設時:四半世紀持たなかったお城

 台北城の建設は意外なほど新しかった。19世紀末です。
 ということは,既に艋舺は存在した。この東側に,一定の高度と地盤を持つ土地を探すと,現台北駅南西のブロックしかなかったのでしょう。

本格的な作業は 1882年3月に開始され、当時は水田と沼沢地帯だった一帯の埋め立てに始まり、 1884年、3年3カ月を費やしての築城工事が完成を見る。
※ BTG『大陸西遊記』~台湾台北市 ①(中正区)

 ただそこは手狭過ぎ,対フランス戦で想定するような兵員を収用できない。だから城域はもっと拡大する必要があったけれど,その拡大は東と南にしか行えない。北には湿地と川,西には艋舺とやはり湿地があったからです。
▲北門(右方向)から西門(奥方向)の城壁絵図[前掲BTG中正区]
 また,北方異民族・清帝国の城は住民のための城ではなかった。統治側・兵員と八旗の独占使用する領域,という思想ですから(→外伝17-103瑠璃厂街前へ迷走■小レポ:琉璃厂の沿革から見た北京胡同の位置付け),城内が賑やかでなくとも別に失敗でも不思議でもなかったと思われます。
 こうして酷く歪な城が出来た。
 でもこの3年かけて造った城は,20年余で役目を終えます。CPはあまり良くなかった。
 壊したのは大日本帝国です。

台北城が城郭都市であった時間は、実に22年間のみであった。
日清戦争後の1895年、日本により台湾島が割譲される。日本植民地政府の主導により台北市の近代都市設計が進められるにつれ、瞬く間に古城地区が手狭となっていく。最終的に1904年、すべての城壁と西門(宝成門)が撤去されるに至る。[前掲BTG中正区]

▲台北城城壁上部[前掲BTG中正区]

このとき、3城門(東門の景福門、北門の承恩門、南門の麗正門)のみが、台北地元市民の意向を受け、残されることとなった。
また、城壁の跡地には大通りが敷設され、それが現在の中山南路(東側の城壁)、愛国西路(南側の城壁)、中華路(西側の城壁)、忠孝西路(北側の城壁)となっているわけである。[前掲BTG中正区]

 だから台北城は,ほとんどその壁の跡に大路を残し,区画の方向を決めるために存在したような城に終わりました。清帝国が想定したような大戦争に使われることも,ある意味で幸いにして,なかった。
 ところでこの文章は海域アジア編です。城は本題じゃない。話を艋舺に帰納していきます。

台北城建設前:岬の突端の艋舺

 現・西門エリアが元々は何だったのか。城から閉め出された民衆の地区,ですらなかったらしい。

台北城は(略)広大な空き地を城壁で取り囲み、中に役所機関や部隊駐屯基地を配置する城塞都市であった。庶民らが住む商業地区は北門と西門沿いの一部のみで、あとはだだっ広い空間だけだったようである。その他の多くの庶民は、城外の南西部にもともと形成されていた艋舺(モンガ)地区に居住していた。[前掲BTG萬華区]

 つまり,時系列的に言うと──
      中華路
     ③ ┃ 
 長沙路───┨ ②
     ① ┃
①まず淡水河沿いに海民が艋舺を形成
②その東の高台に清統治側が台北城を建設
③台北城西側城壁跡(現中華路)を動脈として西門商業区が新興
という三段階で町が出来てます。西門と艋舺は,成立した時期に2百年ほどの断絶がある。(艋舺への陳頼章ほか福建人の移住は1709年)
 なぜ西門地区の開発が一番後になったかというと,そこが湿地だったからです。古くは海だったのでしょう。

地下鉄「西門駅」はその名の通り、古城の西門跡地に建設されており、その前に広がるショッピング地区は、かつては原野と湿地帯、そして墓地が点在する荒れ地であった[前掲BTG萬華区]

 なかなか艋舺の話にならないとご不審かもしれないけれど,この両地区の断絶は,要するに艋舺地区だけ標高が僅かに高いことを意味してます。
 高台,と呼ぶほどでは本来はないんですけど,艋舺の初期の立地上は,この微妙な高さが決定的な意味を持ったことは,次の地形図から読み取って頂けます。
▲台北周辺の地形概略図
台北的地形 原典:遠流出版社台北地質之旅

 台北盆地東に連なる山地から,台北の真ん中を,東北東から西南西に横切る方向に突き出た丘陵が描かれています。
 はっきりとした高台は台北の手前で途切れます。でも周囲よりも高い地勢は,さらに西まで続いていると思われます。
 なぜなら,この突出地形は,台湾北部の断層の産物と思われるからです。
▲台湾北部の断層図
※ 地理教室,無國界: 105年10月8日台北盆地的地質考察活動

「[山/坎][脚-去+谷]断層」──と難しい漢字の断層ですけど,基隆方面から台北盆地へ伸びる3本の断層の真ん中のものが,台北中央を通過してます。
 この断層沿いに出来た高台の西延長が,淡水河に断ち切られた地点,それが艋舺になるようです。
 17世紀当時の地形のデータがないけれど,湿地を纏った長い岬の先端,あるいは浅水中に突き出した陸域突端。これは海民にとっては捨てがたい基地だったでしょう。
▲上記地形図を拡大し補助線を入れたもの

 台北城の立地も,そうすると,それに込められた「悪意」も疑われます。長い半島の先で交易を謳歌する海民に対し,半島手前を断つように城を造り,そのままでは仮に反旗を翻せば難攻不落だった艋舺地区へいつでも攻め入れる拠点を築くとともに,艋舺からの陸路物流を管理できる位置です。さらに,従来艋舺がそうだったように,南北に湿地を有する「半・海上基地」として防御性も併せ持つ。
 最後の意味では,台北城全体が「大・艋舺」のような発想で建設されたのかもしれません。

ツール:日本時代の地名と現・地名の対照表

 臺北市北投區戶政事務所という,おそらく役所がアップしてる「日據時期住所番地與現行行政區域對照表」という資料をツールとして掲載しておきます。
 日本時代の地名が現在のどこに該当するのか,検索して行けばすぐ分かります。
臺北市北投區戶政事務所日據時期住所番地與現行行政區域對照表
 なお,この時代なら古写真を体系化して整理してある次のサイトも併せて用いれば,当時の状況は追えます。
台北歴史地図 – Taiwan Digitalarchives
※資料提供機関:中央研究院人文社会科学研究センター附属地理情報科学研究センター

ツール2 台湾全土の移民史基本地図

 この後,今回の台湾での王爺の資料を集めているうち,三尾裕子さんの論文で凄いデータに遭遇しました。今後も含めた移民史の基礎資料として以下提示しておきます。

2-1 漢人による台湾の開拓年代


※ 三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌─台湾漢人の民間信仰の動態─」
※※ 原典:陳正祥1993:31

 清末段階でも漢人入植地は海岸から10~40km内外,しかも西海岸に限られていることが分かる。最も古い台南や台北ですら,しかもすぐ隣に先住民の生活域がある状態が,台湾の近世でした。
 鄭氏時代になると,ほとんど台南だけしか入植はなされていなかった。

2-2 台湾漢人の入植地と祖籍(1926年)


凡例 赤:泉州 青:漳州 緑:客家
濃度は人口比率を3段階で示したもの(100~90%,89~50%,49~25%)
:同一祖籍の漢人比率が25%以上かつ首位である祖籍を記したもの
※ 前掲三尾論文
※※原典:「漢声」19号 1988:16
原資料:施添福「清代在台湾人的祖籍分布和原郷生活方式」台北:台湾師範大学地理学系,1987

 激しい械闘の経緯が透けて見えるようなくっきりしたモザイクが形成されています。
 概ね,南部要地は漳州が占めているのに対し,北部は泉州,台中付近は客家が占めています。対して東部海岸域は大勢を占める祖籍がない。
 また,モザイクの明瞭な差は北部,特に台北と基隆-宜蘭において激しい。
 巷説言われる泉州は都市部,漳州は農村という傾向も読み取れる。例えば南部でも台南や嘉義のみは泉州祖籍率が高いようです。