m102m第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m艋舺天后宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

今日はもっと西へ行くべき

▲0852康定路。何てことない写真ですけど街路の小さな花々,右手暗がりの陰鬱な看板,非常に台湾です。

定路25巷を出て,0847,康定路を南行。成都路を渡る。
 概ね閑散としてきた。右手西方は「三重」と矢印のある高架への登りになってます。
 地図上は,今日はもっと西へ行くべきです。次に目指すは天后宮の元宮でしたけど──心細くなってきました。

▲1915年台北市街図萬華地区(上が東方向)[再掲BTG萬華区]

西門と艋舺の間のこの地区の不思議さです。少し東西にブレて歩くと,まるで印象が違う。
──再掲した上の地図と沿革を頭に入れてれば,それはむしろ当然です。この時歩いてたのは西門-艋舺の古い地区を西に外れた,かつての湖沼地区。
 0855角ばった騎楼の十字路。内江街らしい。右折西行──の前に!華麗大飯店でトイレ借りました。

艋舺北の陸域ラインに田都元帥

▲0901内江街と康定路の交差点辺りから,今まさにアクセルを吹こうとしてるバイクの群れ

903,北へ金属の門。
「行徳宮」「田都元帥」とある。
 0910,北行して入ってみる。住所表示は雅江巷。
 宮は西面。対聨は
左「徳存威霊巍峩耀萬方」
右「行香顯赫鼎盛通三界」

▲0915行徳宮

置を,当時は見失っていました。なぜこの南北ラインに,こんなくすんだ古みを持つ通りと宮が,突然現れるのか。
 先に清代マップを確認した現時点では,それ自体は判明してます。ここは艋舺から北に伸びた陸域ラインです。

▲雅江街の位置on前掲清光緒※代台北城西半分地図
※ BTG『大陸西遊記』~台湾台北市 ②(萬華区)

れど,この陸域とは何でしょう?
 淡水河の中洲の一部でしょうか。艋舺中央より北の離れた場所に陣取ったグループの居住地で,やや零細な交易場とするのが妥当です。「江」字を含む地名がそれを僅かに匂わせる。
 前掲BTG記述では──
古城南西側で淡水河(合流する3河川の一つ、新店渓。下地図)が大きく湾曲するポイントに形成された船着き場から発展し(今日の貴陽街二段沿いの天后宮周辺。上地図および下地図の赤〇)、300年以上も前から形成されていた集落「艋舺(モンガ)の町」
※ BTG『大陸西遊記』~台湾台北市 ②(萬華区)

 つまり艋舺のメインの船着き場はこの南北の洲だったことになり,雅江街はその東裏手の道だったことになります。すると,艋舺中央域というのは,なぜ相争うほど交易に有利だったのでしょう。船着き場に一番近い,地盤の厚い平地がそこだった,ということでしょうか。

ヒンドゥー少年神ナラクーバラ


行して雅江街を引き返す。ピンクの提灯以外は特に怪しくはない。内江街を渡りさらに南行。
 ここに三元宮「中壇元帥」というのがある。扉は開かれてない。
──この神も実は興味深い。道教の少年神・哪吒(なた,北京語:ne2zha1),ヒンドゥー教のナラクーバラ。父とされる財宝神クベーラが毘沙門天として仏教に取り込まれると,その陪神となる。なので我々も日本の寺で知らずして見ている神様です。
※ wiki/哪吒

▲0919三元宮「中壇元帥」

921,長沙街。渡って西行。
──この道より南が,古い艋舺の町になります。
 0925,西園路との十字に至る。
 何だ?ここは……?

▲0926西園路の十字路

龍津宮と福徳宮が向き合う空間

 十字西手の北西角に祠。長沙公園脇。艋舺福徳宮。蝋燭の灯が何十も燃えてる。
 ばらばらっ,と俄に通り雨。
 南対面にもあるぞ?艋舺龍津宮という文字。
 何だ!?ここは?

▲0931。手前の黄色いランタン側が艋舺福徳宮(写真中央は狛犬の後ろ頭),対面が龍津宮。右手の構造物は還河快速道路(高速道)高架。(→位置:GM.)

字の北西角に祠。長沙公園脇。艋舺福徳宮。蝋燭の灯が何十も燃えてる。
 俄に通り雨。
 え?南対面にもあるぞ?艋舺龍津宮と表示。
 何だここは?

▲0932艋舺福徳宮の祭壇。左手のオブジェのようなものは……訳が分からない。

──在の手元資料から察する限り,ここがかつての原(プロト)・艋舺の港だと思われます。
 清代地図には,長沙街はまだありません。清水宮から現・貴陽街が西へ伸びているだけ。この貴陽街の西端が最古の艋舺市街:大溪口なので,港町はそこから北へ,福徳宮・龍津宮まで拡大した後,この地域と清水宮方面を直接結ぶ長沙路が設置されるに至ったのでしょう。

▲部分拡大+追記on1915年台北市街図萬華地区(上が東方向)[前掲BTG萬華区]

水宮と貴陽街・西園路交差点までは350m。
 この距離は,水域中の船着き場のあった西園路付近と地盤の硬い清水宮との間合いだと思われます。艋舺の(当時の)半島地形から言うと北岸側,現在の西園路を底辺に貴陽路を右辺,後の長沙路を左辺にした三角形のエリアです。
 港としては,西園路の西側ワンブロックが,それに当たるはずです。
 これが南岸の龍山寺に移っていった,というのが艋舺の市街形成の過程でしょう。

▲0934龍津宮側から北側・福徳宮方向を振り返る。

艋舺天后宮の残り火

西園路に入る。0936。
 長沙路より北とは猥雑感がまるで違ってきました。台北の他の地域の騎楼とは全く違う,古色の蒸せるような騎楼が続く道です。

▲0937西園路のかなりゴッツい騎楼

武宮が左手に見えてきました。そのほぼ西対面でした。このプロト艋舺エリアの宮というのは,道を挟んで対面させる習わしでもあるんでしょうか。
 それにしてもシンプルです。
 艋舺天后宮。
左聨「聖母天后祖出賢良列仙班朱衣救苦恩巍峨」
右聨「上帝衍慶源溯武當掌坎位皂纛伏魔功浩蕩」

▲艋舺天后宮

みの形跡は薄い。──龍山寺エリアの主流は泉州グループだし西門天后を同寺に引き取ってもいるわけで,天后信徒そのものは多いはずなのに……。
※ (@_78_@) 第三日@台湾/再六訪 青山番遥/夜の西門(@_78_@)■小レポ:林默娘=西門媽祖は日本人に祟らないのか?問題
 どうやらここは海民側の天后信仰の拠点であり,陸上民だけが残った現・艋舺ではやや疎んじられている,という印象を受けました。艋舺の現市民の感覚では,天后は龍山寺に居る。

幻の白菜卤

948,南行。調べれば調べるほどこの辺は本気で黒いらしいので──と当時は無性に怯えてます──足早に距離を稼ぐ。
 0951,桂林路で右折。華西街を過ぎて梧州街を南行。
 ここの西側には艋舺金義宮というのがある。
 さてここを目指したのは,ここ何回か味をしめてる,あの一碗の朝御飯のためでした。

▲幻の!

002幻の
牛腩湯
白菜卤
卤肉飯370
 やはりやはり凄いぞ!
 牛腩湯のコテコテの脂スープも下品だけど素晴らしい。卤肉飯の臭みのないヌルリとした食感もシンプルだけど好い。
 でも今回頼んでみた「白菜卤」,これは……

▲白菜どアップ

口目は単なる白菜煮に思えるけれど八角が絶妙に淡く効いてる上にプラスアルファの中華スパイスがじわじわと舌を感動させ始める。
 どうなってるのか分からない!分からないのに爆発的な旨味です!
 排骨湯を頼んでる客も多い。骨にかぶりついてる姿が羨ましいけど,ここはもう──白菜卤だと思う。しばらくは幻じゃなさそうな賑わいなので──これは三度目も間違いなく来そうです。

■疑問点:劇団員は劇場神の為に闘う?

 百度百科「田都元帅」項の記述によりますと──

田都元帅,戏神、道教护法神,亦称田元帅、田公元帅、田府元帅、相公佛、相公爷、宋江爷,与老郎神、二郎神一样都是音乐界、戏剧界的保护神(祖师爷)。

田都元帅原本是道教的护法神,居于“九天风火院”(民间将风字横写,火字倒著写,意为吹风降火),从神为“风火二将”、“金鸡玉犬”,原先是驱逐邪魔,防备瘟疫、护佑行军的武神,而后被戏班奉为戏神,也是福建省泉州许多地区的乡土神、境主神

 と色んな属性があって収拾がつかない神様です。境神の性格が強いように思えますけど,「防备瘟疫」疫病退散の神でもある。台湾・閩南でまま見られる千歲信仰と結びつく場合もある。ただ,最新の信仰形態は「戏神」劇(中国語では劇・芝居から曲芸まで広義)の神らしい。その辺の核心が何かは福建神の場合は問うても意味はない。とにかく古くから親しまれてきた神様ということです。
▲あと,右手を挙げて左手を突き出した決めポーズに,やたら執着してる神様らしい。このポーズが芝居を連想させるんだろうか?

お芝居二大神の争闘?

 けれどこの百度記述で,最も目を引いたのはここです。

闽南地区以此神与西秦王爷为主要戏剧神,早期各个剧团时常械斗,各以所奉的神像相互叫阵。

──閩南地区ではこの神(田都)と西秦王爺を主要な演劇神とする。昔,各劇団は度々「械斗」(抗争)した。それぞれの神を奉じて互いに戦いを仕掛けた。──
 演劇の神というのは珍しくはない。舞台は一種の異界で,演じる行為はまま憑依に近くなるからです。ギリシアのディオニュシア神,日本なら天宇受売(アマノウズメ)命がある。けれど,それを奉じて戦うとは?
 何か象徴的な戦いかと思うと──

福建にはこの田都元帥を奉じる劇団と、同じく萬華にある啟天宮に祀られている西秦王爺を奉じる劇団があり、双方が台湾に渡ってきて殺し合いをしたりしてたようです艋舺行徳宮 – 道教廟の世界

と,本当に人命をやり取りしてたとも書かれる。
 維基にはもう少し具体的な様子が記される。「赛头阵」「对台拼戏」「演奏排子对决」なる争いの形態があるそうで「迎神赛会」というお祭りの場が舞台になることが多かったらしい。漳泉械斗のような純粋な戦闘ではなくて,互いの神事を妨害し合っているうちに高揚して殺傷沙汰になった,ということでしょうか。
※ 維基百科/西皮福禄械斗

 それで,この人たちがなぜ戦い初めたのか,これもよく分からないけれど,清代半ばに宜蘭(簡体字:宜兰,基隆の南)で「西皮」「福禄」の二派に分裂したことに端を発する。

清代中叶,北管传统戏曲流传入台,嘉庆以后简文登者在宜兰教习北管时,分裂为西皮、福禄两派、迭引起纷争械斗。[前掲維基]

「嘉庆以后」(繁体字:嘉慶,年号としては1796~1820年)とあるから,これが19世紀初めと捉えていい。
 不思議なことに両派の分裂,ひいては争いの理由はどこにも語られません。いわゆる音楽性の違い,みたいなもんでしょうか。

西皮派的主要乐器为以桂竹筒包蛇皮做的吊鬼仔(声音尖锐,被戏称为吊鬼,即吊死鬼,中国大陆称京胡),蛇皮音类似西皮,奉祀田都元帅;福禄派的主要乐器是以壳子弦(椰子壳做的胡琴),形状类似葫芦,音同福禄,奉祀西秦王爷。[前掲維基]

 と色々書かれるけれど
西皮派─桂竹筒─田都
vs
福禄派─壳子弦─西秦王爷
という対立構図ということしか理解出来ない。まあだいたい集団の争いなんてそんなもんかもしれませんけど……。
 時期的には19世紀中頃,三度の山があるという。同治代(1862~74年)某年,86年,87年。初回の年次が不明なのは,あまり歴史に記される事件とは当事者も思ってなかったということでしょうか。

比较大的有同治年间(1862年~1874年)某年、1886年、1887年等三次械斗,而西皮派会以交结清朝官方打压福禄派,所以有“西皮倚官,福禄走入山”俗语,代表福禄不敌西皮而逃逸的情状。两派对抗最初发生于噶玛兰厅,而后扩大到基隆、台北、花莲等地。[前掲維基]

 地理的には「噶玛兰厅」で最初に始まり,基隆,台北,花莲へ拡大してる。「噶玛兰厅」というのは1812(嘉慶17)年に五围(現・宜蘭市)に置かれた清政府の役所で※ 維基百科/噶玛兰厅,やはり宜蘭という土地が何かキーになるらしい。
 それと「西皮倚官,福禄走入山」という俗語の成語が紹介されてます。西皮派が「倚官」──清の役人に寄りかかって,福禄派を山中へ走り入らせた。田都を奉ずる西皮派は清の役人と癒着して,西秦王爺を奉ずる福禄派を追放した,と語る成語です。地域限定的な状況かどうか分からないけれど,政治的には西皮派が優位に立っていた。
 艋舺龍山寺エリアは福禄派だったわけですから,艋舺ではこの優劣を逆転させるほど龍山寺側の角頭のパワーが強かった,と言えるかもしれません。
 ……分からない。漳泉械斗とリンクすることもあるけれど基本的には出身地レベルの争いではない。規模も明確ではない。でも単なる内紛にしては執拗に過ぎます。

記録資料:蔡庆涛さんの記す基隆での西皮福禄械斗

 維基は基隆在住の蔡庆涛さんという方の記録を転載してます。残念ながらワシの読解力が追い付かないけれど,極めて貴重な記録に思えるので再転載しておきます。
 また,ここでは死者が出たことまでは記されてます。

基隆西福子弟,自来不相和睦,彼此设警讥讽,互相瑕疵,在属赛会之明增华斗胜一唱百和,小则争锋构怨,大则拳棒交攻,人命杀伤,时有所闻。盖地方风习之不同、故习惯因之趋异、此为基津百年来特有之浇风陋习,为我岛人所尽知,不可掩之事实也。现属赛会之期两派弟子竟互通声气,彼此亲睦,闲有一二不良子弟,见两派亲善,遂亦销声匿迹,束狂就范,不复如曩日可寻仇结怨。[前掲維基 原典記述:西皮福祿之爭. 2012-03-08. (原始内容存档于2017-12-18).]

画像集:田都と西秦の並ぶ双連文昌宮

▲双連文昌宮福徳誕布袋戯
中国祭祀演劇関係写真資料
 この画像は,田都と西秦が並んで祀ってある宮の祭壇写真です。
 日本統治時代に,植民地政府の統治ゆえなのか内紛の何かの推移なのか,両派の対立は沈静化,演劇神信仰としてもこんな風に両神を並べて祀る形に落ち着いたらしい。
 で──双連文昌宮?聞いたことがあると思ったら,何と双連朝市──自己流には民享市場と読んでた双連駅近くのあの市場の真ん中の宮でした。
 なぜここに演劇神なのか,それもやはり謎のままなのですが……。

▲民享市場8(寺院前風景)
外伝06@(@_18_@) 素描・民享市場 (@_18_@)

■小レポ:貴陽街 台北最古の道はどこへ通じていたか

 という訳で(何が?),この時にすら貴陽街を刻むように歩いてはおらんので──この道の歴史を辿っておきたいと思います。
 中国語wiki・維基は,この道の「西园路以西的部分是艋舺的起点」──西園路以西の部分は艋舺の始まりの場所,と記してます。

其中西园路以西的部分是艋舺的起点,被称作台北第一街,是台北市最古老的街道[1]。过去分为大溪口街、欢慈市街、直兴街、草店尾街、祖师庙横街等,直到1947年改为今名。
※ 維基百科/贵阳街 (台北市)
[1]万华区公所HP

 もちろん,貴陽という大陸中国の貴州省都の名前は日中戦当時にその地方に立て込もっていた国民党が名付けたもので,新しい改名による地名。それ以前の名称の推移はこうなります。
 大溪口街①
 →欢慈市街②
  直兴街③
  草店尾街④
  祖师庙横街⑤
  →(1947年)貴陽街⑥
 ②~⑤は日本統治時代のもので,要するに正式名が定かでないほど軽視されてる。いずれにせよ交易の表舞台から消えてるわけです。
 つまり,大事なのは「大溪口街」①時代です。

大溪口街時代:サツマイモストリートから始まった台北

清代康熙年间漳、泉汉人在台北开垦时,在此与行独木舟的平埔族族人交易番薯,形成了俗称番薯市的市集,以及老街番薯市街(台湾话:Han-tsu Tshi-kue)。[前掲維基]

 清康熙代(1662~1722年)に漳州・泉州の漢民族が艋舺に移住。
 この時期に「在此与行独木舟的平埔族族人交易番薯」──ここで「独木舟」を使っていた平埔族(台湾原住民)と番薯(サツマイモ)の交易をした。──だからここに形成された市場は俗称「番薯市」と呼ばれた。台湾語ではHan-tsu Tshi-kue。
 平埔族の「独木舟」は,漢字の通り,一本の木をくりぬいた舟,つまり丸木舟の意味ですけど,この点は後で考えます。

乾隆年间,妈祖庙、土地公庙、清水祖师庙出现,老街也跟着向东扩展。[前掲維基]

 天后,清水宮などが出来たのは清乾隆代(1736~95年),やや後の時代です。この時代に,港町に過ぎなかった艋舺の町は内陸部へ東進し初めた。ちなみに龍山寺の創建も同時期の1738年です。
 この辺りは,アユタヤ河畔から東進していったタイのバンコクに似ています。

后泉州同安人在祖师庙后方,今日贵阳街、柳州街、永福街一带形成八甲庄,以祖师庙前街、祖师庙后街与老街相交[3]。1877年牧师马偕来到艋舺传教,并在此建立艋舺教会[4]。
[前掲維基]
[3]台北市政府新闻处.2003-03
[4]赖永祥长老史料库-教会史话.

 泉州の同安出身者が祖師廟後方,今日の貴陽街,柳州街,永福街の一帯に八甲庄(日帝時代の八甲村)を形成し,「祖师庙前街」「祖师庙後街」が出来たので,かつての大溪口街はこれらに対し「祖师庙横街」と呼ばれるようになる。
 サクッと書かれてますけど,要するに町の中心が東に移り,大溪口街はその「おまけ」に凋落する。これは,前提としてかつての港町の繁栄が失われたからでしょう。おそらく大型外洋船に主流が移り,水深の浅さからそれに対応できなくなったと思われます。
 それともう一つ,1877年に「马偕」という人が艋舺に伝教,貴陽街に教会を造っている。この人はカナダ人のジョージ・L・マッケイという人で,当時も今も当地の信者からは崇拝されており,1896年には台湾総督・乃木希典とも会ってます。──艋舺が当初の移民時代を抜け,近代に入った象徴的事態に見えます。

歓慈市街時代

 貴陽街は,日帝時代には歓楽街になっていた模様です。「歓慈市街」という名は,ここに遊郭があったことから来ているらしい。

日治時期的「歡慈市街」,因當時街上有很多青樓,所以被劃入為「游廓」(紅燈區),
到了民國86年(1997年)公娼廢除,此地超過半世紀的風花雪月就此成為歷史
※ ★ 台北市萬華區 ★ 被人遺忘的台北第一街~艋舺貴陽街 @ 二愣子說三道四 :: 隨意窩 Xuite日誌

 想像ですけど,港町だった,ということは日帝時代以前から色街の側面もあって,それが日本時代に開花した,ということかもしれません。とすると,その後の華西街の風俗の興隆は日本統治時代に貴陽街から拡大していった,という決可能性もあります。

今も残る直興市場

「直興市場」於日治時期稱「入船市場」,自民國29年啟用至今[前掲隨意窩]

 地図上では貴陽街から外れているように見えるけれど(GM.),この直興市場という市場はかつての貴陽街の賑わいの唯一と言っていい名残らしい。
 日帝時代には「入船市場」と呼ばれていたという。かつての港町の市場,という意味を込めた呼称だったのでしょうか。
 まだ歩いたことのない市場です。悔しいです。

大溪口街以前:艋舺の名称の由来から

 さて,大溪口街以前に貴陽街に集落を形成していた平埔族の「独木舟」について,もう少し掘り下げます。
 艋舺という地名の由来は,従来の定説ではこの集落名から来るとされています。

后来大溪口边平埔族语称为“莽葛”(巴赛语:Bangka)的独木舟群聚,附近便取读音近似的“艋舺”(台湾话:Bang2-kah)为庄名。[前掲維基]

──貴陽街(最古名:大溪口)を平埔族語で,「独木舟」の集落という意味で「莽葛」(Bangka)と呼んでいた。そこでここに出来た村を,これに近い音で“艋舺”(台湾語:Bang2-kah)と呼んだ。
▲台湾・高砂族の独木舟(丸木舟)※場所:日月潭
※ 日本統治時代の台湾・・⑥ 高砂族の日常風景・・絵葉書 : 泰弘さんの【追憶の記】です・・・

 どうにも違和感があります。
 台湾は外洋中の島です。台北近辺に舟で生活していたという平埔族は,上記の写真のような一本樹をくりぬいた丸木舟も,河での生活では使っていたかもしれない。けれどそれは波浪のない日月潭や内陸河川では必要ないからそうしていただけではないか。
 漢民族が来る前に淡水河に舟の集落を造っていた。これはまさに海民の水上生活集落を思わせます。
 地理的環境から考えて,平埔族が海民だったことは,むしろ必然的です。
▲日帝時代の絵葉書

這一張是由 廖禹傑 提供的日本時代台灣龍船明信片。
其實台灣平埔族也曾有類似賽龍舟的競渡儀式,其中較知名的是宜蘭礁溪二龍村的龍舟賽會。以下引述「走讀宜蘭-節慶」網站:
「二龍河端午龍舟競渡,從嘉慶7年(1802)開始,據傳為平埔族噶瑪蘭人為祭祀溺於河中的孩童所舉行的競渡儀式(略)」日本時代龍船老照片 – 台灣回憶探險團

 日本統治時代になっても,平埔族は「龍舟」による競争イベントを行っていたようです。上記はその中で知名度のあった「宜蘭礁溪二龍村」のものだという。
 確かに,近代,東シナ海を行き来していた渡来漢民族の大型船舶に比べると小さく拙い構造に見えたでしょうけれど,平埔族が単に陸上民だったとは文化面でも考えにくい。
 出自を考えると,さらに決定的です。

如果艋舺是獨木舟,問題是這種獨木舟只是單純的「將整木樹段挖空成槽使之能乘人載物」的嗎?要知道台灣是南島語族發源地,南島語族曾是全世界最會航行的民族,這個民族從大陸的東南土著抵達台灣,然後移往菲律賓、印尼群島、太平洋群島,向東到夏威夷,東南達南美洲邊的復活節島,往西則到達非洲的馬達加斯加島,最南是紐西蘭的毛利人。由此可知他們航海能力之強,簡直匪夷所思,他們渡海的工具豈是獨木舟能擔任的?艋舺非獨木舟,而是邊架艇獨木舟 @ 異議份子的部落格 :: 痞客邦 ::
※末尾記載:黃哲真 2013/6/13 PS:本文獲得行政院文化部「台灣社區通」選為精選文章。登於〈大忠社區社刊〉第十七期

 台湾原住民が「南島語族」の一支流民族であることは明白です。南島語族は太平洋とインド洋を股にかけた航海民だったことも,これまた民族の分布上否定し難い。現実に,東南アジアからフィリピン,インドネシアを含む太平洋の島々,はてはアフリカのマダガスカルまで広く分布しているのですから。
 そんな航海を,単なる丸木舟しか使えない人々がやってのけたとはとても考えられない。

実証1 outrigger canoe アウトリガー

 前掲痞客邦は,この海洋民と,古代南中国に広く分布していた「百越」族を結びつけた論考(吳春明)を紹介してます。

《從百越土著到南島海洋文化》,吳春明著,書中主要是說西方所謂南島語族即中國古稱的百越。書中提到南島語族渡海的工具是「『邊架艇獨木舟』(outrigger canoe)是在獨木舟的一側或兩側過,通過連接橫桿,加裝與獨木舟同向的小型舟艇或舟型浮材,分別成為一大一小的單邊架艇獨木舟,或者一大兩小的雙邊架艇獨木舟。(略)」[前掲痞客邦]

 船体の横に小型の浮きを備えたアウトリガーの形態を取ったものが,南島語族では一般的に使われている。だから台湾海洋民も……という類推ですけど,この発想は,吳春明さんの異説というわけでもなくなってる。
 國立海洋科技博物館のサイトの記述も同等の視点に立ってました。
▲柱狀右邊架 另一種航海蟒甲(獨木舟)的柱狀右邊架艇
※ 國立海洋科技博物館-船舶與港口終身學習網路教材-原住民舟艇內容列印

2.邊架艇
  邊架艇就是為了增加舟船的穩度,在船身外側(單邊或兩邊)增加木條、竹條或其它浮具,以提高船身穩度的舟艇。
  臺灣北部的原住民平埔族群「凱達格蘭族」(ketagalan)的祖先是由海外漂流到臺灣。他們渡海的工具是什麼樣子,已無可考了,但推斷應與目前南洋與大洋洲的筏具、獨木舟、邊架艇或雙舟的船形相似。[前掲國立海洋科技博物館]

 少し論理立ってます。
①平埔族群の「凱達格蘭族」(ketagalan ケタガラン族)の祖先は海外から漂流して臺灣に来た。
──なぜこれが言い切れるのか確認できてませんが,遺伝子的になのか文化面の推測なのか,定説であるらしい。
②ケタガラン族が海を渡る交通道具がどんなだったかは分からない。
③しかし南洋や太平洋を渡るには,筏か丸木舟に浮きを付加した船舶が必要だったに違いない。

実証2 文献史料

 と思ったら,清代の文献にも記されてはいるらしい。ただ文献と言っても「番族」という民族誌資料です。

此書又說:「清代台灣『番族』民族志上的『蟒甲』,黃叔敬《台灣使槎錄》卷六『番俗六考』載:北路諸羅番的『蟒甲,獨木挖空,兩邊翼以木板,以藤縛之』,陳淑均《噶瑪蘭廳志》卷五『『番俗六考』也有:『番渡水小舟名曰蟒甲,即艋舺也,一作蟒葛。其制以獨木挖空,兩邊翼以木板,用藤系之。』,『兩邊翼以木板』的『蟒甲』應就是『邊架艇獨木舟』[前掲痞客邦]

○黃叔敬《台灣使槎錄》卷六『番俗六考』
:(北路諸羅番的)蟒甲,獨木挖空,兩邊翼以木板,以藤縛之
○陳淑均《噶瑪蘭廳志》卷五『番俗六考』
:番渡水小舟名曰蟒甲,即艋舺也,一作蟒葛。其制以獨木挖空,兩邊翼以木板,用藤系之。
 ここで記される「兩邊翼以木板」──両側にある翼のような木板,というのは,確かに限りなくアウトリガーの浮きを想起させます。
 それと,これらの記述は原住民の「蟒甲」というものの説明としてなされているのですが──

実証3 音の類似:アウトリガー→「蟒甲」mangka→艋舺

而且,『蟒甲』音mangka,在東南亞和太平洋群島『南島語族』中『外架艇獨木舟』也普遍稱為wangka、waka、vakas、hakas、wanga、nawangk,與台灣番人的『兩邊翼以木板』的『蟒甲』幾乎同音。[前掲痞客邦]

○アウトリガー:(東南アジアや太平洋群島の南島語族に一般的な発音) wangka,waka,vakas,hakas,wanga,nawangk
○蟒甲:(平埔族発音) mangka
 そしてこの点までは誰も書いてないけれど,これは
○艋舺:(台湾語音) Bang2-kah
に通じると解しても不思議のない音です。
▲阿美族秀姑巒溪之竹筏,取自凌純聲『中國遠古與太平印度兩洋的帆筏戈船方舟和樓船的研究』

補強 西拉雅族の竹筏

 平埔族が外航技術を有していた傍証として,南部の嘉南平原から恆春半島に住む西拉雅族の「竹筏」も挙げておきます。

4.西拉雅族的竹筏
  竹筏原本為原住民西拉雅族(台灣平埔族的一族,主要分佈在嘉南平原到恆春半島之間)的交通工具。竹材是本區的強勢植物,取材容易,組造簡單,又不容易沉沒,因此與邊架艇、雙舟三者,常被廣泛使用於跳島與遠航的工具。臺灣漢人在舟筏上加上竹桁方帆之後,竟然成為獨步全球的水上交通工具。[前掲國立海洋科技博物館]

 こうなると,ハイエルダールのコンチキ号にも見えてきます。アウトリガーの上に構造物を乗せたような構造らしい。漢族の技術を取り入れたものかもしれない,という記述も付してありますけど,その位に外航性は高い。元々平埔族が保有していたことが分かれば,もう彼らの航行技術に疑いは持てなくなりそうです。そうなると──

結論 艋舺は元々,平埔族の外航船集落だった

という推測が成り立つのではないでしょうか?
 艋舺は元々,湿地の中に飛び出た半島だったと前章で推測したところです。その環境は,そのままでは陸域の集落には不適切です。平埔族が海民だったと考えるなら,プレ・艋舺で海上生活を営んでいたという推測は突飛ではない。
 Bang-kah は現・艋舺の貴陽街河口にあった,アウトリガー舟 wangka 又は浮きを装着できる丸木舟による水上集落だったのでしょう。あるいは,その舟の呼称を渡来漢族が地名と誤認したのかもしれません。
 こうして,太古からの海民・平埔族から中世以降の新来の海民・福建漢族に,艋舺は引き継がれた。大きく言えば,平埔族の住んだ海上居住圏が,福建漢族による鄭氏王朝に再構築された,とも言えるのではないでしょうか。