m133m第十三波m水盆の底や木目の眩みをりm川内観音(急)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

誰なんだ?ちゃくすくるうんへいけ

▲徳川家康からオランダ使節に公布された朱印状(平戸オランダ商館蔵)

らんた船日本江渡海之時何之浦ニ雖為着岸不可有相違候向後守此旨無実儀可被往来聊疎意有間敷候也以如件
 慶長拾四年七月廿五日 (印)
  ちゃくすくるうんへいけ(カ)

 1609(慶長14)年付けで家康が発した「オランダ船は日本のどこに着岸してもよい」とする朱印状です。宛先の人物名※※※がはっきりしないけれど,この文書はハーグ国立中央文書館にも写しが現存する。その後のオランダ交易を包括的に約する重要文書となりました。
 同年,オランダが商館を置いたのが平戸です。1628年のタイオワン事件による1632年までの中断期間を挟み,1641年に商館の長崎移転が命ぜられるまで延べ27年間。
 1567年に明が開港した漳州・月港が斜陽を迎えるまでがやはり30年程(→m065m第六波mm北京路台湾路/[漳州前史]月港の盛衰)。前章で触れたシンガポール沖のリアウも24年。平戸もまた,海域アジア史に咲いて散った短命の国際商港でした。
※ 平戸オランダ商館 Official Site/関係年表
展示品/徳川家康朱印状
※※ 徳川家康の朱印状 – 校長室から:(読み下し)おらんだ船日本へ渡海の時、何れの浦に着岸せしむるといえども、相違あるべからず候。向後、此の旨を守り、実偽無く往来せらるべし。いささか疎意あるまじくそうろうなり。以てくだんのごとし。
 慶長十四年七月二十五日(印)
※※※「ちゃくすくるうんへいけ」は初代商館長ヤックス・スペックス(Jacques Specx)だろうか?末尾の「うんへいけ」が謎です。

▲1636年度平戸オランダ商館輸出品構成表
※ 栗林福也「連合東インド会社と生糸」
の期間の輸出仕訳が会計帳簿として現存する。
 金額ベースで85%強が織物です。産地は分からないけれど,中国江南の可能性が高い。中国はまだ明末,鄭芝龍が台湾南部で蓄財していた時代ですから,彼も噛んだ交易だったでしょう。
 後の主力商品・砂糖は,僅かに2%余。まだ交易内容が多角化してない。

▲1311松浦史料博物館からの平戸の町

鄭成功パパのハンコ

が出てきたのか,高台から見下ろす平戸の町は,不穏でした。
 1321,松浦史料博物館。かつての松浦家宅です。
 入ってまず目にした正保平戸城下図によると,この博物館の等高線上に侍屋敷が並んでます。船着き場はこの御屋敷の直下南に最も大きな規模のものがあった模様。屋敷-港のラインを基軸に町が構成されてます。
▲江戸期平戸図面(前頁本編末に掲げたものと同物と思われる)

命による作製,と案内板。オランダ貿易終了直後の平戸ですから,幕府の監視用,本質的には威圧を与えるために収めさせたのでしょうか。
 外国人居留地らしきものは既にない。あるいは,性格的にあっても描かれなかったでしょう。
▲鄭成功印

氏糸印」と称する印影が残されてました。鄭芝龍に関係するものと推測されているらしい。
 鄭成功に関しては,「平藩語録」という平戸藩家臣の学者がまとめた鄭成功関係記録が展示されてました。著作は推定1840年,海軍力を率いてた時代から2百年後です。幕末にようやく英雄視して文書にまとめる機運が出てきた,ということは,それまで自然な状態では鄭成功の事跡は平戸に残されてはいなかったのでしょう。
 つまり現存の鄭成功関係事物は,幕末以後の逆輸入情報による継ぎはぎの,いわば再合成写真である可能性が高い。

史都平戸自体が一級史料

▲蒙古襲来図原本

科書でもお馴染みのこの画像,てっきり博多か大宰府近辺のものと思ってましたけど──「蒙古襲来絵詞 松浦家本」展示には,松浦半島地域のものとあります。
 平戸は,弘安の役では元が朝鮮軍と江南軍の合流地点に設定していた,と書かれてます。松浦党は,博多・大宰府方面よりさらに激戦を耐えたのに幕府から恩賞がなく,以後,自前で朝鮮に拠点を作って情報収集した,それが前期倭寇である,という単純な説明は,さすがに因果が揃い過ぎてるけれど,九州南西端のこの地が当時いかに震撼したかは察するに余りあります。

▲博物館出口階段から再度平戸の町

359,退出に当たり,資料館の公式史料集「史都平戸」を購入。支払カウンターのお姉さん曰く,昭和30年頃から重版されてるもので,この館の存在証明になってると言ってもいい研究成果の集大成です。
 さて,新しい眼で,もう少しもう少し町をうろついてみたいぞ。

六角井戸にハマってしまう

▲大ソテツ奥の古像

ソテツ通りに出て左折,一応行っておこう。1408,六角井戸を通り過ぎた先に,ソテツの群落。奥に古い像並んでます。茂みの中で年代を読み取るほど近づけない。
 1412,六角井戸。案内板にも王直時代と書かれる。井戸は,形以外には特記するものはない。ただ,脇に沖縄めいた様式の祠が一つ。そう言えば,井戸を祀るという感覚も沖縄っぽい。

▲六角井戸奥の祠

調べると,平戸の六角井戸は中国様式っぽいだけで王直との関係は単独では見いだしにくい。同じく王直館のあった五島福江にも六角井戸があり,こちらは1540(天文9)年に王直が来航,居住させた場所のそばなのでほぼ彼らの飲料水用と推定できる。だから平戸もそうだろう,というものです。
 六・八角形の井戸は,日本に約40か所もある。六角のものは京都・奈良,淡路島周辺,長崎・沖縄の三ヶ所に集中してるという。うち,長崎・沖縄分が中国海商との関係を推測されている。
 技術的にも,井戸枠は,木材・石材を前提とすると四角形か円形にするのが楽なようです。実際,中国の路地奥の民間井戸でも多角形のは見た記憶がない。それを敢えて偶数多角形にしたのは,単に中国様式,というより海域アジア特有の石材文化か信仰が影響する気もする。下記の静岡・木之元神社の例では井戸は現存しないけれど祀られてはいたらしい。だから,おそらくこの六角井戸は,言われるよりももっと謎が深い事物のように思えます。

▲上から長崎県福江市,岡山県備前市,京都府綴喜郡井手町,静岡県富士市の各六角井戸(うち富士市は祠のみ)
六角井戸|スポット|五島の島たび【公式HP】|きれいな画像と動画で五島を紹介(長崎県五島市江川町)
※ 備前市文化財資料12p/六角大井戸(伝・1698(元禄)年に岡山藩郡代津田永忠が廻船・御用船の飲料水補給のため設置)
※ 六角井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|八幡・城陽【フォートラベル】(京都府綴喜郡井手町井手宮ノ本)
駅からマンホール » 謂れのある蓋 ~ 木之元神社(静岡県富士市。六角井戸自体はマンホール下に埋没して見えないけれど,現在も存在はしているという。)
※ 河野忠「六角井戸の研究」

▲もりとうのちゃんぽん

414,七ヵ所小路から港へ。町自体にはどうも深みがない。観光化以前に整備され過ぎてる,というか,ここが国際商港だった江戸初期の期間は一世代程度,むしろこれが自然な気もします。
1418もりとう食堂
あごちゃんぽん510
 出汁は一楽の方が…と思いつつ食べ進むと,あご天のフワフワ感が素晴らしい。麩が入ってるような感じです。
 これは一楽でも感じたけれど,麺がごわごわというか,熱干麺のようなボサボサ感がある。これが独特の濃い汁に絶妙に絡みるのです。個人的には「平戸ちゃんぽん」とでも呼びたくなるオリジナリティがある。

ガスが漏れていませんか?

▲平戸で熱唱。でもそこでなぜ河内なの?

路は1510のバスを選ぶことにした。風のせいかかなり疲労してる。
 鄭成功記念館では唖然とした観光客の少なさでしたけど,この市内にはそれなりに観光客がいる。皆さんマイカーで来てるみたい。
 ただここは,町としては使命を終えた感じがします。町並みだけが僅かに残り,観光一辺倒になっている空気の寂れ方です。
 台風で欠航になってるけど,ここから北へ度島及び的山大島への便がある。西へは架橋で生月島。島の南には宮の浦,志々伎という地名。平戸の最も古い呼び名に「志式」というのがあるというけれど,これは元々南部の地域の総称だったのかもしれない。
 1510定刻,平戸桟橋発。風はかなり止んでる。平戸口桟橋から,本山IC経由。
 なお,橋の手前の高校は猶興館高校という。車内アナウンスによるとキュウコウカンと読むようでした。
🚐
605,気絶寝から目覚める。
 佐々役場バス停。あの平地の町です。栄町通りとの表示連なる。
 1608,佐々バスセンター。日射が激しい。
 1633,なんだ,もう佐世保市役所?? バスだと妙に早いぞ。どこを飛ばして来てるのか?
 本日のお宿ターミナルホテルの隣に消防車やらパトカーやらがわんさか急行。おもわずシアトルに避難して状況をみることに。──後からホテルで聞くと,ガス漏れの通報があったけどガセだったらしい。色々起こる日だなあ。疲れたぞよ。
▲聖ヨハネ五島像(福江市)

■伝承:「おろくにん」様

 2008年,長崎市で,ローマ法王庁が聖人に次ぐ「福者」位を授ける「列福式」が行われています。17Cの殉教者188人を対象とするもので,日本では初回。対象者の居住地は日本各地に及び,この授与で初めて祖先がキリスト者だったと知る人も多くいたといいます。
 江戸期の平戸では隠れキリシタンどころか「隠れキリシタン村」が存在したらしく,生月(いきつき)や根獅子(ねしこ)はそうだったと言われています。
 その伝承に「おろくにん様」を見つけました。ちょっと凄まじい。
「6人の殉教者」の隠語でしょうけど,この6人目は誰?というオチも激しい。話の教訓は明確で「よそ者を信用するな」ということでしょう。

 両親と娘3人の5人家族に、ある男性が居候として居着きます。よく働き、性格も良かったことから、長女の婿になってもらいました。ある日婿に、自分たちはキリシタンであることを打ち明けます。その翌朝、婿の姿はありませんでした。彼は夜のうちに家を脱け出し、密告したのです。
 キリシタンであることが知れてしまった家族5人は、1566年(永禄9)、根獅子の浜の小岩で処刑されます。「おろくにん様」・・・、6人目は長女のおなかの中に宿していた赤ちゃんのことです。6人の遺体は、里の人々が“うしわきの森”に手厚く葬ったといわれています。
※ 根獅子町→GM.
※ 旅する長崎学 ~たびなが~/第8回 歴史と自然を満喫する平戸・松浦路

▲だからそれ,商品化しちゃダメだと思うし。──え?根獅子集落の酒米を用いた日本酒?なら仕方ないか……。

■レポ:松浦党の存在形態

 秀吉に気に入られ,徳川期にも復権して平戸藩6万石を治めた大名・松浦家の正史は,松浦史料博物館『史都平戸-年表と史談-』(2000年改版)に完璧に納められてきます。この書物はネット公開されてはいませんけど,同博物館が代々改訂を重ねてきたものらしい。
 ただ,本稿で知りたいのは,普通の大名とその支配民になる前の,つまり後期倭寇の震源地だった時代以前のいわゆる「松浦党」です。これがつかみどころがない。

大名でも共和国でもない

 そうでなかった,という形態ははっきりしてます。まず大名ではない。悪く言えばもっと「烏合の衆」に近かったはずです。
 かと言って,ジブリアニメ的な原始的共和国だったかと言えば──かつてはそういう安直な理想化がなされていた頃もあったらしいけれど──それも学説は否定しているようです。

瀬野精一郎氏は,松浦党の特質とされてきた『共和的連合形態』は,松浦党が鎌倉末期から南北朝期に変質した時期の形態で,『党』としては二義的性格にすぎず,『党』の本当の姿は変質前の鎌倉時代の松浦一族の姿にあるとした上で,そこには,これまで考えられていたような『共和的団結』による政治的・行政的単位,または組織体としての『党』なるものは存在しない,としている(『鎌倉時代における松浦党』)。
(略)松浦党の存在形態や一揆契諾の性格をめぐってはその後も多くの議論が重ねられている
※ 山内譲「海賊の日本史」講談社,2010

▲松浦市役所刊行「西海一の水軍 松浦党」──迂闊にも入手し損なってます……。

松浦党の実像らしき事実史料

 まず始点から。これは古代史の有名な史料ですけど──

末盧國有四千餘戶濱山海居阜木螟興汀不見前人好捕魚葭水恥深淺皆沈沒[魏志倭人伝]

 有名も有名,邪馬台国への道中での松浦国の記事です。宮本常一の訳を用いると──

「朝鮮半島から対馬壱岐を経て海をわたって来ると松浦につく。家が四千余戸もあるが、家はみんな山のせまった海のほとりにある。山は草木がうっそうとして茂っていて、すぐ前をあるいている人すら見えない。住民たちは好んで魚やアワビをとってくらしをたてている。そして海の深いところ、浅いところ、どこでも皆もぐってこれをとっている。(略)」
※ 宮本常一「海に生きる人々」「三 海人の里」河出書房,2015 底本:双書房・日本民衆史,未来社,1964

▲魏志倭人伝の末盧國(松浦国)記述部

「船」の記述はない。いわゆる海人の風景です。
 宮本常一は「海に生きる人々」に「一九 松浦一揆」という一章を設けて書いています。これはある意味リアルで,実情には近いと信じます。
 ここには,魏志の海人たちが海上民となる過程らしきものが描かれています。

渡辺綱の孫に久がいた。この家は綱以来すべて一字名であった。その久は延久三年(一〇七一)摂津渡辺から肥前松浦郡今福に来て住み、(略)久には今明らかにされている子が七人あり、その子のうち直という者にはまた八人の子があって、わずか二代の間に一三家にわかれ、それがそれぞれの浦や島に家をたてて小さな領主となり(略)[前掲宮本]

 松浦氏が11世紀の初めに松浦半島にやってきた。近畿への海上輸送に携わった,と宮本さんは推測しています。理由は分からないけれどこれ以降,分家がねずみ算式に拡大して松浦党となった。
 その拡大途中,日本人だけでなく中国・朝鮮の海人をも飲み込んでいった──というのでは,どうもこの急速な拡大を説明できません。逆に,中国・朝鮮の海人を取り込んだ「新編成松浦」が拡大したと考えるべきでしょう。その事例を宮本さんは2つ挙げています。
⛵⛵⛵⛵

「宋船頭」と「高麗船のりとり」

一揆に加わって来る者の中には宋船頭の後家の連れ子もいた。宋船頭というのは宋から来た船頭のことで、十二世紀の終リ頃には宋との通航がかなリ盛んにおこなわれておリ、宋から来た船の船頭で日本の女を妻にしていた者もあった。そして船頭の死んだあと、その妻は連れ子をして松浦直という者の所へ嫁に来ている。また五島の小値賀、中通島を執行していた清原是包は高麗船をのりとって領家からその役目を解却されている。この家の後も松浦一揆に加入することになるが、とに角、領家の執行であリ、また地頭を兼ねていたほどの家の主でも船で方々へ航行し、海賊行為を働いていたのであった。したがって遠方通航もおこなわれていたが、日頃はそれぞれ自分の浦の沖を中心に漁業を営んでいた。[前掲宮本]

 興味深い事実が幾つも語られるけれど,全体としてよく分からない。でもこれは宮本さんの文章のせいではなく,後掲のとおり原文がそうなってるからでした。
 でもその前に,まず「宋船頭」から追ってみます。この単語は他にあまり出ない。博多に来ていた宋人の船頭は「綱首」と呼ばれます。
 この語を用いている平戸史再考は,次のように書いています。

直は三子と離縁後、平戸にいた宋人蘇船頭の後家を後妻に娶り、後妻の連れ子の連に小値賀島の知行を相続させている事である(1:41※)。この記述から鎌倉時代、平戸に宋船頭という貿易に関わる可能性が高い中国人が居住していた事が分かるが、直が大洋路貿易の要地である小値賀島の知行を、自らとは直接血の繋がりは無いが、ジャンクを扱うスペシャリストである宋船頭の血を引く継子に委ねている点は意図的なものを感じる。
※ 平戸史再考No.010 松浦党と大洋路 | 島の館
※「1:41」:松浦党関係史料集 第1の41の略記

 これで出典が松浦党関係史料集と知れます。該当箇所は「青方文書」の「関東裁許状案」の章。青方文書は,肥前国宇野御厨中通島(長崎県南松浦郡上五島町青方)を本拠とした藤原姓青方氏の文書で,古い記事は12世紀,松浦党関係史料中でも量・質とも他を圧倒する史料です。
 原文は次のものでした。

而清原三子直前妻,壽永二年三月廿二日譲男圍状[イノ/小/再],譲与小値賀嶋地頭[身哉]時,右,三子可令知行嶋也,其故者,是包好狼藉,致民煩,依移高麗船,仁平二年蒙御勘富,被解却之刻,三子之爲領主之間,直依夫妻,直給下文知行之處,離別三子之後,相具平戸[サ/ノ木魚]船頭後家間,以彼宋人子息十郎連,[イノ/小/再]直譲与之條
[松浦党関係史料集 第1の41(青方文書 関東裁許状案 抄

▲青方文書「相具平戸[サ/ノ木魚]船頭後家間,以彼宋人子息十郎連」のくだり

 まず,宮本さんの例示している清原家の高麗船のりとり,つまり朝鮮籍船への海賊行為は,宋人の記述より前にある。
 また,宋船頭という語は直接登場しない。「[サ/ノ木魚]」という読めない漢字で呼ばれる船頭,おそらくこれは名前でしょう。宋人というのは,これに続く「以彼宋人子息十郎連」という段で初めて出る。
 ますます分からなくなる。
①高麗船襲撃
②清原三子との離別
③船頭後家の妻帯
④宋人による小値賀島領有
 この四者がどう繋がるのか,読めない。「離別」とか「後家」には,三子や先夫を殺害したという臭いも勘繰れます。でも,地域内では清原と松浦家,地域外では高麗と宋人が何らかの緊張関係に到ったことは分かる。それと,何がどうなったのかはともかく結果的に,海上ネットワーク中枢の小値賀に当時最高の船舶技術と交易ノウハウを有していたであろう宋出身者を迎えている。
 色々な推理も出来ようけれど,マージナルな複合人種連合体・松浦党が誕生した12C末の混沌を記述してて,この謎の文章はなかなか好い。
▲恋するフォーチュンクッキー松浦党ヴァージョンin松浦水軍祭り。それはそうと「僕も踊るよ」の着ぐるみは誰?

外洋船を有した松浦八組

 15C半ばのものとして宮本さんが次に示す文書は,原典名は分からない。

島々の船の中には大海の航洋に堪える船も多かったはずで、寛正六年(一四六五)の文書によれば、渡船荷物船の警護を幕府から命ぜられた中に上松浦一族中、下松浦一族中、佐志一族中、松浦壱岐守呼子、奈留方、大島方、宇久大和方、平戸松浦肥前守方の名を見出す。もとより警護船のことであるから五〇〇石以上の大船でなかったことはわかるが、しかし東支那海を渡航し得る船でなければ用をなさぬ。したがってかなりの大きさの船であったことがわかるが、松浦一揆の中右の八組が名指されているのは、これらの組が外洋渡航にたえる船を持っていたと見てもいい。[前掲宮本]

 逆算すると,12Cから遅くとも15Cには,松浦党は東シナ海を航行するインフラを備えたことになります。上記8組が各一船を有したとしても,この狭い海域に外航船が8隻動いていたというのは,驚嘆すべき密度に思えます。
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「海東諸国紀」に記す松浦名の準・朝鮮朝貢船群

 宮本さんの原典が不明なので,「海東諸国紀」中の「源」(松浦氏本姓)名義部分の21名についての記述を以下抽出してみました。
 抽出元テキストは,平成6~9年度文部省科学研究費補助金重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」(領域代表者・岩崎宏之)における計画研究「環シナ海地域間交流史―中国江蘇・浙江・朝鮮―」(研究代表者・川勝賢亮)(→掲載HP)による「海東諸国紀」(申叔舟(朝鮮)撰,不分巻,1471年)の全文テキストデータベースで,朝鮮史編修会編「朝鮮史料叢刊第二 海東諸国紀」(1933年)を底本としています。なお,「K6」は赤嶺守氏(琉球大学)作成の外字・記号対照一覧表外字記号(半角数字1字と半角英字1字の組み合わせ)ですが,取り出し方が不詳のためそのままにしています。

源義 乙酉年遣使来朝書称呼子一岐守源義約歳遣一二K6小二殿管下居呼子有麾下兵称呼子殿
源納 乙亥年遣使来朝書称肥前州上松浦波多島源納受図書約歳遣一二K6小二殿管下居波多島人丁不過十余
源永 丙子年遣使来朝書称肥前州上松浦鴨打源永受図書約歳遣一二K6小二殿管下居鴨打有麾下兵称鴨打殿
藤源次郎 丙子年遣使来朝書称肥前州上松浦九沙島主藤源次郎約歳遣一K6
源祐位 丁丑年遣使来朝書称肥前州上松浦那護野宝泉寺源祐位約歳遣一K6僧居宝泉寺
源盛 丁丑年遣使来朝書称肥前州上松浦丹後太守源盛受図書約歳遣一K6小二殿管下有麾下兵
源徳 丙子年遣使来朝書称肥前州上松浦神田能登守源徳受図書約歳遣一K6
源次郎 己丑年遣使来朝書称肥前州上松浦佐志源次郎受図書約歳遣一K6小二殿管下能武才有麾下兵称佐志殿
義永 丙子年遣使来朝書称肥前州上松浦九沙島主藤原朝臣筑後守義永受図書約歳遣一K6
源義 乙亥年遣使来朝書称肥前州下松浦一岐州太守志佐源義約歳遣一二K6小二殿管下能武才有麾下兵称志佐殿
源満 丁丑年遣使来朝書称肥前州下松浦三栗野太守源満約歳遣一K6小二殿管下有麾下兵居三栗野
源吉 乙丑年始遣使来朝書称肥前州下松浦山城太守源吉受図書約歳遣一K6
源勝 乙亥年遣使来朝書称五島宇久守源勝受図書約歳遣一二船丁丑年以刷還我漂流人特加一船居宇久島総治五島有麾下兵
少弼弘 丁丑年遣使来朝勝肥前州田平寓鎮源朝臣弾正少弼弘約歳遣一二船有麾下兵
源義 丙子年始遣使来朝書称肥前州平戸寓鎮肥州太守源義受図書約歳遣一船小弼弘弟有麾下兵居平戸
藤原頼永 丙戌年遣寿藺書記来朝書称肥前州上松浦那久野藤原頼永寿藺受書契礼物伝于国王事見上山城州細川勝氏居那久野
源宗伝 戊子年遣使来朝書称肥前州上松浦多久豊前守源宗伝以宗貞国請接待居多久有麾下兵
源泰 戊子年遣使来朝書称肥前州上松浦波多下野守源泰以宗貞国請接待居波多有麾下兵
四郎左衛門 乙酉年以源満使来受同参丁亥戊子連年而来不許接待
源貞 丁亥年遣使来朝賀観音現像書称肥前州下松浦大島太守源朝臣貞居大島有麾下兵
源義 丁亥年遣使来賀観音現像書称肥前州下松浦一岐津崎太守源義有麾下兵

 14名について本拠を松浦と記されており(朱書部),そのうち11名について「約歳遣〇」と書かれ,年に〇回の進貢を約しています。また,14名中9名は兵を率いてきていた旨の記述がある。
 松浦出身と書かれない源姓者も呼子・五島・平戸など近隣出身地が書かれているから,松浦氏の支族なのでしょう。
 日本国王を仮称する足利家と縁のない松浦氏の朝貢を認めているのは,多くが兵を率いて来ていることからも,特例的に進貢を認めるから,という飴を与えて海賊行為を抑制しようとした,ということと解釈するのが通説のようです。
 その証拠に,というか,同書では「肥前」を次のように書いています。ここには「上下松浦海賊」という表記がはっきり記されています。

肥前州 有温井二所郡十一水田一万四千四百三十二町州有上下松浦海賊所処前朝之季寇我辺者松浦与一岐対馬島之人率多又有五島[或称五多島]日本人往中国者待風之地

▲戦国期の松浦党を巡る対立構造はややこし過ぎて追う気になれません。下記に全体図があるのでお好きな方はどうぞ。
佐世保戦国史登場人物

■史料:「三国志」「魏志」第30巻中の倭人記述部(いわゆる魏志倭人伝)

「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」と呼ばれる部分です。3世紀末,西晋・陳寿の著。日本のサイトになかなか原文を見つけられず,「電子化計画」から掘り出してきたのでコピペ元として掲載しておきます。(ただし文が分割されていない元の状態で,かつ誤字もまだそのままの状態らしく,究極的に読みにくいですけど)
※PDF版としては紹興本を画像化されている方がおられました→PDF〔魏志倭人伝をそのまま読む URL:http://himiko-y.com/scrp3/wajinden.htm〕。

悽人在帶方東南忝禪之中依豐田為國巳舊百餘國漢時有朝見者今使譯暗通工十國從郡至悽循海岸水行歷韓國乍南乍東到其址岸狗邪韓國一千餘里始度因海千餘里至對馬國其火官曰卓狗副曰卑奴母離神居絕嵩方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戶無良田褒海物自活果船南北市糴又南渡小障千餘里名曰漸海至一火國官亦日卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木業林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南址市糴又渡二障千餘里至末盧國有四千餘戶濱山海居阜木螟興汀不見前人好捕魚葭水恥深淺皆沈沒更之東南陵行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨鱗柄渠瓢有千餘戶世有王皆統厲女王國郡便往來常階駐東南至奴國百里官曰兕馬瓢副曰卑奴母離有二萬餘霍東行至不彌國百里宮曰多模副曰旱奴母離有千餘蒙南至投馬國水行同十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戶南至邪壘宣國女王之兩都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲來次日奴住提可七苗田餘戶自女王國以北其戶數道旦可客載其餘旁國遠絕不可得詳次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國夾有不呼國次有俎奴國次有對樵國次有藻奴國次有呼邑國次有華奴耦奴國火有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有已利國次有支惟國次有鳥奴國次有奴國此女王境界禱畫其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不厲女王自郡至女王國萬二千餘里男子無大小皆蘇面支身自古以米其使諳申國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稍斷髮塞身以醉蛟龍眇害今悽水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會精東治塞東其風俗不淫男子皆露紛以木綿招頭其衣橫幅但結東相連客無縫婦人被髮屈諭作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縛綿其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短卜一長土竹箭或鐵鏃或骨鏃府有無興澹耳朱崖同悽地溫暖冬爰食主萊皆徒跣有屋室父母兄弟人巨息測處以朱丹莖其身體如中國用粹也食飲用遭豆手褒其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不候肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒己葬舉家詣水申漂浴以如練沐其行來渡海詣中國恒使州人不流頭不去璣蠡衣服垢污不侯肉不近婦人如喪人名之為持衰若行著吉善共頓其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹出真珠青玉其山有丹其木有桐杼豫禪樣檻投檀鳥號諷香其竹蕪幹桃支有臺橘椒曩荷不知以為滋味有禰猿黑雉其俗舉事行果有市云為輒灼骨而卜以占吉山光告軒卜其辭如令龜法視火拆占苑其會同坐起父子男女無別人性嗜酒魏鼻曰真俗忍恤三哉四時但記巷新尺支曷平己見大人市敬但搏手以當跪拜其各寄考孝作壽之一峰
※ 三國志·魏志 : 卷二十九至卷三十 – 中國哲學書電子化計劃 32