m143m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m筧潭

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

8つの点が連なった場へ

人屋敷に前章でハマッてしまったけれど,実は出島には入ったこともありません。
 この日もその気はなかったんだけど,出島まで歩いて行くと……出島うどん?そんなん出来てるの?
 1102,久しぶりに,とやってきた出島ワーフから朝市食堂が消えていたので愕然!休みとかじゃなく店がなくなってるっぽい。なぜか長崎には魚の定食を普通に食わす店がなくて,重宝してたんだけど……かと言って他のワーフ店の海鮮丼じゃあなあ…。
▲長崎文献社「長崎惣町絵図」広告の一部(1765年頃に作られたもの)

波止の紀伊国屋に入る。1140。ここで長崎文献社が出版してる江戸時代の地図を買うのが主目的だったんだけど……なかった。販売はネット上だけなのか?かなり高いけど,長崎歴史歩きには素晴らしく有用な地図っぽいのに──無念!
 1142,大波止から赤迫行きの電車に乗る。いつもながらこの長電の混み方は凄い。カードで中ドアからも降りれるようにすればそれで解消されるのに…。
▲ハワイのものらしい長崎チャンポン広告。5US$也

。最近個人的に最も頻度の高くなったこちらのチャンポンを目指しました。
1207東角
ちゃんぽん510
 これだけ気に入ってるあっさりちゃんぽん店なんですけど……店中にはワシ一人かい!
 飯時ど真ん中だぞ?出前はかなり来てるようだけど……大丈夫なのか?
「かたおか」「朝市食堂」閉店ショックに痺れつつ…でもそろそろちゃんぽん-皿うどん以外を食べたい──と思いつつ食するも!
 やはり──旨い!ネットには「あっさり」の評が並ぶけれど,個人的には単なるあっさりというのでもないように感じる。とにかく深みのある味覚。唐アクはあっさりだけど出汁とごま油の香りが他より強いんだろうか?
(再掲)岩屋橋電停

244,岩屋橋で待つ。今日は蛍茶屋を目指してみる気です。同名行き電車で折り返し,初めて終点まで乗ることになります。
 昨夜,行ってみたいポイント8つをGM.に落とした。すると,もう一つの天后を祀る興福寺を終点として8つの点が連なったのでした。それが何を意味するのか──。
 蛍茶屋上流から市内に下る中川という川筋は,かつては海岸線がかなり奥まで入っており,港町になる前の長崎,まさに町の名前ではなく氏族・長崎氏が本拠とした一帯と推定されています。港になる前の長崎とは?──とにかく歩いて確かめてみよう。
 1309,電車は諏訪神社を過ぎる。1311,新大工町。1313,新中川町。車内はえらく閑散としてきた。──大丈夫か,こんなとこに向かって?思った以上にマイナーなんじゃないか,ここ?
 いや?車窓から見る北側奥には,何か気配を感じる。
 両側から山が迫ってきました。線路は少し右折。
 1314,蛍茶屋下車。

食違いから中川二丁目坂のぼりくだり

▲初めて来た蛍茶屋電停

当時,長崎の人はお見送りといえばこの蛍茶屋までで,この蛍茶屋で惜別の宴を催し,別れを惜しんだといいます。[前掲ヒロスケ]

に車庫。北にファミマ。まず北へ渡る。
 1317,向かう方向を迷う。でも先にこちらを見よう。ファミマ左手から登る。ad中川二丁目,左が8,右が14。
 1320,喰違坂をまず見つける。
▲喰違

らら?案内看板まで出てるぞ。しかも……書いてある内容が「ヒロスケ」(山口広助「長崎游学シリーズ13 ヒロスケ長崎 のぼりくだり,長崎文献社,2018)と全く同内容。
 折角だから喰い違った先を登ってみよう。
▲1321食違い上の坂道

しい坂がある。上は階段になってる。目指したいのは東なんだけど……でもそちらには道がない。やむなく階段に踏み入れ,さらに上へ足を上げる。

▲1323中川二丁目14辺り

327,ad二丁目14。
 東への道が出た。三段目の等高線ラインかも?閑静な住宅並ぶ。右折東行。
 いや?すぐ墓地にT字でぶつかりました。上は藪っぽい。
 ダメだ。右折して下へ。
▲1331中川二丁目最上部で力尽きる。ついでにカメラ機能も力尽きて切れてる。

くんちを踊らない音羽の淵

326──下の道に戻ってしまった。諦めるか。左折東行,ad二丁目15。
 1336「旧長崎街道の図」案内看板。脇に石碑。

▲旧長崎街道:蛍茶屋~諫早間。マニアな人にはそそるルートマップ!

こから東へ,陸路の旧長崎街道が延びていた,という場所らしい。びっくりするほど沢山のウォーキングのプログがネット上にはあります。
 確かに,もう俗称じゃない知名度になったシュガーロードもこの陸路です。江戸時代以前,人力で運べる量は知れてただろうに,海路との使い訳はどうしていたのでしょう。
──ということは,この辺りで一ノ瀬橋も渡ってるはずです。前掲ヒロスケでは,異国文化が日本中に広めた人々が出立した「江戸の日本橋,京の四条大橋と並ぶ重要な橋」としています……けどスルーしとります。

▲1337長崎街道がここに始まった辺りの赤ポスト

幕末の一の瀬橋 半カラー化画像〔YouTubeより〕

342,第二ポイント,筧潭。
 幽霊話のある場所だけど,確かに暗い川筋です。渡った丸橋も基盤はかなり古そう。
 なぜかネットでは全くヒットがない。前掲ヒロスケによると──

中島川上流,一ノ瀬橋から水神神社にかけてを,筧潭(といがふち)(淵),または常盤潭(ときわがふち),音羽潭(おとわがふち)といいます。言い伝えによると遊女の常盤または音羽が身投げしたところといわれ,俗にこの付近を傾城川(淵)ともいいます。

※同書では「遊女の音羽とは初めてくんち奉納踊りをした音羽ではない」と付記

▲1342筧潭

長崎化野に白猫一匹

し東岸を歩く。
 川筋の崖に貼り付いたような家並みが続きます。愛宕山の界隈,市内南側にはよく見る土地利用ですけど,東側にもこんなところがあるのか。
▲1345対岸に貼り付く建築群

いう対岸の険しい相貌とは裏腹に,東側の地勢は何だかのんびりとしてきました。川筋の造った段丘地でしょうか。
 緩い坂に猫が丸まってる。
 その先に,五十番札所樋口大師堂とあるお堂。長崎八十八か所の一つらしい。
▲1348地蔵群

っとぼけたような魔性を感じる土地です。港町長崎とも,この下の大工町や諏訪神社付近とも違う空気です。
 なのにどこかしら,ただの郊外地とも思えない。京都の化野のような薄い淫靡さがある。
▲1345坂に棲む白猫

れだろうな。オレンジの鳥居と紅の社が坂の上から迫ってきました。
 1349,ad本河内一丁目12。松島稲荷神社。
 この道しかないんだけど……ここ,狐さん一杯で怖い。人家はあるけど妙に人通りもない。

日だまりのすすきに埋もれ足立半顔

▲1353松島稲荷神社の鳥居

には玉を抱いた像。
 後の調べでは──この社は,稲荷の看板ながら主神は豊受比賣命(とようけひめのみこと)。五穀豊穣神です。この時の像はこの神だと思う。
松嶋稲荷神社(長崎市)歴史ある旧長崎街道沿いの食の神様 | 御朱印むすび
 稲荷と漂着豊穣神,ぼんやりと水のイメージを結ぶけれど,やはり謎が深い社です。
▲松風の里由緒書
松嶋稲荷神社と、長崎街道跡と、隅治人句碑と、足立半顔句碑と ~長崎市本河内町の神社 | 九州下町おやじの珍道中

こは松風の里と称された風流地と伝わる。句碑が多いのはそのせいらしい。
 江戸期の句会の奉納坂に「松風もいつか静めて花くもり」等の句があり,一帯を「松風」で形容していたのは確かみたい。稲荷の名前「松嶋」も由来は謎ながら,ここが松林で島の絵姿をしていたから,という説がある[前掲御朱印むすび]。

▲1357足立半顔句碑と陽だまりのすすき

西側裏手には「足立半顔句碑」。
 足立半顔という俳人のことはまるで分からない。でも訳の分からぬキテレツなネームです。
 巧みな撮影術のためほぼ見えない句は次の字句でした。
松風の里に琴柱の赤鳥居
松風の里 | おてきち見聞録

かっぱ石 川立神 どんく石

▲1400橋への下り

まぐれに渡った東岸だったので,予定のルートたる西岸に戻らなければならん。つまり橋を渡る必要があるんだけど──1359,それらしい道はあったけどホントにこれだろうか?ad本河内一丁目11,結構な下り坂です。松嶋稲荷は周囲よりかなり高みにあったらしい。
 社背後に大岩。沖縄感覚だと,これが本来の御神体かもしれません。
 溝の中から飛び出して去る鳥の音。
 橋を渡れた。1402──あ,あの鳥居かな。
 ad本河内一丁目1から8へ。水神(すいじん)神社,1405。
▲水神神社鳥居

都波能賣大神(みずはのめのおおかみ)というのが祭神名。明らかにレアだぞ。
 でも鳥居を上がると家?いや,そこは神主さんの自宅で,ここの右手の空堀を渡った先でした。
 いや?これもさらに奥があるぞ?右手から回りこんだ場所に「かっぱ石」。表札には「川立神」,さらに「どんく石」とも書いてある。えーい,どれやねん名前は!?

灰皿の先に檻

▲1414奥院,のような場所にある本社

太郎饗応(かっぱごちそう)以降,神職が神殿にお供えしたい物を紙に書いて石に載せると,次の日,河童によってその品物が石に載せられるようになったといいます。このことから石を河童石とか形からどんく石(=長崎弁でカエル)とよびます。また,江戸時代,江戸の日照りが続くと水神神社で雨乞いが行われていましたが,この石の苔の生え具合で雨を占ったともいわれています。[前掲ヒロスケ]

──と書籍にはあるけれど,やっぱり訳が分からんぞ。
 そこから垂直方向に回り込むとやっと本社。
 この分かりにくさは,どういう導線なんだろうか。あるいは,一見を導かないための結界なのかも知れない。
 上の写真でも見て取れます。明確に日本の普通の神社とは違う。開放的なのに怖い,というんだろうか。
▲1420空堀の中

初の橋の下を,後から確認してみる。この構造も,普通には存在しない。
 降りてみる。
 通ると全くの空堀。なのに,ここに何と,灰皿がおいてある。
 壕の最奥に進む。錆びた金属の柵に遮られて行き止まる。柵の向こうは洞窟になっているように見えました。何の出入口なんだろう。さっきの奥院の下辺りになりそうです。何かの「檻」のように見える施設なんだけど──と考えると,奇妙な上にも奇妙な構造なのです。
 後掲のヒロスケ記載では,ここに神社が移されたのは戦前になってからで,そう古くはない。必然,水神神社の名が冠される以前から何かがあったことになる。
 分からない。
 1427,水神神社を背にする。川を左手に見て下降開始。陽光を斜面が照り返す。思わず腕を半袖にたくり上げました。

■小レポ:かっぱごちそう(河太郎饗応)

 長崎に伝わる伝承です。他の地方でのものが見つからないし,かなり独自色が強いストーリーだから,長崎固有のものでしょうか。
 その前にまず,神社の由緒ですけど,元々は中島川のずっと下流,諏訪神社南の川筋の合流地点辺りを転々としています。当初の創建地・出来大工町は諏訪神社の中島川南対面。

(略)渋江公師が,長崎入りして出来大工町に屋敷を構え,承応元(1652)年,邸内に水神をお祀したことに始まります。(略)当時,河童の被害に悩まされる者が多く,渋江氏がその被害を食い止めたといわれています。また,唐人からも航海の神として熱心な参拝を受けます。[前掲ヒロスケ]

※ 同書の記述によると1652出来大工町→1739八幡町(中島川上流,銭屋橋付近)→1920現在地 と移転している。
 転々としながらも,信仰は極めて厚かったらしく,細々として続いています。このしつこさは異様です。
 ヒロスケ以外の記述は希少ですけど,こんなのもあるから存在していて,かつ執拗に民間に覚えられてることは確からしい。
▲かっぱ繋がりサービスショット:河童と猿on懐かしTV(西遊記)

八幡町に水神湯というお風呂屋さんがある。薬湯の、きれいな公衆浴場で遠くからもわざわざ湯治に来る客があるそうだ。この水神湯の名の起こりは昔、近くに水神社を祀っていたかららしい。
水神社(大正9年、本河内水源池下に移転、現存)は、はじめ炉粕町の日本銀行支店の並び、諏訪神社寄りのところにあった。元文4年(1739)八幡町に移り、水難守護の霊験きわめてあらたかで、海路安全を願う唐人はもとより阿蘭陀人までも年々財貨を寄贈して厚く尊信したといわれる。
※ 丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊 34頁

 中国人だけでなくオランダ人まで拝んでた??そんな神様,聞いたことがありません。
 それでようやく「ごちそう」ですけれど──見方によっては酷い話です。

江戸時代,中島川は市民の飲料水として利用されていましたが,年々汚れが目立つようになります。困ったのが川に棲む河童の被害で仕返しのためか人間に悪さを働くようになります。そこで水神神社の神職はある日,河童を神社に招きました。ご馳走を用意し,神職には本物のたけのこを,河童には古い竹を輪切りにしたものを出します。神職がたけのこを美味しそうに食べる姿を見て河童は驚き,人間にはかなわないと悟ります。以降,河童は人間に対して悪さを働かないようになる[前掲ヒロスケ]

 騙して食えないものを食わせて,それが成功譚として語られてる。しかも目的は「人間の方が上位」と知らしめるため。酷い話です。
 酷いけど,河童の感じ方が凄く近い手触りのストーリーです。誰でも会おうと思えば会えた,という雰囲気。──どうやら長崎の河童は,他の地方より市井に近い。
 その辺を当たってみると,17C初頭に長崎刊行のオランダ語書籍に紹介されてます。

『日葡辞書』には「Cauarǒ カワラゥ(河朗・河童)猿に似た一種の獣で、川の中に棲み、人間と同じような手足をもっているもの」とある[土井他 1980:112]。『日葡辞書』は、日本語をポルトガル語で解説した辞書で、日本イエズス会により慶長8(1603)年に長崎で刊行された。これによると、当時の長崎の日本人にとって「河童」は、実在する動物としての認識があったといっても過言ではないようである。それも、猿のイメージが強調されている。この辞書にはこれ以上のことは記されていないが、辞書に掲載するほどということは、「河童」についての広い認識があり、日常的に「河童」が会話に登場することが多かったということかもしれない。
※ 小澤葉菜「『河童』のイメージの変遷について―図像資料の分析を中心に―」
※※土井忠生・森田武・長南実編訳「日葡辞書」1980『邦訳日葡辞書』岩波書店)

 ポルトガル人は音で記録したでしょうから,17Cより前に長崎人が「カワラゥ」と発音していたと推測できます。ちなみにこの辞書の精度はかなり高くて信用度は高い※。となると漢字では「河朗」「川童」を読んだのでしょう。
※ ナガジン!「長崎発!辞書のススメ
 前掲小澤さんは「日本ではじめて『河童』について図像を伴って紹介したのは、江戸時代の絵入り百科事典『和漢三才図会』(寺島良安、正徳2(1712)年序)第40巻であろう。」と書いています。ここには「川太郎(一名川童)」として紹介されていて,「かわろう」と読んだらしい。こんな顔に描かれてます。
▲「和漢三才図会」のかわろう(寺島良安,1712(正徳2)年)

 という訳で,そういえばこの稿は海域アジア編でして,「河童=水上生活民」説でもでっち上げれるかもと期待してましたけど,どうやら長崎の五島には1980年代まで獺(カワウソ)が生息した,という目撃談もあり,定説の「河童=獺」説が最も合理的でありそうです。

五島市岐宿町川原(福江島北部)
【事例4】1)証言の概要:岐宿町在住の山下春雄氏(1933年生,82歳)(略)はここで過ごした少年期(1940年代頃),日常よく通る山道の途中の沢で,夕方に,全長1m以上のイタチMustela spp.を大きくしたような動物を複数回目撃したと証言した。それを親や年寄りに話すと,「それは河童たい」,「カワウソち言うとたい(カワウソというものだ)」といった答えが返ってきたとのことである。
※ 上田浩一,安田雅俊「五島列島におけるカワウソの分布と絶滅」五島自然環境ネットワーク森林総合研究所九州支所動物研究グループ,哺乳類科学56(2):151-157,2016短報

 それにしてもなぜ今も参拝され,異国の来航者に拝まれたのかは謎なんですけど……。その「敷居の低さ」のような部分は,ここで拝まれる対象の自由度に由来するのかもしれません。
 長崎の正史,多彩な文献記録にはまるで登場しない水上生活者は,もちろん長崎にもいたはずです。禁制の厳しかった海岸には居れなかったはずですから,彼らは近隣の海か川にいたのでしょう。
 下記小松説が正しければ,長崎の河童イメージは,交易に潤っていた陸上民の目にまま触れる場所にいた彼らの姿が,投影されたほぼ唯一の民俗資料かもしれません。

論を小松和彦は発展させ,「近世に登場した河童のイメージが生成されるにあたって,もっとも重要な役割を果たしたのは,農民とは異なる生業を営み,しかも贱視・差別されていた『川の民』であった」と述べている。「河童」の人形起源譚と,近世の「非人」の起源譚との内容がほぼ同一であり,そこへカワウソやスッポンや猿などの動物的イメージが加わって造形されたのが「河童」だと指摘しているのである。※ 小澤葉菜「『河童』のイメージの変遷について─図像資料の分析を中心に─」
※ 小松和彦原典「河童─イメージの形成─」『週刊朝日百科日本の歴史』第72号,1987(小松和彦編「怪異の民俗学」第3巻「河童」河出書房新社,2000 所収p207-211)

▲GM.で「水上警察」ワードで検索したときのヒット画面

長崎港に家船は浮いたか?(日本水上警察)

 僅かに傍証を試みます。日本の警察には20世紀,水上警察という部署があって,これの警備対象が──現在は港湾での密輸らしいけれど──ある時期には水上生活者だったらしい。

日本では2013年4月現在、3警察署がある。
日本では明治期以降、外国航路を中心に貨物船が大型化し、大きな港湾では艀を使って沖合の貨物船で貨物の積み下ろしをし、陸上へ輸送する沖仲仕という港湾労働者が登場した。彼らの中には艀を自ら所有し、その一角に居住区を設けて家族と住み、港湾や河川で水上生活を送る者も大勢いた。(略)水上警察もこうした水上生活者の治安や、港湾や船舶にかかわる特殊な犯罪に対するために設けられた。管轄区域は、河川、河口、埋立地、沿岸付近である。なお、これらの場所については海上保安署も共管区域としている。
※ wiki/水上警察署

「沖仲仕」?聞かない名前ですけど水上生活者の一形態です。ただこの場合は,艀で生活することにどういうメリットがあったのでしょう?……と考えると,元は海人で,港湾労働に携わるようになったけれど陸上に居住地をまだ得ていない,という人々だったのでしょうか?
 さて現存の3部署ですけど,長崎は1971年に廃止になってます。
 3部署は,どこを数えてるのか分からない。要するにどこも旧来の業務が無くなって,廃止・統合・改称されてます。

東京水上警察署(警視庁。2008年3月30日付で廃止。海上を担当していた舟艇課は翌日付で新設された東京湾岸警察署の水上安全課となる。)
名古屋水上警察署(愛知県警察。2013年3月30日付で廃止。業務は港警察署に移管)
広島水上警察署(系譜は現在の広島南警察署へと続く)
函館水上警察署、函館市水上警察署(北海道庁警察部及び函館市警察。市警察時代に函館西警察署に改称され、現在は北海道函館方面函館西警察署)
下関水上警察署(山口県警察。2006年4月に下関警察署に統合)
北九州水上警察署(福岡県警察。2008年4月1日付で廃止。関係各署へ統合)
長崎水上警察署(長崎県警察。1971年9月1日付で廃止。長崎警察署に統合)
[前掲水上警察署]

 ただし,西日本の旧所在地は家船の分布と重なりそうです。業務や摘発データがあればもう少しはっきりするけれど,出てきません。
 長崎にもそれがあった,というのは,家船発祥地とされる松浦半島だけのことで,近世以降に発展した長崎湾付近には少なかった,と見るべきなのか,外洋船以前には松浦と同じく多くいた,と考えるべきなのか。やはり薄ぼんやりとしたままです。

▲「邦訳 日葡辞書」の「簀立」(醤油)の書いてあるページ。でも「数通」を「多くの文書」と訳すのはちょっと……。

17C前半の長崎人のポルトガル語力

「Cauarǒ」:カワラゥ(河朗・河童)の語が残る前掲辞書は正式には「日葡辞書」(にっぽじしょ)。1603年の刊行で,元本になった天草版と差別化して「長崎版日葡辞書」と言われることが多く,現在邦訳されてるものはこの書名になっているものが多いらしい。
 なぜ日-ポルトガル語辞書をわざわざさらに日本語訳するかというと,当時の生の日本語が残る稀有な辞書だからです。
 この辞書は,1595(文禄4)年に天草のコレジヨで印刷されていた天草版「羅葡日対訳辞書」(らほにちたいやくしょ)を元に,長崎のコレジヨで制作されたもの。
 驚くべきことに見出語数32,871語。現代の小型辞書を6万語とすれば(岩波国語辞典 第七版:6万5千語)その半分程度,つまり現定義の辞書の範疇に入る本格度です。
 ナガジンによると,宣教師の文書中には「弾圧中で暇だから作った」記述があるという。

今日は、キリスト教に対する迫害がひどくて、パアデレ※や日本人イルマン※たちは以前よりも若干の時間的余裕が生じたので、年来不完全ながら存していたこれらの辞書(「1595年 天草版 羅葡日対訳辞書」など)を見直し、一層よく検討することができるようになった。[前掲ナガジン,原典不詳]
※ パアデレ:司祭 イルマン:伝道士

 ただそれにしても前人未到の偉業です。編纂時の苦労もさることながら,その元本を作ってきた宣教師がゼロから積み重ねた苦行を思うとなかなか泣けます。
▲同「奴め」のページ。それは単語じゃなくてセリフだろう?

 以下は「長崎学」の第一人者・古賀十二郎さんの想像を交えた,南蛮船来航時代の長崎の様子の描写だという。

 南蛮船の長崎に渡り来る頃、長崎の市民たちは、小児の時より、葡萄牙語を聞き慣れ、特に吉利支丹(きりしたん)などの中で、神学校に入り、学林(がくりん)などで教育を受けた者たちは、皆な葡萄牙(ぽるとがる)語や羅典(らてん)語を心得、これらの語に熟達してゐた者は、少くなかった。[前掲ナガジン 原典:古賀十二郎氏「長崎洋学史 上巻」語学編]

 南蛮貿易に日常的に参画した当時の人々は,商品の名称や貿易用語をとっかかりに,ポルトガル語を自然に習得していった。長崎人とポルトガル人の間には,当時,通訳など必要なかったと考える──というのが古賀さんの見立てです。

▲同「バンバン」「ばんばと」のページ。ツッコミたくもなるけど,当時はそう使ってたのかも……と日本語話者としての自信を失ってしまう。

中国人も日本人も阿爹さん

 そうなると,ポルトガルより多数が,元々は市内に散住していた中国人の言葉はどうだったでしょう。世界の交易エリアには,確かにそういう場所はいくつかあります。ただ,それにしては純粋な中国語由来の地名や文物は少ない気もする。
 するけれども,そういう類いの言葉として,一つだけ次の話を聞きました。

 以前まで(昭和40年代まで)長崎では唐人(中国人)のことを”阿爹さん”(あちゃさん)と呼んでいました。この言葉は江戸時代から続く言葉で,当時は唐人も日本人に向かって”阿爹”と呼んでいたといいます。これは唐人が町宿(雑居)をしていた古い頃からの言い回しのようで,主に漳州(福建省)人が使っていた言葉といわれています。その漳州人はもともと自分より目上の人を”阿爹”と呼んでいて,それを長崎人が聞き慣れて唐人を尊敬して”阿爹さん”と呼び,いつしか”阿爹さん”が唐人の異称のように思い込まれてしまいます。さらに唐人もまた”阿爹”と言うのは人を呼ぶ日本語だと勘違いし,日本人,唐人ともお互いに間違って広がったものといわれています。
※ 山口広助「長崎遊学シリーズ12 ヒロスケ 長崎ぶらぶら歩き まちなか編~町に人あり,人に歴史あり」長崎文献社,2017

■小レポ:対清外交戦の最終防衛ラインとしての唐人屋敷(外交)

 前章のはみ出し編です。
 ①抜け荷と②キリスト教布教の禁止徹底が主目的でないとしたら,なぜ唐人屋敷は1789年に設置されたのでしょうか?
 ③外交的判断ゆえだと思います。清国と直接接触しない,距離を適度に取り続けるためだと考えるのです。
 17C半ばまで,日本の周辺国への影響力は,軍事的に琉球・朝鮮,交易援軍や要請自体の受理という意味では台湾・南部中国に及んでいました。けれど17C後半,それらの国々は次々と新興清の勢力下に入ります。
 それらの国々とは,つまり海域アジア沿岸国です。
 1681(康熙20)年,媽祖が何度目からの「昇格」を,清朝から初めて受けて「天后」号に賜ります。これは,出自としては純血の陸上国家である清朝が,海域アジアを支配することを公示した,と捉えることができる宗教的パフォーマンスです。
※ 参考:黒木國泰「17世紀鄭氏台湾の滅亡による環シナ海地域システムの再編成について」宮崎学園短期大学紀要 (5), 33-51, 2012

[時代区分]1696年鎖国完成論

 前掲黒木さんでは,通説で鎖国の開始年と捉えるポルトガル船来航禁止の1639年ではなく,琉球朝貢ルートを幕府が認めた1696(元禄9)年を,17C日本外交の転換点と見ています。規模的に対中国政策の比が客観的にも主観的にも大きかったことを考えると,本稿もこの立場を取るべきと考えます。
 その場合の時代区分は,次の節目を重視します。即ち,基調に流れるのは,清朝勃興とそれに対する江戸幕府のディフェンスです。
▼17C前半①自由貿易期▲
1644年 明王朝滅亡(北京撤退)
▼17C後半②貿易縮小期▲
1683年 台湾鄭氏滅亡
▼17C末期③防御完成期▲
1696年 幕府の琉球-清朝貢ルート追認[=鎖国完成]
▲17世紀の東アジアにおける日本対清の外交上の影響力範囲の推移イメージ

[外交戦1]海難民送還ルート

 この時期に行われたのは,幸いにして,直接の戦闘をしない段階での外交戦です。――――武力衝突については,双方の本音として,元寇の記憶のある日本は海を越えての来襲を恐れたでしょう。また,大陸平定直後の清も対外戦の初手としては百年前には向こうから攻め入って来た日本はやや難物に見え,その割に(その後の台湾と同様)利を感じていなかったでしょう。17世紀後半の段階では当面はお互いにどうしても戦争したかった訳ではない。
 外交戦の一つのステージになったのが,交易者がいる限り一定数発生していた海難民が,別の国に漂着した時の送還ルートです。
 現代の感覚だと,そりゃあ海難民の母国へ送還するんだろうと考えがちですけど,どうも朝貢関係が絡むとそうではないらしい。海難民が母国Mに支配に属し,漂着先が宗主国Aの場合,MがAの朝貢国なら,A→Mルートで直接送還するけれども,朝貢国でなく国交もない場合は,Mに最も近い朝貢国Bに一次送還し,しかる後にB→Mルートで送還する。つまり,朝貢ルートをまず通す発想です。
 これは逆に言えば,中国Aとの間に直接の海難民送還が行われたり,第三国Mの海難民がB国を経由して送還されたなら,B国は中国Aの事実上の従属国である,という理屈になる。つまりB国は中国Aの送還命令に服して出先機関的に代行するから,という理屈らしい。
 1644(寛永21)年に日本の越前船が清国支配地域に漂着した際,清は朝鮮に次の文書を出し,日本人送還を命じています。丙子の乱(中国名:丙子之役)で1637年に清が朝鮮を降した後です。

十一月己酉朔。諭朝鮮國王李倧曰,今内外一統,四海為家,皆朕赤子。務令得所,以廣同仁。前有日本國民人一十三名,泛船海中,飄泊至此。已敕所司,周給衣糧。但念其父母妻子,遠隔天涯,深用憫惻。茲命随使臣前往朝鮮至曰,爾可備船隻,轉送還郷。仍移文宣示,俾該國君民共知朕意。
※ 清世祖実録順治11年(1645)

「世界を家とし,みんな朕の子どもだから」漂着した日本国民にも「深用憫惻」深い憐れみをもって,送り届けてやろうと思う。ついては朝鮮へ臣下を随行させるから,船を用意して日本へ伝送してやりなさい。その際は「俾該國君民共知朕意」かの国の君民に朕の意を伝えておくように。
▲…とこんな顔の康熙帝が言いました。(清聖祖康熙皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵))
…というのが清国の朝貢国,又は支配下にある国への感覚だったらしい。
 そのことを江戸幕府も重々理解していて,状況証拠面から,朝鮮の「浮気」調査に着手している…というのを朝鮮側が察知して残した記録が,次の挑戦王朝実録です。 

東莱府使閔應協馳啓曰,藤智縄言大君致書於島主,以為此處則南北消息連續相聞,而島主素與朝鮮相厚,一不通報是何故耶,島主欲趨未入往之前,詳細傳報云,又曰以漂民之事,言之則清國送于我國,朝鮮與清國果非相好而然耶,大明時朝鮮為藩邦,即今貴國之於清國亦如是耶,平成幸今将為此出来云
※ 朝鮮王朝実録 仁祖25年3月25日
※※仁祖25年=1648年

 東莱府の使者・閔應協からの知らせでは,藤智縄(有田杢兵衛)情報として,大君(徳川家光)が島主(対馬宗氏・当時の宗義成か)に書を送り,『ここ(江戸)には国外南北のニュースがじゃんじゃん届いているんだがね,島主。君が親しくしている朝鮮からの情報は無しのつぶてだよね。もっと詳細に報告してくれないと困るよ』と詰問した。――――当時,柳川一件(初代藩主・宗義智の国書偽造が幕府に露見,二代・義成が改易されかけた:1635年)直後で,宗氏と幕府の力関係は極端だったとは言え,家光将軍は宗氏を情報機関扱いしていて酷いですね。その上で――――
『それにさあ,漂民の事だけど,清国から我が国に送る際,朝鮮経由で送られてきたよね。あれは朝鮮と清国の関係が何か変わったからじゃないのかね。明の時期には朝鮮は(明の)藩邦(属国)だったのだから,今もそうなっていないのか,至急調べたまえ(ガチャッ)』ということで,この件で平成幸が朝鮮に調査に来ます。――――というところまで詳細が,朝鮮側に伝わって文面にまでなっているのは,逆に大した情報収集能力です。
▲徳川家光肖像(徳川記念財団蔵)

 つまり1648年には,海難民送還の尺度では,朝鮮は清の朝貢国の位置についている。かつ,それを清はもちろん江戸幕府も確認していた訳です。
 当時の中華世界観の外交ゲーム感覚では,この位置づけが重要になる。秀吉の朝鮮出兵と明滅亡で朝鮮半島の北に下がっていたはずの中華と非・中華のボーダーが,半島の南まで東進したことになります。
 さて,黒木さんが重視する1696年には,これが琉球・薩摩域でも起こっています。

琉球國江漂着之唐船,(A)前々破船不仕時者,従琉球帰帆申付,其段長崎江従被相達候,若破船候得者唐人共長崎江送遣之候,(B)然處今度琉球國中山王其方迄相願候者,如跡々大清國江進貢船遣候付而,以来漂着之唐人并出所不相知候異国船致破船候共,福州迄送遣度候
※「鹿児島県史料」旧記雑録追録1,2624の元禄9年(1696)6月28日付の老中連署奉書 アルファベッドは黒木追記まま

 黒木さんの現代語訳ではこうなります。

 これまでは,(A)琉球国への漂着唐船を破船でなければ帰帆させ(元禄元年1688年11月4日薩摩旧記雑録追録),そのことを鹿児島藩が長崎奉行に届け出ていた。破船の際には,唐人達を長崎に送っていた。
 今後は,(B)中山王の願い出のとおり,漂着唐人,出所不明の異国船について,破船したときにも,福州に送ることを許す。[前掲黒木]

 清は琉球に,海難民送還を命じていました。これは,前章で見たように玉虫色の姿勢をとり続ける琉球に,朝貢国であることを認めよ,と求めた訳です。江戸幕府はこれを許さず,唐船を追い返すように厳命していたところ,1696年についに送還を認めた。琉球が清の朝貢国であることを容認した訳です。
 これによれば,日清両国の影響圏ボーダーは,九州南まで一気に後退したことになります。

[外交戦2]キリスト教迫害国際同盟

 もう一つ,黒木論文が提起する尺度は「キリスト教禁止」です。
 琉球では1634年,島津の侵攻から25年後に八重山でキリスト教徒の焚刑が行われています。どうも江戸幕府は,キリスト禁教令を自己の支配領域たる証にしていたらしい。──中華世界観のものではなく,日本独自の尺度です。これは,一種の日本型中華秩序の構築を意図したものともとれます。
 なので朝鮮に対しても,幕府はキリスト教禁止を要求しています。それも1639・1644・1649・1686年と,4連発でやってます。
 海難民送還とは一見かけ離れた分野ですけど,いずれもメタ・メッセージとしては「我(が国)に従属するか?」です。政治や外交の本質は結局そこです。
 このしつこさは,江戸幕府にとっての,朝鮮の日本従属度の定点観測だったとみていいかもしれません。
 文面から発出時期が分からないけれど,1639年当初の要求への回答と推定される回答文面を,朝鮮側が残しています。これには日本語訳も残り,信憑性は高い。

我國禮を以て俗をなして,彼異術の我民を眩惑する事を許さす,且海に近きの所,邊臣をして常に是を捜り,其竊盗を防かしむ,所謂黒菴甫島の名,今また始て是を聞り,耶蘇の妖術,衆を惑わし,民を乿る,ともに悪むことをなすへきものなり,若果して示す所のことくむは,我國に在てもまた其侵盗の虞なくんはあらす,よりて沿海の兵鎮に命して,是を伺ひ厳に防備し,若異国の船我界に入ることあらは,速に是を捕へ釜館に伝送せしめん(朝鮮通交大紀)

 清に武力制圧された後にも関わらず,飾文の限りを尽くしてます。朝鮮側の本音は時間稼ぎでしょうけど,一応日本の「命令」に従う体をとってます。──「彼異術」「耶蘇の妖術」と悪口に悪乗りした上で,「若異国の船我界に入ることあらは,速に是を捕へ釜館に伝送せしめん」と景気よく同意,事実,釜山倭館にポルトガル船員を連行してる。
 ただし,1686年の日本要求には2年も回答文を保留した挙げ句,実のある返事をしていません。外交メッセージとしては「朝鮮はもう日本の従属国ではありません」という含意です。
 こうして,キリスト禁教の尺度でも,日本影響圏は朝鮮半島南まで後退したことを,幕府は17C末には確認してます。
▲日清戦争期のよく引用されるマンガですけど,17Cからこのお二人は同じように睨みあってきて,その果てについに干戈を交えた,と言えるのかもしれません。

[戦略]仮想敵に合わせての同時撤退

 あなたが,当時の日本の幕閣で,17C半ばから末まで対清国情報に接していると考えてみて下さい。
「韃靼人」が北京を占領したと聞いた40年後には,博多と鹿児島の対岸まで「清朝」支配圏にしてしまった。その間,援助していた南明・台湾は領有され,一時は影響下に置いたはずの琉球・朝鮮も彼の傘下と認めざるを得なくなった。
 自然には,仮想敵がこれだけ近寄って来たら,勝つか負けるか,つまり戦争か支配下に入るかのニ択の選択をするでしょう。朝鮮やネパール,ビルマは戦ったし,タイや琉球は朝貢下に入った。――――結果,清支配下に入らなかった独立勢力はムガル帝国と江戸幕府日本だけで,前章の繰り返しに近くて恐縮ながら,清の矢先が東に向かっていたこの17C後半,清が日本だけを放置した理由がむしろ不思議なくらいです。
▲清の対外政策(制圧近隣諸国とその年代)

 ただ,17C日清間には通常と,例えばネパールと異なる点が2つありました。
 海を隔てていたことと,少なくとも当初,互いに接触を放棄したことです。
 琉球のキリスト禁教に清が特段介入してないこと,台湾の産業振興に一般に熱心でなく械闘も起こるに任せたことからも,清は,海の向こうに関しては,敵対勢力を廃した後は,先代明朝の既存資産たる朝貢交易網を回収すれば十分という姿勢でした。
 また,たまたま台湾に依った残明勢力が海軍色の強いもので,ために清が遷界令という撤退戦術をとったことで,これに合わせて江戸幕府側も勢力を縮減すれば,双方が接触しないまま時間を稼げる状態が継続した。
 江戸幕府の戦略は,外交的に大きく撤退し,影響圏をほぼ現日本本土のみに留めると同時に,最終防衛ラインを堅固にすることを選んだ,ということだと思います。
 これは,清の日本への次の手,朝貢要請又は国交樹立を封ずる意味もあったかもしれません。単なる海商にこれほどアンフレンドリーなお国柄だ,というアピールです。――――仮に,清からそうした手が打たれたとしたら,幕府は「いや海禁中ですからどなたともお付き合いできません」とドアを閉めたでしょう。そもそも鎖国も唐人屋敷もその際にドアを閉めても「やっぱりこいつはこういう奴だよな」と思ってもらえる準備だといえないこともないわけですから。
 こうして東シナ海は,両国が半ば意図的に形成したバッファ・ゾーンとなりました。そしてそのことが,両国の思惑とは全く別に,次世紀以降の大航海時代の胎盤となっていった訳です。

[戦法]臨戦体制の演出とバッファ・ゾーン最大化

 先の表の横軸に鹿児島と長崎を入れたのは,鹿児島と長崎に中国人居留地を造るところまでは許す。けれど,そこから先に踏み込むならば,当方は本土決戦だぞ,そうなれば徹底的に抵抗するぞ,という意思表示兼臨戦体制です。
 帰国した中国人たちから,当然清側は,日本の徹底した,「病的」とも言える管理体制を聞き及んだでしょう。
 また,異国船来航の度に,港所在地の藩や現地住民に多量動員をかけているのも,単に慌てふためいただけではない意図を感じます。「臨戦体制」を演出しているように思える。
 皮肉なことに,かもしれませんけど,現代の中国が絶好のモデルになります。共産中国は明らかに「資本主義諸国との戦争は今も継続している」という臨戦体制を,意図的に維持しようと演出しています。
 江戸幕府の戦法の一つが,この「臨戦体制演出」であったとするなら,今一つは,それと逆行的ながら,バッファ・ゾーンをより広く保つことだったと想像します。
 唐人屋敷という,自主的な「租界」,治外法権域の設定は,以下の類似2事例からその性格をクリアにできます。

元禄9年(1696)から,琉球国・奄美地域は中国を中心とする冊封体制の領域に名実共にふくまれることになったといえる。したがって,琉球国等を自藩領分とする鹿児島藩は,鎖国体制と冊封体制の両者の圏域に含まれることになる。そのために幕府は,鹿児島藩に対して境界領域として特別な対応をせざるを得なかったともいえる。
 もともと厳格な規制が行われていた鎖国体制のうちにあっても,幕府は鹿児島藩に対しては,あたかも鎖国の圏域外であるかの様な対応をとらざるを得なかったといえる。[前掲黒木]

 鹿児島市内になぜ「ボサド通り」と呼ばれる中国人街が出来ていたか?唐人屋敷や琉球と同様,幕府が薩摩を薄い意味でのバッファ・ゾーンと設定していたからです。
 具体的には,鹿児島への中国人の上陸は,幕府が極めて例外的に許容していました。

湊エ御カヽリ之節,唐人共陸へ上リ行水ナト仕度由望可申候,且而御上ケ被成候事御無用ニ可被[成]候,薩摩ヨリ御送リ之時ハ,自然ニ御免有之由承之候,其外ノ国々ヨリ御送リ被成ニハ,曾而唐人御上ケ不被成候事
※「隈江家記」三「旧例抜記」840p 貞享4年(正月:1686年)高鍋藩からの漂着唐船対応に関する照会に対する長崎奉行経由の幕府回答「漂着唐船回送規定」

──回送途中の寄港時に唐人は日本上陸させてはならない。ただし,鹿児島からの回送に限り上陸させてよい。
 時代とともに,中国人側はこの既得権益を拡大させ,鹿児島の一地域を生活圏とするに至った。それを幕府は,17C末時点で自主的に選択している訳です。
 これは,対馬でもある時期に適用されようとしていた気配があります。

対馬藩の朝鮮漂着日本人対応
1672年以前においては,朝鮮漂着の「倭漂民」は,先ず釜山の倭館での取り調べが行われたのち対馬に送られる。対馬で再び漂船改めが行われ,その結果を幕府に報告し,その指示に従って長崎奉行に引き渡す。長崎奉行が取り調べた後に,藩役人(幕府領では代官・手代)に引き渡すことになっていた。
 これが1672年に改められ,幕府への報告指示を待つことなく,対馬から長崎奉行か大阪奉行に送ることになった。簡略化がねらいであったかというと,実はそうではない。というのは,あわせて対馬に漂着した日本船についても朝鮮船の漂着と同様の対処を行うこととされたのである。(「勿論対州江漂着之船茂可為同然候」)。つまり,72年の改正は,対馬を朝鮮サイドにおくという判断に基づいているといえる。
[前掲黒木,参照:長郷嘉壽「長崎県立対馬民俗資料館宗家文書資料」『長崎奉行関係文書調査報告書長崎県文化財報告書131集』(長崎県教育委員会,1997)。]

 ただ,対馬についての1672年改正自体は,理由ははっきりしないけれど1697年に改められています。対馬漂着日本船は対馬藩判断で出港地への直帰を許すよう再改正されており,琉球・鹿児島市内・唐人屋敷のように恒久化されませんでした。
 極力神経質に管理された空白地帯を,日清間に大きくとる。どうやって思いついたのか,この江戸幕府の外交戦法が,大きくは鎖国体制,小さくは唐人屋敷でした。それは,アジアの他地域ではムガル帝国しか成し得なかった対清独立維持を,江戸幕府が保ち続ける,という奇跡的な歴史を捻り出すことを可能にした訳です。

■鑑賞:長崎海域3句

「松風の里」に関連して見つけた俳句を3つ,記しておきます。鑑賞は,好きに記したものなので,あるいは文学的には偏向しているかもしれません。

日にかかる雲やしばしの渡り鳥

 芭蕉句です。
 晴れている時には,何も空には見えなかった。けれど,日に雲がかかった時に初めて,空を渡る鳥の飛翔を視認できた。
 芭蕉がこの句をどこで,どういう状況で詠んだか,よく分かっていません。ただ,もし長崎で詠んだのならば,極めて的確に海域アジアを捉え,表敬し得ているように思えます。
 海民は,東シナ海域に常に在り続けていた。けれどその姿は,通常は歴史書に書かれることはない。陸上国家が何かの状況変化で,その法規や秩序と海民の生存のかたちが交差した時,つまり多くは軋轢を生じた場合のみ,海民は歴史に記される。

めにかかる雲やしばしのわたり鳥

3句と言いながら,この芭蕉句は,前の句の推敲形です。通説としては,前句が最終形であるか,あるいは前の「日」を「目」と書き損じた後句が「転記誤り」とされます。俳句の写実性からしても,後句の方がやや人間心理色が強くて,作り過ぎの駄作と考えるのが妥当,というのは分かります。
 ただ,海域アジア史観という意味では,この句もある意味でより深いところがある,と感じます。
「目」と「渡り」を平仮名にしたことで,全般のタッチが格段におぼろになり,水彩画のような淡さを醸す。
 かつ,雲がかかる対象が観察される「日」ではなく観察者の「目」になることで,「わたり鳥」を可視化が視線の変化だけによって喚起される。
 視線の変化だけによって存在したり存在しなかったりする「わたり鳥」の,ほとんど唯心録的と言っていいほどの存在形態の薄さ。──「蛙飛び込む水の音」の古池句では,音だけは確実だったのに,「わたり鳥」は音すら無い。
 そこに在ると捉えるなら彼らは居るし,捉えないなら彼らは存在しない。

松風の里に琴柱の赤鳥居

 松嶋稲荷裏に残された足立半顔句碑の十七音です。
 非常に写実的で,場所と事物の間に「琴柱」だけが意図的です。
 不覚にしてこの漢字二字が何か知らなかった。「琴柱」の読みは「ことじ」(ことぢ)。和琴(わごん)や箏(そう)の部分名称で,胴の上に立てて弦を支え,かつその位置を動かして音の高低を調節する。
 足立さんは,足を広けたような琴柱の形と鳥居をダブらせたのでしょう。そうすると,その存在によって音を調律している様が連想された。
 松嶋稲荷の鳥居は,どんな音を奏でるための琴柱なのでしょう。
 町の中の文物は,それ自体としてだけではなく,その調律する弦が発する音の発現地としても,在る。あるいはその音を推し量ることすら,琴柱を探究することで可能な場合すらある。
 琴柱そのものは,さして変哲のない白い変な形の物体です。