m144m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m中川

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

トロトロ坂のある「なかご」

▲蛍茶屋北の墓場の傾斜面下の直線路(「+部」,国土地理院地図)

神神社から1427に下降を開始し,1430車庫まで戻る。まっすぐならすぐです。
 墓下で一服。この100mほどが,周囲にない直線になってる。左手南側には妙に人工的な長屋。右手の斜面にはずらりと墓が並ぶ。何かの跡に見えますけれど……何だろう?何ともヘンテコな立地です。
▲ガソリンスタンド脇から対岸登り

440,蛍茶屋まで戻った。喰違から入って歩こう。
 南対面には,蛍茶屋電停の向こうに二コブの稜線が見えてます。風頭山か。このランドマーク的な山には,山手を歩くとさいさい出会う。
 1444,中川八幡。創建時は聖福寺域内にあった社とある。ad中川二丁目7。
──後の調べでは創建は1646(正保3)年,幕命による。1748(寛延元)年現在地へ移転。長崎最古かつ唯一の八幡宮。御朱印がカワイイと最近話題らしい。確かにカワイ過ぎて本稿には不適切なので,見たい人は下記リンクを御参照。
※ 【史上最高にかわいい御朱印】「中川八幡神社」
▲1448鳴川に架かる古橋(旧・中川橋)

7番札所,中川町地蔵堂。小祠がやたら多い土地で,やはり古さを感じます。
 ここから下りがきつくなる。1447,中川橋。ここまでが下り。
 古橋とある市文化財。アーチがキレイに作ってある。

蔵堂-中川橋-古橋。この三者は,後の調べでは意外にヒットが多かったのです。
 地蔵堂は(メモを誤ってなければ)観音堂とも書かれ,実際どちらも祀られてる。弘法大師もあるというから信仰的にはおおらかなんだろうけど,ポイントはこの道が「トロトロ坂」と俗称され,石畳道だったという点です。

中川町観音堂
 天和3(1683)年に中川村の住民が奉納したとされる地蔵菩薩像や観音菩薩像,弘法大師族などがあります。(略)お堂から古橋までの坂をトロトロ坂とよび,以前までは古い石畳が敷かれていました。
※ 山口広助「長崎遊学シリーズ13 ヒロスケ長崎 のぼりくだり 長崎村編 まちを支えるぐるり13郷」長崎文献社,2018

▲桜馬場古橋付近(昭和30年代)

橋は17C半ば,つまり唐人雑居時代に唐通事・林守壂が架けたもの。中川橋はその新道の橋という。架けかえられて新旧がともに残るのは,道の重要さを示します。
 不覚ながら後に知ったところですけれど,中川は現代の普通の読み「なかがわ」ではなく「なかごう」又は「なかご」と発音したらしい。巻末で掘り下げます。

中川カルルス 花の景

▲1454橋から見る鳴滝川

の瀬口番所,1450。車道に出た。
──この番所については,年代不詳ながら長崎大学経済学部に絵図が残ります。巻末参照。
 迷ったけど川沿いをもう少し行こう。桜馬場二丁目自治会掲示板から,車道を河まで戻って左岸を進む。ad中川二丁目1。
 番所跡脇の橋から鳴川を西行。やや下りが急になってきました。いくつかの断層があるんだろうか。

▲1458木谷橋と川(鳴川・中島川)の三又地点

谷橋,1456。鳴川と,南から来た中島川の三又地点。
 ad新中川町1。つまりここまでが中川の本町だったわけです。下流の方が後から出来た,ということで,港が町の中心になる現代とは方向感覚が違うらしい。

▲カルルス中川の桜(年代不詳。昭和初めより前か?)

から来た中島川沿いの現・電車通り向こうは,かつて保養地又は別荘地のようなエリアだったらしい。特にチェコの湯の花を使った「カルルス温泉」とその桜は有名だったといいます。
 電停名になってる蛍茶屋というお茶屋も,番所辺りにあったと推測されてるらしい。

明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。題名が『長崎市中川郷カルルス温泉郷花の景』となっている。長崎市の中島川の中流域、中川にあった名勝地「中川カルルス」である。ここは、長崎市でも有名な桜の名所であった。※ 長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期 日本古写真データベース」


場郷と呼ばれる川の三叉地点より少し西側が,戦国期の長崎氏の本拠地だったエリアのようです。

馬場郷は長崎村の中心地です。長崎甚左衛門の屋敷をはじめ森田庄屋敷が置かれたところで長崎村の中枢を担っていました。長崎氏の屋敷が建つ場所を館といいます。館は今の桜馬場中学校の場所にあたります。屋敷の門前が馬場と称され,軍用馬などが置かれていたものと考えられます。[前掲ヒロスケ長崎村編]

 ということは,中川エリアは古いにも関わらず,馬場郷とは別の成り立ちを持ってるわけです。長崎氏より前の長崎──考えたことがなかったなあ。

伊良林小臨時救護所 収用1290人

▲1506新中川町電停辺りの電車通り陸橋

園。すぐそばに電車が走っていく。
 その電車通り沿いでした。第四ポイント西洋菓子樹。
カステラロール
 店の前の陸橋を渡る。対面から見ると陸橋で隠されたような店です。

▲1513三叉点より南東の中島川

良林小学校。国民学校だった被爆時には臨時救護所。収用1290人,死亡266人と案内板が出てます。直撃がなかった分,被爆者が担ぎ込まれたのでしょう。
 1510,左手に中島川。中野橋を渡る。ad桜馬場一丁目8。
 一丁目1で左に道。左折南西へ。対面にも道があり,これがおそらく古いと見ました。

輸出用和銭「元豊通宝」

▲1515南の高台への道

516,川は渡らず右折,右岸沿いを進むことにします。
 上野撮影局跡。あの最も有名な龍馬写真がここでとられたという,妙なトレビアがある写真屋さんらしい。この人の古写真は,東山手洋風住宅群中3棟をあてた資料館に展示されてる。
 上野撮影局は,横浜・下岡蓮杖と並ぶ日本初の営業写真館とされてて,幕末当時は大人気。龍馬もそのミーハー客の一人だったと見えます。
※ 「ナガジン」発見!長崎の歩き方/「写真は長崎から」写真術の始祖 上野彦馬
 その先に銭屋橋。ここを渡って山を登ると亀山社中,と案内板が出てます。本稿で何度か繰り返してますけど……龍馬観光地には行きません。
 山上には瓊浦高校のエンジの校舎も見えてる。

▲1517中島川沿いの閑静な木立の沿線

龍馬ばかりに気を取られてるけれど,この銭屋橋というネーミングは,海域アジアの長崎にとってはスゴい意味ある場所でした。

寛文元(1661)年,輸出用の和銭を鋳る銭座が長崎村馬場郷に置かれ,元豊通宝(一文銭)とよばれる銭が鋳られます。18世紀始めまで続き,その後,東浜町(現・銅座町)に移ります。現在,(略)前の中島川に架かる橋は中島鋳銭所にちなみ銭屋橋と命名されています。
[前掲ヒロスケ長崎村編]

「輸出用の和銭」って……それは和銭と言うのか?という以前に,東南アジアからワンサか見つかる江戸時代の日本銅銭というのは,こうやって輸出用品として作られてたものだったのか?
 あと,それが観光通り西の「銅座町」にも連なるというのも初めて知った。つくづく掘れる町だなあ,長崎。

水神・弥都波能売の川辺

▲1527長崎聖堂跡

や,いい川辺です。ほどよく打ち捨てられたような木陰が続く。
 1524,中島天満宮。
 1527,長崎聖堂跡。第五ポイント。大成殿は興福寺境内に移され県指定史跡,と案内板。
 この川側に再び「奉■■都波能賣大神」との石碑。この神様,それほど信仰を集めてたのか?

『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。
※ wiki/ミヅハノメ

古神道→キリスト→神道

▲1544伊勢宮

536,第六ポイント・伊勢宮。
 これも妙な宮です。建物の敷地に横方向にある。南面。
 向かって右手脇に楠稲荷,背面に名前のない三柱。彼らが本尊らしいけれど,何なのか皆目手がかりを残さない。
 社務所らしい伊勢町会館というのは大きなコンクリート建物。周囲はまさにマンションだらけ。ここに神域が残ってるのが不思議なほどです。先の水神といい,ここにも何かの古層がある。
──後の調べでは,伊勢宮の基は由緒不明ながら,確かに古くから存在したらしい。

いつの頃からか新高麗町には天照皇大神を祀った祠がありました。しかし,長崎開港直後の天正時代,キリシタンの勢力により破却状態にあり,その後,寛永年間(1625年頃)キリシタンを排除するようになって来ると,新高麗町の町人らが寛永5年(1628)年にこの天照大神を再興する機運となります。町民は天台宗修験者・南岳院存祐を推して奉行所に申し出をし,創建となります。さらに,延宝8年(1680),延長新高麗町は伊勢宮があることから伊勢町に改称しています。この伊勢宮は三重県伊勢市の伊勢神宮と同じように川端にあり,川が常世の国につながるという伊勢神宮の造りを模したものといわれています。[前掲ヒロスケまちなか編]

▲キリスト教全盛時代の石畳
(サント・ドミンゴ教会跡資料館)

戸初期,町には教会があった
 長崎の町建てが始まる前(16世紀末期),榎津町(現・万屋町賑橋の通り)の東側には,秀吉の朝鮮出兵後,日本に渡ってきた朝鮮高麗の人たちが住んでいました。当初はそこを高麗町と呼んでいましたが,町の拡大に伴い高麗町の人を中島川上流に移転させます(高麗町は鍛冶屋町に改名)。そして,移転して場所は新しく開かれたということで新高麗町と呼ばれるようになります。朝鮮高麗の人々のほとんどはキリスト教徒で,その中心にサン・ロレンソ教会が建てられたものと考えられます。創立はキリシタン全盛期の慶長15年(1610)で,慶長19年(1614)年に禁教令によって破却されました。
※ 山口広助「長崎遊学シリーズ12 ヒロスケ 長崎ぶらぶら歩き まちなか編~町に人あり,人に歴史あり」長崎文献社,2017

 つまり,
[16C以前]天照系の神域
[16C] サン・ロレンソ教会
(朝鮮人居住区)
[17C] 伊勢宮創建
と,古神道→キリスト教→神道と目まぐるしく住む人と信仰を変えて来た土地ということになります。しかもここは,長崎氏中枢・現桜馬場中のすぐ南。
 頭がおかしくなりそうな重層です。

なぜいきなり宮地嶽?

▲1554八幡町南行

勢宮前の橋は丸まった変な形。
 一つ手前の橋から南行することに。1552。ad八幡町8。
 カトリック八幡町教会。その隣に第七ポイント宮地獄神社。有田焼の鳥居が陽に映える。

▲1559宮地獄宮と手前の小祠

故ここに宮地獄?それがなぜ八幡と町名の由来に?なぜ陶器鳥居を置くほど奉納が厚い?──と全てに謎が深い。由緒を探したところ──

 承応2年(引用者注:1653年)、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる。宝永元年(1704年)大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも当社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられた。
 明治元年(1868年)神仏混交廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現在に至ている。相殿の宮地嶽神社は、明治11年(1878年)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。
 なお、当社の所在地である八幡町の町名は、延宝8年(1680年)この地区の町名が新たに名ずけられたとき、当社の祭神に因んで八幡町の町名が定められている。[由緒書]

 ええっ??京都男山八幡宮からの分祠で創建されたのに大覚院?ために中国人参拝があったのに同時代の町名には「八幡」が優先された?幕末にやっとその大覚院号を廃したのに,すぐの明11に新たに本拠地・宗像から宮地嶽を分霊?
 これは,伊勢宮の例とも重ねれば,宗教・宗派の対立と重なった外来人vs旧住民の対立,という図式があったように見えます。ただそれにしても,最終的に八幡でも仏教でもない,やや独立性の高い宮地獄に落ち着いた,というのは全く不思議な経緯です。

ここからは港町の歴史層

▲1602寺町

字を左へ。ad伊良林一丁目になった。次いで右折すると──見事な石垣の通りへ。
 寺町です。もうここからは,いつもの港町の歴史層です。どこかでホッとしつつ,最終ポイント・東明山興福禅寺へ歩を進めます。

▲一の瀬番所絵図(長崎大学経済学部所蔵)

■小レポ:長崎原郷「なかご」中川

 中川の西の入口,一の瀬番所は長崎街道の番所として江戸時代には機能していました。「夜間には治安維持のため木戸が閉められた」という(番所案内看板表記)。
 ヒロスケさんは「一の瀬」の地名から,ここまで海岸線が来ていたとする説を紹介してます(前掲のぼりくだり)。
 長崎氏以前の中川について,位置的には,これだけしか情報は見つかりません。なかなかの難物で,通常の方法で透視できる時空とは思えません。
▲永埼浦と周辺中世有力氏族位置図

ナガサキと長崎はどちらが先か?

 長崎氏支配以前,というときの長崎氏そのものが,鎌倉下向一族たる従来説を真面目に受けてると,全く見えない存在らしいのです。

 平安時代末期の治承4(1180)年に平包守(たいらのかねもり)という人が長崎の福田に下向している。
 鎌倉幕府ができると、その息子・包貞(かねさだ)が幕府から地頭に任命され、その後、弟の兼信(かねのぶ)が地頭となっている。(略)この福田氏にまつわる記録が「福田文書」という。福田氏は幕府の役人なので正式な記録が残っている。
 その中に、長崎小太郎の名前もあり、出身には肥前国御家人(長崎浦)と書かれている。
 となれば、長崎小太郎は地元出身だったのだ。「長崎」という地名の由来を再び考える。逆ユダ「長崎氏」

▲「熊野氏系普證文譲状写」(福田家文書,長崎歴史文化博物館蔵)中「嘉禎三(1237)年十二月二十九日 関東御教書案…」以下の家臣名中にある「長崎小太郎」
長崎の大まかな歴史1 | 長崎ディープ ブログ

 これは山口の大内家と同じパターンです。しかもこの時代の地名「永埼浦」のナガサキと漢字も違う。これは──長崎名を愛する方々に大変申し訳ないことを,部外者ゆえの客観性を持ってあえて言うけれど──周辺の家格の高い氏族との競争上,「永埼」から音を取り,それに近い有名御家人として桓武平氏千葉流の名族「長崎」氏を偽称するに至った,というのが最も疑いがあります。
 そうだとすれば,ナガサキという「音」が先にあったことになる。
 そのことは,長崎氏の末裔が「中川」を名乗っていることの説明にもなると思います。

中島川とその支流である馬込川(現・鳴川)に囲まれた中央部に位置するところから中川になったものと考えられ,長崎甚左衛門の末裔にはその中川を姓に持っている方もいます。[前掲ヒロスケ長崎村編]

 大胆なことを言ってるのは分かってるけど──長崎氏が中川に住んだから「中川氏と名乗る者もいた」のではなく,長崎氏の元の姓が「中川」,あるいは音だけのナカゴウ,ナカゴだったのではないでしょうか?

 古橋は承応3(1654)年,貿易商で唐通事の林守壂によって架けられた石橋です。(略)当初,この橋は中渓(なかがわ)橋,中河橋,中川(なかごう)橋,中川(なかご)橋とよばれていました
[前掲ヒロスケ長崎村編]

 ナガサキとナカゴウ,ナカゴは「ナカ」しか合ってない,とは言え,隣接する地域としては合い過ぎてると感じます。ナカゴの河口をナカゴ崎(埼)と呼び,その浦がナカゴ崎(埼)浦と記された,というような推測は不自然とは思えません。
▲「深堀家文書」正嘉二(1258)年十二月二十六日「六波羅殿御下知案…」段中の「永埼」表記(地名としての使用と一族名としての使用が一文内にある。)
※ 文意「戸町と永埼の両浦の境界について、戸町本主(領主)丹藤次・俊長と永埼本主(領主)四郎・俊信との間で、40数年にわたって、領地争いが続いている…」

風水の要石が放つ重力

 一の瀬口で中島川と交わる鳴滝川は小さな川ですけど,その川を三叉点から上った辺りが,長崎氏の城砦でした。有事の際は,現・桜馬場中学校の屋敷からここに入って抵抗したらしい。※城の古址→GM.
 ここに龍頭巌という岩があったとされます。ネーミングから中国風で,キリシタンだった長崎氏らしくなく,後世に付された名称でしょう。つまり元の名は分からないまま,現存もしない。

龍頭巌
 寛永年間(1624-1643),第2代末次平蔵茂房が父・政直の墓を作ろうと巌に斧を入れたところ鮮血が噴き出したため中止したとあり,それと共に霊気は消え,さらに時折その傷跡が鳴動するようになったといいます。末次家が滅んだのは,長崎への風水の源であった巌を削り取ったためといわれていました。
[前掲ヒロスケ長崎村編]

 前段の一代目墓碑の件は「……とあり」と書かれるから、史料があると思われます。それに対し後段は口承のような印象です。
 話の真偽や風水の力の有無よりも,この岩がそうした力あるものと信じられてきた共通認識の在り方の方が重要です。
 二代目末次平蔵が岩を初代の墓にわざわざしようとしたのは,長崎氏の要地を末次家の支配下と知らしめる,つまり末次家が長崎氏にとって代わったことを公認させる意味を持ったでしょう。そのことで重要性が分かると同時に,この岩又は場所が何らかの象徴としての意味を有していたことが推定できます。
 後段の口承を伝えたのは,「新参」の末次家の繁栄を憎々しく感じていた,恐らく中川地元の人間なのでしょう。末次家は四代(前章参照)で滅んでいるから,前段の墓碑事件から二代,数十年後で,しかも抜荷という全く別の原因で,普通には岩の切り取りとの因果関係は思いつかないはずです。それ位に,少なくとも地元にとって墓碑事件は言語道断な事態だったことになります。
 一定範囲の時空の長崎人にとって,中川エリア,鳴滝川と中島川合流域は,非常なる重心を持つ場所だったということです。
 そこにもう一点付するなら,その非常なる重力の割に,不思議なほどこの場所は語られることが少ない。
▲下:開港前の長崎(永田信孝「新・ながさき風土記」より転載,等高線は50mごと)と上:当該部国土地理院地図

プロト長崎港のあった場所

 上の図は,開港前,つまり中世の長崎の海岸線と等高線の推定図です。中島川に沿って海が入りこみ,その湾入が諏訪神社前でY字に分かれています。即ち西山へ東北に入る湾と,中川・蛍茶屋へ東に食い込む湾とに分岐している。
 現・桜馬場中,長崎氏屋敷の台地はそのY字の突端に近い。「城の古址」の山塊はY字を形成する地形的要因になった場所と思われます。
 新・ながさき風土記の推定根拠を確認しきれてませんけど,先のヒロスケ「一の瀬」海岸線説もあるから,当面これを疑わないとすれば──その時代,ここは湾奥,両側に河口を備えた地。戦略的要地であるとともに,交易上も有利な地だったと思われます。
 桜馬場エリアと狭義の中川エリアとの段差感に基づくなら,長崎氏自身,この場所の地の理にはかなり後になって気付いたのではないでしょうか。それまで彼らは,中川のトロトロ坂辺りに住み着くありふれた地領主だったのだと考えられます。
 そういう情景が,近世史が「開港までの長崎は寒村だった」と書く姿の実態でしょう。
▲一の瀬口まで船が入っていた時代の桜馬場イメージ

 それが江戸期には,自然力による堆積と人力の埋立,さらに来航船舶の大型化に伴う水深の必要から一気にメジャー港湾が南西に移行したのでしょう。
 だから,中川・鳴滝・桜馬場のエリアは,江戸期の長崎の前史が営まれた場であるというよりも,原郷です。長崎のプロトタイプが作られた場所と言っていい。
 それは(廃)教会の多さのみならず,中国人の参ずる不可解な社の多在,さらに風水的な重視から推測されます。おそらく長崎氏も海外交易を相当営んでいて,その積み重ねの上で彼らに好地と評価され,交易が興隆したのです。
 前掲「逆ユダ」を初め何人かが指摘するように,長崎氏のこうした前史,さらにその延長としての領地の教会寄付がなければ,長崎港は交易都市にはなっていないでしょう。長崎港が西欧人に発見された良港であることは確かでしょうけれど,歴史はそれほど純粋な客観性を持つものじゃないと思う。それまで海外船舶が利用してきた幾つかの良港のうち,教会への領地寄付まで行う開放性が,海商たちに長崎を最終選考するに至らしめたのだと思います。
▲長崎甚左衛門墓

敬虔かつ壮絶な敗者・長崎甚左衛門

 長崎氏の歴史を一言で言うと,一介の役人格から遅くとも13Cから16Cまで数百年かけて,当時誰も着目していなかった長崎に地盤を持った後,長崎甚左衛門の代でその全領地をイエズス会に寄付するという「暴挙」に出て歴史から消えたことになります。
 キリシタン大名となったことと,戦国末期の熾烈な生存競争もあるけれど,ある意味で長崎人の脳裏に強い陰影を落とした「敬虔かつ壮絶な敗者」だったことは想像に難くありません。
※ 005-5転石の谷\茂木街道完走編\長崎県 /■レポ:合戦場で誰が戦ったのか?
 けれども,キリシタン大名でかつ見方によっては「売国奴」だったために,江戸期以降,表の歴史に華々しく語り継がれることはなかった。
 長崎甚左衛門は1605(慶長10)年の長崎失地後,久留米の田中氏に仕えたけれど,その田中氏も間もなく断絶,再び大村氏に仕え横瀬浦で僅か100石を領す。1621(元和7)年死去。
 探す限り描かれた肖像はない。
 長崎北方に15km隔てた西彼杵郡時津町浜田郷に残る墓碑は甚左衛門夫妻の墓で,1702(元禄15)年に子孫の大村内匠助長頼が建てて,山陰(同旧地名)の住民が修繕した旨刻んである。
 つまり,死後80年ほどは正式な墓もない状況だったらしい。墓を建てた長頼の姓も大村,少なくともこの時には長崎姓も中川姓も名乗られていない。
 そうして中川という長崎原郷は,僅かに風流人が蛍の里,あるいは別荘地・温泉地として尊ぶ場として,淡い光を留めるに至ったのだと思われます。
▲(再掲)桜馬場古橋付近(昭和30年代)