m152m第十五波m坂の街ぺろり舐めとる妈祖が舌m小菅船場

爆音に誘われ下る坂

いに爆音。
 ツーリングの2人連れが,海側車道の信号機のある十字を曲がって去って行く。
 小菅ドックはこの十字の対面海側らしい。視線に導かれるように,渡る。
 すぐに世界遺産表示を見る。坂を下る。
 海面に出ると,2人もオレンジのブレーカーを着た案内人がいる!訪問者は他にいない。初回と白状してしちゃうとトコトン説明されそうな雰囲気なので,二度目と虚言してゆっくり見るとする。

▲巻き上げ滑車から海へのレール。巻き上げ機は素人でも分かる簡単な仕組みのものだけど頑強そうな構造物です。

蒸気機関動力のシンプルさ

が国で初めて蒸気機関を動力としたスリップドック(船を陸上に曳き揚げて修理するドック)」と案内板がある。
 日本最古の洋式ドック。それが現存してる。
 世界遺産の前,平19に経済産業省近代化産業遺産にも指定されてます。とは言え,それも新しい。注目されたのは21世紀に入ってからなのかもしれない。しかし──
▲海へのレール。船体を陸揚げする仕組みらしい。

治帝が行幸してるのか?昭11.7の文部大臣指定碑がある。これも帝訪問から時間を置いており,明治当時から忘れられてたような手応えです。
 建物所有権は三菱重工㈱長崎造船所。元はグラバー園に名を遺すトーマス・グラバーが発端になってる。1868(明治元)年には五代友厚,小松帯刀と共同で設置したものが,後代に三菱に渡ったようです。
 この人は1865(慶応元)年には大浦海岸通りに汽車を走らせ,以後,高島炭鉱も開発してます。
※ 旅する長崎学 ~たびなが~/幕末の長崎2
▲滑車。先の巻上げ機の動力源部。

▲動力源の蒸気機関

耗はしているけれど実戦的な歯車です。
 これに,それ以上分かりやすくはならないような典型的な蒸気機関のピストンが動力を伝える。当時の工学の相が伝わる。
 この機関が,このドックの機構の中核のはずです。2百年前,このシンプルな動力を最先端技術とするところから近代はスタートしてる。

小菅修船場の海水の中

▲海中のレール

度どれほどまで延びてるのか確認できないけれど,引き込みのレールは海中深くまで続いてます。最初,レールに乗せる微調整はどうやったんだろう。
 レールを挟む岸壁の石垣は,市内でよく見る斜めの石積も施され,当時の長崎固有の技術です。けれどこれほど大規模な長崎の石垣は,あまり見た記憶がない。両岸100mほど,道路側の補修部以外はほぼそのまま残ってるように見えます。

▲端側の海中レール


ス停,0917。ここからがレール部については一番全貌が望める。
 3本のレールは両側が支えで中央でメインに引き上げてたらしい。両側のレールに各5座ある平面は,しかし傾斜がなく,特に片側に磨耗も残らない。あれでどうやって支えてたのか疑問。
 ただレールや歯車には過重による磨耗がぎっちり跡を留める。
 ドック上,さっきのU字の海側はお寺。道を整備した後の余剰地にどこかから移されたのだろう。
 待ち客5人になった。さてどのバスで,どこで降りるのかな?

▲バス停から見下ろす両側の石積

930,乗車。
 0935,新地ターミナル。座れた。小菅方面からこんなに客いるものなの?ベッドタウン化が進んでるんだろか?
 浜の町へ新地の東を抜ける。長電の観光通り近く。よしここで降りるか!0940下車。
 東行。
 あああ!島原まぜ飯新店舗確認!確かに40m隣でした。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路):島原まぜ飯~梅園

梅園丸山天満宮の新しき謎色

946,思案橋電停前から右折。丸山町の上手を目指す。
 思案橋の緑色鉄ゲートをくぐり、リッチモンドと老李の間を通過。ad船大工町4。
 福砂屋にぶつかるT字を左折。そのまま丸山公園と丸山町交番の間を通過。
 0954,ad丸山町2。花月前を左折。

▲0958丸山町の路地。右手が中の茶屋

956,あった。ad丸山町4。中の茶屋との矢印案内。
 遊女屋・筑後屋が設けた茶屋で通称「中の茶屋」。これを唐人が千歳窩(せんざいくわ)と名付け,この名が日本語の別名「千代の宿」にも転じたという。内外文人が好んで遊んだそうな。
※ 長崎市│中の茶屋
 右折。
▲1002脇道。料亭風の造りが僅かに残る。

こから少し登った場所でした。梅園・丸山天満宮。
 この奥まった場所に宮があると聞いて,興味を持ったんですけど──実際来てみてもやはり変な場所です。千客万来という位置のはずはないのに,えらく土地に馴染んだ感がある。
 長崎で不思議の場所には数多出くわしてきたけれど,これは新しい謎色です。
▲天神の鳥居をくぐる

■小レポ[2/2]:裏経済の具現 グラバー,薩摩,龍馬

 この寛政三年実施の「減銅」商売から約半世紀後の天保七年八月,長崎町年寄の連名で奉行に提出された会所財政の再建計画書※※では,寛政後の動向・問題点を次のごとくいう。
(略)享和・文化之度より和制(製)砂糖製作相増,右ニ付持渡砂糖直段下落仕,此銀年〃積■而■大造之銀高入銀之欠ニ相成,其上文化十四丑年以来唐船不進ニ相成(略)
 この砂糖一件は,会所の独占的対外貿易が,幕・藩の経済関係において,諸藩の国産増強-藩専売制を志向する幕末の全国的動向と競合対立し,敗退していく過程を示す一例である。
※ 中村質「長崎会所天保改革期の諸問題─鎖国体制崩壊過程の一側面─」『史観』115,p63-93,九州大学学術レポジトリ,1978
※※「唐紅毛持渡品及下落,会所銀繰差支二■付,立直主法可申上旨書取を以被仰渡小趣,評議仕■書付,(町年寄福田カ)安右衛門控」(「会所銀繰之儀ニ付,以封書申上■書名之控」に合綴,長崎図書館蔵)

 鎖国と同じほど,長い間,現・鹿児島県と山口県が日本全体を覆した明治維新が如何にして可能だったのか,疑念を持ち続けてきました。
 18C後半以降,ほぼ江戸期後半は,まさに「幕・藩の経済関係」が藩側=「諸藩の国産増強-藩専売制を志向する幕末の全国的動向」の優位へ移行し,ついに後者が前者を圧倒し,打ち倒していく過程だった,と言えると思います。
 つまり明治維新は,開国以後の短期の軍事・政治史では理解できません。江戸期後半を通じた弛い変化を続けた経済史の実態が,器から溢れるように実現したのが明治維新でした。
 より端的に言えば,江戸後期を通じて経済・交易主体としては既に退場していた幕府が,19C半ばに政治・軍事的にも崩壊した。
▲江戸期の昆布貿易量 (上図)長崎 (下図)琉球
長崎ルートの低迷に対して琉球ルートは活況を続けている。
※ 図録▽江戸期・明治前半期の昆布輸出

[各プレーヤーの動向]長崎・薩摩・浜崎家

 以下は,上記中村論文の続きの記述です。長崎奉行所の競合相手は明らかに薩摩で,この時期,前章に見たような商法で長崎市場まで侵されようとしている中で,なお長崎奉行側は薩摩と直接対決するような政策はとり得ませんでした。

 右の天保七年の会所役人らによる詳細な和製砂糖対策の建議において,上の大阪廻着定高をはるかに上廻ると考えられる薩摩産の黒糖※※について全く言及していないことは注目される。これは山脇氏の指摘のように※※※,当時の会所役人は「全薩州家より之仕向方格別ニ手厚,銘々一己の利欲を貪り,会所損益筋ニ■相拘不申哉,(奉行に対し)何共差障り申立之儀も無御座」※※※※と,薩摩藩の工作が効を奏していたことを示すものではあるまいか。[前掲中村]
※ 中村提示参考資料:岩生成一「江戸時代の砂糖貿易について」日本学士院紀要,三一巻一号
※※岩生論文所引「本邦糖業史」・「鹿児島県史」2・「大阪市史」2
※※※山脇悌二郎「天保改革と長崎会所」『日本歴史』248号
※※※※「通航一覧続辑」第一,三ニニ頁所収長崎奉行言上書

 薩摩が回して来るダークマネーが「格別ニ手厚」く,多くの長崎奉行所役人が「銘々一己の利欲を貪」って薩摩を公然とは攻撃しなかったからです。薩摩は長崎を黙らせ,対戦相手から観客へ,最後は「リベート生活者」に落としていく,狡猾な対策をとったわけです。これが当時どのくらい特に狡猾だったのかは分からないけれど,現代から考えると信じられない闇のパワーです。
▲濵﨑家太平次鹿児島屋敷と思われる写真(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)
太平次の歴史|時遊館COCCOはしむれ|指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ
「薩摩」が,というけれど,坊津崩れに見るように,確かに薩摩藩は民の交易を抑制する傾向があって,それを民の側も重く受け止めていたようです。調所広郷改革の時代というのは,薩摩藩の旗を掲げた※民の交易ならば推奨する,ということでもあったようで,江戸後期に薩摩と提携して一気に拡大した民交易家が幾つか出てます。薩摩の250年賦の借金返済なども,法外な代償を支払ってでも交易を欲する民の意思との狡猾なバーターを企図したものだったのでしょう。

太平次は「ヤマキ」という屋号を掲げて国内各地に拠点を設け、ロシアやインドネシア、キューバなど世界各地への輸出を手がけて巨万の富を築いた。藩にも多額の献金をし、1849年には参勤交代のために8千両、1862年には海外からの銃購入のために2万両を提供。篤姫の結婚資金も太平次の献金で成り立ったと言われている。
※ 朝日新聞デジタル:南薩編3 藩財政救った豪商・浜崎太平次 – 鹿児島 – 地域

「ロシアやインドネシア,キューバ」というのの原典史料を見つけられないけれど,薩摩藩御用達のこの指宿の海商は東シナ海をまたぎ,その外側,ロシア・オランダ・イギリスなど,対中国にとどまらない交易範囲で動いていた形跡があるらしい。
 薩摩本体も,後の薩英戦争のイメージが先行するけれど,例えば調所広郷改革への初手を打った(前章参照)島津重豪はかなりの蘭癖があったようです。

 島津家25代重豪は長崎に出かけてはシーボルトと会ったり,出島を訪問したりしている。オランダ文化の摂取に努めたのである。このような姿勢は息子の昌高(まさたか)にも受け継がれ,昌高は中津藩に養子になり奥平昌高となり,ここに中津藩に蘭学の種がまかれることになった。後に中津で蘭和辞書である「中津バスタード辞書」(1822年)が刊行されている。中津の蘭学の風土は後の福沢諭吉にも影響を与えたのである。
※(前掲)平池久義「薩摩藩における調所広郷の天保の改革─組織論の視点から」

 シーボルトは単なる植物学者ではなかったとする見方がある。帰国後は博物学より日本研究で名を知られており(日本博物誌を著),各国,特にドイツとオランダからの調査依頼に応じていたと見られます。それゆえかこの「医者」の交友関係は極めて広く,1826年に将軍徳川家斉に謁見したほか,薩摩藩主島津重豪以外にも中津藩主奥平昌高との交友を持ってます。
※ wiki/フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
※※(スパイ説原典)秦新二『文政十一年のスパイ合戦―検証・謎のシーボルト事件』双葉社〈双葉文庫〉、2007年

 これは普通に考えると,政治力に巧みな西洋人をキーマンとする西洋系の人的ネットワークが,裏経済の世界で形成されつつあったことになる。いわゆるシーボルト事件は,この動向に対する牽制策と考えれば,まあ江戸幕府が度々やってきた手法なわけです。
 これらの一連の動きは,裏経済の実態が,対中国経済開放どころかその次の段階,対西洋交易に主軸を移しつつあったことを示唆します。黒船来航→開国という教科書上の鎖国の終焉とは,裏経済の実態を幕府が追認した極めて表面的な行為です。
 さて,この過程で登場してきた西欧の怪人の一人が,小菅修船所の建設者・トーマス・グラバーでした。

[日本赴任]21歳のグラバー

 16Cのサー・フランシス・ドレークに象徴されるように,大英帝国の海軍や海商が海賊と源を同じくすることはよく知られています。……というか,東シナ海でのポルトガルやオランダも似たようなものでした。
 グラバーという人は,もちろん19Cの話なので海賊ではありませんけど,日本の混乱に乗じて一儲けしようと裸一貫で乗り込んできた怪物的海商です。

スコットランド生まれのトマス・グラバーが、香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人として、開港後1年の長崎に着任したのは1859年。弱冠21歳でした。第10話 トマス・グラバー | 三菱商事

 グラバーはギムナジウム卒業後,1859年に上海へ渡り,ジャーディン・マセソン商会入社,その年(安政6年)に開港直後の長崎に入っています。
 ジャーディン・マセソン社が,なぜ二十歳そこそこのこの男を日本の実質的責任者に送り込んだのか,どうも釈然としません。冒険的市場にギャンブル的な人材を投入して「好きにやってみろ」というところだったのでしょうか?少なくとも,陰謀論者が言うような計画性は,客観的にはちょっと感じられません。
 何より,そもそもジャーディン・マセソン社という組織が半分海賊的な海商だったらしいからです。

[マセソン社]東シナ海の大英海賊団

かねてより沖縄や台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は[1]、(略)1859年(安政6年)に、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入
※ wiki/ジャーディン・マセソン
[1]Britain and Japan: Biographical Portraits Hugh Cortazzi 編, Routledge, 2013/05/13, p112

「沖縄や台湾,長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易」となると,要するに薩摩系海商と同じようなことをやっていたわけです。19Cの東シナ海はこういった勢力が出没し,荒稼ぎしている海でした。──これが,清と江戸幕府が海から撤退した間隙に参入してきた新規・民間海商が2百年ほどの間に作ってきた海上経済でした。国が絡まないからその姿を遺す史料は少ないはずですけど……。
 1839-42年の阿片戦争は,このマセソン社が英国政府を動かして起こしたものとする説もあります。政治ですからそれ一色ではないでしょうけど,一側面ではあるように思えます。
▲スクープ!「アヘンマネーと明治維新」の秘められた深い関係!

1840年に第一次アヘン戦争が勃発した当時、英国のジャーディン・マセソン商会がアヘン輸出の主役を担っていましたが、清国のアヘン輸出禁止令に対抗するために英国議会にロビー活動を行い、大英帝国艦隊を清に展開させた張本人こそこの商会でした。
※ 第6回(最終回) 温故知新 明治維新の背後にあった大英帝国のアヘンマネー « 大阪保険医協会・勤務医フォーラム

 東シナ海でフィクサー的に動いて成長した会社が,新たな動乱の気配を呈し始めた19C前半の日本に,まだ未知数の若い新規人材を投機的に送り込んできた。それがトーマス・グラバーだったのでしょう。

[興隆]武器商人グラバーは何を具現したか?

 グラバーは初手ではかつての密貿易路線を開国下で拡張しているだけだったようですけど,幕末の情勢を見て武器輸入に転じたらしい。

1859年に上海へ渡り(略)2年後にはフランシス・グルームと共に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店[1]として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[2]。
※ wiki/トーマス・ブレーク・グラバー
[1]グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」
[2]片桐三郎 『入門 フリーメイスン全史 — 偏見と真実』 アム アソシエイツ、2006年11月, p211-212

 長崎赴任から2年間のグラバーの動きも不気味です。けれどとにかく,長崎事務所の実権を2年で手中にしたらしい。

弱冠21歳で長崎にやってきたスコットランド人の商人です。当時、長崎にはジャーディン・マセソン商会の先任代理人がいましたが、2年後に中国へと転勤になったため、グラバーはその業務を引き継いで、23歳で「グラバー商会」を立ち上げ、独立しました。
※ 日本はなぜ植民地化されなかったのか? [前掲鷹村]

 武器提供の相手が倒幕側だけだったのか,幕府にも売っていたのかも資料によって様々に書かれてます。グラバーにとっては買ってくれればどちらでもよかったかもしれませんけど,この時点では,購入資金量が裏経済を支配していた薩摩が圧倒していたでしょうから,必然的に薩摩に売ったのだと思われます。

ほどなくグラバー商会を設立、幕末の激動の中、他の貿易商人と競合しながら、西南雄藩に艦船・武器・弾薬を売り込み、1860年代半ばには長崎の外国商館の最大手になります。[前掲三菱]

▲「龍馬もお洒落で有名。グラバーから調達したブーツを愛用したともいわれている。」
長崎の星 龍馬とグラバー交遊録|特集|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」

グラバーの代理人・坂本龍馬

 と言ってもグラバーは白人です。日本の血なまぐさい各陣営の間を,自身で歩き回るわけにはいかない。
 以下はやや陰謀史観的な記述ですけど,事実を映しているように感じます。

グラバーは日本には武器を売ることが最優先、その為にはマーケティングが必要で、それは坂本龍馬の仕事だった。そして、今後の日本がどうあるべきかは、グラバー邸の奥方の寝室の屋根裏の部屋で密会を重ねていた。ここは今も見学可能だ。
そして坂本龍馬は薩摩と長州の仲介役として同盟を結ばせ、グラバーは戦艦も、大砲も武器弾薬も売るのである。後の日本で最初の新橋〜横浜間のレールも蒸気機関車もグラバーの輸入品です。7.トーマ・スグラバー暗躍|鷹松 廣志:世界中の人々が幸せにならずに自分の幸せは無い!明日世界が滅ぶとも今日私はりんごの木を植える。|note

 では,対幕府戦争を先行して戦っていた長州はどうなのかというと,薩摩藩本体ではなくとも薩摩系経済を介してグラバーが売ったものらしい。

長州藩が武器を調達することは非常に危険であったので、どこの藩にも属さない風来坊の龍馬を手先として、グラバーは使ったということである。
グラバーは薩摩経由で小銃、弾丸、火薬、ライフルなどを長州に売りさばいていた。とくに、南北戦争で余った高性能な中古小銃を、上海を拠点に密輸を行っていた。
要するに、グラバーは薩長に肩入れすることにより、薩長と幕府との間で内戦を起こさせ、武器を売りさばきしこたま儲けようとしていたわけである。
※ 日本史のミステリー⑤ 捏造の明治維新 1 坂本龍馬 | MAS・ひらめきブログ

 けれど,グラバーの出身会社がアヘン戦争のフィクサーだった事実と,かつグラバーが戊辰戦争のフィクサーだった事実,この両者から,グラバーが明治維新のシナリオを書いたと読むのではむしろ浅いと思います。
 グラバーは「青い目の志士」でも「死の商人」でもない。なら誰が悪者かと言えば,そんな「悪の総帥」みたいなのはいない。いないから現実の近現代は恐ろしいのです。
 マセソン社,グラバー,薩摩が属していた,膨れ上がった裏経済が,幕末の緊張情勢に対し反射的に反応しただけだと思います。近世以前に存在したのと桁違いの資本と物量が,自律的に回転するシステムというのは,その位のことはします。
 言い方を幕政の是非に置き換えるなら,統治優先で資本と物量を黙殺してきた幕府は,その規模がリミッターを超えて暴走を初めた時点で自壊するに至ったのです。
 坂本龍馬は,その濁流の矢先を務めた「お調子者」というところでしょう。ある意味,グラバーもそうです。

[帰結]江戸幕府の鮮やかなる退場

 幕末期に日本を襲った裏経済の奔流は,だから政治史の記述で歴史書に綴られるより遥かに危険なものだったと考えられます。
 信じられないのは,当時の日本人,特に下級武士階級の無数の頭脳が,雄藩と幕府双方の意思決定層にちゃんといて,この危険性をリアルに認知して行動していることです。この点も,坂本龍馬がとか一人又は一部の偉人の力量ではありえません。

1867年には岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任。グラバーは後藤象二郎や新任の彌太郎をグラバー邸に招き商談に取り掛かります。(略)同時期、グラバー邸のそばに薩摩藩と日本初の洋式ドックを建設。[前掲三菱]

 小菅ドックは,原始的かつ試験的ながら工業と海軍事の初動インフラとして,裏経済の実力者から企業的活動に昇華しつつあった薩摩とその尖兵たる土佐浪人衆が現実化しています。
 変な言い方になるけれど,この時期の日本は,ガバナンスの効いた裏経済を有していた。これは相当な部分,薩摩藩という組織,実質的には薩摩という企業体が自覚的かつ排他的に江戸後期の裏経済を統治していたことに起因すると思います。
 結果,暴走拡大する裏経済の濁流から流れ込む軍備が,幕末の敵味方に均質に流れて内戦が泥沼化することはなかった。幕府は切腹するように自ら組織を解体したし,残存する奥羽連合や函館に長期抵抗できる武力や軍事経験が蓄積されもしなかった。藩主側近にすらその蓄積がなされなかったから廃藩置県もスムーズになされた。もう少し後で言えば,旧武士層反乱勢力にも蓄積されなかった。西南戦争での薩摩にすら抵抗力は残されない状態に,見事に裏経済からの軍事と資本は一元的な流れを保ち続けました。

ところがグラバーが肩入れした西南雄藩は鳥羽伏見の戦いで一気に勝敗を決し、大規模内戦はなし。グラバー商会は見越しで仕入れた大量の武器や艦船を抱え、雄藩への掛け売りの回収も滞り、明治に入った1870年、資金繰りに窮して倒産します。[前掲三菱]

 これだけ近くにいたグラバー個人の見立てですら,日本が初めて近代軍事を導入する内戦が短期に終わるシナリオはなかったわけです。
 上記情報は,グラバーを恩人視する三菱HPの記載です。企業人としてのグラバーは,経営環境の予想を180度誤ったがために大失敗して倒産しているのです。この点も,この人が個人として「明治維新の黒幕」とする安易な見方を明瞭に否定します。
 あえて黒幕論めいたことを言うならば──それは人格ではなく,海域アジア交易という経済体です。グラバーも薩摩も坂本龍馬も,表の政治経済の座標で読むと理解できません。そして明治維新の特異さ又は幸運は,江戸後期,財政難からたまたま薩摩という企業的組織がこの裏経済を統制していた,というかなり稀な事情が,軍事力の複線化を防いだという点にあるのだと思います。
 そうした意味で,グラバーは明治に至るまで海賊として活動し続けたとも言えます。

グラバーは彌之助、久彌にも、主に技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして仕えました。キリンビールの前身ジャパン・ブルワリーの設立にも参画。1908年には、明治維新に功績があったとして、外国人としては異例の勳二等旭日重光章を受章します。グラバーはまさしく19世紀の冒険商人。ロマンあふれる人生を送ったのでした。[前掲三菱]