m153m第十五波m坂の街ぺろり舐めとる妈祖が舌m梅園

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
:梅園身代天満宮~中小島地蔵堂

第三形態くらいに進化した狛犬

居をくぐる。1001,梅園身代天満宮。
 ad中小島1丁目,西部自治会掲示板が出てる。
 とりあえず本殿に詣る。祭神の表記には,菅原道真のほか宇賀御魂神とあるけど──ウガノミタマ??それ,稲荷大明神の本名格の号じゃね?天満と稲荷の合祀って例があるんだろか?
※ 記:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ),紀:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。伊勢神宮では御倉神(みくらのかみ)として祀る。「宇迦」は穀物・食物の意。別称:稲荷大明神。(wiki/ウカノミタマ)

▲飴地獄状態に陥った狛犬

れがある小物がある宮みたい。まず目に入るのは本殿手前の「歯痛狛犬」。一般的にはこんなことすると罰が当たりそうだけど──

歯の痛みがある者が狛犬さまの口に水飴を含ませるとたちまち痛みを取って下さる(案内板)

 でもこれは……飴詰め込み過ぎ!哀れを誘うのに加え,糖分満点だから蜂がぶんぶん!刺された奴はいないのか?
 でも同じ狛犬で惹かれたのは飴地獄狛犬とは別に,ゴジラみたいになってる奴。こいつです!

▲第三形態くらいに進化した狛犬

荒い使われ方してる神様

にも「恋みくじ」なる恋愛おみくじとか,撫でれば体の痛みが消える臥牛(がぎゅう),さらに梅の名所としても知られるらしい。
 ここは,元禄13(1700)丸山町乙名・安田治右衛門の創建。軽く暗殺されかけた時に天満さんが身代わりに負傷してくれた,という謂れで,何か荒い使われ方してる神様で可哀想になってきます。
梅園身代り天満宮|スポット|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」
 さて,梅園天満の場所ですけど──
▲梅園身代天満宮と小島地蔵の位置

案橋の繁華街の南を延びる小島の丘は,丸山町の背後で途切れます。この途切れる場所の斜面上に,梅園天満は当たります。
 梅園の名は宮を囲むように植えられた梅の木から。2月上旬から3月上旬が見頃という。この位置なら港からも見えたでしょう。
 梅は中国人の好みでもある。えげつないほど現世的で即物的な願掛けといい,どうも漢族感覚を感じます。ここは唐人屋敷からも裏手を上がってすぐの位置です。

長崎まで付いてきた白太夫

▲外側崖の壁

側,崖の壁も古い。
 本殿の左右には別の稲荷を祀る。まず右手には七力稲荷神社。これは明治になって移築されてきたものというけれど,由緒は不明。
 本殿左手には「金比羅社」と書かれた社。これの右には,さらに古びた石社があって,「白太■社」と文字が読める。案内板には「太夫社」とあるからこの字でしょう。

▲白太夫社の文字

太夫社(しらだゆうしゃ)は北野天満宮の参道沿いの4末社の一つにある。祭神は「渡会春彦翁」(わたらいはるひこおう),これは菅原道真公の守役を務めた神様です。
 この神でもう一つ知られるのは,これは大阪府藤井寺市の道明寺にある社です。小さな社だけれど,この社の奥にも大きな梅園があります。そして,この寺は大阪で唯一,媽祖を収める場所。個人的な目では,まさに白太夫社と梅園の間の位置でした。
北野天満宮:白太夫社 – いこまいけ高岡
※ 道明寺天満宮 境内案内

▲大阪府藤井寺市道明寺天満宮の境内配置図

思議の余り話が飛んだけれど,丸山町です。
 右手出前の,中国寺院なら焼却壇(金爐)のある場所に石柱で囲んだコーナー。今は使用されていないけれど「浪花」の文字。案内板には「梅塚」とある。
 何をした場所かは見当もつかない。──焼却壇にしては焼き跡がない。「筆塚」感覚で梅の枯れ枝とかを祀るにしては,そんな残骸もない。
 だからずっと後になって,この「梅塚」の使い方を知った時は,意外さに呆然としました。答えは巻末参照。
▲焼却壇らしき石柱の枠

ぺぽにハウスⅡ

園を出て1025,さらに上へ。
 三叉路に迷う。右だろうと目星をつける。ad中小島一丁目3。
 ぺぽにハウスⅡ?居住者募集中らしい。確かに履歴書には書きにくいアパート名やね。
 この山側,封鎖してある石階段に鉄階段がついてる。古道か,何かの管理用か。
 まだadは一丁目3。水神祠。この小島の丘には時折この神様がいる。もう一つ上へいこう。右折。

▲等高線ラインへ

032,中小島地蔵堂。
 右手に墓らしきもの2基と井戸。手前に気の抜けたような公園。集落の公共の場所のような匂いがあります。
 13番札所とある。
 何の?かと後に調べると「長崎四国八十八ヶ所」というのの第13番霊場でした。ネットによると結構制覇しようと回ってる人がおられます。これを表にしてるサイトもあったので興味ある方はご参照。
※ ★弘法大師 長崎四国八十八ヶ所霊場 – 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介

▲地蔵堂付近

蔵堂の住所は中小島一丁目8。
 突然,地勢にデジャヴを感じました。
 あれ?ここはもう,もしかして?
 1037,地蔵堂左手の小道を入る。登り。
 住所が上小島一丁目1?集落の起点?

小島の丘の坂道を

▲1040一丁目辺りの坂

らだらと,けれど飽きのない弛いS字を連ねた,心地好いリズムの坂道。
 ここは歩いたことがない。でもこのリズムは既視感がある。
 1042,やはり!掲示板と電柱,いつもピントコ坂方面から降りてくる際の,八剱神社上の三叉路でした。

▲1041小島の丘の坂道を下るバイク

叉路の左に入って下る。ルーティングとしてはバカな登り下りだけど,八剱神社の境内を通る抜け道しか見つけられない。
 神社北面の階段へ。1048。──ってそろそろヤバい時間です。昨夜の雪辱を果たして食わねば!

ニッキーアースティン辛い辛いシリーズ

▲本日は1005番!

い辛いシリーズに未だにハマってます。
1105ニッキーアースティン万屋町店§初
1005辛い辛いドライカレーシリーズ・ポークカツとチキンカツがメインのトルコライス
 聞いてみると,移転は先月下旬,まだ一月経ってないとのことでした。

▲新!ニッキーアースティン「万屋町店」。旧店舗で店内にあった緑色掲示板が店外に出てる。百以上のメニューから,ここに貼り出されてるおすすめ4点の選考基準が未だに分からない。

い辛いシリーズの何が気に入ってると言って,唐辛子だらけのカレーチャーハンです。これは御飯というより漬物で,甘いフワフワ卵焼きとこの激辛を交互に食したり,サラダと激辛を行き来したり,そういうアクセントがたまらない!
 さて現実に戻りまして──四福寺の残り2社を回らねば,今回は帰る気にならぬのう。

▲「長崎ぶらぶら節」ポスターの吉永小百合と渡哲也

■小レポ:梅園の時空寸描

 見たことはない。ないけれど,2000(平成12)年に映画化されて,さらにドラマ化までされたんですね,「長崎ぶらぶら節」。
 昔の流行り歌を再発掘してきたものが脚光を浴びて,という成り行きらしい。ある意味,地域学の中でも最も回転数の高い長崎学が,ついに映画まで生み出したか……という感慨があります。二十年も知らなかったんだけどね。
 その発掘された流行り歌とは──これだ!

♪遊びに行くなら
  花月か中の茶屋
 梅園裏門たたいて
  丸山ぶらぶら
 ぶらりぶらりと
  云うたもんだいちゅう

 丸山芸者・愛八役に何と吉永小百合,古賀十二郎役に驚くなかれ渡哲也。他に高島礼子,長崎出身の原田知世も出演しとるそうな。凄っげ!見てないけど!!
 それに……この歌にもあるやないか「梅園」!
 ということで,梅園身代り天満宮について,ここでは幾つかの雑多な堀込みをやってみます。

▲斎藤秋圃※「梅園天満宮縁起絵巻」レプリカ(部分)。
※は、秋月藩(福岡藩の支藩)御用絵師の斎藤秋圃(1768年~1859年)

① 乙名・安田治右衛門襲撃事件

 丸山町乙名(自治会長,という感じ?)・安田治右衛門は,1700(元禄13)年に梅園天満を創建したと伝えられる人です。
 この人が斬られた時,気が付くと傷がなく,代わりに当時自邸の祠にあった天神像が左脇腹から流血してた,有難や有難や,ということで造られた宮だといいます。「身代天満」の名もこの話から冠されたらしい。
 でも,さらりと書くけど──乙名が斬られた?そんなに危険な職だったのか?
 他の伝では,この襲撃についてもう少し詳しい。

①-1 襲撃の時空

 襲われた時期は1693(元禄6)年。加害者名は梅野五郎左衛門。襲撃ポイントは二重門,現・丸山交番附近と書かれます。
※ キレイライフプラス|長崎:梅園身代り天満宮(長崎県長崎市)
 ところで先の襲撃絵図は,料亭「青柳」(あおやぎ,長崎市丸山町)大広間で2017年11月3日に特別公開されたものです。画の名は「梅園天満宮縁起絵巻」,残念ながら模写ですけど,その修復完成の開帳でした。
 長崎学を背負う形になってる山口広助さんは,この青柳の方らしい。この開帳式でもヒロスケさんが解説に立ってます。

①-2 襲撃の背景

 これによると,まず天満の神様は,元々自宅に置いていた祠で,本尊は大宰府天満だという。

安田治右衛門は信仰心が篤く、太宰府天満宮の分祠を自邸の庭に祭っていた。事件後、菅原道真が安田の枕元に立ち、天満宮を祭るように告げたと伝えられている
長崎・丸山町「梅園天満宮縁起絵巻」模写修復完成開帳 原物公開は最後か – 長崎経済新聞

 ここに語られる時空も上記と同じです。ただ,犯行理由が記されてます。
 梅野さんは,安田さんに刑罰を負わされ,それを恨んでの報復ということになってます。

1693年、素行が悪い梅野五郎左衛門が百たたき(当時の刑罰の一種)にされたことを逆恨みし、二重門(現在の丸山交番付近)で安田治右衛門を襲って左脇腹をやりで突き刺したという。襲った梅野は確実に死んだと信じて自害したが、不思議なことに安田はどこにも傷がなかった。安田が帰宅すると、自邸に祭っていた天神像(太宰府天満宮の分祠)が左脇腹から血を流して倒れていたという。[前掲長崎経済新聞]

 当時の乙名というのは,町民に刑を告げるような役職だったのでしょうか?
 梅野さんが何をしたのか,はっきりとは記されません。ただ1693年と言えば,はっきりと1689年の唐人屋敷稼働の直後です。丸山は小島の丘を挟んで唐人屋敷と隣接します。
 この界隈は,17C末には相当荒くれたエリアだったのではないでしょうか。
 梅園は,戦時には武運長久の神様だった気配もあります。「斬られて死ななかった」ことにあやかろうとした,と言えばそれまでですけど──

第二次世界大戦中に出征した丸山町出身の兵士は全員参拝して、全員が無事に帰還したと伝えられている。[前掲長崎経済新聞]

 そもそもここが何の祈りの場だったのか,現代のチャラチャラなイメージからはかけ離れた何か荒々しい意味の丘だったのではないかと思えてくるのです。

丸山町金波楼の遊女(19世紀末頃)

※ OLD PHOTOS of JAPAN 丸山遊廓 1890年代の長崎

② 梅塚の局地信仰とその意味

 梅園で参拝の目を楽しませた梅が枯れたら,それを哀れみ塚に埋め祀った──というような場所だと想像してました。ただそんな所は聞いたことがないな,と思ってたら……

境内にある「梅塚」では、梅は天神様の象徴とされていました。
遊女や芸者さんたちは、食べた梅の種を捨てることなくこちらに持ってきて、願いを込めて梅塚に納めていました。
梅園身代り天満宮-狛犬にアメで歯痛が治る!?長崎ぶらぶら節の聖地【長崎市】 | 九州 旅行 観光情報なら【九州旅行ナビ】

 暮らしの中で出た梅の種を祀る場所だというのです。
 梅の種の中核部にある「仁」には青酸配糖体という有害たりうる物質が含まれるらしく,これを食べない誘導のための啓発的慣習か?と思いきや──

遊女や芸者衆は、自分の家で食べた梅干の種を天神様と呼び、参詣の際に持参して、自分達の生活に苦労がないことをお願いしたのだそうです。今も玉垣の中には新しい梅干の種が入っているので、梅干の種を持って参拝する人がいるのでしょう。
※ 「ナガジン」シャッターチャンス@長崎/梅園身代り天満宮

 梅の種に「天神」を象徴させる。それに願をかけて詣る装置が梅塚である。
 そんなこととは想像だにしなかったワシは自分の目で覗いてはいないけれど,山口さんの見る限り,今でも種が入っているという。それなりに根深い信仰なのです。

梅核仁の構造図・実画像・成長過程

図解版 花から果実への発達|なんでも梅学
※※原典:南部川村「南部川村うめ振興館常設展示図録」

敵か味方か?梅核仁

 梅の種が「有害たりうる」と書いたのは,現代医学の見解として,確かに多量摂取は危険な場合もあるから,です。

梅の核(胚または仁とも言う)や未熟果実の青梅は、青酸配糖体のアミグダリンを含有し、梅の果実に含まれる酵素エムルシンやヒト消化管内で腸内細菌のβ-グルコシダーゼで分解されて青酸(シアン化水素)を生じ、中毒を起こすことがある。中毒症状は嘔吐、腹痛、下痢、頭痛、めまい等で、多量に摂取すれば、けいれん、呼吸困難、意識混濁などを生じ、死に至ることもある。ただし、アミグダリンは果実が熟して来ると消失し、青酸による中毒の心配はなく、また梅干しや梅酒などの加工はアミグダリンの分解を促進するので、通常の摂取であれば心配はない。梅干しの種を割って白い部分(中身)を食べても大丈夫か?(薬局)公益社団法人 福岡県薬剤師会 |質疑応答

 医学側から「無害だ」と現代社会で公言してしまうには,身体への影響が大きすぎるけれど,科学的に見れば「まあ無害」です。これを中国医学ははっきりと「薬」と捉えています。というのは,漢方で言う薬とは「きちんと用いれば益になるもの」だからです。

【性味】①《藥性論》:味酸,無毒。②《綱目》:酸,平,無毒。
【功用主治-梅核仁的功效】清暑,明目,除煩。①《吳普本草》:明目,益氣。②《藥性論》:除煩熱。③《本經逢原》:清婦人子臟中風氣積滯。④《本草求原》:治暑氣霍亂。
梅核仁,梅核仁的功效與作用_中藥梅核仁_梅核仁是什麼_梅核仁的用法用量_A+醫學百科

「毒はない」とした上で「目を明らかにする」「気を益する」「煩熱を除く」と書きます。
 これがなぜか,日本では酷く「悪者」扱いされている。「梅は食うとも核食うな」の語が辞書に載っているほどの定見になっています。

梅(うめ)は食(く)うとも核(さね)食(く)うな、中(なか)に天神(てんじん)寝(ね)てござる の解説
《「核」は、生梅の種。また、種の仁は飛梅の伝説から、俗に天神様と呼ばれる》生梅の種には毒があるから食べてはいけないという戒め。
梅は食うとも核食うな、中に天神寝てござる(うめはくうともさねくうななかにてんじんねてござる)の意味 – goo国語辞書

 天神に見立てられるのは,正確に言うと種そのものではなく,種の皮の中にある「仁」の部分らしい。漢方的に最も薬効の高いこの部分を天神と見るのは,日本全国で一般的な見方と思われます。長崎で特殊なのは,それに願をかけてわざわざ神社に祀りに来るという行為です。

生梅(なまうめ)のたねには毒があるという戒めをあらわしたことば。天神は菅原道真の霊。道真が梅を愛した故事により、梅の核をかむと字を忘れるという俗信も生じた。
※滑稽本・古朽木(1780)一「今では何者の言出してや、梅を喰(ク)ふとも種くふな、中に天神寐てござる、と戒むる程のことなれば」梅は食うとも核食うな中に天神寝てござるとは – コトバンク 「精選版 日本国語大辞典の解説」として

種を捨てない全国の「梅塚」

 調べが足りないのだろうか?梅核仁に願をかける信仰は,長崎梅園以外に確認できたものがありません。
「梅塚」は全国にあります。一番知られるのは東京都墨田区提通二丁目の木母寺の梅塚のようですが,これは平安期の梅若丸を祭った「梅若塚」の略称らしい。※ 東京刺激クラブ 木母寺の梅塚と蛇身弁財天

静岡県磐田市見付宿の西坂の梅塚

 静岡県磐田市の見付宿には東西の梅塚というのがあるが,これは昔昔の物の怪に娘を人身御供にしていた時代,娘を供した家の前に「ウチはもう娘を出したぞ」という印に植えたものとされている。この供物慣習は,少し知られる「しっぺい太郎」伝説※※※で語られる霊犬によって解決されるのですが,この供物の時期は見付天神祭の日だったというから天神と関わりがなくはないけれど,ちょっと長崎と通じない。
見付宿
※※東海道見付宿散策/(5)西坂の梅塚
※※※霊犬しっぺい太郎伝説 見付天神公式ホームページ

 だから長崎梅園の梅塚で行われる信仰は,かなり個性的と言えます。
 大体,「核食うな」伝承は梅核仁が毒か薬かはともかく身体に強力な影響を与えるから言われているもので,その強力さを天神に例えはしても,これに願をかけるのは合理的に発想されるものではありません。それに,梅核仁が天神だと言うのなら,願をかけた後,なぜ捨てるのか。突っ込み所は満載で,つまり論理がごつごつしています。非常にローカルな妄信,という手触りが感じられるのです。

「梅園」さん比率ナンバーワン

 以下は,関係あるのかどうかすら分かりません。
「梅園」という姓があることを知りました。日本全国に少なくとも660人おられるという。その都道府県別の順位を見ると,それが極度な偏りを示していることが分かります。

「梅園さん」の都道府県別頻出順位

 伝承では公家に梅園家というのがあり,その子孫とされます。だから近畿に多いのは説明がつく。でもなぜ鹿児島や長崎に集中するのか?
 標準として東京を加え,大阪・長崎を並べた数値はこうなります。
都道府県 都道府県内順位 都道府県内人数
東京都 8,703位 およそ80人
大阪府 4,165位 およそ190人
長崎県 2,002位 およそ70人

 人口880万の大阪府の4割規模が130万の長崎県に住む。つまり梅園さんの比率は,長崎県が全国で最も多い。しかも長崎県の梅園さんはほとんどが長崎市内に住んでおられる。
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梅=「埋め」たのは何か?

「梅園」身代わり天満の読みは,「ばいえん」ではなく「うめぞの」です。
「梅田」地名は全国に多いけれど,そのほとんどは,田を「埋め」たことから来ているといいます。「埋田」を雅字に変えて梅田とした。大阪キタの梅田がその最も有名な例です。
 梅園天満もそうだとすれば,そこに何を埋めた可能性があるのか?
 岐阜県加茂郡坂祝町の「梅替古墳」,広島県三原市本郷町「梅木平古墳」の「埋め」は古墳墓を指す。松山の葉佐池古墳などは所在地「梅本町」の広域名になっていると推測されます。
 ただ梅園天満の丘が古墳だとする考古学的実証は,今のところありません。
 同じように「墓」だと考えるなら──「埋め墓」の可能性はないのでしょうか。
 拝み墓と埋め墓を分離する両墓性は,九州にはほとんどない。ただ,長崎県には局所的に存在します。対馬の岬町青海です。
青海の里|九州への旅行や観光情報は九州旅ネット
※※近代まで両墓制が残っていた段々畑と海に囲まれた『青海の里』 | 日本秘境探訪

 とは言え,梅=「埋め」の語呂以外の手掛かりはまるで少ない。まず,青海での埋め墓の位置ですけど──

対馬市岬町青海の(上)地理院地図及び(下)拝み墓・埋め墓の位置

今は海外沿いだけれど,方向からしてかつてはその南の神社・寄神神社辺りが神域だった可能性が高い。
 かつて中島川上流(正確には当時の河口)を生活拠点とした長崎で,青海と同じ感覚で埋め墓を設けるなら,まだ丸山町もなく海際の山手だった梅園辺りが適地だったのではないでしょうか。
 また,両墓制の始まりについて青海に伝わる話は──

 なぜ両墓制が始まったのかについては寺の和尚さんがここに遺体を葬ることはダメというので海岸沿いに埋めるようになったと聞いている。
 墓地の入口には平べったい石碑が建っている。村のものは埋め墓に行く際には必ずこれに頭を下げる。[前掲秘境探訪 2019年1月聴取]

という。両墓制の由来には伝染病の拡大を抑えるため,遺体の埋葬位置を生活の場から遠ざける必要があったとする説があり,青海の僧侶がそのような判断をしたのだとすれば,貿易規模が一気に拡大した長崎でもまた同じ必然性を有した時期があったかもしれません。
 以上は,史料か考古学的発見がないと夢想でしかありませんけれど,もしそうだったなら,埋め墓の辺境地から海外交易裏手の遊興地に短期に転じた,途方もなく目まぐるしい変化をこの丘は見下ろしてきたことになります。
▲梅園身代り天満宮の境内見取り図