m154m第十五波m坂の街ぺろり舐めとる妈祖が舌m福州寺

目録

1ヶ月だけの施粥

崇福寺見取り図

知った通りばかりから,1157,崇福寺通りへ。
 ad鍛治屋町7。何度見たか知れぬ山門。左手に祠。
 この一見,異国情緒に満ちた三門※は全て大串五郎平など日本人技術者によるものという。日本人が演出した異国・中国風なのです。
※ 通常,禅宗寺院の入口は「山門」でなく,三解脱門(空門・無想門・無作門)の略として「三門」と呼ぶ。竜宮門とも別称する。
 それこそ何度となく見てきた正面楼上の「聖寿山」字,崇福寺山号は隠元禅師の筆だそうです。
 入って階段右手「園通」とある廟に,目を墨塗りされた仏。左隣は顔を潰された跡に墨で顔を書いてある。廃仏毀釈の痕だろう。
 峰門入ってすぐに金爐。

福寺大釜解説。

延宝8年(1680)に起きた不作により米穀不足となり,長崎にも餓死者が出た。これを救済するため,延宝9年(1681)年正月には福済寺が施粥を始めた

 対して崇福寺の施粥は15か月も遅れたらしい。

1681年正月,福済寺が施粥を始めたが崇福寺は寺内工事のため施粥はできなかった。
工事が終った9月15日から千呆は町に托鉢に出て施粥を始めた。翌1682年4月14日,大釜を鍛冶屋町から車に乗せ崇福寺本堂前のかまどに乗せた。口径6尺5寸,深さ6尺,この釜代一貫三百目と伝える。
鋳物師阿山家の二代安山弥兵衛の仕事と推定される。5月15日には施粥は止んだ。釜の回りに『聖寿山崇福寺施粥巨鍋天和貮年壬戌仲春望後日』の銘がある。
大釜は,1903年現在の位置に移された。
崇福寺大釜|九州への旅行や観光情報は九州旅ネット

二段階の美意識

 崇福寺妈祖門の解説。

妈祖は,ぼさ(菩薩)ともいい,ぼさ門とも呼ばれる。長崎市内の黄檗寺院である興福寺や聖福寺の妈祖堂には門がなく,また,福済寺は観音堂が妈祖堂にあたり,これには門があったというが,原爆により焼失した。

 入ってすぐ右に巨大な鯛。「開梆」あるいは魚梆,魚板ともいう寺の時報装置みたいなものらしい。
▲「巨大な鯛」

祖堂。
 大きい。三段中の奥院になってますから本尊扱いです。左右二対の構造で,興福寺よりずっと配置が整ってます。妙に形式が整い過ぎてる感があります。
 左の外部額は「法海慈航」。立派なのですけど,これも媽祖堂の典型的な額です。

▲本堂の軒と額

部額には「萬古流芳」。この四字はあまり見ない。
 神像は……御簾でよく見えないけれど髭があるようです。左右の字も達筆過ぎる。おそらく金がかかってる。

着せ替え媽祖ちゃん

▲右手のお堂の祭壇

のは外部の額3つ。左から「海天活佛」「萬里安瀾」「永護安瀾」。もうひとつ外に「高登彼岸」。いずれも独特な語感がある聨額です。
 衣装に目を奪われがちだけど,像そのものはかなり古風です。本尊・媽祖と従う女官には衣装その他の装飾はない。
──と今写真を拡大してもそう見えるんですけど,後の調べではこの崇福寺の媽祖像,長崎市内のそれの中で唯一衣装を着けてるのだという。これを数年に一度,女性の手で着せ替える風習なんだそうな。古風に見えるのはその服が古くなってるからなのか?
 とにかく,長崎の媽祖中でも最も信仰に位置づけられた媽祖様だと思われるのです。

▲左手から妈祖像どアップ

段階の美意識で構成されてるような不思議な祭壇です。
 媽祖堂の右手に煉瓦の焼香壇,しかし焼けたものはない。中国的信仰心を持つ者の参拝がそれほど行われてはなさそうです。

▲右手から妈祖像

央の大きな社には,内部の額に「海不揚波」。神像は中央に3柱,左右に3柱ずつ。台湾でよく見る豪勢な配置です。
 左は「三帝大帝」,右は「三官大帝」。手前左右に鬼各一,「十里眼」「順風耳」とある。つまりこれも妈祖です。
 祭壇には「天上聖母」。左聨「乗坤徳而習坎駕津梁天海之中」,右聨「體帝心以济人登衽席波涛之上」。

こっちから入ればタダじゃん

▲本堂裏手の庇

の階段を登る。L字に折れた場所に小さな仏2柱。
 本堂の庇に福建のような極端な反り返りはない。けれど日本の造りとも少し違う。三門と同じく,基礎技術に日本っぽさを感じます。
 蛇。周りに誰もいないので少しうろたえてたら,向こうから去っていきました。

▲裏手の山際道

は普通の墓地になってました。民家も少しある。
 ピントコ坂が遠望できます。なかなか良い場所です。
 つまり,日本の神社と異なり,奥山が聖地にはなっていません。
 ただその時はセコいことに,こんなこと考えておりました。──こっちから入ればタダじゃん。

▲本堂右手の階段

■レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清

「日本人が演出した異国・中国風」と斬って捨てたので見てないんでしょうか。後で調べて浮上してきたこの第一峰門は,間違いなく通っているのに迂闊にも当時全く注目してません。

崇福寺第一峰門

 興福寺本敷地は高台の方形地です。この方形地の入口が第一峰門。街中の崇福寺通りから見える日本人の造った三門は,後で第一峰門から延長された通路の出口です。
 昭和28年国宝指定。創建者は林守壂。日本名:唐通事林仁兵衛,古橋(中川橋)をかけた人です(m144m第十四波mm中川 参照)
(再掲)崇福寺見取り図

当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)この下段西向きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となった。※ 長崎市│崇福寺第一峰門

「第一峰門」という名で文化財登録はされてるけれど,この門は二の門・中門・唐門・赤門・海天門等と様々に呼ばれ,通称はどうもはっきりしません。
 何が国宝級なのかと言うと,構造の精緻さらしい。この辺は建築の知識がないから理解出来ないけれど,とにかく中国にもないような精密なものみたい。

軒下の構造組物(くみもの)に特徴があり、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組(つめぐみ)は他には例がなく、華南地方にも稀という。[前掲長崎市]

 本稿では,本文で触れた17C末の施粥と第一峰門再建を通じ,この時期の長崎中国渡来人にどんな変化が起こったかを考えます。

寧波製造のユニットハウス

 第一峰門の構造の精緻さは,中国本土で部品を造ったことにあります。
 つまり,三門と異なり,ここは純中国建築です。

中国寧波で切組み唐船で運び元禄9年(1696年)ごろ建てた。唐通事林仁兵衛(林守でん)の寄進。(でんは、殿の下土と書きます。)※ 九州旅倶楽部/崇福寺第一峰門

中国寧波(ニンポー)で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載舶来(ぶんさいはくらい)し再建された。[前掲長崎市]

 ここで年代の違いが気になります。三門は1673(延宝元)年建造だから,それ以前に第一峰門はあった。けれど現存の門は1695(元禄8)年に唐船でパーツを運び,翌年建造されてます。
 運んだのは中国船籍の船。鄭氏台湾は滅びてますから,清朝の公認の交易船でしょう。それを数隻も使って運搬し,しかも元々の門を壊してまで建てたことになります。
 ここから,外航船の姿が見えてくるかもと思えました。
 ただ,この中国ユニット寺院建築方式は他にも例があるらしい。崇福寺は文化財の多い寺としても有名ですけど,従来の本堂・大雄宝殿(大雄=釈迦)もユニット方式と書かれます。こちらは年代的にまさに民末清初,鄭成功支配下の中国から運んだことになる。

諸材は中国で切組み、数隻の唐船で長崎に運び、現地で組み立てています(国宝の第一峰門も同様)。
建立当初は単層の建物でしたが、寛文元年(1661年)、隠元隆琦(いんげんりゅうき)が京都・宇治に黄檗宗大本山萬福寺を開山し、萬福寺の大雄宝殿を模して延宝8年(1680年)に上層部分が増築されています。
※ ニッポン旅マガジン/崇福寺・大雄宝殿

 その他,興福寺の大雄宝寺も少なくとも1883年復興の現存のものは同じくユニット式という。
 四福寺中,19C後半に広東系資本で造られた聖福寺はここでは置く。福済寺が1628年,そして崇福寺が翌1629年竣工。第一峰門はその66年後に現存のものに再建されたわけです。
 当該期の東シナ海の政治史略を復習してから,次に進みます。
1644年 明清交代
1654年 隠元来日
1661年 南明滅亡,鄭氏政権成立
1676年 末次家断絶
1683年 鄭氏政権滅亡
1689年 唐人屋敷入居開始
1698年 長崎会所開設

林守壂も隠元も福清人

 第一峰門(17C末再建)が林守壂の出資であるのに対し,大雄宝殿は何高材という人による。この両者は,同じ隠元招聘運動メンバーです。

唐商人で大檀越(おおだんおつ=大檀那) の何高材(がこうざい=黄檗宗の高僧・隠元禅師を日本に招致した中心メンバー)の寄進で、正保3年(1646年)に完成。[前掲旅マガジン,大雄宝殿]

 明滅亡2年後,隠元来日の8年前です。
 隠元招聘文書の原典が見つからないけれど──

 隠元を長崎に招請する興福寺の住職逸然性融の招請状は、承応元年(1652)4月、同年8月、承応2年(1653)3月、同年11月と、都合4回にわたって出された。
 招請状には、興福寺前住職黙子如定をはじめ、頴川官兵衛、林仁兵衛、頴川藤左衛門、彭城太兵衛などの唐通事や王心渠、何高材、頴川入徳など10数名がその名前を連ねていた。※ 原田博二「隠元禅師と黄檗文化」基調講演(要旨)

 三福寺設置は,キリスト禁教と中国渡来人内のキリスト信徒の疑いをかわす目的からと説明される。確かにそれを契機としているんだろうけれど,逆に中国人用帰依寺の許しを利用しての明末のエクソダスを図ったとも見受けられます。
 当時の長崎の中国系財界の全体に占める位置は図りがたいけれど,隠元招致運動メンバーは明らかに地域的に偏っています。

林仁兵衛は、その父林太卿が福建省福州府福清県の、王心渠は福建省福州府の、何高材も福建省福州府福清県のそれぞれ出身で、当時、長崎における中国商人のリーダー的存在であった。[前掲原田]

 皆が皆,福州域,それも福清をコアにした出身者です。この福清という土地は,狭義の福州とは互いに文化的に差別化しており,かつ隠元の出身地でもあります。

隠元禅師(法諱隆琦、俗名林曾昺、以下、隠元と記述)は、万暦20年(1592)に中国福建省福州府福清県(現在の福清市)に林徳龍、龔氏夫妻の子として生まれた。[前掲原田]

 しかも林姓です。福建北部に興隆した一族なので一概には言えないけれど,林守壂に血縁が近い可能性もある。媽祖の姓でもあります。
 また,この招聘書面の2通目は海賊に奪われてます。この海賊が鄭成功系なら,この辺りの成り行きで鄭成功がパトロンになったのかもしれません。
※ m092m第九波mm殿前/鄭成功が隠元禅師を送り出した江頭港

 なお、2回目の招請状は、支度金等とともに海賊に奪われ、隠元のもとには届かなかった。しかし、3回目の招請状は自恕が、4回目の招請状は古石というように、当時、長崎にいた唐僧がそれぞれ隠元のもとに持参した。
 現在と違って交通機関の不便な時代のこと、わずか2年足らずの間に、3回も長崎と福建省の間を往復しているのである。[前掲原田]

 鄭成功の支配したこの時期の福建沿岸で,第3・4信が届いているのは,かの海賊の協力を得てのことでしょう。
 とすると長崎三福寺初期の建築は,林守壂ら福清幇が鄭成功と結んで成した明末清初の漢族文化のエクソダスだったとも言えます。卑近な言い方をすれば,中国寺建立にかこつけて福清人は大規模移民を挙行した。
 福済寺が原爆で焼失してるから分かりにくいけれど,同じようなエクソダスが閩南からもあったのでしょう。

中国人キリスト信徒の日本浸透の疑いと三福寺開基

 崇福寺創建の公文書記述は,確かにその第一目的をキリスト信者をあぶり出す施設として掲げています。

當寺開創ノ事ハ、寛永六年唐僧超然當表二渡来レリ。其頃福州方ノ船主共相議シ、去ル元和六年、南京方二興福寺、寛永五年漳州方二福濟寺、開創有シ例二準シ、唐船入津ノ最初二天主教ヲ尊信セルヤ否ノ事ヲ緊シク穿鑿ヲ遂ケ、且ツ海上往米平安ノ祈願、又ハ先亡著提供養ノ爲、林仁兵衛ヲ檀首ニテ右の超然ヲ住持トシテ、禪院ヲ創建成シタキ旨(略)市中二テ福州寺卜稱ス。
※「長崎寳録大成正編」(長崎文献第一集・第二巻、長崎文献社)145-146頁
※※陳莉莉「江戸初期における長崎唐三寺の建立と関帝信仰」関西大学学術レポジトリ 文化交渉:東アジア文化研究科院生論集,2020 の引用に基づく。

「福州寺」の通称もこれに基づいてます。
 許可の直接の理由は,興福寺・福済寺の先例があるから,ということですけど,最初の興福寺には所蔵の1943(寛永19)年「上諭」(キリシタン禁令)が残ります。

 本寺雖属媽祖香火道場、實乃祝国焚條、摧邪辯正之伽藍也。是昔起建之後,寛永壬午十九年三月,曾蒙鎭主馬場三郎公,轉奉大将軍上瑜。言:唐船至崎貿易、重禁者莫如邪教。 仍恐唐船往来,混載南蛮悪党之人。況所来者不出南京、福州等處。故両三寺住持,凡唐人上岸,入寺焼香頂禮,必須儼査,易得辯明白。又給此禁條張掛在寺,永遠流伝。
※ 4)長崎市役所編『長崎市史・地誌編佛寺部』下巻(清文堂出版株式会社、初版1938年、再版1967年)222、278、279頁 同陳引用

「本寺は媽祖を香火するの道場に属すと雖えども」キリスト教徒を見つけ出すのに協力して寺院の体を成せ,とお上は通達しています。通達先は三寺,つまり三福寺同時です。
 長崎奉行側も,三福「寺」が媽祖宮を本質とすることは承知の上で,帰依寺の体裁を整えて,入国中国人内にキリスト教徒が混在するという疑いを払拭してくれ,と表と裏を使い分ける要請をしているのです。
 ケンベルが隠元ら渡来僧集団について書いているのも,この表を重視してます。

長崎唐三カ寺に住む母国人に対する愛情と、仏法を日本に広め、キリスト教徒・仏教反対者に対して寺院を確保し、一種のカリフ国を建てようとの熱情にかられて日本に東渡してきた。
※『The History of Japan』Vol.1 Chap.XV。平久保章『隠元』(新装版、吉川弘文館、1989年)69頁

 でも中国人は実利しか見てなかったでしょう。鄭成功は明の文化と人材の脱出を企図し,おそらく隠元も同様だった。そして林守壂らは福清人勢力の拡大を目論んだし,それにはやはり隠元も同調していたでしょう。

福建省における福清の位置

福清人の華僑内での位置

 字が似てるし地理的にも近いので,おそらく長崎奉行や長崎人も福州と同一視していた気配があります。おそらく福清人もそうした知名度上,「福州(の近く)から来た」と言っていたでしょうけど,福清は福州とは別のアイデンティティを持ってます。これは文化的に細かく分かたれた福建では,ありがちなことです。

福清地方の方言は,福州とは若干異なるため,福清出身者は福州人とは別に「福清人」と呼ばれることが多く,東南アジアの福清人は,福州人とは別の同郷会館(福清会館など)を組織し,異なる華人方言集団として区別することがある。
※山下清海ほか「福建省福清出身の在日新華僑とその僑郷」地理空間,2010

 もちろん正解とか定説とかではないから,一応の定義整理です。まず福清は,日本人から見て福清は福州の海側隣町だし,幕府や長崎奉行・会所には自ら「福州」を名乗る。にもかかわらず,彼らのアイデンティティ上は福州とは異種なのです。
 福州は歴史的にも人口規模でも相当に大きい。これと隣接しつつ異種を意識するのは,移民の行動様式上,如何に福清人がユニークかを伺わせます。

旧福州府に属する閩侯,閩清,古田,福清,長楽,連江,永泰,屏南,羅源,平潭の10県を「福州十邑」と呼び,福州人と総称している。但し,時には福清人と区別することもある。
※ 小木裕文「論説 僑郷としての福清社会とそのネットワークに関する一考察」
※※参考:山下清海「福建省における華僑送出地域(僑郷)の地理学的考察」『華南 華僑・華人の故郷』慶応大学地域研究センター 1992 pp27

「十邑」の言い方があるということは,かつては福州圏に内包されていた集団が,後に突出してきた経緯を想像させます。
 ただし,人口規模として小さい。

世界に点在する福清系華僑華人は51万人といわれる。(略)但し,この数字には非合法の滞在者数と香港,マカオ,台湾の福清人は含まれていない。[前掲小木]
※小木参照:施雪琴「改革開放以来福清僑郷的新移民──兼談非法移民問題」pp26-27『華僑華人歴史研究』2000,第4期

 この狭い地域からすると50万は驚くべき規模ですけど,7千万※の華僑中です。華僑一般中では発言力は弱い。なので,だと思われますけど,この集団は,先住の人的ネットワークが整った場所に集住する傾向が,華僑の中でもさらに強いようです。
※ 図録▽中国に対する主要な直接投資国※※原典:CEIC,OCAC,US Cencas Bureau,The Economist November 19th 2011

海外の福建省籍の老華僑の社会の中では,福清出身者は少数派であった(山下,2000,p.46)。清代末・民国時代から中国の改革開放までは,福清出身者の移住先は,インドネシア,シンガポール,日本,マレーシア,アメリカなど限られた国に集中していた。[前掲山下]
※※山下2000:「チャイナタウン──世界に広がる華人ネットワーク」丸善

 次に,現中国の行政単位としての福建省からの華僑を整理する。ここでも分かりにくいのは,東南アジアを中心に「福建人」が閩南人を指している点です。
 つまり文脈によって福建人が,現・福建省人なのか旧・福建=現・福建省南部なのかを峻別していく必要があります。先の点も交えると,さらに現・福建省人のうち福清地方の人や集団か否かを見分けないと,福清人の行動は浮かび上がらない。

福建籍で海外に定住する華人は800万人に達し,そのうちの約85%が東南アジアに集中している。福建籍の華人は次のように大別することができる。
(1)閩南人(2)福州人(3)福清人(4)興化人(5)客家人。東南アジアでは福建のなかの最大勢力である閩南人を福建人と呼んで,他の福建籍の小集団と区別している。また,客家は省を越えて別の幇を構成している。興化人は閩南,閩北に挟まれた莆田,仙遊両県出身者を指し,福州人,福建人と区別している。彼らの使う興化語も福建語や福州語と些か異なる。[前掲小木]

 というややこしさを生んだのは──かの福清人が,三福寺建立を期に,長崎に勢力基盤を確立することに成功したからです。彼らには,おそらく現在の経済的な核らしいインドネシアと併せ,初めて人的ネットワークを根付かせた外地だったと思われます。

先行・南京寺:興福寺と漳州寺:福済寺の地域性とその本質としての海人社会階層

 興福寺:福済寺:崇福寺
=南京寺:漳州寺:福州寺
という謂いは,単なる出身地別割当というだけでなく,従ってもう少し詳細な理解が必要です。
 まず興福寺については,欧陽氏の別荘地を充てて建てられたことが知られますけど──

 欧陽雲台という人は身を寄せた真園が同じ江西浮梁県人であり、(略)経済的にも成功していたので、早くから三江帮の頭人となったことは帮の祠堂をその別荘に置いてあった一事によっても知られる。26)
 以上の記載によると、興福寺は元和の初、欧陽氏別荘にあった三江帮集会所の神祠から発達 したものであり、最初は媽祖を主として祀っていた。キリシタンではない証として菩薩を供養 するため、寺院建立の許可を得て真園を開基として興福寺が建てられ、佛殿の片側に媽祖堂を 立て、天妃を祀ったことがはっきり分かる[前掲陳]
※ 26)李獻璋『長崎唐人の研究』(新興印刷製本、1991年)180頁

 三江帮集会所神(神名不明)祠→媽祖祠→仏殿と核を移しつつ発展している。つまり原型は,三江=江南・浙江・江西(≒長江河口域)を中心とする出身者の勢力の中心施設です。
 ベクトルを確認するため,明治期の中国人組織を見ると,3つの会所の中に三江があります。

(引用者注:明治期の)長崎には、広東会所、三江会所、三公会所が設立されている。
広東会所:長崎で商業に従事する広東人が増加するとともに、明治4年(1871年)に商人
団体として「栄遠堂嶺南会所」が設立された。(略)広東幇の商人は主に香港を対象に日本の雑貨、海産物などを輸出し、中国から穀米などの輸入品を中心とした。
三江会所:江戸時期に長崎の華僑の貿易をほぼ独占していた三江幇は、明治10年に三江会所を設立した。三江幇は主に中国の華中、華北地域を貿易の中心とした。
三公会所:福建の北部の福州幇により設立され、主に福州福清県出身者が呉服や雑貨などを
中心として組織された。※ 崔晨「日本華僑華人の商業活動とその社団組織」拓殖大学海外事情研究所

 要するに,南京寺:福州寺→三江:三公と出身派閥が継続してて,その本体はいずれも「幇」組織です。研究者によっては長崎のそれを「寺院ギルド」と呼ぶけれど,要するに江戸初期から変わらず幇です。
 残る2派のうち,広東幇は江戸末期から新規参入した勢力。四福寺中唯一,聖福寺が媽祖を祀らないのは三福寺の反対があったからという。旧勢力が既存権益に固執したわけです。
 漳州幇の福済寺の実態は,よく分からないけれど,明治期の会所には名がなく,長崎マーケットではなぜか主流にならなかったらしい。ただし──

 福済寺は本長崎村の岩原郷に属し、今築後町の女笠頭山の麓に所在している。『長崎図志』には「福済寺,在宝盤山左,村主宅」とある。もとは村主の宅であり、そこを幇の会館にし、祠堂を設けていた。寛永五年(1628)明国泉州の道者覚悔が来て、小庵を結び、天妃聖母を祭祀した。長崎来往の唐船が海上安全を祈願すれば、必ず霊験があったので、開基した。28)[前掲陳]
※ 28)饒田喻義『長崎名勝図絵』(長崎文献社、1974年)148頁

という由緒からして,興福寺とほぼ同じく,幇会所→媽祖祠→寺院の流れを辿ってます。
 これに対し,第三の寺・興福寺には幇会所の段階が伝わりません。後述する「福清幇」は純然たる犯罪組織らしい。ただ,寺院の運営主体と人的ネットワークとしての連帯は同様に存在したのでしょう。

欧陽雲台は漳州人である。

欧陽雲台の墓 長崎市東立神町 | みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

欧陽氏はなぜ三江幇のパトロンなのか?

 またまた脱線して課題記述します。
 欧陽雲台は,謎の多い人物です。東立神町にある墓碑の説明書きには,その過去帳の記述の転記を交えこう記されてます。

相当の資産家であったと思われる資料は見当たらないが最初は貿易商人であったと想像される
陽氏 過去帳は次のようになつている。
生保三年(1646)歳在丙戌孟冬十有五日
即世辰忌
開祖 福建省漳州府 歐陽雲臺公
寛政七年(1795) 乙卯十月十五日値百五十遠忌
命日は十五日である
この過去帳によつて歐陽雲臺は福建省漳州府の人であつた
平成七年十月参百五十遠忌資料収集 中村記

 三江幇の会所を後の興福寺敷地内に置いた欧陽雲台が,漳州人?
 それならば別荘跡地を寄付する際,南京人にではなく同時期少し後の漳州人寺院に寄付してしかるべきだったはずです。
 本業すら分からない素性の前半生で,南京地域との因縁が何らかあったのか,それとも漳州人グループとの対立があって外部分子化したのか。
 三福寺は,その建立の初手から未知の要素をはらんでいそうです。

福清人の移住は何が特別だったのか?

 脱線ですけど,そうこう見ていると,どうも福清人の長崎移住は,第三勢力の来日というだけではない,何らか特別又は異常なものだった感じを受けます。
 その核は,やはり隠元にあります。
 なぜ当時,長崎の福清人は隠元を熱烈に招聘したのか?なぜ隠元はそれに応えて,母国を捨てて来日したのか?
 なぜ日本の各層,加賀前田網紀・仙台伊達綱宗・肥後細川綱利などの有力大名,老中酒井忠勝・同松平定信・京郡所司代板倉重宗など幕閣,近衛基煕・烏丸資慶ら公家,後水尾天皇はじめ皇族までが一老僧を招いたのか?
 別の出身地団体を代表する興福寺に,なぜ隠元は身を置いたのか?
 ここで見切れていない何らかの事情があると思うのですけど──。

1682年4月 崇福寺施粥

 崇福寺の巨釜が使われた時期,長崎は経済構造の再構築のただ中にありました。末次家断絶の5年後,鄭氏政権滅亡の2年前。そこから唐人屋敷入居開始(1689年),長崎会所開設(1698年)といわゆる鎖国完成の過程に至り,長崎の激動の17Cが終わります。
 本稿のテーマは,この時期に何が変わったか,です。
 これ以前の時期,長崎の対中交易が継続した点※からも,隠元来日や同寺大雄宝堂の建材ユニット輸送から考えても,中国渡来人は東シナ海の支配勢力・鄭氏政権と連携していました。
※ m132m第十三波mm川内観音(破)/1646年にどこから何が輸入されたか?
 この環境は,先行する南京系=三江幇に対し,福建系が攻勢に入れる強い追い風だったでしょう。鄭氏自体が福建系で,この時期の活動本拠も福建だったのですから。シェア的にはまだ全然適わないけれど,興福寺に対抗して福済寺・崇福寺を建設したのはその強気の状況を反映していると思われます。(この対立構造下では,漳州-泉州-福清-福州の福建内勢力が他地でのように対立せず,いわば「野党連合」を成して南京系に対抗したのだと思われます。)
 けれどもその追い風は,清朝の海上統制強化に伴い急速に止みます。三藩軍との合流した鄭氏二代・鄭経の大陸出兵(1674年~)が失敗し,その軍が撤兵(1680年),東シナ海の制海権が清朝に移ることがほぼ見えてくると,南京系が勢いを取り戻します。当時の幕府は長崎に中国生糸の輸入量確保を至上命題にしており,その産地は南京だったわけですから。
 福建系の攻勢から守勢への転換点で,崇福寺施粥は行われたわけです。

1682年5月に飢餓はあったか?

 本文で触れたこの延宝・天和期の施粥の時系列を復習すると――――
 1681年正月 福済寺が施粥開始
    (崇福寺は工事のため施粥できず)
 同  9月 崇福寺2代目住職・千呆(せんがい)施粥開始
 1682年4月 鋳造した大釜を鍛冶屋町運搬,崇福寺本堂前のかまどに設置
 同  5月 施粥終了

 1680~81(延宝8~天和元)年の飢餓は確かに史料に残ります。

去[延宝8年]秋風水冬厳寒雪多く諸国飢荒す。この歳[天和元年]気候順ならず風水の災あり。ために穀価騰貴して窮民飢餓するもの多し。就中,京畿地方最も甚し
※ 斎藤修「飢餓と人口増加――18~19世紀の日本――」経済研究,2000
※※原典 小鹿島果「日本災異志」日本鉱業会,1894 飢餓之部
 西村真琴・吉川一郎「日本凶荒史考」丸善,1936

 これに対し,飢饉・凶作の気象学データは次のようになっています。

東北地方の飢餓・凶作と西欧の飢餓と火山爆発の年。10年ごとを1段に表す。

※ 近藤純正「最近300年間の火山爆発と異常気象・大凶」気候変動,大規模火山爆発と冷夏・凶作,1985
 17C末の元禄期のもの以前では,やや特記される飢饉と思われるけれど,江戸三大飢饉に準ずる規模ではありません。また,少なくとも1682年に入っても飢饉又は困窮が継続していたかどうか,となるとどうも疑わしい。
 そも,工事のため施粥できなかった,という意味が分からない。寺敷地内がどういう状況だったら,粥を炊く場所がなくなるのでしょうか。
 崇福寺に伝わる施粥の状況は

崇福寺でも施粥(せじゅく)をはじめましたが日々1000人を超えるようになった(略)
一度に米630キロ(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられています。
多い時は5550人だった
※ 「ナガジン」発見!長崎の歩き方
2.護法堂(ごほうどう)~大釜(おおがま)

という。作った数字は気をつけると分かる。12345のアナグラムです。
 そうなると,この施粥の伝承は,社会力学から見直す余地があるように思えます。

同年表1670-1719年部分拡大 ピンク:1680-2年

千呆禅師の施粥美談

 この時に崇福寺住職だった第2代・千呆性侒(せんがいしょうあん)という人は,福建省福州府長楽県出身。福清ではありませんがやはり福州域です。臨済宗黄檗派の禅僧としては大成したお坊様で,1688(元禄元)年に鳥取藩の要請で龍宝山興禅寺を中興開山。1695(元禄8年)には京都宇治の黄檗山萬福寺第6代に選出,同年5月に将軍綱吉にも謁見してる。
 もちろん,宇治の萬福寺は,福清の同名の寺から名を写して隠元が開基した寺ですから,黄檗派の直系を福州出身かつ崇福寺出身の中国人が引き継いだわけです。

特記されるのは,福清にある黄檗山萬福寺の隠元が来日し,江戸幕府の援助を受けて京都府宇治に臨済宗萬福寺を建立したことである。[前掲山下]

 wikiは,延宝の飢饉の時の活躍をこう記しています。

延宝3年(1676年)5月、長崎が飢饉に見舞われると衆徒を率いて托鉢を行い飢えた人々に粥を施した。同年9月に再度凶作になると、書画を売り、大鍋を鋳造し多くの人々に粥を施した。この鍋は万人鍋と呼ばれいまも現存する。
※wiki/千呆性侒
※※参考文献 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版

 長崎に伝わるのと年も違う。前掲近藤の年表では1675年には1680-81年より大きな飢饉があったようなので,翌1676年春に飢餓があったという可能性はあるけれど,9月の「再度凶作」は理解しにくい。

喜多元規筆「即非・千呆像」部分 左:千呆

 従って,1676年説を一応捨てて,大釜鋳造が1681年だったとすると,次のような事実が想像されます。
 福済寺が大規模な施粥に乗り出した時,崇福寺は,(工事ではない)何かの事情で出遅れた。そのため,長崎市民,長崎奉行はもちろんだけれど,それ以上に共闘していた福済寺や漳州系中国人からも非難を受けた。南京系からの守勢に回り,唐人屋敷への軟禁体制も近い状況で,福清人の先導としてこの信用失墜は看過できない失点だった。ために,現実の飢饉があろうとなかろうと,長崎市民の記憶に残るような大掛かりなパフォーマンスをする必要に迫られた。
 あるいは,施粥自体はさして大規模でなくても,後世には「崇福寺は社会貢献した」「千呆は慈悲深かった」と伝わる必要があった。それは,ようやく地歩を作った少数派・福清人にとって,時局的に死活問題だったのだと考えられます。
 そのために,崇福寺の参拝者の目に触れる場所に,この大釜と施粥の物語を置く必要が,いかにしてもあった。そうして現代,ワシはまんまとその物語を転記してしまった,という顛末ではないかと考えるのです。

「ぼさあげ」の三福寺共同運営という安全保障体制

 三福寺及びその支持主体である南京系-漳州系-福州(福清)系は,しかしながら始終対立していたわけではない。そこは中国人ですから,現実的な判断として融和し連合すべき時はそうするし,とりあえず長崎奉行(幕府)という仮想敵が存在する以上,共闘の必要は常にありました。
 だから,共に媽祖を信仰する海人である,という点は,三勢力の安全保障の基礎でもあったのではないかと想像します。それぞれ独自の媽祖廟を,各寺院の伝統の源流として有しながら,来航船に設置された媽祖を寺院に保管する「ぼさあげ」は共同運営体制だったというのです。

船が無事入港し、碇を入れた後は、唐人は皆上陸して、館内に移り、船中の神像を祀るものがいなくなるので、南京寺(興福寺)、福州寺(崇福寺)、漳州寺(福済寺)の三寺に輪番を追って捧げ持つ。昔は各船が帰衣する寺に納めたが、寺により多寡があったり、全然なかったりして、年々不均衡を生ずるので、近頃は三寺の輪番で納めている。聖福寺は唐寺であるが、ぼさ揚げはしない。在津中の奉護を託するのである。[前掲陳]

 この安全保障の文脈の上で考えれば,四福寺の新参たる広東系・聖福寺が媽祖堂を持つことができず,従って「ぼさあげ」輪番に参加できない理由が理解できます。旧長崎交易を支配した長崎会所-三福寺の安全保障体制にとって,まだ広東系は仮想敵だったということです。

 各唐寺に祠堂時代の祭りを引き続いたが年三度の媽祖祭や関帝祭など三ヵ寺が同一日に同時に執行するのではなく、三ヵ寺で交替に行った。「一日一夜之祭…昼は菩薩祭、夜は読経…。但し、春船ハ興福寺、夏ハ崇福寺、秋ハ福済寺…に相定」16) もっとも船頭共は一艘より銀子三枚を出し、参詣の唐人数は一船より船頭を含めて五人当てを制限され、すべての唐人が参加できるわけではなかった。しかし、住持を含めた同郷人が一堂に集合地として幇的結合を維持するのは重要な要素の一つであった。[前掲陳]
※※16)東京大学史料編纂所『唐通事会所日禄』(一)(東京大学出版会、1958年)265頁

 そういえば,媽祖宮には浙江系しか参らない宮とか福建系だけとかという分化があまり見られません。海域史における媽祖の機能的本質は,この異種族間の安全保障という点にあるのかもしれません。

施粥を遅らせたのは大雄宝殿の重層化工事か?

 長崎県HPの崇福寺大雄宝殿の記述には,史料に厳密にこう書かれてあります。

 内部前柱刻銘により正保3年(1646)上梁の建築と考えられ、長崎市で現存最古の建物。当初は単層屋根であった。上層屋根が付加された時期は延宝9年(9月改元天和、1681)ごろという宮田安説が定説となっている。下層部意匠構造は和様寺院には見られないものが多く(略)すべて唐土で切組み舶載建立されたと思われる。上層付加部は明暦元年(1655)建立の福済寺大雄宝殿(原爆焼失)の意匠に倣(なら)った、日本人工匠の手になるものであるが、上下に様式的な違和感がない。殿内外の意匠その他は黄檗宗寺院の原典となっていて(略)
※ 長崎県の文化財/崇福寺大雄宝殿

 福済寺が施粥を開始した1681年にやっていた「工事」とは,この宮田安説によるなら,大雄宝殿の二層目増築工事だったことになります。
 この工事が,後から大釜のパフォーマンスで償わなければならない遅れを生んででも必要だったのでしょうか?
 そもそも,中国ユニット式で造った当時の最高峰であろう建築に,和風の二層目を重ねるという企画は,普通に考えると無茶な重ね塗りです。現代の建築眼からは「上下に様式的な違和感がない」と評されたから結果オーライですけど,一層目を貶める無体な要求を誰かがしたのでしょうか?
 鄭氏政権の滅亡直前です。鄭氏海賊の関与が伺われるような意匠を間もなく訪れるであろう清朝側の目から隠すために,緊急に二層目を取り付けなければならなかったとか,何らかの特殊事情があるように思えますけど……二層式が完成した後となっては,解体補修時に何かが発見されるとかでもない限り,解明されそうのない疑念です。

福清人の現代に至る躍進

 以下では来日福清人の位置とその後の日本での,今日までの推移を追います。
 福清人来日者は,ここまでで触れた最老華僑の時代から,何度かの波をもって新華僑にまで続き躍進している,らしい。というのは,現代に近づくほどその動向は水面下に隠れているらしいからです。

日本怕福清:日本は福清に恐怖する

銭(2000)は福州,福清,長楽,平潭,連江の海外出稼ぎ者や密航者が多い僑郷について紹介し,「台湾は平潭を恐れ,日本は福清を恐れ,アメリカは長楽を恐れ,イギリスは亭江を恐れ,世界は福建を恐れる」1)という当時の流行語を最初に論文で紹介した。
山下清海ほか「福建省福清出身の在日新華僑とその僑郷」地理空間,2010
※※銭江(2000):驚驚世界的福建非法移民潮,世界経済論壇,2(6),70-77
原文「台湾怕平潭,日本怕福清,美国怕長楽,英国怕亭江,全世界怕福建」

 恐怖するというか,福清の名前を初めて勉強してるとこなんだけど──と思って少し中国語のネット記事を当たると(なぜか日本語にはまるで記述がない)……かなり出てきます。

几乎可以说有中国人的地方就有福清帮的存在。例:在日本、美国、英国、加拿大等等国家。与日本山口组、意大利黑手党、三合会及福清帮等均有来往,它们共同组织东亚地区的贩毒等活动。
福清帮—搜狗百科

 実態は不明で,一説には福清という一地方より他地の中国人が,裏社会で威力を持つ福清名を名乗るケースも多いと言われるけれど──とにかく,日本の東京,アメリカのニューヨークで主流裏組織と何らかの共立を図っている大勢力らしいのです。
 搜狗百科はニューヨークでの「活躍」事例を詳述した上で「上面文字说的只是美国的部分,福清帮最大的势力还是日本!」──以上アメリカの例を書いたが,福清幇の最大勢力は日本にいる!とまで書いてます。
 ……あまり詳しくなりたくないのでこの辺りで止めますけど,記事によっては「福清人の店舗からは日本最大組織もみかじめ料を『免税』してる」として,日本トップの裏組織は福清幇だとまで書いてます。

山口組對福清幫敬畏三分,只要是福清人開的商鋪以及福清幫範圍內的商鋪均免稅。
日本第一黑幫竟是中國人,曾徒手打斃山口組首領!

 なお,福清からの非合法移民の比率は他よりも相当に高いとする言説もある。

施雪琴氏の推計では,福清から日本への「新移民」は約2万5千人,その半数以上が非合法滞在としている20)。[前掲小木]
※※4)施雪琴「改革開放以来福清僑郷的新移民―兼談非法移民問題」pp.26-27『華僑華人歴史研究』2000,第4期 p28

福建出身者の主な居住地域及び人数(1)関東

同(2)東海以西

※ 張玉玲「在日華僑社会の文化的変動と血縁・地縁紐帯の拡大─神戸在住の福清出身華僑の事例を中心に─」
※※入管協会「在留外国人統計」平成7-24年版より張作成

神戸拠点の福清人の躍進

 上記は,入管統計による1995-2012年段階の福建出身者の日本国内分布です。密入国・不法滞在はもちろん入っていないけれど,傾向的には参考にしうるデータだと考えます。
 横軸・地域別で見ると,関東圏が半数以上を占めます。関西は八分の一程度。長崎在住となると1%未満です。
 けれども,これは経済開放後の新華僑の移入によるものらしい。1975年段階の福建省籍中国人の分布は以下のとおりで,顕著な偏りを示してます。

正確な統計はないが,筆者のこれまでの在日老華僑に関する調査から推定して,日本における福建省籍の老華僑の大多数は,福清出身者であると考えて差し支えなかろう。『昭和49年在留外国人統計』(法務省入国管理局編,1975)によれば,1972年の日中国交正常化から間もない1974年における福建省籍の在日中国人は5,178人であり,これは在日中国人全体(46,944人)の11.0%である。福建省籍者の分布をみると,兵庫県901人,大阪府499人,神奈川県450人,東京都432人,長崎県399人,京都府322人の順となっていた。[前掲山下]

 崇福寺建設当時の長崎においても既にそうだったように,福清人が日本人に分かりやすいように福州あるいは福建を名乗ることは多いようです。このレベルの細かい出身地域,さらに自己の意識する所属郷土ということになると統計的分析は難しい。ここでは,上記山下さんの所見に一応従い,初期在日福建省籍華僑≒福清人と捉えて進めます。
 1975年段階では,関西圏の福清人が関東を上回っています。兵庫県が最多で,東京都の倍です。これは要するに,神戸に福清人が集住していたことを示します。――――この辺から,前記日本最大組織との関係性を類推することも出来そうですけれど,その方向はまあやはり止めておいて論を進めます。
 神戸における福清人の中心は,何と中華会館でした。この長崎を歩いた翌正月,神戸で媽祖を訪ねた場所でした。(実はあまりに拍子抜けしたので沖縄編にくっつけた媽祖参拝でした。)→m19Jm第二十九波mm1那覇天妃 (ニライF70)/[おまけ]神戸市中山手通の関帝廟内媽祖
▲神戸中華会館関帝廟本殿前

 神戸では,戦後の混乱期に闇市が横行し,各種の資材が商品として取引された。華僑はそれを絶好の商機ととらえ,商売に取りかかった。呉服行商を続けてきた福清出身者も,同郷,同族の繋がりを頼りに,四国や中国地方などの農山村から神戸やその周辺の地域に集まり,衣料品や料理,パチンコ,不動産など多様な業種につくようになり,経済力も徐々に強くなっていった。1952年頃,戦前にあった旅日兵庫県華商綢業公会を母体に設立された神戸福建同郷会は,神戸市から前神戸市所有中山手診療所を譲り受け,それを会館とした。以来,活発な活動を展開した。1972年,「社団法人福建同郷会」として登録したのを機に,福建出身者を援助し,地域社会の福祉の改善を図り,また普度を実施し,華僑の道徳心の向上を図ることを正式に会の方針とした。
※ 張玉玲「在日華僑社会の文化的変動と血縁・地縁紐帯の拡大―神戸在住の福清出身華僑の事例を中心に―」山口県立大学

 福清人華僑は,中四国の農山村に散らばって行商をしていた。いわゆる華僑のイメージからは,かなりかけ離れた行動形式です。
 でも,だからこそ戦後のインフラ不全期,つまり行商がほぼ唯一の通商ルートになった時代に躍進できた。……ということになるけれど,そもそもなぜ福清人は行商に就いたのでしょうか?

(内田論文)福清幇≒船夫ギルド→呉服行商

 やや古いけれどガッチリした論文として,内田さんの見解も併記します。やはり福清系が福建勢力の中核とした上で──

本邦には福清県の一姓村落の出身のものが多く、呉服行商の胴元の親方と行商人との間に多数の同姓、ならびに姻戚関係にある近接村落の異姓者相互間において、緊密な血緑的結合関係の成立していたことが推測されうる。だが,日本では有力な姓氏団体の結成をみるまでにはいたらなかった。
 三山幇は各道府県各地に分散浸透していたが、長崎以外では有力な公所の成立をみていない。神戸に福清県出身の呉服行商達が「兵庫県華商绸業公会」を組織していたこと、大阪では前節に明らかにした通り、山東系行商とともに中日戦争中「福東華商公会」を組織したこと、横浜では昭和三年に福州幇が「新興福建連合会」を組織し、料理職・製麺業・雑貨商・呉服行商等の低位雑業者団体であったことを明らかにしうる程度である。内田直作「明治年間の華僑資本(二)」1964

 姓(族)単位の団体を結成していない点を挙げています。
 確かに,出身地単位でこれほど結束が強いのに,他の属性ではまとまりを見せないのはあまり例を見ない。内田さんの紹介する他事例には,ほぼ完全に一姓一村の移民集団というのもあるというのに,アメリカのピューリタンみたいな閉鎖的集団にはなってないらしい。
 また,福清人が路線とした小口商業に対する大資本路線は主に南京人を中心とする三江幇がとったけれど,これが日本の中国大陸進出によって圧迫されたことも,相対的に福清人に有利に働いたと思われます。

(三江幇は)原油輸入とその蓄積資本の紡績会社株式への再投資を通じて,紡績事業への進出を試みようとしたが,日清戦争後の日本資本進出にともない,近代的産業資本への転換の企図の挫折をみたことは,終戦直後の泡沫的華僑産業資本とも共通する傾向である。[前掲内田]

※参照:内田直作「留日華僑経済分析」昭25河出書房 あとがきp203-4
 このイメージを最も端的に書くのが次の別論文です。三福寺の支持団体は,僑郷別というより社会階層別なのです。

江浙の南京・寧波は弁銅船の出港地であり,いわば荷主の所在地であり,泉漳は額商の多くと,また官商のために傭船される船主の出身地であり,福州は下級船夫達の出身地であって,地方別に各相違した機能を有していた。
※※内田直作「研究ノート 明治年間における華僑資本の特性(一)」本引用のみ

船員個人抜荷→行商説

 こうして見ると,三福寺とか四福寺とか言いながら,崇福寺は質的に異質です。幇とその代表する大資本が主導した興福寺・福済寺・聖福寺と異なり,崇福寺は船員(水夫)を中心とする個人の集合が支えている。
 興福寺-福済寺は確かに幇の僑郷:南京-漳州を軸に差別化されるかもしれないし,興福寺-崇福寺もそうだろうけれど,福済寺-崇福寺は支持母体の質,あるいは支持階級の差で捉えた方が実態に近くはないでしょうか?

日本における福清出身者による呉服行商は,長崎貿易時代の福清出身船員による個人貿易を基点とする(許 1989)が,福清出身者が大挙対日し,日本全国に広まったのは,1899年以降(4)のことであり,さらに福清で自然災害が頻繁に起きた(5)1930年代に,そのピークに達した。1920年,呉服行商人は836人であったが,1929年にはその4倍近くの3243人に上った。[前掲張]

※※ 許淑真1989「日本における福州幇の消長」摂南学術
※※※(4)1853年日米通商修好条約の締結以降,広東や上海,厦門などの復権南部から多くの中国人は貿易商やコックなどの職人として来日したが,貧困者の多い福清出身者は,資本金が殆ど不要な行商についた。1899年の内地雑居令が発布されるまで,横浜,神戸など開港場以外の,外国人による内地への進出は許されていなかったため,行商人の数が少なかった。1899年,明治政府はいわゆる内地雑居令である勅令352号及び純労働者の内地への進出および新たな入国を禁止したが,行商人は,禁止の対象とはならなかった。(詳細は,許 1989をご参照)
  (5)「福清市志」の記載によれば,1930年には台風,31年に干ばつ,32年に天然痘,35年風災,37年にペストが起きていた。(福清市志編纂委員会・福清市委党史研究室編1994:38-39,129)

「船員による個人貿易」のナレッジゆえに,先住の在都市・有資本商業との競合を避け,福清人が農山村へ無資本のまま浸透していくことができた。──行商というビジネスは,明日からすぐ出来るものではありません。必要資本は小さいけれど,仕入れと販売先のネットワークとその中で上手く立ち回る眼力とノウハウが要る。この形式には独特かつ高いナレッジが求められるものです。
 けれど──「船員による個人貿易」?どこかで聞いた手法です。
※ m142m第十四波mm唐館(出)/幕末長崎奉行言上書の記す5ルート

明治時期には福州人,福清人が船員として来日し,彼らが副業として布地の行商を行なったことが注目される12)。すでに,江戸期中期に福州の船員たちが当時絹織物の産地であった福州から私的にそれらの産物を長崎に持ち込んで,商いをしたとの指摘がなされている。明治・大正・昭和期の日本華僑の仕事は,貿易商や三把刀(料理,洋服仕立,理髪)が主なものであった。遅れて来日した福清人は長崎で先ず呉服行商(布地の移動小売販売)を行ない,その後,第二次世界大戦終了ごろまで,日本各地の町村で呉服行商を行なっていた。最初は中国製の絹,緞子などを扱い,後に日本製の布地を扱うようになったという13)。前章で指摘したように,インドネシアの福清華僑もジャワで布地の販売や生産で,富を築き現地へ定住していった例を見るまでもなく,この業種は海外で商いをする福清,福州出身者に受け継がれていったようである。都会を中心にする先来華僑とは違い,福清華僑は辺鄙な農村を苦労しながら行商し,日本社会のなかに入り込んでいった。[前掲小木]
※ 12)「福清華僑の日本での呉服行商について」茅原圭子・森栗茂一 pp17-44 大阪教育大学地理学報
27号 1989 参照
13)前掲12)p25,「日本における福州幇の消長」許叔真 摂南学術7 1989 参照

「私的な商い」というナレッジを習得した福清人は,戦後の躍進に至るまでこれを最大の武器として西日本に浸透しました。福清人が唐船水夫に占めたシェアは分からないけれど,その習得は,幕末に長崎公所の交易体制を破綻させた小口の抜荷を通じてなされている。
 そうなると,長崎から天草にかけてごく近年まで多く見られた行商とも関連が伺えます。
※ m132m第十三波mm川内観音(破)/松浦鉄道車内で蒲鉾が買えた頃
※ m17f4m第十七波濤声mm熊本唐人通→牛深(結)withCOVID/熊本県
012-4唐人通→牛深\天草\熊本県/[ワード④沖ウロ]半漁半商の生業

「鎖国」への最も有効な対抗手段となった小口交易の劇的な興隆は,国籍を問わず東シナの海人に広く行商というナレッジを普遍化させていったのではないでしょうか。
 そうした意味では,四福寺中,崇福寺は最も庶民度,あるいは海人度が高いのかもしれません。

「船員募集」という密航手法

 船員→移住という対応関係はイメージし辛いかもしれない。でも,どうやらこの18C前後の時期には常套手段だったらしいことが史料として残っています。

今石祥瑞一船,已捜出一百餘人,即平時之[イ兪]渡者,嘗復不少。又聞暹羅貢船到廣,毎借募補水手爲名,毎年多帯廣人民回國。
※ 松浦章「清代帆船による東アジア・東南アジア海域への人的移動と物流」福建観風整俗使・劉師恕 雍正九年六月二十二日付奏摺

「石祥瑞」というのは呂宋行きの船の名前で,この記事はそれに127名の渡航証明を持たない乗客がいた,という事件の末尾の添書きです。シャム(タイ)からの進貢船は,いつも水夫を募集して,多くの閩(南)人や廣(東)人を出国させている。
 朝貢船は宗主国の清としては保護・歓待する建前ですから,その船から船員を求められたら清側は拒否はしにくい。その応募者に「お前,ホントは密航するんだろう?」と詰問し辛いわけです。
 中国で応募してきた船員が,日本で急に辞職して船を降りた。この方法を取り締まることは,朝貢貿易の理念上,ほぼ不可能でした。

年一で崇福寺に集合した福清人

長崎における崇福寺と三山公所は、日本全国における三山幇の統轄的団体としての役割を果し、毎年夏中元節の盆祭には全国三山出身者の長崎に集合をみるのが恒例となっている。[前掲内田]

 昭和30年代に著された内田さんの論文では,盆祭時に,長崎崇福寺に全国から福清人が集まったとあります。日本各地に散った同郷人が,正月には必ず帰港し港を埋めた尾道・吉和の光景を彷彿とさせます。
※ m19Qm第三十五波mm幸崎能地(下)&尾道吉和/吉和関係資料
 平成20年代後半に著された張論文によると,けれどその後,京都・神戸でも同様の盆祭の集合が行われるように,いわば支社構造を持つように変化したらしい。

 日本では現在,主に京都,神戸,長崎の三か所で,福清出身者中心の団体によって普度法会が継承されてきた。長崎では,1899年に成立した三山公所によって,普度が崇福寺で行われるようになり,しばらくの間,普度のために,多くの華僑が毎年長崎に集まっていた。1920年代以降,福清華僑の来日がピークを迎え,長崎以外の地域での増加が著しくなったなか,1924年に大阪と神戸の華僑が連合して大阪天王寺清寿院で,1930年より京都の華僑は京都の宇治萬福寺で,そして神戸華僑は1934年より中華義荘(二回目以降は関帝廟で)普度を行うようになった(中華会館 2013:341)・しかし,普度は異郷で伝承される過程において,資材調達の困難さや紙師などの専門職人の欠如,それに日本文化からの影響を受けて,大きく変容した。[前掲張]

 ここに東京など関東がないのは,年一集合がいわゆる老華僑の習慣で,新華僑のものではないということでしょう。
 福清人の近代以降の日本での生計形式は,江戸後期の小口交易を通じ形成され,現代でも回帰的行動をとる。華僑の中でもかなり特殊で,いわゆる華僑のカテゴリーには入れない方が性格かもしれない。あえて入れるなら,これはまさしく海人的なかたちなのです。

崇福寺第一門の「蘭盆勝会」垂れ幕
「蘭盆勝會」の垂れ幕(崇福寺・三門/長崎県長崎市鍛冶屋町)の写真素材 [38352469] – PIXTA

■補足レポ:崇福寺の普度とその源流

 長崎崇福寺に福清人が集う「普度」の際,外部に対しては「蘭盆勝会」という幕が掲げられる。従って一応これが正式名ということになるかもしれないけれど,通常は単に「普度」の他「普度勝会」「普度法会」又は日本風に「裏盆会」と呼ばれるようです。なお,後述のように閩南や台湾では「中元節」や「鬼節」と呼ばれる。中元は日本の「お中元」に通じ,「鬼」は幽霊一般を指します。

「普度」を「無事にそして効果のある大会に終わるように」という願いを込めて、「普度勝会」(ふどしょうえ)と称されるが、本来は「普度法会」またはその略である「普度」で呼ぶのが一般的である。[前掲張] 

 ここでは,一般呼称でかつ日本のとは一応異なるという意味で「普度」と呼んでいきます。

崇福寺における普度のスケジュール表

長崎での普度実施形式

 長崎の普度はすでに400年ほどの歴史をもっている。江戸時代に各唐寺において、7月13日より15日の間に行われたが、後に各公所が設立されると福建会館でも普度行事を行うようになり、期間は7月26日より28日の間とされた。
※ 王維(長崎大学多文化社会学部教授)「長崎華僑と黄檗宗の儀軌に則った崇福寺の普度(盂蘭盆会旧暦7月下旬)」

 元々の日時は,旧暦の盆。場所は「各唐寺」で行われていた。ということは,福清が源流,あるいは独自の習俗という訳ではなさそうです。
 王さんによると,普度の実施主体として各唐寺に福建会館が加わり,この開催が大規模になったので,これを崇福寺が引き継いだことになる。つまり,長崎での普度実施は古いけれど崇福寺のそれは意外に新しく,明治末が近くなってからです。

現在に続いている崇福寺の普度も、1899 年に設立した三山公所の設立によって始まったというが、福建会館の伝統を継承したものとされる。福建会館のリーダーが泉漳幇であったので、普度は泉州地域の伝統も併せて踏襲した行事だと考えられる。[前掲王]

長崎興福寺の普度(昼)

普度の実施主体

 明治以後,一貫して変わりなく実施されてきたかと言えば,決してそうではない。戦時に一度,主に実施主体の不在により崩壊しているようです。

 現在の崇福寺の輪番制は戦後の形式だと言われている。新地に設立後の三山公幇(三山公所)によって崇福寺の祭祀行事が営まれていたが,具体的には新地の比較的裕福な店舗が担ってきた。行事の費用は一部の寄付を除いて,ほとんどこれらの店が用意した。しかし,戦争により,それらの店主たちの多くが帰国するか,他の地域へ移住するなどしてほとんどいなくなり,戦時中,崇福寺の行事も中断した。戦後,三山公幇は崇福寺の行事を復興するため,毎年10戸前後で,6年か7年ごとに登板になる,現在のような輪番制を導入した。[前掲王]

 元々は有力者が実施を一手に引き受けていた。けれどその有力者が去ったので,公所が輪番制を新設して「復興」されたのが現在の普度です。
 けれど現代にはそれも担い手不足で,立ちいきにくくなっている模様です。

 普度は,華僑が輪番で行事を担当している。長崎では現在,老華僑数は400人弱だが,1990年代までは,崇福寺の当番は毎年8戸の家長が当り,6年に1回の輪番制になっていた。2000年代の後半になると,華僑人口がさらに減少し,6年ではなく,5年,4年さらに現在(2018年)3年に1回の輪番制になっている。輪番による行事は,旧暦の1月15日元宵祭を1年の始まりとし,旧歴7月26日からの普度を1年間の行事の終わりとする。[前掲王]

 比較がしにくいので弱くしか言えないけれど,祭祀の担い手問題が日本の一般的状況と同じ程度に懸念される,というのは,日本国内同様の社会階層の者が担い手だから,とも解せられるでしょう。古い祭祀が残り,それによる紐帯を重視するのも彼らが庶民だからでしょうから,諸刃の強み弱みが出た格好です。

長崎興福寺の普度(夜)

普度って「お盆」じゃないの?

 崇福寺の垂れ幕に書かれる「蘭盆勝会」文字のうち,「勝」は「効力増大」「抑止成功」という感じの縁起を担いだ一字らしい。残る「蘭盆会」は「盂蘭盆会」を略したものなので,日本のそれと起源を一にすると思われます。
※ wiki/盂蘭盆会
 けれど,日本の盂蘭盆会は遠く7C(確実なものは657(白雉8,斉明天皇3)には行われており,それから14百年日本で育まれたものと,4百年前に長崎に伝わったものとの,つまり伝播の新旧の違いです。

 日本の一般の盂蘭盆会と違うのは,先祖の供養とともに,いわゆる施餓鬼の営みが重視されていることである。祖先,無縁仏,神々や鬼に掲げるたくさんの供物のほか,死者に捧げる金山・銀山などの作り物が用意される。崇福寺の境内には,「普度棚」「神壇」「七爺・八爺」「五亭」「三十六軒堂」など特設の祭壇が設けられる。このうち,三十六軒堂は,中国の福州から送ってもらったものである。[前景王]

 感覚的には,「地獄」を意識する盆か否かの違いです。日本の盆は,地獄に行ってるかどうかに関わらず先祖を崇拝する。近世中国のは先祖かどうかに関わらず,地獄が現世に災いするのを防御する。
 霊的なファイアウォールです。
 宗教が,超知覚の存在を崇め肖るか,あるいは恐れ封じるかの両面を持つとすれば,後者の側面が非常に強いのが普度だと思います。アフリカの呪術に近いと言っていい。前者が超知覚を秩序立てて崇める,三大宗教に典型的な最近の宗教形態とすれば,後者は無秩序のまま恐れる,原初的なものです。

泉州の寺院の普度(昼)

「普度」泉州人一年兩次的節日 – 每日頭條

農業や漁業を主な生業とする福清地方では、人々の生活は常に劣悪な自然条件におびやかされていた。そのため、村や一族を挙げて普度を盛大に行うことで、祖先や神々に加護を求めるとともに、孤魂や厲鬼などの祟りを最大限に避けようとした。五穀豊穣や厄除けを祈願する重要な祭祀だったのである。若い頃から伯父に紙細工を習った王良清(1952年生)によれば、中華人民共和国が成立する以前、複数の村による共同出資でたびたび普度が行われていたという(9)。[前掲張]
(9)2014年9月に神戸で行った王良清氏への聞き取りによる。

中国福建(泉州)での普度

 ただ,福清独特の行事かと言えばもう少し広い範囲に渡る。現存の分布から考えると,閩南が本場と伺えます。
 長崎の伝え通り興福寺でも普度をやってた時代があるなら,浙江にも存在したことになります。現世の地獄化を多く見た福建,特に閩南にそれが残存したのか,それとも福建ないし閩南発祥の「地獄封じ」慣習が広域に広がったのか,今となっては定かではありません。

本来福清で行われていた普度は、挙行の時期こそ秋が多いが、その性質は、泉州や台湾などで旧暦7月15日前後に行われる「中元節」や「鬼節」と同様である。即ち、不慮の死を遂げて「この世」に恨みを抱いている幽霊や子孫が途絶えて無縁仏のまま地獄に呻吟している幽魂が現世の人間に祟りをしないよう、これらを鎮撫するために、衣食などを与え、道教や仏教などの供養を行うもの(8)であった。虫害や干ばつ、伝染病など、人間の力ではどうにもならない天災は、「孤魂」や「厲鬼」(らいき)の祟りによるものだと考えられてきたのである。[前掲張]
(8)王良清氏のご教示のほか、(渡辺欣雄1991)、(灌宏立2002)などを参照

泉州の寺院の普度(夜)

福清“七月半”民间习俗和禁忌,这些不能不知道!_法会
 この無秩序地獄イメージは,秩序ある現世イメージの最たるものである共産主義からは完全に否定されるべきもので,文革では一度排除されてます。
 だから大陸中国には細々としか,あるいは熱心だった地域にしか残らなかったらしい。それでも継続されているのは,けれど相当な根深い信仰だったものと思われます。

 普度に関する慣習は、中国建国後に封建的迷信とされ、特に普度期間における飲酒による争い、各町の間に普度の規模をめぐる競争、そして普度期間の物価の上昇などが問題とされ、次第に当局により禁止令が出され、文化大革命の間は完全に禁止された。しかし、家の中では普度の日になると何らかの形で供養をしていたという。1980年代以後は、普度の習俗が復活した。信仰に篤い福建省泉州地域では、旧暦7月に入ると、ほとんど毎日どこかで普度行事が行われている。現在は、道士を招いて読経し、演劇を奉納することなどは見られなくなったが、正月のように家族全員が揃い、祖先を祀った後、会食することが普度の一般的な形式となっている。[前掲王]

 これらから逆算するなら,日系福清人の拠点にして初源の地たる崇福寺で,一応の形式を止めた普度儀礼が営まれるのは──福清の固有風俗ではないけれど,①長崎の福清人が他の僑郷出身集団より庶民度が高いが故に,この世俗的風習が欠くべからざるもので,かつ②大陸中国では文革を中心とする時代に実施が禁じられたためだと推測できます。

[台湾事例]本来の普度はどんな儀式だったか?

 野村伸一さんの仮説に「東地中海」論というのがあります。そこでは普度儀礼を東シナ海世界独自のものとして位置づけてる。

 餓鬼供養の目的は家や村全体の安寧であった。それは東方地中海(東シナ海)周辺地域13)の基底にあった霊魂観の反映である。この根柢の霊魂観から盆以外の時期に、どのような身体演戯が生み出されたのか。その問題は、東方地中海地域の芸能研究の本質的な課題として残されている14)。
(13)東方地中海とは、東シナ海地域をひとつのまとまりのある地域として把握するために提示したことばである(前引、野村伸一『東シナ海文化圏―東の〈地中海〉の民俗世界』、5頁)。また陰暦7月を鬼月とし、この月に餓鬼供養をするのは中国南方に濃厚である(松本浩一「中元節的産生與普度的変遷」『民俗與文化』五(普度文化専刊)、台湾淡南民俗文化研究会、2008年、10頁。)これにより、7月の霊魂供養は東方地中海地域に特徴的な民俗だということができるだろう。
14)ちなみに、鈴木満男は中元節の主役を無縁仏とする。そして、柳田民俗学が祖霊のもてなしを第一とし、無縁仏へのもてなしを「二次的なもの」としたことを批判した(前引、鈴木満男「盆にくる霊」、180頁以下)。同感である。従来、日本の芸能研究は登場人物のなかに、祖霊の面影をみようとした。しかし、祖霊以外の神聖な動物(とくに蛇)や無祀孤魂もまた重要な登場人物だったといわざるをえない。これらについては、前引、野村伸一『東シナ海文化圏―東の〈地中海〉の民俗世界』、第六章参照。
※ 野村伸一:1997年、台湾釈教の中元祭典(補訂)―桃園県仁寿宮の事例 本文末尾及び注13・14

 刺激的な議論です。
 ただ,東南アジアやインドの民俗,なかんずく舞踏の文化を思い起こすと,東シナ海独特とする決め手に欠けるきらいがあります。東シナ海の海人の文化は,陸上よりと古層の,一神教より前の混沌自体を崇める観念が色濃い,というほどに捉えるのが妥当だと思われます。

中元の芸能表現 7月中元の孤魂野鬼の救済には芸能表現が伴う。たとえば福建仙游地区では目連戯のほかに、三一教による霊魂救済がやや芸能的に演じられる(「九蓮」)(図版24)。また朝鮮では7月15日(百中(ペクチュン))には、農民のあそびが各地でおこなわれる。慶尚南道の密陽(ミリャン)百中(ペクチュン)ノリでは身体不自由な者たちを模した陽気な舞踊(病身舞(ビョンシンチュム))がみられる(図版25)。日本の盆の踊りは多彩で、今なお、各地で伝承されている(図版26)12)。[前掲野村.図版26略]

上:24)福建の三一教による霊魂救済儀礼(九蓮)下:25)韓国慶尚南道密陽の病身舞(ビョンシンチュム) 

具体の普度進行事例

 長崎での当番制の期間からも,普度は7か月ほどをかけて万全な準備を整え行われるものらしい。
 以下は,ほぼ従来形がそのまま行われていると考えられる台湾の事例です。神と一緒に鬼が降り,これに退散してもらうという部分が核心と思えます。
 桃園県大園郷大園村の仁寿宮(祭神:感天大帝許真人)での中元節の儀礼事例(中核部のみ)
0. 廟前にランタンを灯し,祭壇を飾り付け(7月13日午後~深夜)
1.天界の神々に行事を知らせること:起鼓鳴金(14日午前1時過ぎ)
2.神仏の来臨を仰ぐこと:啓請諸仏 奉請三界(14日午前7時半)
3.孤魂野鬼、神がみがよりくるようにと旛を立てること:監列神旙(14日午前8時過ぎ)
4.仏事。終日、経文を連続して十巻分、長々と読み上げる。
4-1 梁皇開巻 一巻歓喜宮以下経文読み(14 日午前9時過ぎ)
4-2 神がみの昼食(昼)
4-3 孤魂野鬼を招くべく行列をなして水辺にいき灯篭を浮かべる。(夕刻)
4-4 燃放水燈(水府の孤魂迎え)の準備、パレード(14 日午後7時過ぎ)
4-5 水辺で孤魂を引請し、廟に戻り廟内に設けた同帰所、寒林所に奉安
5.神仏や餓鬼に菜飯湯を献上:金山拝疏 外教供養(土地公供養)六神献飯 叩謝三界
天厨妙供(15日午前9時少し前)

天厨妙供:一年間育てた豚が供えられる。

6.神がみを送り返し:神聖帰宮(夕刻)
6-2 そののちに餓鬼に向かい説教をし、これをも送り返す:普度
焔口普度:餓鬼に向かい説教をし、これを送り返す。普度の核心

6-3 廟の近くの孤棚にいき孤魂讃を唱えて祈祷:満筵浄孤 (15日午後8時過ぎ)
6-4 読経、手印など :燄口普度 施食雑類 無主孤魂
7.居残る神霊、仏を送ること:勅符平安 奉送諸(15日午後10時過ぎ)
※ 野村伸一「2.中元節についての発表要旨 台湾の中元節」
勅符平安・奉送諸仏:司公が諸仏を送り返す。また居残る孤魂を送り返すために、鶏を持ち、刀を執って烈しく舞う。

 分からないのは,神道の祓いとの違いです。
 祓いの場合は,邪気の根源を祓いの場に一度導く,という段は確かに共通しますけど,普度の場合,かなり積極的に鬼を呼び込んでるように見えます。
 異界を現世と交わらせること自体が,目的のように感じられる儀礼なのです。この操作をすることと,現世の安寧が守られることがどう繋がるという観念を持っているのか,どうも理解しにくい。
仙游大済鎮鍾峰村仙源祠でおこなわれた祈安醮の事例
〇 祭場 現在の建物は、中央に三一教の教主とそれにちなむ人物をまつり、壁をはさんで左側に五帝、また同じく壁をはさんで右側に観音をまつる。そして、形式的には、すべての儀礼は三一教の教主の前でおこなわれる。
〇 儀礼次第
5(ママ).起鼓 6.請神 7.四尼経 8.発使 9.三官 10.経訓 11.経纂 12.十二光 13.祭塔 14.転蔵 15.召魂 16.参礼 17.安位 18.胎骨経 19.金剛経 20.教主誕 21.地官誕 22.中元懺 23.弥陀 24.普門 25.地蔵十業 26.十供 27.東嶽 28.消災 29.北斗 30.普施 31.九蓮 32.供霊 33.祭夫 34.給牒 35.化喬 36.円科 37.拝聖 38.送聖
[前掲野村]

四海楼開業時(明治末年)の古写真

■補足レポ:南海の向こうに棲まう福清人

「明治25年,こうもり傘一本持って大陸から長崎へ渡ってきた若者がいた。」
 四海楼のHP※は,創始者・陳平順の物語をこのように語り初めます。
※ 中華料理四海楼/四海楼の沿革
 この陳さんの出自もまた福清だったと伝えられています。

改革開放以前,福清は貧困地域であった。(略)長崎ちゃんぽんの考案者として知られる陳平順(1873~1939)も,1892(明治25)年に長崎へ渡った(陳,2009:17-26)。[前掲山下]
※※陳優継(2009):「ちゃんぽんと長崎華僑」長崎新聞社

 長崎ちゃんぽんは不思議な料理です。前掲四海楼HPはその前身を「湯肉絲麺」と記しますけど,そんな福建料理はヒットしない。※前掲四海楼HP/ちゃんぽんの由来
 日本側の定説では福清の「燜麺」(簡体字:焖面)※や莆田の鹵麺が元祖ではないかとも書くけれど,中国語wikiでは中国料理と見なさず「强棒面」とか「日式什锦面」(日本風五目麺)と紹介します※※。
※ wiki/福建料理
※※維基百科/强棒面

 陳平順は福清幇(前掲HPでは保証人「益隆号」)からの資金で買ったリアカーで行商をし,7年後に四海楼を開業。中国人留学生のみならず,日本人にもウケて「四海樓の前でちゃんぽん食わなきゃ腰ゃたたぬ」と謡われる。ソウルフードは客の舌が作るものです。まして陳さんは修行を積んだ料理人ではない。多国籍の人海中で磨かれた,中華でも和食でもない名の通りの「ちゃんぽん」料理が長崎ちゃんぽんと考えられます。
 中国語の紹介や研究では沖縄の同名「チャンプルー」もよく紹介されてます。
※ 【分析探討】華僑與日本中華飲食文化的本土化——以長崎“雜拌面”和函館“中華漢堡包”為例 – 中華全國歸國華僑聯合會

アメリカ通りの黄昏は
ロックに島唄 ラップにレゲエ
わったー島やコザの町
ちゃんぽんチャンプルー
ちゃんぽんチャンプルー
アメリカ通り
(ネーネーズ「アメリカ通り」)

福清人に吹いた順風4つ

 中国を侵略した近代日本の歴史は,概ね華僑には逆風だったけれど,福清人にだけは追い風になった。分かっているところでは,少なくとも次の4点においてです。
①「鎖国」下の長崎会所体制に対する有効な抜け穴を担う水夫層だった。
②明治以降,日本各地に行商として浸透したけれど,それが日本近代資本と競合しなかった。
③戦後の流通混乱期,行商のネットワークが相対的に最も有効となった。
④裏社会にも進出したけれど,日本は裏勢力を正面からは規制しない稀有な国だった。

(福清人の)分散進出の一例としては,函館の民国二十七年(1938)度の華僑名簿によれば,函館では浙江系海産物商二名に対し,福清県出身の呉服行商は二六名を算し,樺太には二十名(略)旭川には一四名(略)の福清県出身の呉服行商が進出している。この種の行商人は「風呂敷南京」と呼ばれ,彼等の携帯する小雑貨は,大阪附近の邦人家内工業製品であった。俗に,「南京玉」と称せられるものもまた国産品であった。[前掲内田]
※参照:神田末保稿「川口華商の研究」p87-88

 経済解放とその後の新華僑進出までの間,中華街以外の日本人が出会う中国人は概ね福清人だったろうと思われます。
 最下流であることを利点にして,最も日本に浸透した恐るべき強かな中国人集団です。
 ただ,日本以外では必ずしもそう順風ばかりが吹いてはいませんでした。

東南アジアへ渡った福清人

 福州幇はやや隠語めいた呼び名で「三山」という。浙江方面の「三江」に対抗したものかもしれないけれど,由来は極めてローカルです。

福州幇の別名を三山幇と呼称することは、南ベトナムの華僑都市の堤岸=Cholonにある三山会館の重修碑記の冒頭に「三山者為我福州之別名蓋叭屏山九仙山越王山鼎峙城中由来也」とある通り、福州城内に鼎立する三山に由来している。[前掲内田]

 屏山,九仙山,越王山。屏山は福州城隍廟のあった場所の地下鉄駅名だったあの場所です。
※ m023m第二波mm能朴天/城隆廟 L字屈曲 行き止まり
 こんなローカルな名称が,しかしベトナムから出てくる(Cholonはホーチミンの中華街→GM.)。点と点が離れててイメージを結びつけるのに苦労するけれど,福清人が適地を見つけるやそこへなだれ込んでいた遠い道のりを実感させます。
 マレーシアのペナンやシブ※も有力地らしいけれど,日本と並ぶ福清人の進出地は,インドネシア・ジャワ島でした。
※ 19C末に福州人の黄乃裳がサラワクの支配者チャールズ・ブラックとの契約の下で農業移民。「新福州」と呼ばれる。華人人口中約7割が福州人で,福清人は少数と推測される。

福清華僑の4割はインドネシア人

インドネシアの華人社会では福建,客家,広東,潮州の順で多数を占め,その次に福清人,興化人などの少数派が存在する。世界の福清出身者は51万人といわれるが,そのうちの20万人がインドネシア華人である。インドネシアの華人企業家を代表する人物が福清出身者であることが特徴的である。[前掲小木]

 マレーシアに住む華僑はペナンを除き概ね全土に分散しているという[前掲小木]。日系の戦前までと同じく,行商としてネットワーク型の生計を立てているわけで,これが福清華僑の第一形態と言えるのでしょう。
 第二形態たる都市居住の段階に至ったのが,二大移民先の日本とジャワ,ということになりそうです。そこから出た都市資産家は,日本に比しての経済水準から,インドネシアでは突出したものになったわけです。
 福清人が集住したジャワの町としては,バンドンの名が知られます。

黄檗宗で有名な黄檗山麓にある梧瑞,朱里,黎陽,西山の四つの村は,歴史的に海外に移民の多い僑郷として知られる。そのなかで,梧瑞は100%が僑属という典型的な僑郷である。この村の移民先はインドネシアのバンドンに集中しており,バンドンでは紡績業を営んでいる。バンドンは別名「小梧瑞」と呼ばれている。[前掲小木]

 さて,都市で頭角を表した福清人としては,林紹良,インドネシア名:スドノ・サリムを置くことができません。

Indomaret:インドネシアの最大コンビニチェーン(アルファマートとほぼ同シェア.サリムグループ傘下)

インドネシア経済を牽引したサリム財閥

 1916年生まれ。福清の海口鎮牛宅村から1938年にジャワに渡ったこの人も,やはり衣類の行商に従事していました。

それは前述したスドノ・サリムである9)。サリムはスハルト元大統領の盟友で,インドネシアの経済発展をリードしてきたサリム・グループの創始者である。サリムは22歳の時,貧困を逃れ親戚を頼りに中部ジャワに渡ってきた。布や雑貨を扱う行商から身を起こし,大企業家になった立志伝中の人物である。福清人の多くはジャワに分布し,バンドンに集中している。[前掲小木]
※小木参照(9)金沢浩明「スドノ・サリム」「季刊アジアフォーラム」陳文壽主編「華僑華人的経済透視」香港社会科学出版社

 サリムは客家の血統に属するらしく,財閥形成後の政商としての活動はそちらの色彩が色濃い気がします。でも,初期の活動エリアとして出てくるのはクドゥス。ジョクジャの北,ジャカルタから3百km強も東の農村部です。立身期の活動形態は福清人的なものに見えます。※
※ 現三大財閥筆頭・ジャルムの創始者Oei Wie Gwan(オエイ・ウェイ・グワン)もクドゥスでのたばこ業から立身しており,こちらとの相関関係も考えうる。
 ちなみに,三大財閥のもう一つはシナールマスグループ。創業者Tjipta Widjaya(エカ・チプタ・ウィジャヤ)はやはり華人系で,中国名は黃亦聰。1923年生まれ,福建省泉州出身。
※※ インドネシアの華麗なる一族たち 〜ジャルム(前編)〜 – インドネシアブログ

ジャカルタ-バンドン-クドゥス位置図(ジャワ島)

1938年、兄に続いて叔父を頼りにジャワ島へ渡り、中部ジャワのクドゥスでタバコやコーヒー豆の商売を行い、商人としての道を歩み始めました。第二次世界大戦後は、オランダとの独立戦争で戦う軍への物資納入を通じて当時ディポヌゴロ師団司令官であった後の大統領スハルトとの人脈を築いていきます。1968年にスハルトが2代目大統領に就任してから約30年間、様々な国家プロジェクトの利権を手にし、グループを大きく成長させました。
インドネシアの華麗なる一族たち 〜サリムとシナールマス〜 – インドネシアブログ

 スハルトとのネゴはともかく,インドネシア独立戦争へ参加し,それが兵站だったという点は興味を惹かれます。長崎で「鎖国」の抜け穴として機能した小口交易から発展した福清人の行商運用ノウハウが,インドネシアではオランダの目を掠めた独立軍への物資輸送に生かされた,とも考えられるからです。

本幇(引用者注:福州幇)は(略)各幇のごとく,貿易商団体ではなく,福州府福清県出身の呉服雑貨行商人達を主体としていた。戦前は樺太から九州の南端にいたるまでの各地の農村に分散進出していた。インドネシアの農村の掛貸行商人=Mindering,Kolontongとして著名であったのも,福清幇(福州府福清出身者集団)であり,1960年1月以降同国政府の排華政策の一環として,インドネシア農村からしめだされてしまっている。[前掲内田]

「Mindering」「Kolontong」という単語のヒットがなく,インドネシア語に通じてないので調べを断念したけれど……どうやら独立までの時期のインドネシアには福清人の行商ネットは,日本同様に形成されていた。終戦後の日本以上にインドネシアの独立戦争時には有効利用されたけれども,その後圧迫を受け,おそらく都市に移ったと思われます。
 性格的にもこの実態はどうにも分からない。ただ考えようによっては,スカルノ期の排華運動で最初にターゲットにされたのが伝家の生業・衣類行商に従事した福清人層だったのかもしれません。
 サリムも20世紀末に再度激化した排華期に国外脱出を余儀なくされています。2012年,シンガポールで死亡。

福清会館は1965年の9.30事件以後,他の同郷会館と同じように閉鎖され,現在に至っている。サリムは1990年の中国との国交回復後,中国への投資を積極的に推し進めた。故郷である福清市に工業団地を建設し,北京,天津での即席麺の生産,上海でのパームオイルの精製などを手掛けた。この祖国への投資はインドネシア人の反感をいっぽうでは引き起こしていた。(略)1998年の政変後に発生した華人に対する暴動や襲撃によって,華人企業家を含めた華人の国外避難が相続き,スハルト元大統領と関係の深かったサリムも海外に避難し,未だアメリカに滞在したままである。[前掲小木]

左からスドノ・サリム、アンソニー、アクストン
ジョン・リー将軍の「武器密輸」

 インドネシアでの福清人の,サリム以外の足跡はないのだろうか?と追ってみたけれど,語学力不足でうまくヒットする方がおられません。
 ただ,インドネシアの華人中,有名な方は何人もおられるようで,インドネシア語のページには次の8名が列挙されていました。言葉の分かる方は,この方々の出身地を確認してみてください。
※ wiki(インドネシア語版)/Tionghoa-Indonesia(中国系インドネシア人?)

華人系インドネシア人の有名人8名

 役人や軍人が多いように見えます。このうち,たまたまジョン・リーさんについては,2009年に国家英雄になったために情報が多かったので見ていくと――――1911年メナド市生まれ。カナカという中国人村の出自で中国名は李約翰。僑郷は不明です。
 この人の主な業績は,やはり独立戦争時の兵站であるという。

オランダが海上封鎖するマラッカ海峡をスピードボートを駆使して幾度も横断し、共和国側に物資を供給(オランダ側からすれば密輸)した。[後掲津田]

 手持ちの交易品は主に生ゴムで,これを海上で武器と交換し,スマトラに送る業務に従事。退役時には少将,88年の没後にはジャカルタの国立英雄墓地に葬られています。
※ 津田浩司「『誰にとっての誰にとっての英雄か』から始まる探求」共同研究【若手】●「国家英雄」から見るインドネシアの地方と民族の生成と再生(2012-2014)
URL=https://www.minpaku.ac.jp/sites/default/files/research/activity/publication/periodical/tsushin/pdf/tsushin146-11.pdf
※※ ジャカルタ新旧あれこれ ジャカルタ中心に、インドネシア歴史と地誌から学べるもの >2010年10月ミスター・ジョン・リー
※※※ wiki(英語)/John Lie (Indonesian Navy officer)

国家英雄選定後に発行されたジョン・リーの伝記表紙

 この人は華人初の国家英雄として象徴的な意味を持っており,華人の復権工作の一環と疑う向きもあって偏向的情報も混入している可能性は考慮しなければいけません。が,インドネシア独立戦争下で,華人海上勢力が力を発揮し,かつての海上王国であるオランダと交易戦をやってのけた実態が,こういう形でぼんやりと浮かんでくるのです。
 ただもう,この時期の状況は全然見えません。例えばインドネシアwikiには次の画像が掲載されていますけど,当時の日本軍政が華人をどのように生かそうと,あるいは抑圧したのか,基本的な情報がない。
1943年日本軍政期間中に華系インドネシア人女性に発行されたらしきIDカード(前掲wiki掲載)

再度躍進しつつある福清人集団

数百年の歴史をかけ,海外へ散らばっている福清人の「移民[金連]」(移民の環)が,改革開放以後再び機能を発揮するようになってきた。[前掲小木,小木参照:前掲施雪琴]

 21世紀に入って,海外で稼いで凱旋してきた福清人が建てる別荘や企業により,福清の街並みは他にも増して大変貌を遂げつつあるという。
 2000年前後のデータでは彼らの出国先は日本がトップになっているのですが――――

現在,福清,福州からの海外への移動はアメリカ,とりわけニューヨークのチャイナタウンを目指す動きが顕著であり,その数は激増している。[前掲小木]

※参考;ニューヨーク編 外伝10 弗 弗the sixth day-photo5弗 East asian in NYC
 既に別のフェーズに入りつつあるらしい。非合法のものがどの程度あるか分からないこともあり,実態はどうにも判然としません。

 さて最後に,長尺となった本レポで朧に見えてきた諸点を,おふざけ写真を挟んでまとめてみます。
▲坂本龍馬と同身長なのが売り

1 近世中国人渡航者の類型は,出身地域別だけでなく,社会階層別と捉えた方が正確な理解となる場合がある。

 江戸期の構図として,浙江-閩南-福州(含福清)が荷主-船主-船夫の階層と対応している場合がある。狭義の海人は「船主」:閩南人が当たるけれども,広義の交易にあっては船夫層の役割が大きい場合がある。江戸末期には「鎖国」を彼らによる無数の「穴」が突き崩したとも言えるからです。
▲辛み爆弾

2 媽祖崇拝は異種の海人間の安全保障として機能した可能性がある

 台湾械闘では勝利者のシンボルとして設置された媽祖宮ですけど,長崎での場合,漢族系海人共通の航海神として,異種間で唯一協働できる宗教習俗として機能した形跡がある。他にもそうした装置として働いたケースがあるからこそ,広域化した可能性があるのではないか。
▲かまぼこ会館

3 普度儀礼の海人性

 陸上では観念されないような混沌そのものと向き合う儀礼が,海人の世界では行われています。おそらく媽祖信仰よりもっと古い慣習の残存でしょう。海人文化を源流とする日本神道が八百万神を包含する,根本的には絶対神不在の世界観を持つように,何かの意味を持つと思われる。
ぺぽにハウスⅡ