m155m第十五波m坂の街ぺろり舐めとる妈祖が舌m漳州寺

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

勝手に撞くとやはり怒られます


3時を回りました。
 長電・崇福寺駅から赤迫行きに乗り,マップを開く。うーん……やはり長崎駅が近いのう。
 1315,長崎駅前下車。ナガサキストアから水神祠のある階段を登りまして,一気に筑後町へ!直上に長崎ビューホテルの勇姿を見つつ,行き止まりで右折します。
 すると?すぐ直上に銀色の観音様がぬおおっと姿を現しました。
 ad筑後町8と7の間,四福寺3つ目,福済禅寺です。ですけどこりゃあ……

▲未来的ゲート

折して登る。この辺が元の山門でしょうか。原爆で吹き飛んでるわけだからなあ。右手に火除地蔵。
 おおっ!未来都市みたいな門が迫ってきたぞ!表は如意棒咥えた獅子,裏は象さん?
 この門が知恵の門。受験シーズンには学生が殺到する……という話は聞いたことがない。
 アーチについては,案内によると「鉄のわん曲は原子雲を意味し最上段のO型は7万余人の犠牲者が一団となって往生安楽する楽園の姿」とあるけれど……そういう悲壮で荘厳なものより,とにかくブッ飛んでる感が炸裂しとる。

▲未来ゲート上の鐘

っかの下にも登っていけました。誰もいないから鐘も鳴らせると思う。鳴らしちゃおかな……でも無茶苦茶怒られそうだな。
 後で調べると「鐘撞き希望の方は,11:00頃に現地に集まれば,先着1人1打,7人まで撞ける」んだそうな。11時というのは原爆投下の11:02に合わせてるんでしょう。けど人数まで決まってるとは……やはり勝手に撞くと怒られそうです。
【高さ34mの巨仏!大亀に立つ長崎観音】「福済寺」

▲鐘に由来表記

大統領を辞めて軍艦で世界一周

には「鋳造疏」と題する繁体字の文章が書いてある。原爆投下の経緯に触れてるから,やはり「被爆唐寺」という意識は濃密みたい。
 観音下のホールみたいな建物もやっぱり無人。誰の金で維持出来てるんだろ?
 え?ここに戦艦陸奥の遺材??沈没は周防大島沖とされるから,よく分からない。
 ここにはフーコーの振り子もある。世界第三位の大きさなんだそうだけど……なぜここに造る?

▲巨大観音の足元の神亀

色ギラギラ巨大観音は「萬国霊廟長崎観音」と申される方らしい。
 この人はいいんだけど,その足元におられる亀さんが……香港とかで言う神亀だと思われる。有難い。誠に有難くて書くのも憚られるんだけど──怖い。怖いぞ!

右から亀

治12年にはアメリカのグラント大統領が御参拝されたそうである。正確には,大統領を辞めた後でなぜか世界一周に旅だったんだそうな。リッチモンド号という軍艦を貸し切っての大豪遊の途中に開国間もない日本に寄って,何と天皇と2日間も語りあったそうな。その時に長崎福済寺にもお参りしたっていうんだけど……それはともかく,怖いぞ!もはや凶悪と言ってもいいぞ!
※ 長崎公園の記念碑データベース –グラント将軍記念碑

悪役亀ラーのいない平和な時代

右から亀その2

役亀ラーの居座る前の平和な時代,ここは四福寺中最も荘厳な唐寺であったらしい。
 後述するように,長崎における媽祖信仰の中心だったと推定していい場所です。かつての佇まいを残し,かつ媽祖廟のはっきり示してある古写真を一枚だけ発見しました。

▲原爆で焼失した長崎の媽祖廟(福済寺,1930年頃)

の視線から逃れるが如く南へ歩くと,ほどなくもう一つの唐寺の山門が見えてきました。1359,聖福寺。
 ここもまた静かです。
 寺院敷地では2人ほどオバハンが世間話してる。もちろん住職ではなくて,広東系の檀家の方のサロンになってる気配も感じられました。

▲山門すぐの小さな像

廃物も積めば観光名所・鬼壁

済寺とは全く異なり,亀が怖くない。……じゃなくて,普通に寺院してるお寺です。
 上の祠は門すぐの場所で見かけたもので,極めて古風な佇まいですけど,中国寺院の古さではない。時代的にもですけど日本の感覚で崇め継がれてきた風があります。
 本殿まで進む。惜字亭という焼却炉。慶応2年(1866)の国内初築造の赤煉瓦と自称した案内板。

▲廃物利用壁「鬼壁」

塀。廃物利用の塀がかえって有名になったものらしい。アートです。ですけれど,この廃材は聖福寺「末寺三山」の廃社時に持ってきたものという※。末寺を三つも造るほど往時は興隆してたんでしょうか?残念ながらどこの3寺なのかは探し当てれてません。
※ 特集記事|聖福寺|スポット|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」
※※聖福寺(長崎)【所要20分での名所巡り】完全ガイド

──とネットを見てると,この寺,FACEBOOKで情報発信しとる。見かけによらずポップです。
 他寺にもあった木製の魚は「飯梆」(はんぽう)というらしい。木魚の原型で,食事時間を知らせるもの。
 ほか,延寳八年とある「泉州内通事中」名の手洗の文字も見かけました。朱書きにしてあるのは後付けでしょう。けど恐らく元の字ではあるのでしょう。ここの裏手には唐通事・潁川(陳)家の墓地もあるらしく,広東系も通事が利益代表だった点は同じみたいです。

深淵に遥かに墜ちる赤い門

▲本堂正面のサロン的空間

殿前には丸テーブル2つ。こりゃまた変な空間です。神道寺院なら一番「神前」の空気が濃い場所なのに──ただ田舎,あるいは路地裏の中国寺院を思い返せば,漢族感覚なら割とありがちなオーラかもしれません。
 扉や庇が桃だらけ。桃がトレードマークらしい。──と思ったら,この果実は黄檗宗の象徴のようです※。ただ,断言できないけれど他の三寺では目にしなかった気がします。長崎名物「桃カステラ」にも明らかに相関してるけれど,時代性があるんでしょうか?
ももも。|お知らせ|黄檗山萬福寺 ‐京都府宇治市

▲旧神宮寺赤門

福寺石門。
 これも謎でした。
 神宮寺にあったものを明19に金比羅神社より譲り受けて現在地に移築とある。享保10年(1725)以降の建造とされるけれど,廃仏毀釈に遭った結果,この建造物が再興神宮寺の唯一の遺構という。
 この神宮寺を追うと,底無しの深淵に墜ちることは分かってます※。でも長崎最古の社の衣鉢を最後に継いだのが,なぜ唐寺,しかも四福寺最後発の聖福寺なんでしょう?
※ 006-1立山下り道\旧六町編\長崎県/■小レポ:長崎金比羅山の掘れば掘るほど深い闇

長崎らしい 誠に長崎らしい

▲聖福寺からの下り坂

もないようで底知れない。誠に長崎らい両寺を,完全なる消化不足のままに降りていきます。
 1431,玉園町1から階段を下る。右に岩壁,一面に蔦の繁る。

▲車は通れません(バイクも)

437,桜町電停。前回の囁き坂下を通過しました。
 あ,案内板?ここは瓊の浦公園って言うのか。でもトイレがない……。
 1444,IKホテルで便器に走った後,荷物をピックアップ。
 濃い長崎でした。おかげで江戸期前後の粗いデッサンが整った気がします。
 1520,かもめに乗車。東シナ海をしばし離れました。

長崎名勝絵図「[身本]性寺 福済寺 法泉寺」(後掲長崎市教委)

■小レポ:福済寺は泉州寺か?漳州寺か?

 広島で,原爆投下直下域を歩き,さすがにこの最終兵器に遭った場所は跡を止めないことは痛感してました。
 那覇ですら,昔の町並みを追う気になれば追えるけれど,原爆の跡は本当に痕跡が失われる。筆の形も追えない。
 でも済福寺は,おそらく日本国内で唯一,媽祖信仰が実働した場所です。無理にでも輪郭は辿れないものか。
 長崎市教委の概説を見つけました。

慶安2年(1649)には泉州人の唐僧・蕴謙禅師が重興を開山する。檀家は当初,泉州人が多く,後は漳州人の人々が檀家として多かった。しかし昭和20年(1945)寺院は原爆で焼失,それ以前は国宝建造物に指定されていた。今年秋に開館した長崎歴史文化博物館には当時の唐寺である福済寺の復元模型が展示されている。この福済寺が唐寺であったという面影を残すのは,裏山の唐僧墓地と潁川家の墓地だけである。
※ 長崎市教育委員会文化財課「文化財めぐり 唐寺・聖福寺と福済寺の(唐僧墓地と唐通事・頴川家墓地)を訪ねて」平17

 この復原模型が一つの,というか現段階で最も旧・福済寺に近い資料と言えそうです。探してみると──

原爆で消えた福済寺を追う

福済寺復元模型(長崎歴史文化博物館展示)

※ 属性:(復元設定年代)文政初年(1818~)頃 (模型縮尺)1/120 (監修者)長崎総合科学大学 村田明久
福済寺復元模型附属住宅地図+黒白指差

向かって左が本堂(大雄宝殿)を中心とした護法堂、開山堂の一画,右が青蓮堂(観音堂)を中心とした大観門,鐘楼の一画で,いずれも廻廊のある石敷中庭を囲む。書院,方丈,庫裏が間にある。本堂は慶安2年(1649)建立,重層入母屋造本瓦葺。青蓮堂は翌慶安3年(1650)に建立,単層入母屋造本瓦葺。山門は万治元年(1658)建立,八脚門,入母屋造本瓦葺。明式を主として日本的手法を加えた意匠で,装飾のきわめて豊富なものであった。[同博物館案内書]

 位置の同定からかかります。南西の海側から登る段丘の中腹にある帯状の平地,という以外は特定するよすががないように見えますけれど,上記住宅地図と下記GM.(グーグルマップ・航空写真)を見比べると,上の段丘へ登る階段の坂が僅かに同じ場所と分かります。各画像中,白指差し部分です。
 それともう一つ,これは推定が混じります。本文でも触れた日除け地蔵は,旧建物中の「地蔵堂」に当たると思われます。これを黒指差しで書き込みました。
 つまり,下記GM.で確認できる通り,現駐車場の方形敷地が旧観音堂=媽祖堂の位置に該当します。

福済寺GM.(航空写真)+黒白指差

 同じ段差を登る階段は本堂(大雄宝殿)裏手にもあるように見えますけど,こちらはやや判然としません。白指差しの階段は,上下の段差と敷地の角地がたまたまダブる顕著な地形のために,原爆に耐えて残ったのでしょう。
 博物館模型を南東を前面に撮った画像で見ると,白黒指差しの位置を次のように打つことができます。

福済寺復元模型②手前南東→奥北西方向+黒白指差

 最初に掲出した名勝図絵の題名「[身本]性寺 福済寺 法泉寺」からすると,この段丘には3寺が並んでた。中央の福済寺には南の観音堂と大雄宝殿があるから,都合4つの社が並列していたとも言えます。
 うち少なくとも観音堂と大雄宝殿は博物館案内書きの通り「廻廊のある石敷中庭を囲む」配置です。これは現在の台湾の寺廟によく見られる四合院に似ます。ただし,模型では廻廊部の建物は薄く,日本的な伽藍配置になってます。
四合院・中国と日本 – naturalright.org

前掲福済寺復元模型①+黒白指差

 現在の観音巨像と恐怖の亀さんは旧大雄宝殿の位置,アーチのある知恵の門が旧通玄門の位置で,現神主宅が旧庫裏に当たると推測されます。
 ここで巨大な疑問が浮かびます。戦後に福済寺を再興するに当たり,その場所は旧大雄宝殿を選んでる。旧媽祖堂は再興されずに駐車場として,知恵の門の外に置かれてます。進入導線に地形的な制約があったのかもしれないし,巨大像になったのは観音ではあるけれど,媽祖堂が再興されたわけではないのです。
 つまり,再興に当たり旧来の媽祖信仰は割と軽視されてます。従って,この「旧来の媽祖信仰」というのにも疑念を抱かざるを得ません。

長崎湾を見下ろした媽祖祠

 本堂・大雄宝殿は1649(慶安2)年建立。重層入母屋造本瓦葺。
 対して青蓮堂(観音堂・媽祖堂)は翌1650(慶安3)年建立,単層入母屋造本瓦葺。
 大雄宝殿が本堂とされ,先に完成し,かつ重層です。17Cの福済寺開山段階ですら,既に媽祖堂はサブに「降格」していた疑いがあります。
 では開山以前の福済寺の場所には,誰の,何があったのでしょう。
 まず,当時の駅前山手のこの場所をイメージしなくてはいけません。現在の長崎駅の周辺とは全く違い,ここは湾外の辺地でした。
▲[中川編再掲]下:開港前の長崎(永田信孝「新・ながさき風土記」より転載,等高線は50mごと)と上:当該部国土地理院地図

 福済寺は本長崎村の岩原郷に属し、今築後町の女笠頭山の麓に所在している。『長崎図志』には「福済寺,在宝盤山左,村主宅」とある。もとは村主の宅であり、そこを幇の会館にし、祠堂を設けていた。寛永五年(1628)明国泉州の道者覚悔が来て、小庵を結び、天妃聖母を祭祀した。長崎来往の唐船が海上安全を祈願すれば、必ず霊験があったので、開基した。28)
※ 陳莉莉「江戸初期における長崎唐三寺の建立と関帝信仰」関西大学学術レポジトリ 文化交渉:東アジア文化研究科院生論集,2020
14)饒田喻義『長崎名勝図絵』(長崎文献社、1974年)
28)前掲『長崎名勝図絵』148頁。

 村長宅→幇会館→媽祖祠と推移,あるいは機能を加えた後,江戸初期までの中川沿いの湾に入る船が仰ぎ見る位置にあった祠の霊験が評判になり,キリスト禁教に伴う帰依寺設置の流れと相まって,仏教寺院開山に帰着した。
 覚悔という道者が,どういう経緯で当地に住み着いたのか語られませんけど,1628(寛永5)年と言えばタイオワン事件の年,鄭成功の生まれた4年後。まだ明末の民間交易が盛んな時期ですからその船員が身を寄せたのでしょうか。伝えられる所では泉州出身ですけど,だからこの道者は流浪の身で,特定の出身地幇に属したとは考えなくい。

當寺開創ノ事ハ、寛永五年唐僧覺海當表二渡来レリ。其頃漳州方ノ船主共相議シ、(略)其頃薩州二住居セシ唐人陳沖一、同子藤左衛門ヲ檀越ノ頭取ニテ、右の覺海ヲ住持トシテ、禪院ヲ創建成シタキ旨……市中二テ漳州寺ト稱ス。[前掲陳]
※  7)『長崎寳録大成正編』(長崎文献第一集・第二巻、長崎文献社)
8)前掲『長崎寳録大成正編』143頁。

 陳沖一を父とする同・藤左衛門が福済寺の創始者です。この2人は,長崎の唐通事として最も名の響く潁川家の祖。
 長崎寳録は,彼らを招聘したのは「漳州方ノ船主」であると書きます。
 陳沖一が,漳州龍渓県の出身だったという記録も「長崎下筑後町潁川家譜」にあります。よって,村長宅に入った幇は漳州人のもので,開山への運動と実現もこの幇が主導した漳州人によるものと推測されます。
 ただし,その子藤左衛門は大陸中国の生まれではなく,薩摩の都城の出身です[前掲家譜※]。また,潁川陳氏という家系は,一般には泉州起源のものとされます※※。
※ 鄭瑞明「従四種潁川家之記載看長崎華人社會──以潁川家族陳氏,葉氏為中心」国立台湾師範大學歴史学報 第25期,中華民国86年(1998)
※※ファミリーサーチ・カタログ: 頴川陳氏宗譜 [不分卷] — FamilySearch.org

 結束の固さで知られる漳州幇が「漳州寺」福済寺を創建した,というだけならば考えにくい,雑音のような事実が様々現れます。①媽祖祠創始者・覚悔出自(泉州),②潁川陳氏出自(泉州),③潁川藤左衛門出身(都城)です。

媽祖堂とは呼ばれなかった青蓮堂

 短い記述ですけど,衝撃的だったのは次のものでした。

青蓮堂は観音堂とも言ったが媽祖堂と呼ぶことはなかった。29)[前掲陳]
※29)宮田安『長崎崇福寺論考』(長崎文献社、1975年)341頁。

 原典に当たれてないけれど,おそらく江戸期の史料中には青蓮堂を「媽祖堂」と書いた事例がない,ということでしょう。蓮は観音菩薩が手にする吉祥アイテムですから,観音堂を意味します。おそらくは開山と併せて,少なくとも公式には,現・駐車場位置に建っていた建物は本質的には媽祖を祀るものではなくなったものと考えるのが自然です。
 長崎最古の媽祖堂に由来し,江戸期を通じ交易船の媽祖を預かった福済寺の「観音堂」で,媽祖信仰の色彩が割と薄い,というのはどういうことなんでしょう?
 ちなみに,幕府書に書かれるように単に泉州の勢力低下によるものではあり得ません。寺の住職は五代まで(覚悔から数えると七代連続で)泉州系が占めています。

開基 覺悔 福建省泉州府
重興開山 蕴謙戒琬 福建省泉州府安平縣 慶安2年渡来
開山 木庵性[稲-ノギヘン+王]福建省泉州府晋江縣 明歴元年渡来
二代 慈岳定環 福建省泉州府永春縣 明歴元年渡来
三代 東澜宗澤 福建省泉州府永春縣 延寳元年渡来
四代 喝浪方浄 福建省泉州府安平縣 元禄七年渡来
五代 獨文方炳 福建省泉州府安渓縣 元禄七年渡来
六代 全巌廣昌 福建省延平縣 永寳七年渡来
※ 内田直作「在日華僑団体の沿革─寺院団体時代─」

長崎潁川陳氏の墓の場所

 創建の中心となった潁川陳氏は,その後も福済寺の壇戸の代表格であったらしい。福済寺の段丘のもう一つ上段の平地は,この一族の墓地があります。馬蹄状に配置された中国式のものとして貴重とされてますけど,ただし──

福済寺の唐通事潁川(陳)家の墓地~市指定史跡
陳沖一を祖先とする潁川家は唐通事界屈指の名門である。初代の陳道隆は福済寺随一の大壇越であり、一の瀬橋をかけた。2代は31年間も大通事を務め、延宝6年(1678)悟真寺の梵鐘を寄進する。3代と4代目 も唐通事目付を務め、そして5・6代目も唐通事を務めるほどの名門の家柄である。この墓地にある開祖陳沖一の墓碑は小さいが、2・4・5代目(いずれも夫妻)の墓碑は大きい(6代目以降の墓地は別の地にある)。[前掲長崎市教委]

 潁川家代々の墓地がある,という状況ではありません。創始者たる陳道隆(=潁川藤左衛門=市教委記述の長崎潁川家初代)の墓は,悟真寺にある。
※ 長崎市│唐通事潁川家初代墓地
 この悟真寺という寺は,長崎駅の西の稲佐山の麓,現・曙町にあります(→GM.)。キリシタン時代の直後の1598(慶長3)年,初めて造られた仏教寺院で,その創建の中心は欧陽華宇(欧華宇)とされます。興福寺の用地を供した欧陽雲台の祖でしょう。
※ 「ナガジン」発見!長崎の歩き方/悟真寺~中国人最初の菩提寺
 悟真寺後山には稲佐国際墓地があります。長崎で死に至った中国人は唐寺か悟真寺かを選択して葬られたという。ここの中国人墓碑は確認されたもの(以下同じ)が254基。うち鎖国時代のもの230基。出身地別では福建省が150基,うち福州府が126基。
※ 姜楠「長崎・興福寺後山の中国人墓碑群に関する基礎的研究」長崎総合科学大学大学院工学研究科博士課程
 長くなったけれど,潁川家2代・藤左衛門は彼自身の創建した福済寺を避け,かなり希少な例として悟真寺に葬られたことになります。
 さらに雑音がひどくなってきました。黄檗宗由緒の寺・興福寺や普度儀礼を伝える崇福寺に比べ,漳州寺の宗教性はどうにも濁ってて淡白に見えるのです。

潁川陳氏家系図(1)初代~三代[前掲鄭瑞明]

潁川陳氏の華麗なる地域複合性

 上記は長崎潁川陳氏の家系図です。初代陳沖一から二代・藤左衛門,三代・藤右衛門と続いてます。
 都城出身の藤左衛門は,沖一同郷(∴漳州)の郭氏の娘・榮光院(後の法名と推測)とともに,法春院(同)を妻帯してますけど,その父親は末次平蔵,つまり二代長崎代官です。
 郭氏は先妻で,都城時代の妻帯と推測されるので,長崎入り後の後妻が法春院でしょう。
 琉球への軍事侵攻を果たした薩摩は,次の目標を長崎の経済侵略に置き,都城の漳州人資本家・潁川家を長崎に誘った,と見るのが自然です。そうした強い政治的背景がなければ,17Cのほとんど長崎経済を支配した末次家と,長崎入り直後の潁川家との政略縁組はありえないでしょう。
 目を三代に移すと,藤右衛門は藤左衛門の実子ではない。葉我飲なる沖一同郷者の子を婿養子に迎えた格好です。──家系図には「無男女15」(≒女性のみ15子)とあるけれど,それは確立的にあり得まい。信牌(貿易手形※)を発する唐通事は実力職です。男子が非能なので同郷者の能力者を三代目に据えたのでしょう。
※ 直接国交のない日清間では,日本年号を使用せざるを得ない長崎奉行発の信牌を受領することは,清皇帝以外に服属する意味を持つため,清側国民たる中国船主はこれを受領しにくかった。この点を切り抜ける方便として,唐通事個人名義の信牌が用いられ,結果,唐通事は個人で出入国許可権限を持つことになった。[「旅する長崎学16 海の道Ⅵ唐船来航の道」長崎文献社,2012]
 その代わり,藤左衛門の女子は各村乙名(村長)に嫁しています。これは判明しているだけで,ということでしょう。
 潁川家二代時代は,こうした露骨な政治性を持った時代でした。それはイコール,月港を失った漳州人が背水の陣で望む隣国経済侵略の意図を負ってもいたでしょう。当然,福済寺開山もまた,その文脈の中の一手だったと考えなければいけません。

潁川陳氏家系図(2)三代~五代

 四代四郎左衛門は三代藤右衛門の実子ですけど,五代藤左衛門は四代とやはり血縁がない。林三郎兵衛の子で,林家は何と福州福清出身です。
 前述のとおり潁川陳氏は一般には泉州出自とされ※,漳州出自との伝は実は怪しい。そこに三代に漳州血統の婿養子を入れ,五代にまた福清血統を迎えている。
※ 前掲ファミリーサーチ・カタログ: 頴川陳氏宗譜 [不分卷] — FamilySearch.org
 この経緯の政治的意義は,(広域)福建の連携強化と考えられます。潁川陳家という看板は,他地(例えば福州・泉州・漳州幇が内乱に近い「械闘」を繰り返した台湾)ではあり得ないことに,八閩(福建各域)の共有物だったと考えられるのです。

幕府と唐人群との安全保障体制としての三福寺体制

 潁川陳家は隠元の興福寺招聘にも参画しています。けれど,興福寺が,出身地域的には三江幇(江南地域),階級的には資本階級が独占する傾向を持つと,そこからはみ出た福建各幇-福建地域-船主・船夫の集団に対応する帰依寺を設ける必要が生じた。
 なぜ必要かと言えば,幕府の外交施策としてより上位にあるキリスト禁教の疑いの払拭,そして裏意としては唐館封込めの抜け道に,です。
 そのプランは,大きなところは末次家と薩摩が画いて,それを潁川陳家が実行したのでしょう。
 三福寺体制の安全保障は,中国人内部では江南・福建各幇の連携です。そして日中間では,禁教の詮索により交易を妨げないことです。

(泉漳州幇は)すでに,早く一八世紀末に福州幇とともに唐館内,現在の館内町に「八閩会館」を設立していた。その後,明治三十年改築して,名称も「星聚堂福建会館」に改めた。本会館改築にしては,福州系商人も出捐し,八閩(略)幇衆の全省的団体であることはいうまでもないが,本会館の主体は依然として泉漳幇であった。したがって,館内の天后堂の祭祀は福済寺(俗称・泉州寺後に漳州寺)の掌るところであり,媽祖祭には泉漳幇華商の集合をみていた。
内田直作「明治年間の華僑資本(二)」1964

ランタン祭時の長崎福建会館。正面に「星聚堂」の文字有

 前章でも触れたような媽祖信仰の持つ海人共有神としての安全保障的性格は,長崎ではより一層優先されたと思われます。唐館内の天后祭祀は福済寺が直営実施することで,各勢力の連携が確認された。
 潁川陳家各代の個人は,信仰対象として福済寺を重視した訳ではなく,人によっては純・仏教系の悟真寺に親を葬った。けれど,媽祖や三福寺はそれとは別の,極めてドライな政治的装置だったと考えられます。
 なぜそこまで漳州系がクールに行動しなければならなかったかというと,強力な仮想敵が存在したからでしょう。仮想敵の一つは幕府です。そして今一つは──

神戸の福建幇の主流を構成したのは,雑貨商・行商・製麺職等の比較的中下位職業者から成立する福州幇ではなく,前述のごとく歴史的に早くから厦門方面を根拠地として華北・華南・南洋・台湾方面の隔地間貿易に従事していた華南の泉漳幇であった。京浜・京都・福岡・長崎方面における建幇の主流が福州系統であることとは相違していた。[前掲内田]

 江戸期を通じて強大になった広東系交易集団と,小口交易者に転じた福州(福清)船夫群。この狭間にあって,明治後も漳州系の日本での進出は神戸に限られました。かつその後の日本の台湾領有により,福建船主としての優位性が損なわれると,漳州系は日本での地歩をほぼ失い,華僑としては少数勢力になっていきます。

幕末の一年の菩薩揚げ当番表

 さて,三福寺筆頭の福済寺の長い衰微の歴史に相対し,ゆっくりと登り調子に入ったのが広東でした。前述のように唐寺行事の典型として知られる菩薩揚(媽祖の唐寺収納)は三福寺が独占し,広東は参画できませんでした。その具体の当番表を見つけることができたので,イメージ作りのために掲げ広州寺=聖福寺に話題を移します。

崇福寺の文政十年度(1827年)の諸願届書記録に依れば同年度の三箇寺輪番の船神順は左のとおりであった。
  唐船入津船神順
六月五日 入亥壹番船 福済寺
同 入同弐番船 興福寺
同四日 入同参番船 當寺
同十五日 入同四番船 福済寺
十二月四日 入同五番船 興福寺
同 入同六番船 當寺
同六日 入同七番船 福済寺
同六日 入同八番船 興福寺
同 入同九番船 當寺
同九日 入同拾番船 福済寺[前掲内田]

■小レポ:三福寺体制と相対した聖福寺

 そもそも江戸期のほとんどの時期,広東は南京(江南)や福州・泉州・漳州の福建に並び立つパーソンではなかったようです。

江戸時代の長崎貿易に於いては,廣東船の来津するもの少く,元禄元年の貿易船限定に於いては歳船七十艘の中,廣州船は十艘,正徳新令の歳船三十艘の中,廣州船は僅かに二艘であり,又乾隆二年以来,来津せる支那側官許の辧銅船の何れもは南京・安波船であって,廣州船なく,概して廣州幇の勢力微々たりしことが判明する。又,廣東人の死亡するものは稲佐の悟真寺の墓地に葬られたこと等からしても,別に唐三箇寺と同等な同郷團軆的構成を具備する唐寺を成立せしめなかったものと推定される。[前掲内田]

 現代の観光名所としては四福寺というパッケージは成り立つけれど,江戸期のほとんどの時代,長崎人も中国人も4寺が並立するイメージは持ってなかったのではないでしょうか。おそらくは,三福寺と同規模の檀家集団を持つに至ったのはようやく江戸末期です。
 だから四福寺カテゴリーを否定する,というのはけれど本稿の趣旨ではありません。むしろ別の意味で,聖福寺は三福寺に拮抗する政治的存在だった,という主張です。

「長崎奉行の庇護する唐寺」という矛盾

 先に三福寺の菩薩揚独占例を挙げましたけど,その続きに内田さんは以下の反対運動事件を掲げています。

 尚ほ,聖福寺は右の菩薩預りからは全く除外されてゐた。長崎市史佛寺部に據れば,寛永五年(皇紀2368年※引用者注:1708年)3月拾壹番船唐船は長崎奉行の許可を得て,媽祖像を聖福寺に預けたことがあった。このことに對し,三箇寺から強硬な異議の申立があり,一方,奉行所からは向後三箇寺と等分にて媽祖預りをなすべき申渡しがあったが,結局三箇寺の反對により聖福寺の媽祖預りは停止を申渡されて居る。[前掲内田]

 媽祖の陸揚を,江南・福建はそんなに特権視していたのか,という点に驚きます。三福寺が足並みを揃えると,長崎奉行も方針を曲げざるを得ないパワーバランスにも。でもそれ以上に,よく見ると──長崎奉行所が聖福寺を加えた「四福寺」体制構築を強行しようとした事件,とも捉えられます。
 長崎奉行が聖福寺に,三福寺には考え難い支援をした痕跡は,菩薩揚事件だけではありません。

唐僧木庵に師事し、名僧の誉れが高かった長崎の人鉄心道胖のために、時の長崎奉行牛込・岡野の両氏や在留唐人の有志で一寺創立したのが、この聖福寺であるから、他の興福・福済・崇福の3福寺とは創立の由来が異なる。
※ 長崎県の文化財/聖福寺4棟(大雄宝殿 天王殿 鐘楼 山門)

 各幇の有力者が身銭を切って創建した三福寺では考え難いことに,聖福寺の開山には奉行が,しかも両人揃って財源負担をしているのです。
 先に見た広州船のシェアを想起しても,相当に小さな船主集団に,この三セクまがいの支援は異様です。けれどこれは複数の公共の専門HPに載っており,事実と考えるべきでしょう。
 幕府側にとって,当時の外国人一般は規制対象です。だから支援すること自体が自己矛盾なのに,さらにそれが一部少数勢力だけ,ということがどうして起こり得たのでしょう?

長崎の鉄心道胖は幼少にして唐僧・木庵禅師に師事、名僧の誉れが高く、時の奉行や在留唐人有志の帰依を得るとともに鉄心の母方である唐通事・西村氏の財力援助等から延宝5年(1677)に聖福寺を開創した。そのため出身地別に壇越がいた唐三か寺(興福寺・崇福寺・福済寺)とは創立の由来が異なっている。大雄宝殿は 元禄10年(1697)建立されたが、後の改築の時には長崎奉行が援助している。[前掲長崎市教委]

※ 上記の2引用のように,長崎奉行がどの部分の支援をしたかは記載によって微妙に異なっています。

草創期のシンガポール移民華人(Yip Yew Chong「Thian Hock Keng Mural 天福壁画」2017の一部。シアンホッケン寺院の壁に描かれたもの)

日清海上撤退期に起きたこと

 江戸幕府と清朝がともに東シナ海から撤退姿勢を見せた17~19Cに,その巨大なニッチ(隙間)を他者が見逃すはずがありませんでした。両者の外交策は数十年の短期では内陸経済の活性化という成功を生みましたが,百年二百年の長期では大失敗だった訳です。要するに,互いに相手しか見ておらず,第三者のことを考えなかった。
 それはまず南からやってきました。

査新加坡現爲英國所管、距上海六千六百二十一里、……該處乾隆・道光年間閩人最多、廣人次之、自道光十八年後、吾通商廣人漸衆、閩人稍次、迫今三五年來、廣人去者毎年萬有餘人、以大勢概之、閩省不過萬人、廣省總有三四萬人。其頭目係廣東番禺人胡玉基48)。
松浦章「清代帆船による東アジア・東南アジア海域への人的移動と物流」
48)1880(光緒6)年10月「與上海通商有約各国簡況」 中国第一歴史檔案館編『清代中国與東南亞各国関係檔案史料匯編』第一冊、国際文化出版、1998年 4 月、217頁。

――――シンガポールには,乾隆・道光年間(18C前半~19C半ば)には閩人(現福建省南部≒泉州・漳州)が最多だったのに,現在(1880年当時)は広人(≒広東人?)が毎年万単位で増えている。閩人は1万人未満なのに,広人は総数は3~4万人になろうとしている。
 欧米が西から拡大した海上交易圏が,規制の厳しい東シナ海に頼らなくていい広東人が北から延ばした交易圏と,東南アジアで交わり,融合して世界経済を生み出していきました。それが,とうとう東シナ海の交易に影響を及ぼし始めたのが19Cの海でした。例えば――――

 福建省の福州から琉球国に向けて琉球国船が搬出した貨物は時代的に若干の推移があるが、常に金額的に上位を占めたいたのは高級織物であった。特に羽毛緞や畢機緞があった。羽毛緞は光緒辛巳( 7 年、1881)刊行の『英話註解』の「進口貨門」によれば、「羽毛 Camlet」とある。これは、駱駝の毛かアンゴラ山羊(Angora goat)の毛を用いた毛織物であった。
 畢機緞も『英話註解』の「進口貨門」に「畢機Longells」とあり、毛織物の一種であった。これらは、おそらく福州産ではなく廣東省の廣州にヨーロッパから特にイギリス東インド会社の貿易船によって舶載されたイギリス産の毛織物であった可能性が高い。琉球国にもたらされた毛織物は、廣州に輸入されたものが福州にもたらされ、福州から琉球国に向けて再輸出されたことになる。清代帆船によって長崎にもたらされた織物にも「嗶吱 ヘルヘトワン 三箱」があり、これは長崎で、“ペルペトアン”、“ヘルヘトアン”(perpetua, スペイン語)44)とされる欧州産の羊毛織物商品であった。なぜ中国から日本へ来たのかと言えば、琉球の場合と同様で、廣州にもたらされたものが、中国国内の流通経路、おそらく沿海商船によって廣州から乍浦に運ばれ、それらの一部が乍浦を経由して長崎へもたらされたことは明白であろう。[前掲松浦]

アンゴラ山羊とその羽毛
※ Travel Atelier/The Warm of Angora Goats’ Wool
 江南・福建の海上勢力は,南海で実力を蓄えた広東系に,19Cには東シナ海でも急速に凌駕されていきます。これとともに入ってきたのがイギリスです。さらに北からロシア,東からアメリカが海を制するようになる。この後段部分だけを取って「帝国主義の東アジア侵略」と呼ぶわけですが,少し弁護はしたくなります。彼らの流入は,東シナ海で黙って睨み合った旧・海上勢力国たる日本と中国が招いた,とも言えるわけですから。

17Cの江戸幕府が構想した唐人分割統治

 この件は史料的な裏付けはありませんが,長崎奉行がおそらく江戸幕府のウィジョンを受けてやろうとしたのは,三福寺体制――――江南と福建の海上勢力に拮抗する海上集団を育成し,前者をけん制することだったのではないでしょうか?
 唐人屋敷でも正徳新令でも活気を失わない中部海岸の海上勢力に,形式的にはともかく政治力で長崎奉行も会所も圧倒されています。その場合,政治家が考えるのは,自分以外に相手方の敵を呼び込み,できればそれを連携することでしょう。
 17Cの広東というと,1685年の広州に粤海関が設置され,閩海関(厦門)・浙海関(寧波)と競合し始めたばかりです。西洋貿易が広東十三行の独占となるのが1720(康煕58)年,対西洋交易が広州一港となるのが1757(乾隆22)年。聖福寺創建の1677(延宝5)年に広東勢力を「三点均衡」に引き入れる構想を幕府側が持ったというのは,相当に鋭い分析に基づいており,その点は幕閣の知性を讃えたいですが――――彼らが呼び込んだ欧米勢力のパワーで,「鎖国」体制が崩れるのみならず,幕府そのものが崩壊していくことまで,17Cの長崎奉行も幕閣にもさすがに想像は及ばなかったと見えます。

聖福寺開山にあたっての謎の数々

「史料はない」と書いたけれども,疑わしい点はいくつかあります。
 まず,興福寺や崇福寺では中国からモデルハウス形式で運んできた山門ですが――――

聖福寺山門~県指定有形文化財
棟梁は堺の萩本次兵衛で、堺で切込みをして元禄16年(1703)10月に竣工された。建築様式は和風を基調として三門三戸の門、平面は八脚門で屋根も特徴があり、黄檗山・万福寺総門や、萩の東光寺総門などの黄檗寺院には良く見られる造りである。これは鉄心が、長崎・三福寺の唐風建築より宇治・万福寺諸殿の様式を 好んだためと思われる。扁額は「隠元禅師」筆のもので<「聖福禅寺」「寛文12壬子年」、1672 年>とある が、これはあらかじめ書いてもらっていたとされている。 [前掲長崎市教委]

 堺で切込みをして運びこまれています。近畿地区への相当な根回しが必要と思われ,これを17C当時まだ長崎にも少数しか来航していなかった広東勢力が自力で手配できたとは考えにくい。
 また,後半の扁額ですが,隠元隆琦は前章にも記したとおり現福建省の福州府福清の出身で,鉄心道胖はその孫弟子です。どういう流れだと広州寺創設に関与することになるのか,想像し辛い。それに隠元の逝去は1673(寛文13)年,その前年に「聖福禅寺」扁額を書いたことになるわけですが,4年後の開山に向け,死を予期したかのように額をあらかじめ書いておくものでしょうか?
 もう一つ。本文でも触れた聖福寺内に残る神宮寺山門です。

聖福寺石門~市指定有形文化財
背後の金比羅山にあった崇岳・神宮寺は江戸時代初期頃に栄えたが、その後盛衰を重ね、唐僧・木庵禅師が命名する無凡山神宮寺として明治の期を迎え、神仏分離令によって金比羅神社となった。この時、仏像仏具その仏寺を表す一切が除去破却された。その時境内にあった石門の中央要石には、唐僧・木庵禅師筆の「華蔵界」の文字が刻まれていた。鉄心道胖は唐僧・木庵禅師に随侍修行した由縁があり、明治19年(1886)にその 石門を聖福寺が譲り受け現在地に移転したものである。こうしたアーチ式の石門は、江戸初期に中国からもたらされた形式で各地に残っている。聖福寺の石門は神宮寺が再興された享保年(1725)以降の建造と推定されている[前掲長崎市教委]

 分かりにくい経緯だけれど,鉄心の師・木庵禅師が神宮寺の「命名」に関わっています。これは,衰微した神宮寺を新たに黄檗宗寺院として再興するような動きがあったことを想像させます。そしてそれが聖福寺に引き取られている,というのは,「神宮寺黄檗宗化計画」がその寺を広州寺とするものだった可能性を暗示するような気がするのですが――――この辺まで来ると何か新しい史料が出ないと空論になります。ただ,もしそうならば,開山後ほどなく三江幇が実効支配し南京寺化してしまった興福寺に代え,長崎黄檗宗の中核を現在の諏訪神社山手,長崎で最も神域視される場所に巨大な広州寺として再興させる,というプランニングは,前記の想定した幕府ヴィジョンに能く適合するものだったように想像するのです。

その他にも妙に過剰な聖福寺

 この寺の天王殿も,専門家的には奇妙らしい。

聖福寺天王殿~県指定有形文化財
天王殿は長崎の他の黄檗寺院にはない形式の建物である。また、表は弥勒菩薩を、背面に韋駄天を祀っている。左右に門扉を設けて通り抜けの門にした天王殿は、中門としての位置を占めており、その配置は宇治・万福寺や長崎の福済寺(原爆で焼失)と同じで、現在の長崎ではここだけに見られる。 [前掲長崎市教委]

 つまり宇治の万福寺の「左右通り抜け構造」を真似ているわけです。鉄心の趣味が中国建築より日本建築に傾いていた,という前述の見方と一致する,と解釈することもできますが,それならばなぜ福済寺(漳州寺)がこれに同調しているのでしょうか?
 どうも,あまり表に出ていない別の要素が関わっているような臭いがします。
 もう一つ,本文で少し触れただけの惜字亭ですけど――――

聖福寺惜字亭~市指定有形文化財
(略)中国では文字を書いた紙を大切にし、この習俗を惜字紙といわれている。この字紙を焼く施設を聖福寺では惜字亭と呼んでいる。これは寺院内の経文その他、不要な文書類を、赤レンガ積みで漆喰塗り、六角形の焼却炉で焼却するものである。築造は慶応2年(1866)7月とされている。 赤レンガは安政5年(1858)頃、 オランダ海軍技師士官によって製造法が伝授され、小菅修船場跡(国指定史跡) も、その赤レンガが使用されている。この惜字亭は中国人の信徒によって築造寄進された。 [前掲長崎市教委]

 何と,小菅修船場跡に使われたのと同じ赤レンガが使われているという。幕末頃には,そうあちこちに使われる素材ではないはずで,その最新素材を単に仏教経典を焼くためになぜ使用するに至ったのでしょうか?
 聖福寺はいろいろと「過剰」なのです。
 三福寺体制から除外され,幕末以降に初めて広州寺として信者を得るようになったのですから,こんなに過剰な寺であるのは変なのです。