《第十次{35}釜山・南海岸》オレンマネ・ソメリクッパブの日/徳川

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

徳川と言えば,釜山人には亀浦。そして広島人には家康ではなくお好み焼きである。

[北西角]鶴の壁の向こう側

洛 ミレロ⑦┃┃⑩ニューコア
   病院⑤┃┃⑧⑥ ⑫
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  ━━━━┓┏━━━━
江    ①┃┃②④ ⑨
  亀浦市場┃┃徳川小学校

▲暗きょの露出部とを隔てる壁(右手)

ス停・亀浦市場ジュジェム 구포시장증점の対面に,何とも白々しい鶴の飛ぶ壁を見つけました。
 立地が気になり,壁の向こうに回ってみる。一応入れるようになってるけど,立ち入った途端に蚊が食らい付いてくる。
 おおっ凄い悪臭です。
 亀浦の跡でしょう。暗きょが露出している場所でした(巻末参照)。中世亀浦はこのような形で,現代都市に秘されて残っているらしい。

▲1746暗きょの川側

西角のバス通りから東は駐車場,さらにラブホ街がある。先の到着時にも一応歩いてみたけど,あまりにけばけばしいから泊まるのをご遠慮した界隈です。
 けれど,ビルの隙間から時折,暗きょが顔を出してます。敷地地下には何本もの水路が延びてるようです。
 これが5番出口からの北西角。さらに十字路の対角線,南東角へ入ってみましょう。
洛 ミレロ⑦┃┃⑩ニューコア
   病院⑤┃┃⑧⑥ ⑫
東 ━━━━┛┗━━━━
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江    ①┃┃②④ ⑨
  亀浦市場┃┃徳川小学校

 交差点真下の位置にCafe Dream。ちなみに7-11時はアメリカーノ1.5千w。

[南東角]闇に溶ける若い町

▲南東角の車道側風情

・4番出口からの南東角は若者の町。観光客にとっての釜山の普通に一番近い。ダイソーの看板が高く踊る。
 つまり,4つの角地の中では,ここだけが妙に新しい。韓国は時々こういう発展から取り残された,それゆえにこそ変な猥雑さを宿すブロックがある。

▲1754南東角の闇へ溶ける路地

川1gil,2gilを歩く。
 山裾の等高線ライン。寂しいけれど,いい雰囲気出してる細い通りです。港町としての発達以前はこの辺りが元の集落だった可能性はあると思えますけど,そういう感覚的な印象以外はとどめるものがない。

▲1811暖色系の果物や何やらが暗く道を縁取る。

[北東角]何もかも細かく猥雑

洛 ミレロ⑦┃┃⑩ニューコア
   病院⑤┃┃⑧⑥ ⑫
東 ━━━━┛┗━━━━
  ━━━━┓┏━━━━
江    ①┃┃②④ ⑨
  亀浦市場┃┃徳川小学校

・8番出口からの北東角がやややさぐれたモーテル街。東の方には大型ファッション店のMegaBoxもあるけれど,最初の頃少し歩いただくであまり知らない。今回泊まることにしたのはここ。

▲1814北東角の歩道。店舗数は一番多い。

に亀浦倭城がある。
 ということからも,港町時代には湾を見下ろす高台の要地だったんでしょうか。
 周囲を沖縄Xすると,やや小粒の不揃いな道が取り巻いてるように見える。明朝,一周してみるつもりです。

▲1818横道に入ると一層,近寄りたくなくなる猥雑さが増す。

表情を変える裏道三本

オンの列を目で追うと初めて分かるけど,上下のうねりをかなり帯びている裏道です。
 左右にも微かな揺らぎがあります。店舗はともかく,道自体は時代を経ている土地です。

▲1816上下左右に揺らぐ裏道

道は3本あります。
 旧港から東西に伸びる車道の一本裏が,主なモーテル道で高層まで小さい店が入ってる。
 二本目はやや広めの車道。
 三本目は閑静な住宅街の気配です。山が近くなり,上下のうねりもやや増す。

▲1903何かの呪術のように角地にみかんの山を築いた売り子

宿のクリームに帰りつくと,低層階は入居した時間とは打って変わってきらびやかな賑わいを見せてきてました。飲食店が相当数入ってるらしい。
 まあ……宿は8階。静かに爆睡に入ったのでした。

▲1908華やぐ低層階から8階の高みのモーテルを見上げる。

■小レポ:亀浦の推定古海岸線

 本章冒頭に見た壁裏の悪臭溜まりと,亀浦市場の堤跡らしき微高地から,海岸線のラインがある程度は推測できると思います。

赤:亀浦市場東縁の微高地ライン 青:亀浦市場西縁から入江部への想定水域

 緑色は元の地図の表記ですけど,地下鉄駅の位置です。おそらく地質的に,これより西の元の砂州に地下鉄を掘るのは難しかったのでしょう。
 亀浦市場のある南西角ブロックの十字路側の丸みは,かつての堤の湾曲を反映したものだと推測できます。
 つまり,湾奥に築かれた堤が縁取る港から,それより西の悪条件の低地に堆積が重なるにつれ,川原に市場が形成されていき,中心的商業地が成立していった。
 北東角はメインの道が東西,つまり港から伸びる道であることから考えて,それより後の時代に,富裕層の住む山手として形成されたのではないかと思われます。南東角と道の配置の方向が異なっているのは,形成時期の違いを物語っていると推測されます。
 形成時期により,徳川の町は少なくとも三相のベクトルを持っています。分かりにくい,だからこそ魅力的な町です。

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