《第十次{34}釜山・南海岸》オレンマネ・ソメリクッパブの日/亀浦市場

地名を冠する唯一の朝鮮陶器

▲1036鎮海市内の横断歩道にて

海市内に戻り,バスの時間までしばらく散策しましながら考えました。
「熊川焼」という焼き物があります。「こもがいやき」と読ませる。

鬼熊川(1)

が丸く、口縁が外反した独特の姿をとり、見込みに茶溜りと呼ばれる円形のくぼみがある。[後掲文化財オンライン]」
 どの解説も「熊川」が朝鮮・鎭海の地名と相関する可能性については触れるけれど,「茶碗の呼び名となった理由はよくわからない」[同]としています。

▲1109東側ロープウェイの山

川近くの窯で焼かれたものが日本に輸入された[後掲茶道]とも,出兵時に日本に連行された陶工が日本で作ったものともされます。
 朝鮮連行者に起源を持つ萩焼,有田焼,三川焼,薩摩焼がどれも朝鮮地名を関することがないこと,齋浦に近いことから考えて,前者,すなわち浙江や漳州と同じく輸出用の陶器が熊川で作られた時代があったのでしょうか。
 朝鮮陶工の連行がこれほど横行したのは,それ以前の知名度が相当高かったことに起因するようにも思えます。

鬼熊川(2)

熊川は鏡か鬼か紫か

川」は三種に大別されます。

「真熊川」は、作風は端正で、やや深め、高台も高く、素地が白めのこまかい土で、(略)古人は、咸鏡道(かんきょうどう)の熊川の産と伝えて、真熊川のなかで特に上手のものを、その和音を訛って「かがんどう(河澗道・咸鏡道)」とか「かがんと手」と呼びました。
「鬼熊川」は、真熊川にくらべ下手で、荒い感じがあるのでこの名があります。形は、やや浅めで、高台が低く、見込みは広いものが多く、鏡が無いものもあります。時代は真熊川より下るとされています。
「紫熊川」は、素地が赤土で釉肌が紫がかって見えるものです。[後掲茶道]

 この中の「かがんどう(河澗道・咸鏡道)」が不思議です。咸鏡道は現・北朝鮮の日本海側で,誤認がないならそこから熊川に運ばれて,日本に流れたと考えられるからです。とすると,「鬼」か「紫」かがその二流模造品として朝鮮南部で作られるようになったのでしょうか。
 今回見た中では,個人的には「鬼」が好みでした。

▲1411鎭海の歩道にて

合艦隊がバルチック艦隊目掛けて出撃した近代以降はクリアなのに,近代以前はこれほどまでにどろどろに溶けて見えない鎭海の町。
 1426,鎮海市外BTから発つ。釜山西部行きバス。
 いやなかなかハチャメチャだった。成功,ではとてもないけれど,これまでの韓国にはない1日ではありました。ついでにバッテリーのコードもどこかで落としてる。やれるもんだなあリュック担いだままで。
 スマホの位置情報をオフに落としました。

鬼熊川(3)

□参考資料:熊川焼関係

茶道/熊川茶碗(こもがいちゃわん)
URL:http://verdure.tyanoyu.net/komogaicyawan.html
文化遺産オンライン/熊川茶碗
URL:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/402337

▲1413鎭海市内。どことなく日本風な家屋。

とても悔しい車窓から

日までは滞在する日本人も多いでしょう。本日は徳川で初泊を試みよう。
 バス車内の客は僅かに2人。今,市場から2人が乗車してやっと4人。
 あれ?これはひょっとして……熊川方面に再侵入してるのか?道が海側らしいけど…線路の西を走ってます。いや?今,線路はまたいだ。
 え?西に左折?どこへ行くんだどこへ?あ!高架下から……モロさっきの道じゃないか!
「安全ベルト××」と運ちゃん怒鳴る。
🚐
び眺める鎮海湾。美しい。でもちょっと悔しい。
 あ,今チラリと見えた海際に大きなドック。この海側にあるのか。さっきは降りるのに必死だったからなあ。
 え?さっき高速に登りかけた辺りです。今,まさに昼歩いた辺りを快走中。
 悔しい。
 左手に二基の祠。これ見逃してるなあ。無茶苦茶悔しい。
 熊川センターのバス停に着くと,客がどやどや載ってくる。その後方にさっき歩いた熊川巴城。
 ──歯ぎしりするほど悔しいぞ。でもこの道を釜山まで走るなら……いい道だぞコレ!
 でも……眠気が……。
 1454集落に降りていく。マンション30ほど,後は工場がズラリ。
 1500,広大な工業団地の更地を過ぎた後,再び高速へ。下りに入りました。
🚐
514,目覚めると橋の上。大川を渡ってる。いや……これは空港の東。西のがさらにあるはず。
 中洲伝いに川口を渡る。この下が水門になってるらしい。
 なるほど。ハダンの地下鉄駅で止まった後,終点西部BTか。ここからチャガルチへも行ける。でももう徳川へ行く気になってるしなあ。
 車内にはもう3人しか残ってない。
🚈🚈

소머리 소머리 소머리 ソメリ~!!

行に転じました。1527。川の東側を行ってる。狭いエリアだけどそう面白そうもない。マンション並ぶ。左手は川辺の眺めが見事。
 1540,所要70分にて西部BT到着。アップルの文字がデジャヴのようです。
 1549,沙上駅2号地下鉄ホームからヤーサン行きに乗車。チャージを確認すると1200wになってた。危ない!これじゃ亀浦のあのお膳を払えない!30千wをチャージ。
 1601。徳川 トクチョン 덕천に到達。
 1615。クリームモーテル 그림 投宿。そして急ぐ!

~~~~~(m–)m徳川初泊編~~~~~(m–)m

▲ソメリ!

かった!開いてた!
 開いてたどころか既に満席近い。ここは亀浦市場ど真ん中。
1641亀浦元祖ソメリクッパブ 구포 원조 소머리국밥
ソメリクッパブ소머리국밥400
 記憶より,はるかにさっぱりしてる。脂というよりスジ肉の旨味が露出してる。
 薬味はやはり生ニンニク,青唐辛子,生玉ねぎ,アミ塩辛の四種だけど,味噌も普通のと辛いのとがついてくる。ここのソメリには不思議なほどこの辛味噌がマッチする……と今回は感じました。臓物の暗い脂の香りと,辛味噌の切っ先のぶれたような辛味が,そう──ちょうど鶏皮味噌煮のような濁りの融合を見せるのです。

[南西角中央]グデ~と積まれてる

▲1720市場を歩く。この市場には,何だか理解不能な売り物が多い。自分で撮っといてナンだけど……手前の灰色の石みたいなのは何者?

リアン飯にくちた腹ごなしに市場を歩く。
 今回は,折角泊まることでもあるし,本格的に(?)徳川交差点の各方面の景観を記録していくぞ!どうだどうだ?

洛 ミレロ⑦┃┃⑩ニューコア
   病院⑤┃┃⑧⑥ ⑫
東 ━━━━┛┗━━━━
  ━━━━┓┏━━━━
    ①┃┃②④ ⑨
  亀浦市場┃┃徳川小学校

▲1721市場の段差

うだと言ってもこの地図だけど──まずは南西角の市場ブロックです。
 この市場入口の5mほどの段差は,以前も書いたけれど,おそらく昔の堤跡です。川原に出来た市場が,陸地化の進行と相まって巨大になり常設になったのでしょう。
 この段差を横に追うと,なぜか知らぬ間に消えてしまう。だから鮮明とはしませんけど,概ね西に向かってU字の湾曲を描いてるように思えます。

▲1722居並ぶ魚さんたち。韓国の彼らはいかにもグデ~と積まれてる感じで宜しい。

州の市場を思い返すと,亀浦のは夕方までしっかり繁盛してる点が全然違います。
 人口の差はもちろんあるけれど,晋州で聞いたと同様に2時頃にプロの市場が開催されてるとすれば,まさに眠らない町です。店の人はどういう生活してんだろ?

[南西角北側]場末なのに何だかポップ

▲1724北側の道路へ出る辺り

設のアーケード側にも圧倒されますけれど,最近惚れ惚れするのは北の道路に出る界隈。
 ここには屋根がなく,いかにも場末の市場っぽい露店が建ち並びます。それでいて──

▲1727ちょっとパティオになってる場所

この道側出口には,以前はコンサートか盆踊りかみたいなステージが組まれていたことがありました。道側にはBRT用らしい中間分離帯も出来てる。
 常にも家族でお食事スペースに,丸いアルミテーブルを囲む老若男女,多彩な顔触れが夕べの一時を過ごしておられるんでした。

▲1734かがみこんだ二人が物語っぽくていいけれど……うーん,これも何売ってんだか見当つかないなあ。

■小レポ:やきもの大戦争

という文禄・慶長の役の別称は,実は今回調べてて初めて知りました。なぜか「やきもの」を平仮名で書くことが多く,……いや普通は「大」はつかないですけど,怪獣大戦争みたいな語感がレトロです。
 初回・朝鮮人連行とか文化の略奪とかいう自虐史観めいた使い方もされるようです。でもこの量とクオリティは……戦国を終えようとする時代の各地域勢力は,次の厳しい経済戦を生き抜くために必死で,それゆえに朝鮮陶工の地位と自由度は他に例を見ない高さです。さらに日本の陶芸に与えた破局的影響からすると,彼らこそ日本の芸術の画期的な「侵略者」だったのではないでしょうか。

三川内焼(長崎県佐世保市):巨関 三之丞 嫛

 朝鮮出兵時に秀吉の寵愛も受け順天戦ほかで活躍した平戸藩主で松浦鎮信が連行した陶工が,現・佐世保市内に窯を開いています。針尾島の網代陶石と肥後天草陶石を用いた白磁を代表とし,後世に発展した卵殻手(エッグシェル・薄胎)がヨーロッパにも伝わった三川焼です。
 朝鮮人の陶工として二人の名が伝わっています。

慶長3年(1598年)、巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。[後掲wiki,原典は後掲林]

 エッグシェルの起源譚に「箸より軽い陶器を」との藩命があった,というかこれはもうスペックの呈示ですけど,そういう伝えからは公営企業状態です。
 巨関も本名っぽくないけれど「高麗媼」という名前は完全に「朝鮮人のおばあさん」という呼称です。「媼」字は老人というだけでなく女性の字義しか持たない。
 後掲講談社によると,確かに女性で本名としては「嫛」と伝わるという。

1567-1672 朝鮮の陶工。
宣祖元年生まれ。織豊時代に肥前唐津(からつ)(佐賀県)に渡来。夫と死別後,元和(げんな)8年子の中里茂右衛門と肥前三川内(みかわち)(長崎県)にうつる。灰色焼や朱泥焼を製作し,製陶技術と経営手腕によって同地の陶業をおこしたという。寛文12年死去。106歳。釜山(一説に熊川)出身。名は嫛(えい)。[後掲コトバンク/講談社]

 熊川出身とも言われる。夫婦で唐津に移った上で,三川内でさらに女性陶芸家として業を起こしてる。当時考え難い百歳を超えて生き,長崎貿易完成が近い1672年(長崎会所の前身・市法会所が出来た年)に死去。
 従ってこの頃には松浦藩営・陶芸の本拠は三川内に固定している模様です。巨関がこの三川内に本拠を見いだすまでは,その子・三之丞に至る迷走があったらしい。

白磁の陶石に恵まれなかったため、巨関と息子の今村三之丞は平戸領内を白磁の陶石探索の旅に出て、最後に落ちついた所が三川内だったのです。[嘉泉窯]

 肥前に縁のない親子が個人で放浪できる訳もなく,その後の経緯を見ても,藩主レベルのミッションを負わされていたのでしょう。必死で陶質を調査したのだと思われます。

今村三ノ丞(いまむらさんのじょう)が寛永10年(1633年)に針尾(はりお)島(佐世保市)で網代(あじろ)陶石と呼ばれる白磁鉱を発見すると状況は一変。三ノ丞は美しい川が流れる緑豊かな三川内の地を白磁の窯場とし、平戸藩は三ノ丞を窯場の責任者兼役人である皿山棟梁(とうりょう)代官に任命する。[後掲長崎県]

 三ノ丞は藩営陶工会社の社長に抜擢された訳です。藩内のみならず,嫛のような他藩(唐津は寺沢・大久保氏支配)からも陶工が流入する,今で言えば筑波学園都市とかシリコンバレーのような土地になった訳です。
 唐津と言えば,数十年前に荒れ地が半年で名護屋城下の都市に転ずる様を見た土地です。松浦氏にとっては藩の命運をかけたプロジェクトだったでしょう。その狙いはと言うと──

慶安3年(1650年)には中野の陶工たちが三川内地区に移され、御用窯の体制が完成した。(略)
 17世紀後半になると、三川内で焼かれた磁器は海外へ盛んに輸出されるようになるが、次第に中国の景徳鎮(けいとくちん)窯の攻勢でヨーロッパの市場が奪われ、日本の磁器の窯場は国内向けの安価な日用品を作る必要に迫られる。[後掲長崎県]

 まず間違いなく,前代に王直を見,当代の東シナを支配する台湾鄭氏ゆかりの地にある松浦氏は,海外交易で売れる新製品開発を目論んでいたでしょう。
 17C段階では景徳鎮に勝てず,国内向けに販路を転じ,海外で注目されるに至ったのは幕末になってから──というのが通説です。けれど,五島を領する松浦氏の地勢,幕末以降の爆発的な売れ方からすると,ひょっとしたら江戸期にも,という疑いは残ります。

有田焼の祖と伝わる「李参平」の碑。朝鮮忠清道金江(現・韓国忠清南道公州市)出身で鍋島直茂が連行したとされるけれど,参平名は明治に付されたもので本名は伝わらない。

波佐見焼(長崎県東彼杵郡波佐見町):量産型三川内焼?

──という見方に,さらに裏を感じさせるのは,波佐見焼の存在です。
 三川内の東隣です。伝わるところでは大村藩主大村喜前が連行した陶工を祖とする,とされます。

江戸時代は当時の積出港(つみだしこう)の名をとり「伊万里(いまり)焼」、明治以降は出荷駅の有田の名で「有田焼」として流通していた。伊万里焼、有田焼の中には実は多くの波佐見焼が含まれていたのである。[後掲長崎県]

「波佐見焼」の名が流布するのは昭和50年代以降。つまり,江戸期の「有田焼」は実際はどこで作られたか?という問題認識はローカルには大切かもしれないけれど,交易史上は伊万里・有田→波佐見・三川内→長崎の「セラミック・ロード」たる波佐見往還※が,実際は「セラミック・ベルト」とでも言うべき広域的生産地を成していたことが重要です。
※参照:007-1佐世保上り道\平戸編\長崎県/小レポ:佐世保エリアでの平戸往還ライン
「長崎で外に売れる陶器」を作ろうと,このエリアの諸大名はしのぎを削った。もちろん各地の陶工集団も技能を競い合い,それぞれの販路と購買層を開拓した結果,高級から庶民向けまで各種の陶器のメッカが形成されていったのでしょう。
 江戸期の国内陶器のマーケットは,このセラミック・ベルトから熱狂的に沸き起こったと見ることもできます。
 その熱狂の火付け役が,16C末に渡来した朝鮮陶工たちだったと思われるのです。

大阪の淀川では小舟で「あん餅(もち)くらわんか、酒くらわんか」と声を掛けながら酒や食べ物を器に盛って売る商いが大繁盛。そのかけ声から使われた器は「くらわんか碗」と呼ばれ、その後、安い日用食器を「くらわんか手」と呼ぶようになった。波佐見では幕末に至るまでこの「くらわんか手」を大量に生産し続けた。中尾地区には世界最大規模の登窯(のぼりがま)跡もあり、その生産量は日本一を誇るまでになったのである。[後掲長崎県]

くらわんか碗

萩焼(山口県萩市):李勺光 李敬

 松浦氏に比べ,大変地味というか実直な発展を遂げたのが萩焼です。
 15万の朝鮮出兵軍中,毛利氏は3万を出しています。松浦氏(3千)の十倍の関与をしながら,連行された陶工の日本開業は自然発生的な気配が見えます。

萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、慶長の役の際、朝鮮人陶工、李勺光(山村家、後の坂倉家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。[wiki/萩焼]

 松浦氏のように藩営企業としての上からの強い関与も,あまり感じられません。

よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。[wiki/萩焼]

 萩焼の名は1638(寛永15)年の「毛吹草」に名が残り[後掲世界大百科辞典],その知名度はこの純・朝鮮様時代に一気に形成されたらしい。これを受けて,藩は弟・李敬に高麗左衛門の名を与えて賞していますけど,兄弟で別の流派と生産地を形成したところから見て,肥前のようにシリコンバレー化する構想はなかったように見えます。
 ただ,茶器としては「一楽二萩三唐津」,つまり信楽に次ぐ有名を博します。商売っ気のない実力での国内知名度です。
 関ヶ原後に二州にリストラされた毛利氏が,なぜ九州の大名家のようにこの焼き物を武器にしようと構想しなかったのか,むしろ不思議,というか不気味なほどです。

薩摩焼(鹿児島県串木野市~市来市):朴平意 金海 芳仲

 木﨑原や泗川戦で武名を轟かせる「鬼島津」義弘も,熾烈な戦歴下でどうやってなのか,80人以上もの朝鮮人陶工を連行して帰国しています。[陶芸sanmai]
 彼らは主に串木野や市来など薩摩半島西部に窯を設け多様な陶器を作ります。大別して5系統(苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・磁器系(平佐焼))とされ,うち苗代川系・龍門司系・竪野系が現存します。
・苗代川系(なえしろがわ):朴平意が開いた串木野窯が元祖。後に白陶土が発見された現・日置市東市来町美山に移り1782年に白薩摩(白もん)の捻物細工を開始
・竪野系(たての):金海(日本名・星山仲次)が帖佐(現・姶良郡姶良町)の宇都(うと)に開いた藩窯が元。白薩摩の原型を形成,藩の保護を受け献上・贈答用の茶陶を産す(古帖佐)。初期の古薩摩と呼ばれるものは薩摩焼の源とされる。
・龍門司系(りゅうもんじ):芳仲(ほうちゅう)が加治木龍口坂に開窯。その養子となった山本碗右衛門が継承後,龍門司に築窯。黒もんを得意とする。

「黒もん」黒薩摩焼

 薩摩焼は白と黒に分類され,地元で「白もん」「黒もん」と呼ばれます。
 白が上質で上流階層用。白陶土で丹精に成形し透明釉を掛け,表面の細かい貫入(細かいひび)を特徴とします。
 黒は低質で庶民用。シラス台地の鉄分豊富な土を普通に焼くと真っ黒になるわけで,江戸初期の常識では粗悪の代名詞でしかなかったらしい。後世では信じがたいことですけど……。

白もん:何で作ったか?

 要するに,16C末の常識としては,薩摩は陶芸に向いていなかった。
 景徳鎮を模倣しようとする限り,薩摩の「黒」は濁りでしかない。

日置市で白陶土が発見されるまでは、朝鮮半島から陶工が持参した白陶土を使用し製作していました。それらは、火以外の材料や陶工技術が朝鮮のものであることから「火計手(ひばかりで)」と呼ばれていました。[陶芸zanmai]

 まずこれが不思議です。「陶工が持参した白陶土」といっても,植えたら増えるわけじゃない訳で,薩摩軍に連行される最中にそんな量を持ち込めるとは思えません。
 それに陶芸は,そんな土さえあれば出来るわけもなく,各種の用具も携えて薩摩に渡ったとしか考えられない。
 薩摩が朝鮮から独自に土を運んでいなければ,そんなことは不可能なはずです。

「白もん」は藩や島津家だけが使用し、一般の人の目には触れることがありませんでした。藩は文化振興策の一環として京都に職人を派遣し色絵技法や金襴手を学ばせるなど技術の習得に努め、慶応3年(1867)には、島津藩単独でパリ万博に出品。白薩摩はヨーロッパの人々を魅了し「SATUMA」の名で広く知れ渡りました。[陶芸zanmai]

 幕末以降の「SATUMA」は本当に爆発的に売れたらしい。量についての記録はないけれど,明治期から戦前まで「横浜薩摩」「京薩摩」(≒清水焼)など,薩摩の模倣を日本全国で作って売られ始めるのは,要するに「SATUMA」であれば海外が買ってくれたから,ということのようです。

沈出品の黒薩摩焼。12代沈壽官作。1873年のウィーン万国博覧会に出品した大花瓶が進歩賞を受賞

 この不思議な売れ方は,開国以前から評判の下地が出来ていた,つまり密貿易,さらには景徳鎮を騙った贋作としてSATUMAが世界的評価を既に受けていたから,と考えれば自然な成り行きに見えてきます。
 藩営企業体・薩摩は,松浦氏よりさらに露骨な「売れる陶器」の開発に,江戸期を通じて執着し,かつ実際に手段を選ばずに売ってきたのではないでしょうか。

白もん:誰の手で作られたか?

 白もんを作った苗代川の朝鮮渡来人社会は,松浦氏的なシリコンバレーを通り越し,いわば「唐人屋敷」状態の文化的閉鎖社会だったらしい。

朝鮮から連れてこられた陶工たちのうち串木野島平に上陸した約40名が、故郷の風景に似ていることから、そこに窯を開いたといいます。この苗代川系の陶工たちは上陸以来江戸時代の終わりまで、故国を忘れることなく、言葉も服装も朝鮮であることを貫ぬきつづけました。そのため現在も美山は独特の風俗を持った陶里となり、400年以上続く名門・沈壽官の窯もこの地にあります。[陶芸zanmai]

 司馬遼太郎「故郷忘じがたく候」に語られる美山の独自の社会は,上記のような自発的閉鎖の面もあったのかもしれない。村北西部には檀君を祀る玉山宮(現・玉山神社)が創建されています[wiki/美山]。けれど,藩が他発的に統制した封鎖の面も否めない。

延宝3年(1675年)、当時の藩主島津光久によって参勤交代の御仮屋(本陣の役割を果たす薩摩藩主の別邸)がこの地に移されて以後、保護と統制の表裏一体の政策が進められるようになる。翌年には他の土地の女子が苗代川に嫁いでくる事を例外として一切の外部との通婚を禁じる命令が出され、続いて日本名を名乗る事や日本の衣服を身に着けることが禁じられた。[wiki/美山]

 この薩摩藩の異様な措置は,正直理解に苦しみます。大陸では清朝が漢民族に弁髪を強要した同時代です。「朝鮮服を脱げ,和服を着ろ」ではなくて,固有の文化を維持するよう強要してる。まるで「朝鮮租界」を敢えて作らせてるような対応です。
 何のためにそこまでやったのか,全く分かりません。誰かトップ層の人間が「温情」的な厳命を下したのでしょうか?

藩主の参勤交代の際には陶工たちが演じる朝鮮式の神舞・歌謡を見物し、村から選抜した小姓に朝鮮衣装を身に付けさせて江戸に上らせた。その代償として日本人による苗代川住民への犯罪行為は厳罰に処せられ、村の指導層は郷士、その他一般住民もこれに準じる身分待遇を受ける慣例が保障されていた。[wiki/美山]

 あえて想像するなら,薩摩藩の経営層は,自領にある朝鮮人集団をテクノクラートと見なし,藩の生命線にしようとしていた,というイメージでしょうか。それは調所広郷が苗代川の拡大を指示した事実や,次の移民の経緯からも窺えます。

この地域は地下水位が低かったため深い井戸を利用する技術が発達しており、宝永元年(1704年)には約160名の住民が当時不毛の地であった笠野原へ移住している。[wiki/美山]

 笠野原台地には,やはり壇君を祀る玉山宮が残る。また,「土持堀の深井戸」という井戸が鹿児島県指定史跡になっています。文政~天保代(1818~1843年)掘削と推定されているこの井戸は深さが約64mある。[wiki/笠野原台地]

「三国名勝図会」「笠野原」挿絵

 西日本を中心とする日本の大名が総数何人の朝鮮人を連行したのか,想像するよすががありません。ただ各地に残る「高麗□□」なる地名や文物は,戦国を終わらせた末期の指導者の軍事的遊興にかこつけて,日本の枢要に食い込んだ朝鮮人技術者の膨大な数と影響力を想像させます。
 最も露骨な薩摩の例が,その足跡と対応姿勢を推測する材料になり得ます。
「鎖国」下での江戸期日本の発展は,清国のそれと並び「勤勉革命」による内需の革命的拡大と評されます。ただ,清内陸部の農地拡大が新大陸から来たジャガイモやトウモロコシを主要作物にしていたように,日本の新田開拓や内水域交易拡大も彼ら朝鮮人テクノクラートのスキルに負うところが相当あるのではないでしょうか。
「朝鮮人連行」を,東国大名はあまり行った形跡がない。見落とされがちですけど,秀吉が政策として中枢に抱え込もうとした朝鮮人技術者はいません。つまり,西日本の大名,なかんずく前代の後期倭寇の発進源地域は感触として,対馬海峡の向こうに地域経済発展の鍵になる技術があることを実感できていた。
 だから「旧倭寇大名」群は,朝鮮の巷に埋もれていた陶工などの技術者を「連行」し,自領の新規事業体の事実上のトップ層に据えて優遇したのです。
 自分が技術者だったら,と考えてみたら分かると思います。新国家を樹立しようとしている隣国で,我が技術の可能性を極めてやろう,という野望を燃やして彼らが対馬海峡を渡ったであろうことは。
 そしてその技術的挑戦は,江戸期三百年を経てかなりの確度で開花しているのです。

産業化の時代の萌芽としての地域陶業

 少し視線を引いてこの16C末の西日本各地の陶業振興ブームを見ると,また面白い点が浮かびます。
 世界帝国モンゴルの元での13Cのユーラシア横断交易の発動,16Cの銀流通に喚起された商業の時代の交易興隆に続き,18Cの三度目の交易ブームを上田信は「産業の時代」と位置づけます。貢納でも貴金属による購買でもなく,商品vs商品の交易が開始される[後掲上田]。
 福建での茶や陶器や綿業の発展に見るように,この産業化の具体的な様相は,まず遠隔地からの輸入品の代替品の自己生産でした。まず偽作や模造品を作り,二流品として認められ,あわよくば本家の輸入品を凌ぐ一流品としての地位にまで品質と評価を向上させる。
 日本での産業化の典型は18Cの俵物です。
 早過ぎるのでそういう観点で眺められにくいけれど──西日本の陶業起業ブームは,二百年後のこの産業興隆のアクションを先取りしているように見えるのです。いやそれどころか,松浦氏と薩摩氏については世界交易上それに成功している。毛利氏についても,国内市場的には大成功してる。
 肥前にも長州にも薩摩にも,17C以前の陶業生産地は存在しなかった。もちろん,良質な陶土の発見という偶発的な幸運は必要でしたけど,それ以外は各武将のヴィジョンとこれに基づく(同時代から見ると偏執狂的な)投資のみでこれらの土地の陶業はスタートしてる。
「産業化の時代は西日本から始まった」とまで言うと偏向的だけれど,彼ら旧・倭寇大名の「メティスの知」が相当に時代を先取りした産業投機をしていたことは否定しがたいと思えます。
 どの地の焼き物も,17C時点では景徳鎮に敗れています。けれど19Cの幕末開港時には,景徳鎮に比肩する評価を得ています。それは江戸期三百年間,執拗に継続された藩経営層と朝鮮人技術者の品質向上の結集です。
 本稿で,「やきもの戦争」としつこく「連行」と書き続けてる朝鮮人陶工の日本移住を,差別-被差別,加害-被害の文脈とは別の捉えをしているのは,海の歴史におけるこれらの陶業起業史の画期性にスポットを当てたいからです。
 対馬海峡を挟んだ当時の朝鮮人,日本人は,前者と後者,果たしてどちらの文脈で生き継いでいったのでしょうか?

□参考資料:朝鮮出兵連行陶工関係

上田信「海と帝国」中国の歴史9 講談社,2021
嘉泉窯=焼き物図鑑=400年の歴史を誇る三川内焼
URL:http://kasengama.com/old/zukan/mikawachi.html
講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク転載)
URL:https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%AA%BC-1074377
世界大百科事典/萩焼 (コトバンク転載)
URL:https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E5%8B%BA%E5%85%89-1120625
陶芸ZANMAI/薩摩焼:全国旅手帖
URL:http://www.tougeizanmai.com/tabitetyou/028/rekisi-more.htm
林源吉「長崎における窯業 (陶磁器) 沿革史」『窯業協會誌』第68巻第780号、日本セラミックス協会、1960年
長崎県|広報誌コーナー|ながさきにこり/三川内焼と波佐見焼のルーツを探る
URL:https://www.pref.nagasaki.jp/koho/plaza/dream/furusato04_1.html
wiki/笠野原台地
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E9%87%8E%E5%8E%9F%E5%8F%B0%E5%9C%B0
wiki/萩焼
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E7%84%BC
wiki/東市来町美山 鹿児島県日置市の大字
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B8%82%E6%9D%A5%E7%94%BA%E7%BE%8E%E5%B1%B1
wiki/三川内焼
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B7%9D%E5%86%85%E7%84%BC

「《第十次{34}釜山・南海岸》オレンマネ・ソメリクッパブの日/亀浦市場」への3件のフィードバック

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