《第十次{41}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/亀浦倭城

打ち棄てられた遺跡というのは なかなか日本で遭遇できません。倭城はエグい遺跡です。
[前日日計]
支出1400/収入1610▼14[141]
負債 210/-
[前日累計]
利益 -/負債293
§
→十月二十二日(二)
0952ポンジョンデジクッパブ 본전돼지국밥
デジクッパブ400
1148 징성시당 チンサンシッタン チンサン食堂
김지찝 キムチチブ 500
2022 백구당 Baekgudang ベックダン
オペラ370(1270)
2048 대건명가돼지국밥 デセン 名家デジクッパブ
돼지국밥400
[前日日計]
支出1400/収入1670▼14[141]
負債 270/-
[前日累計]
利益 -/負債 23
§
→十月二十三日(三)


[初日夜のメモ]初めて知った亀浦倭城

いうのをネット上に見つけてしまった。

亀浦倭城は、標高76メートルの小高い丘の上に2,000平方メートルくらいの小さい規模で、洛東江を挟んだ金海市の竹島倭城の支城として1593年、小早川隆景らによって築城
※ プサンナビ/亀浦倭城
URL:https://www.busannavi.jp/iseki/%E5%80%AD%E5%9F%8E/3717

 小早川隆景の造った実戦型の小城?しかもこの位置は,朝鮮戦争でも最前線拠点になった洛東江の要地です。

蔚山(ウルサン)から順川(シュンチョン)まで続く倭城の海岸ベルトのほぼ真ん中の場所に位置している亀浦倭城は、洛東江を中心に内陸作戦の要衝地として、金海市の竹島倭城と上部の梁山市の狐浦倭城と共に戦略的に有利な場所に位置していた城[前掲プサンナビ]

山地下鉄2・3号の徳川(トクチョン)駅10番出口を出て500メートルくらい直進しますと、南海高速道路が走る高架道路が見えてきます。そこの下をくぐって右角の坂道を登ると右手に九龍寺というお寺があり、そのお寺の裏山に倭城[前掲プサンナビ]

 その他にも,この釜山域は実は倭城だらけのエリアらしく,あちこちに存在している。

文禄の役の際、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加した鍋島直茂(なべしま なおしげ)が築造したと伝わる竹島倭城は、駕洛山の海抜35メートルの小高い丘陵に位置しており、今では約100メートルくらいの城の石垣だけが残(略)
洛東江を挟んで築造された5つの倭城(馬沙倭城、梁山倭城、弧浦倭城、亀浦倭城、竹島倭城)の中で最も海に近く
※プサンナビ/金海竹島倭城
URL:https://www.busannavi.jp/iseki/%e5%80%ad%e5%9f%8e/3759

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

日本に学ぶことはない

645,CU※から左折,Mandek-daero 15beon-gil 만덕대로15번길から北行する。
 Gichal-ro기찰로を越える。
 この道は盛り上がってる。単なる盛り土でなく,道の端に数十cmの段差があるのは,かつてのインフラの跡と思われるけれど……やはり堤でしょうか?
※CVS for YOU(→U) 씨유。韓国最大手コンビニ。2014年にファミマの韓国提携先だった旧・晋光グループ側が主社を追い出す形で独立した。「韓国コンビニ業界のナンバー1が,日本のナンバー3に学ぶことはない」と語ったとする事実は有名。→wiki/CU Business jurnal

▲0653Gichal-ro 기찰로 の隆起

手に教会。
 界隈はごく普通の町だけど,建物はやや小粒です。
 これだけ歩いただけで,モーテル街とは全く異なる様相になる。おそらくは,元々がこの裏町の住宅街が広がっていたところに,近年一気に繁華街が出来た,という成り行きでしょう。

▲0703丘の南縁の道

正面に小高い丘と灰色の建物。左折して回りこむ。Geumgok-daero 26beon-gil。
 丘には岩肌が露出。
──意外にアップダウンがある。平地をまっすぐ城に入るイメージでいたので,行程を綿密に考えてませんでした。実際はここで右手,東に回らないと北へは進めなかったのです。
 本日の空はやや曇天。
Walking qi-yue

西側主攻面の暗黒神

折北行。車道 Geumgok-daero 금곡대로 に出てようやく曲がれました。
 バス停。丘側に徳和寺と漢字の額を掲げる寺。
 0707,西対面ガソリンスタンド。片側三車線の車道は少し右に曲がる。
 さらにバス停。英語でBukgu Culture Ice Sports Centerとある。ここから南東,右手前方に小高い丘が見えてます。これのはずです。

▲0723暗黒神とビル街

手にアルファベットでSEOWON,漢字で「瑞元流通」と書かれた門。かなり大きな敷地です。
 0712,高架下をくぐる。ジャスミンの香。
 交番の先,バス停手前に「구포왜성 Gupowaeseong Fortress 亀浦倭城 龟浦倭城」と四か国語のエンジ色看板が東を指す。観光地やがな。でもとりあえず,看板しかよすががない。右折。
 亀龍寺 구룡사と石柱。「大韓佛教曹渓宗」ともある。
 さっきの南の丘とはわざわざ橋で繋げてあるようです。
 暗黒神っぽい像四基の間を抜けると仏像。その角を折れるとようやく本堂が現れました。
 トイレの脇のゲートからさらに登れる。ここが,南の丘からの橋の北口にもなってるようです。
 小さな畑。南に山がそびえる。

亀浦倭城の構造イメージ及び縄張図

図は,ナメてかかってた当日には持ってなかった図面類です[後掲「釜山でお昼を」及び城郭電脳日記]。
 この城山の地勢は,洛東川に接する西側が急斜面で,緩い東側が出入口だったようです。つまりこの時登った側は,往時には入れないルートでした。──まあ,遺跡の順路が整備されてる訳じゃないから問題はあるまいけれど……にしてもこれは実戦型です。船路から直接,西からの攻撃ではそう簡単には登れない。

何となくお下劣ですね

▲0730まず目に飛び込んだ石垣

いたらしい。0730,高台。
 二基の石碑に「西方廣目天王」「南方増長天王」とある。四天王です。北方多聞,東方持国も奥にあった。何かの祭祀をしてた跡か?
 どことなくお下品な状況の像も。先の暗黒神といい,どういうセンスとか文脈の彫像群でしょう?

▲何となくお下劣。

事,韓国色のものです。ただ異なるのは,石積のみ。
 0737,仏像に向かって左手の山道に入ってみる。
 三叉路。さらに上に行けるようです。案内板とか道標とかはありません。右折して登る。

▲0739南側城壁と段差

った。
 凄い。角の尖りや傾斜までがっちり残ってる。
 高さはさほどではない。2~3mほどで,上部が崩れた風でもないから当時からこの規模だったと思われます。

▲城壁角がちゃんと未だに尖ってる。

畑の石垣がまるで城壁のよう

手にようやく案内板が登場しました。作法に則り時計回りに左手へ。
 ひええっ,藪蚊が凄いぞ。でも上の段への侵入路が見つかりません。
 あ,ここから上に行けそう!

▲かなり完全形で残ってる石垣

は畑?どういう文化財管理だ?それにこの畑の石垣って……明らかに城壁の石だぞ?
──熊川倭城の城郭もこんな感じで地元に「再活用」されたのでしょう。ここも釜山広域市記念物第6号に指定される前は,近隣農民が農地を開墾していたのを,徐々に撤去されてなおこの状態だといいます[後掲城郭電脳日記]。要するに,最近まで倭城は文化財ではなかったのです。

▲遺構の中の畑

五百人サイズの最上郭

746,最高部。登るとメジロが飛び立った。
 案内板。名称は「金海竹島城出城」と書かれてます。「甘同浦城」とも呼ばれたとある。──ちなみにwikiにある「カードカイ城」というのは,「甘……」の読みでしょうか?
 英語の方には「perished to defend this wajl-fortress in the Silla period.」とあるから城の下地はもっと古い城(白羅?)だという。そうだとすると,日本兵団が見いだしたのではなく古くからの要地ということになります。
 0754,上部平地撮影。

▲0754最上部

上部の郭は東西に長い楕円形。案内板の数字にある500人籠れる,というのも納得の規模です。
 ここには天守閣はなかったという[後掲城郭電脳日記]。とことん実戦のための城だったらしい。

▲0757東に突出した郭の石垣

囲を順に見下ろしていくと,東に郭か出城状の腕が出てる。この腕の北側は明らかに虎口兼出入口の構造です。西側と全く構造が異なってます。
 その道を東へ降りてみよう。

実は入り口から出てしまった

▲0801岩ごろごろ

の東側の斜面に巨石がごろごろしてるのは,元々は何かもっと構造物があったからではないかと思われます。──先の構造図を見ると分かるとおり,この時通った東側が三の丸から本丸に登っていく出入口になっています。当然防戦時には高所からの攻撃が計算された導線だったわけで,構造の複雑さは当然でした。

▲0804幾重にも石垣のラインが連なる複雑な構造

んなところか。──中国以後,いくら凄い遺産を見ても,凄いほどどうも覚めてしまう。0806,退去。
 広場の脇から三叉路。右手の方が通ってるっぽい。
 0812。いかん,これは等高線ルートでした。さっきの寺裏へもどってしまう。やむを得ん,そのまま下山。

▲0805東側にも尖った城壁角あり

■小レポ:亀浦倭城の特異構造

 後掲城郭電脳日記によると,亀浦倭城には特記すべき点が2点あるそうです。

一つ目は畝状竪堀群の問題である。Ⅶ郭から7条とⅧ郭から4条の計11条の、「畝状竪堀群」に見える微地形が存在する。(略)織豊系城郭は、基本的に畝状竪堀群を使用しないと言われているからである。他の倭城にも「畝状竪堀群」に見える微地形がいくつかあり、城郭研究者でも意見が分かれる[後掲城郭電脳日記]

 ううむ。ゼンゴクで出てきた細くて長い堀のことかなあ。
──お城のことは全然,ホントに無知です。その辺りを堀込みたい方は「電脳」さんが嫌というほど書いてくれてるので,どうぞ。
 今1つは……

二つ目は矢穴の問題である。当城の石垣は自然石をそのまま用いるか、粗割りしただけのいわゆる「野面積み」あるいは「打ち込みハギ」と呼ばれる積み方で、基本的に矢穴(石を割るためのクサビを打ち込む穴)は見られない。しかしⅧ郭のみに矢穴が集中的に認められる箇所がある(略)矢穴は小さい物から大きな物へと変化し、慶長期後半には幅15㎝以上にまで大型化するが、江戸時代中頃になると一転して通称「豆矢」と呼ばれる小型が主流になる。[後掲城郭電脳日記]

 ほうほう,全く分かんねえっす。でもとにかく,矢穴が小さくなるのはもっと後の代で,織豊代のものとしては小さ過ぎる,というのが議論の的らしい。
 要するに2点とも,17C末にこれが日本にあったら,かなり驚く存在らしいのです。

左:洛東江と右上:亀浦倭城(kakao航空写真)

亀浦の位置は隆景の目にどこと映ったか

 当時既に港町としての雛型を形成していたであろう亀浦は,洛東江が西から南に屈曲するポイントにあります。交通の要所であるとともに,北と西に睨みを効かせることができ,逆にここを抜かれると釜山方面が危うくなる戦略的要地……というのは後代の朝鮮戦争でも絶対防衛線とされたことから割と誰の目にも明らかです。
 さて,次の地形はフェイクですけど,まるっきりの創作ではなく,ある場所の鏡絵です。「+」の位置の北(上)に城があり,戦国末期の大名が拠点としていました。洛東江屈曲点の亀浦の位置に類似しているここは,どこでしょう?

某有名武将の本拠城

 この場所は,吉田郡山城,毛利元就が尼子・大内の狭間で守り通し,ついに守り勝った実力本位の堅城です。
 亀浦倭城を築き,ここに入ったのは小早川隆景です。毛利の小国時代の苦節を血肉に刻んだこの知将には,亀浦の地勢は郡山──山陽と山陰を結ぶ水運の要地に重なって見えた,と想像するのは無理があるでしょうか。

日本ではもう造れない実戦城

 広島城の築城時に隆景が配慮したように,既に惣無事令下の日本で「強い本物の城」を造るのは非常に危険でした。
 順天倭城の藤堂高虎と同様,小早川隆景も,日本ではもう造れない本物の城を,朝鮮で構築するチャンスに高揚したのではないかと想像できます。
 専門家が言うような織豊時代らしからぬ城郭設備,というのも造りたくなくはなかったでしょうけれど,彼らはとにかくホントに強い城を築いて,やがて北から寄せる明軍に軍事の実力で勝利しようと欲したのではないでしょうか。

上:吉田郡山城 下:新高山城の各模式図

[上:後掲余湖君 下:後掲タクジロー]
 その状況で,隆景が模倣しようとしたのは,かつて毛利氏が築城の粋を尽くした郡山城や,それを自領でも構築した新高山城(三原城以前の居城)の多重城郭だった,というのは自然な発想に思えます。
 畝状竪堀も豆矢の矢穴も,実戦力を追求した結果として構想されたもので,古いとか新しいとかではなかったでしょう。ただ,あえて言えばそれは古くて田舎臭い,一の郭を争って血で血を洗う戦闘に備えた泥まみれの技術だったのではないかと想像しますけど──まあ素人の発想ですけどね。
 ちなみに,郡山城にも新高山城にも,織豊城郭の象徴たる天守閣はなかったそうです。

□参考資料:亀浦倭城関係

城郭電脳日記~倭城と日本の城の備忘録~№37:亀浦倭城(大韓民国釜山広域市) –
URL:https://horiguchikenji0726.hatenablog.com/entry/2019/09/16/162935
※ 城郭図は堀口健弐作画
タクジローの日本全国お城めぐり/安芸 新高山城(三原市)/登城記|
URL:http://castle.slowstandard.com/35chugoku/39hiroshima/post_206.html
釜山でお昼を> 釜山の街角風景 > 釜山広域市北区 > 亀浦
URL:http://busan.chu.jp/korea/park/kupwsn/index.html
余湖君のお城のHP/吉田郡山城ほか
URL:http://yogokun.my.coocan.jp/hirosima/akitakadaysd.htm
wiki/亀浦倭城
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E6%B5%A6%E5%80%AD%E5%9F%8E

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